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<血の守護者>


 霧の中で、ローグは立ち尽くしていた。さっきの、廃墟となった町の辺りまで戻ってきていることは確かだった。微かな異臭がする。だが、行けども行けどもその廃墟に当たらないのだった。道は足元にある。視界は悪いが、迷ってはいない。なのに何故?
 「…くそ。この、霧は一体なんだ。これじゃ、まるで…」
突然、視界が開けた。あまりに唐突だったので、ローグは眩しさに思わず手をかざした。



 澄み渡る青い空。石で舗装された街道に、緑の草原。たった今までいたはずの、雨のふりそぼる<アスガルド>の光景はどこにもない。ローグは、頬をつねってみた。痛い。…夢では無さそうだ。
 馬の嘶きで、彼は振り返った。街道の向こうから馬が数頭、こちらに向かって駆けてくる。武装した男たちが乗っているようだ。

 「どう! どう!」
先頭を走っていた男が馬を止めた。ローグを見下ろすその男は、ローグと同じように黒髪で、額に大きな傷があった。盛り上がった浅黒い二の腕が、皮鎧から力強く伸び、腰には大降りな太刀を帯びている。
 「どうした、こんなところで。新入りか?」
ローグが答えずにいると、男は馬を飛び降りた。
 「言葉が通じないのか。遠方から来たのか?」
 「…いや」慎重に、言葉を選ぶ。「町へ戻る途中だった。人を探して」
 「なんだ、道に迷ったのか? 街道に沿っていけばいい、ほら」
男はローグの後ろを指差した。
 「町はすぐそこだ」
さっきまで見えていなかった町が、草原の中に姿を現していた。クリーム色の石で作られた尖塔、上品な小窓。それに立派な城壁が、周囲を取り囲んでいる。
 「俺はヘイスティだ。あんたは?」
 「ローグ」
 「宜しくな。町まで一緒に行こう。カーラ、おれはローグと一緒に徒歩で行く、先に戻っていてくれ」
 (カーラ?)
ローグは、男の視線の先を追った。後ろに続く数頭の中に、ひときわ目を引く真っ白な馬がまじっていた。それに乗るのは、同じく真っ白な衣裳に身を包んだ美貌の若い女。青い瞳がじっとこちらを見つめている。―― 彼女は、こくりと頷くと、馬に拍車を当てた。
 白馬と他の騎馬兵が町へ向かって走り去っていったあと、ヘイスティと名乗った男は、馬の手綱を引きながら歩き出した。ローグは、少し離れて後ろに続く。ついていくしかなかった。ここが何処で、どうして自分がここにいるのかがはっきりするまでは。
 「ここは<アスガルド>なのか?」
 「ああ、外れのほうだがね。あんた出身はどこだ」
 「…ラウネース」
 「ラウネース? 聞いたことがないな。よほど遠くなんだろう」
 「あんたたちは、一体何なんだ」
ヘイスティは、声をたてて笑った。
 「何って、あんたと同じさ。この国の王様が集めた戦士団、<エインヘリヤル>の傭兵だよ。」
 「王様…。」
ローグは、眉をしかめた。昔の<アスガルド>には王がいた、という話を、クレイントンの森で聞いたことを朧げに思い出したのだ。廃墟だったはずの町は再生されて人が住み、どうやらこの男もその中の一人らしい。ということは、ここは「古代」の<アスガルド>なのか。
 「あんた、結構出来るな。」
 「何がだ」
 「さっきから、おれの剣の間合いに入らないようにしてるだろ」
ローグはむっとして、男の背を睨んだ。ヘイスティはまたも笑う。
 「凄い殺気だな、まるで獣だ。それも、瞬間的に膨れ上がって、すぐに消える。余程の修羅場を潜ってきたと見える。」
 「そういうアンタこそ…」
言いかけて、ローグはやめた。この男と戦っても、何の名誉にもならない。ここが過去の世界だとすれば、尚更だ。
 町が近づいて来た。城門の上を哨戒する兵士たちの持つ槍のきらめきが見て取れる。異臭もない。町は活気に満ち溢れ、滅亡の予兆はどこにも感じられない。
 「王様とやらは、戦士を集めて何をする気なんだ。戦争はこれから起きるのか」
 「さて。おれたちも、方々から集められたはいいものの、具体的な指令は何も受けていないんだ。―― ただ、噂じゃ、近い将来、この国に大きな”災い”が起きる。それを食い止めるための要員なんだそうだ」
 「災い?」
 「何でも、予言の巫女が、恐ろしい敵が来ると予言したとか。ま、噂なんだが。」
城門を潜る。見張りが敬礼して槍を引いた。
 「そうだ、皆に君を紹介しなくては。まだ着いたばかりなのだろう? きっと歓迎してくれるだろう」
断ろうとして、断れる雰囲気ではなかった。ヘイスティは完全に、ローグを他所から雇われてきた傭兵仲間だと思い込んでいたし、否定しようにも、それ以外の妥当な身分が思いつかなかった。ついていくと、町の中心近い場所に出た。そこには、広々とした訓練場つきの兵舎があり、立派な厩舎もある。
 「ここから、町の外に連れ出して定期的に走らせてやるんだ。君、馬はまだ無いだろう? まだ乗り手のいないやつから好きなのを選んでおくといい。馬は乗れるよな」
 「ああ」
 「なら結構。ああ、カーラ。皆に新入りの紹介を」
いつのまにか、影のように白い女が現れていた。ヘイスティに向かって頷くと、また影のようにすうっと消えて空く。不思議な女だ。美しいが、どこか浮世離れしている。
 ローグのいぶかしげな視線に気づいて、ヘイスティは言った。
 「あれは、おれの相棒だ。ああ見えて、弓の腕前は一級品だぞ。恐ろしい女なんだ。うっかり口説いたりすると、痛い目に遭う」
 「…人間なのか?」
 「いや。半分はアールヴの血を引いてる。アールヴってのは…」
 「知ってる。小人だろ、会ったことがある」
 「そうか。」
小人と人間の間に子供が出来るかどうかについては、詳しく聞くのはやめておいた。怪物が生まれるのでなければ、何でもいい。

 それにしても、と、ローグは思った。
 ――ここは、あまりにも奇妙な場所だ。

 立派な厩舎にも驚いたが、中にいるのは、今ではもうほとんど見かけないような駿馬ばかり、全てが名馬と言っても過言ではなかった。それに、訓練場にいる若い兵士たち。練習で打ち交わす剣だけでも分かる。あんな使い手は、この世界に10人といないはずだ。
 ローグの表情を見て、ヘイスティは満足げな顔をしている。
 「素晴らしいだろう? この国の王は、とても気前のいい、戦好きの勇者なのさ。君も血が騒ぐなら、少し体を動かしてくるといい。なあに、ここには優秀な医者もいるから、多少痛い目に遭っても心配はいらない。」
 「…いや、やめておこう」
練習試合いとはいえ、あんな剣戟に巻き込まれたら、真剣にやらないと腕を折る位では済まない。


 日が暮れる頃、ローグは、ヘイスティによって傭兵たちに引き合わされた。
 焚き火の赤々と照らし出す中、集まった歴戦の勇士たちの顔には、皆、昼の練習試合の汗や傷が光っている。
 酒が振舞われ、肉も出た。あとは、どんちゃん騒ぎだ。聞けばほとんど毎夜のように、こうした宴会が続いているのだという。なるほど、確かに王は太っ腹だ。だが、滅びた町の様子を知っているローグとしては、気が重かった。
 申し訳程度に盃を空け、あとはそれとなく宴の席を離れていたローグは、酒樽の陰で動く白い影と出くわした。カーラだ。酌をするための陶製デカンタを手にしている。
 「……。」
女は、何も言わず、無表情のまま長いまつげを伏せた。会釈のつもりらしい。
 「あんた、どこかで会ったこと、あるか?」
ふるふると、首をふる。
 「言葉は? 喋れないのか」
視線は否と言う。
 「そうか。…なあ、それならあんたに聞くが、まだ”災い”は起こっていないというが、二人の王が争った時は、もう終わったのか? ヨートゥンとやらは、地下から出てきたのか」
白い女は、手元を乱した。僅かに飛んだワインのしずくが、真っ白なスカートに一滴の赤い染みを作る。
 「…何故、それを」
初めて発する声だった。その声は意外なほど低く、力強い。
 「お前は何故そのことを知っている」
 「聞いてるのは、こっちだぜ。あいつらが集められた理由は、王の争いのためじゃないのか」
 「違う」
酌を置き、白い女はじりじりと半歩だけローグに近寄った。燃えるような赤い瞳が、ローグの目を覗きこむ。
 「お前… 誰に聞いた? 何故、未来を知ってる。どの巫女が教えた」
 「あんたに言っても仕方のない話だろ。っておい!」
女は素早くローグの髪を毟り取り、鼻に近づけ、匂いを嗅いだ。
 「…ヴァニールの匂いだ。この匂いは、あの力ある女と良く似ている。お前、クレイントンの森で神託を受けたね。」
 「神託?」
 「”災い”は、これから起こるよ」
美しい顔に不釣合いな、ぎらぎらとした目がローグを見据えている。
 「そこで、あたしのヘイスティは戦って死ぬんだ。あたしもついていく」
 「……。」
凄まじい形相だった。ローグは額に手を当てた。「――好きにすればいい」戦場の名誉を重んじる昔の戦士たちの、死にたがりの傾向は、よく知っていた。かつて自分がそうだったからだ。「俺はごめんだ。滅びると分かってる世界を救うために、戦う気にはなれない。ただ、何が起きるか知りたいだけだ」
 「臆病者め」
 「それで結構。俺にはまだ、やることがある。」
踵を返し、ローグは宴の席に戻って行った。そうしなければ、カーラの恐ろしい視線がどこまでもついてくる気がしたからだ。確かに、あれは実に恐ろしい女だ。
 席に戻ると、ヘイスティが待ちかねていた。
 「どうした、長い小便だったな」
 「途中でカーラと話した」
 「ほう?! あのカーラがか。はは、あのカーラと話して五体満足で戻ってくるとはな!」
既に酒の入ったヘイスティは、大声で笑いたてる。戦士たちのまとめ役であるらしい彼の周りには常に人が集まっていて、周りの人々も釣られて、どっ、と笑った。
 「で、何を話した。」
 「いきなり髪を毟られて、占いをされたよ。」
 「ほほう!」
 「…それだけさ」
 「何だそれは。ははは! お前は本当に面白い奴だな、そら、もう一杯」
酔っ払った誰かが、立ち上がって歌を歌い始めた。はやしたてる声。怒鳴る声。盃が飛ぶ。大騒ぎだ。
 喧騒の中、ローグは、ヘイスティの袖を引っ張って耳元で怒鳴った。
 「あんたに、聞きたいことがある。」
 「あん? 何」
 「聞きたいことがある。あんたは、”災い”の正体がヨートゥンとやらだって知ってるのか」
 「……」
ローグの手を掴んだヘイスティの顔からは、一瞬で酔いが飛んでいた。
 「その話、どこで」
 「…知ってるんだな?」
 「ここではまずい。来い」
半ば強制的に、ローグは兵舎の裏にすでに宴たけなわになっている戦士たちは、そのことに気づかない。


 宴の場を離れると、途端に静かになった。兵舎裏には誰もいない。城壁のわずかな見張りを除いて、今宵は皆が広場で騒いでいるようだ。水の音だけが、からっぽの空間を満たしていた。湧水を流す梁が建物の壁にこしらえられ、そこから流れ落ちる水を、丸い質素な水盤が受け止めている。
 「さて、ゆっくりと聞かせてもらおうか。新入りが、何故、兵士長以上にしか知らされていない話を知っている?」
 「―――。」
ローグは、周囲の気配をそれとなく探った。隠れている兵などはいない。だが、目の前のこの男一人ですら、斬りかかられたら無事に逃げおおせるとも思えない。厩舎まで逃げ切ったとしても、馬の手綱ょを取るまで時間はあるまい。
 「言え。お前は何を探りにここへ来た。それとも兵を混乱させ、士気を下げるつもりか?」
 「そんな馬鹿馬鹿しいことはしないさ。俺は迷い込んだだけなんだ。連れを探してた」
 「連れだと? …そういえば、最初に会った時もそんなことを言っていたが」
 「その男は、フリッカのところから来たのよ、ヘイスティ」
ふいにどこからともなく低い声がした。ローグは思わず背の剣に手をかけた。ふわ、と現れた白い影。建物の二階を伝って、音も無く地上に降り立つ。全く気配に気づかなかった。弓の使い手である彼女がその気になっていれば、あの距離からでもローグの心臓を射抜けたかもしれない。
 「でも敵ではない、悪意も敵意も感じなかった」
白い女はヘイスティの側に立ち、そっとヘイスティの腕に触れる。
 「放っておいて大丈夫。この男は、何もしない」
 「カーラ…。お前がそう言うなら、そうなのだろうが、追放されたヴァニールの館から来た者となれば、自由に出歩かせるわけにはいかんぞ。少なくとも、何が目的かはっきりするまでは」
 「あんたらに言っても、多分、通じない」
…何しろ、時代が違うのだ。ここは過去の世界なのだ。これから戦争が起きるのだとすれば。
 「強いて言うなら、知りたいだけだ。<アスガルド>が滅びる理由を。…そのために、あんたらが集められたんだろう? それは人を集めればどうかなるような話なのか?」
 「ならない。」
きっぱりと、カーラが言った。
 「滅びの定めは変えられない。たとえ、運命をいたずらに弄ぶ魔女の企みを持ってしても。我らは死ぬためにここへ集まっている。知れば臆病者は逃げ出すかもしれないが」
 「それなら、俺がどうしようと、何を知っていようと、心配することなんてないだろ。俺が何しようと、運命は変わらない」
 「そうでもないさ」
ヘイスティはさりげなく腰の剣に手を伸ばす。「愚か者たちを正しく導いてやるのも、おれの仕事だ。いまだ心に迷いある戦士たちを動揺させ、名誉ある死の機会を奪うやもしれない」
 「馬鹿馬鹿しい。俺は」
 「問答無用、剣をとれ!」
逃げる暇は無さそうだった。やむなく、ローグは剣を抜いた。月明かりの下で、二つの黒い影がぶつかり合う。
 予想はしていたことだったが、ヘイスティの剣は、ローグの知る中でも最高の腕前だった。一太刀交わしただけで汗がどっと浮き出す。だが、速度は重さはローグのほうが上。正確には技と言うべきか。ヘイスティのそれは、どこまでも無骨で、どこまでも正直な、真正面から敵に向かっていく勇者的な剣だった。
 「ああ、ヘイスティ!」
カーラが悲鳴を上げ、弓を手に取る。ローグの剣が、ヘイスティの首筋を掠めたからだ。
 「手を出すな!」
ヘイスティはひどく嬉しそうだった。笑いながらローグに立ち向かっている。ぞっとした。ローグにとっては、かつての自分の姿そのものに見えたからだ。
 「…あんた、狂ってるよ」
 「ははは、よく言われる!」
 「…こんな」
ローグは剣を引いた。ヘイスティは向かってこない。ふいに静寂が訪れた。
 「どうした」
息を弾ませながら、ヘイスティが剣を構えなおす。
 「なぜ剣をひいた? なぜ戦う気をなくした」
 「無駄だからだ。勝ち負けに興味はない。あんたには憎しみも借りもないし、戦う理由もない」
 「なら、お前は何のために剣をとる」
ローグは、むっとしてヘイスティを睨んだ。「生きるためだ、当然」
 「敵を倒さずにか」
 「俺を殺そうとする奴は殺す。俺を追ってくる奴は容赦しない。獣を狩るためにも剣は使う。こいつは俺の腕だ。それだけだ」
ようやく、ヘイスティも剣を引いた。カーラが駆け寄ってくる。何かぶつぶつ呟きながら、ヘイスティの血の滲む首筋に舌を這わせている。
 「…ヨートゥン、というのはな」
男は言った。「巨人族だが、それだけではない。忌まわしきもの、この国にとって悪とされたもの、罪人、娼婦、今ではありとあらゆる全てのもののことを指している。それら全てを、王たちはまとめて地の底深くに放り込んだんだ。それはこの国の汚点でもある。皆が忘れたい記憶だ」
 「なるほど。そいつが蘇って復讐にくるとあらば、そりゃ嫌な話に違いないな。」
 「<大樹>が病におかされ、枯れかけているのも、地下に埋めたそいつらの祟りだと言われたりしてな。」
ヘイスティは、カーラの舌にくすぐったそうに顔を顰めながら何気なく言った。
 「…祟り? …おい、そのヨートゥンを埋めた場所、って…」
 「ああ、大樹の根元さ。」さらりとした答え。「この国の中心、エーシルの王とヴァニールの王の御座のちょうど中間に塚を築いたんだよ。」
 「なんだと…」
ローグにも、その意味していることはわかった。<大樹>の根元。地下迷宮。そこにしかいない古代の生き物たち。…大地に穴を穿ち、それらを地上世界に開放してしまった軍のこと。
 (これは、偶然なのか?)

 ―― ふいにローグは、異臭に気がついた。突然現実に引き戻されたかのように。
 たった今まで無かったその匂いは、直ぐ側の水盤から漂ってきた。

 薄雲が満月の表面を流れている。そのせいか、いや、それだけではない。流れ落ちる水が、黒い。
 ヘイスティもカーラも、気づいていないのか。
 「おい、水が…」
言いかけたとき、目の前が真っ白になった。霧? 違う。
 次の瞬間、閃光とともに爆風が、町を、彼ら三人を、容赦なく巻き込んで吹き飛ばした。


 
 壁に叩きつけられ、気を失っていたのはどのくらいか。目を覚ました時、空は真っ黒だった。体じゅうが痛い。難儀しながら起き上がると、剣が、すぐ側に転がっているのが見えた。
 「ヘイスティ! ヘイスティ!」
狂ったような女の声が頭にがんがん響いている。強烈な匂い。そうか、これは… オイルか。ローグは唐突にそれに思い当たった。質の悪い、だがよく燃える、天然の黒いオイル。炎が空を焦がしている。誰かが迂闊にも火をつけたのだ。おそらく酔っ払った誰かだろう。こうなってはもう手が付けられない。ローグは、剣を拾い上げ、よろめきながら声のするほうに近づいていった。
 白かった女は、煤と埃で真っ黒になっていた。ただ頬と手だけが白いまま。声をからしながら、必死で何かを揺すっている。
 「起きて! ねえ… こんなの… 私の見た未来には!」
ローグは思わず目をそむけた。そこには、爆風で飛んできた岩に無残に潰された、もはや形を成していない躯しか無かった。
 「戦って死ぬのよ。あなたは! こんな不名誉な死に方ではないわ!」
 「諦めろ、そいつはもう」
 「私は知っているのよ。遥か未来まで続く、栄光に包まれたあなたの子孫たちを、あなたが伝説として語り継がれるのを、この目で見てきたのよ。それなのに… 誰が運命を書き換えたの。こんなはずは!」
 「きいきいうるせぇよ。落ち付け!」
思わず手を上げていた。はたかれて、女の悲鳴が止まった。
 「現実を見ろ。お前のそれは、半ば願望だったってことだ。ぐずぐずしてると、ここも火が回る」
 「……」
 「死ぬ気か? なら、置いていくぞ。俺は逃げる」
カーラは、すっくと立ち上がった。「なんて男。なんて戦士だ、お前は」
 「なにがだよ」
 「これはヨートゥンの仕業だ。私は戦いにゆく。奴らを倒す」
 「一人で?」
 「そうだ!」
ローグは、ため息をついた。「負けると分かっていてもか。」
 「何故笑う。お前は、戦って栄誉ある死を迎えたくないのか!」
 「…それを望んだ時期もあった。実際に何度も死の淵まで行ったさ。だがな、」その時ローグは、ふと、何かもやもやとした懐かしいもののことを思い出していた。一度として姿を見たことも、声を聞いたこともない。そのくせ、幼い頃からすぐ近くにいて、ずっと自分を守っていてくれたもののこと。
 「――そのたびに、生きろ、と、助けてくれた人がいた。俺は死ねない。その人がくれた命だから」

 ”…私は―― 生きてもらいたいの”

女の目から、一筋の涙が伝い落ちた。嗚咽が始まり、ただただ、涙だけが溢れ出す。真っ黒に煤けた顔、それでも女は依然として、不思議な美しさを保ったままだった。
 気がつけば、ローグは女の腕を掴んで火の粉の中を走っていた。そうしなければならない気がしたのだ。女は大人しく後ろをついてくる。
 そこかしこで、建物が燃え上がっていた。美しく舗装された道にはヒビが入り、そこらじゅうからオイルが滲み出している。
 (天然火災か。これが、<アスガルド>を滅ぼす災いなのか?)
どこか遠くで、悲鳴とも楽器の音ともつかない、奇妙な甲高い音が長く長く尾を引いた。空中に広がり、天を揺らす音。
 「始まった…」
カーラが低い声で呟いた。「最後の戦いが。世界が滅びる」
 町を抜けたところで、ローグは足を止めた。振り返ると、もう、町は完全に炎の中だ。彼は、<ミッドガルド>の光景を思い出していた。奇妙な既視感。

 ”――避けられないもの、変えられないもの、――既に決定されたこと。”
 ”――ヒビの入ったグラスは、いつか割れる。投げ上げたボールは、必ず落ちる。”

 「……。」
ローグは、地面にへたりこんで蹲っている女を見下ろした。
 嫌な予感がした。それは、とても嫌な考えだった。
 (生き残るのは、一人だった)
町のほうに視線を戻す。
 (これは過去だ。俺が存在しなかったとしたら、過去は本来、どうなっていた? …)
さっきのカーラの言うことが、全て正しいとは思わない。だが、もし未来が変わったのだとすれば、その原因は、予定されていなかったローグという存在のせいだ。ローグがいなければ、ヘイスティはあの場所へは行かなかった。皆と一緒に宴をして、そして…
 (もしかすると、あいつは本当はここで死ぬべきじゃなかったのか? 助かるのは、あいつと、この女の二人だった。それが本来の筋書きだったとしたら…)
だとしたら、そのあと二人は…
 「おい、お前。カーラというのは」
振り返った途端、目の前は真っ白になっていた。足元から、空の果てまで。霧だ。アスガルドの霧が戻ってきた。
 「おい! どこだ、カーラ!」
吹き付ける霧の中を手探りで進んだ。手が何か冷たいものに当たる。
 「…っ」
霧が薄れていく。強烈な匂いが押し寄せてくる。



 気がついた時、ローグは廃墟と化した町の入り口に、ただ一人立っていた。
 しらしらとした月明かりが、人気のない石積みを照らし出している。
 「そこにいるのか?」
壁のほうを向いたまま、ローグは、背のほうに向かって声をかけた。返事はない。が、影のゆらめく感じがする。
 「…今、ようやくお前の気配が感じ取れた気がする、カーラ」
生身だった頃の、白かった頃の気配、無言のまま睨みつけてきたあの強烈な赤い瞳。僅かな時間ではあっても、一度感じればその気配を忘れることは出来なかった。
 かつて人間の戦士に寄り添い、運命をともにした妖精の血を引く白い女。声なき声がそれに答え、ローグはすべてを悟った。彼女が自分の家系に付き従ってきた理由を、その歳月の意味を。
 「俺は、…俺のご先祖様に会ってきたんだな…。」
呟いて、ローグは目を閉じた。
 循環する時の輪の壊れ目からこぼれ落ちた過去の幻影――はるかな昔、彼らは、ここで出会ったのだ。


  ぐらりと地面が揺れた。
 バランスを崩し、ローグは壁に手をつく。足元の地面がふやけて、土の間からじわじわと異臭を放つ黒い液体が滲み出してくる。
 「何だこれは」
街道跡のところどころが途切れ、黒いしみが大地に広がり始めていた。何かの弾みで火がついたら、一瞬で火の海になる。ここは長居すべき場所ではない。
 進むうち、ローグは、周囲の光景が、彼のよく知る<アスガルド>に戻っていることに気がついていた。空はどんよりとしているが、遠くには石と化した<大樹>の灰色の威容、海風の匂い。草原に点々と散らばる遺跡の破片。大地に穿たれた穴は、ここからではまだ見えないが、方角からして真っ直ぐに行けば突き当たる。そこから<黄金のチェス亭>までは目と鼻の先だ。
 生き物の気配は全く無かった。まるで死んだように静まり返って、いつもの夏なら咲いているはずの花もなく、虫一匹、鳥の声ひとつしない。ただ風の音だけ。風と、自分自身の足音だけ。世界が死んでしまったかのようだ。
 ひときわ大きな揺れが襲った。ローグは、とっさに地面に両膝をつく。そうしなければ転倒していた。
 地鳴りとともに、地面が割れる。直ぐ側で岩が砕け、破片が頬を掠めた。鋭い石の角で、頬からは血が滲み出す。最初の大揺れが引いた後も、揺れは続いている。地の奥底から、何かが地上に出ようと暴れているかのような。
 背後で焦げ臭い匂いがした。振り返ったローグの目に映ったものは、視界の端から端へ、まるで蛇のように縦横無尽に這い回る赤い炎。今の揺れで、”何かの弾み”が起きたらしい。
 「くそっ」
ローグは地を蹴って走り出した。こっちは風下だ。斜めに風を横切っても、風向きが変わらない限り、風上に回るのは間に合わない。
 瞬く間に、背後一帯が火の海と化した。ローグは懸命に走り続けている。遺跡も、森も、草原も、全てが燃え盛る炎に包まれる。逃げるのが間に合わない。大地の穴が見えた。…そうだ、あの中を通り抜ければ。
 穴の縁には朽ちたフェンスとともに戦車やトラックが乗り捨てられていたが、動くかどうかを試している時間は無さそうだ。ワームのいる気配はない。穴の中へ飛び込んだ時、再び揺れが襲ってきた。そのせいで、足を滑らせ、穴のさらに深みへと。
 どさっ、と軽い音をたて、落ちた場所は、意外なほど柔らかい地面の上だった。ローグは空を見上げた。遠い。20mは落ちてきただろうか。
 起き上がろうとすると、何かがチクチク刺さった。よく見ると、彼が落ちた場所には、脱ぎ捨てられたワームの皮が堆く積み上げられているのだった。脱皮した大小さまざまな薄皮は、すでに乾燥して白っぽい半透明になっている。
 「…ぞっとしないな。なんて数だ」
体にくっついた皮の残骸を払いながら、ローグは立ち上がった。そして、ふと、穴の奥のほうに何かがいるのに気がついた。
 人だ。兵士ではない。
 真っ白な髭、大きな体。側には太い腕が力なくだらりと放り出され、燃え尽きたランプと地図らしきものが転がっている。
 近づいたとき、彼には、それが誰なのか分かった。
 「あんた、確かハロルド? 地図職人の」
死んだようになっていた男が、ゆるゆると顔を上げた。「誰だ。お前は」
 「ローグだ。<黄金のチェス亭>で何度か顔をあわせたことがあるはずだ」
 「…ああ、お前か」
 「あんた、まだ地下にいたんだな。怪我でもしてるのか? それとも飯か」
 「…酒を」
 「酒?」
 「そこの、皮袋」
それだけ言って、ハロルドは荒い息を吐いた。側にはボロボロの布袋が転がっている。中からは、もうほとんど空の、皮で出来た水筒が見つかった。
 蓋を取り、さかさまにして中身を口の中に搾り出してやる。出てきたのは、ようやくスプーン一杯くらいの琥珀色の液体。だが、喉を潤したとたん、男の顔色は明らかに良くなった。
 「ああ、すまん。助かったぞ」
言うなり、男はむくりと起き上がった。
 「おい、動いて大丈夫なのか」
 「時間がない」
ハロルドは、辺りに散らばっていた地図や水筒を纏めて布袋に突っ込みはじめた。炎はもう、すぐそこまで迫って来ている。穴の中まで焦げ臭い匂いが充満していた。
 「<黄金のチェス亭>へ行くのだろう? ならば、ここが近道だ。案内する」
白髭の男は、壁に無数に空いたワームの穴の一つに迷いもせずに入っていく。何故そう思ったのだろう。確かに、他に目的地はないのだが。だが、今は話をしている場合ではない。それに、この無口な男に話しかけたところで、必要以上の説明をしてくれるはずもなかった。
 結局ローグは、何も言わずに後ろに続いた。狭く暗い地下穴の向こうからは、かすかな、海風の香りが漂い始めていた。


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