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<いざなわれし霧の彼方>


 霧が晴れたとき、ローグとヨルムは、そう離れていない場所に立っていた。だが、その間にいたはずのヨルムの姿が消えうせている。
 「フェンリス! ヨルムは?」
 「わかんない、僕はただ真っ直ぐ走って…」
振り返っても、何の痕跡もない。移動してきたのはさほどの距離ではないはずだった。
 雨はさっきと同じように、しとしとと降り続いている。雷の音はさっきより近い。
 「とにかく、この先へ。追い越されたのかもしれないし」
 「う、うん…」
行く手には森が見え初めていた。森のほとりに、大きな一枚岩が斜めに立っている。
 「あそこだ。狭いが、あの下に潜り込む場所がある。こいつと一緒に、先に行っててくれ」
小人の入った箱を渡す。
 「あ…ローグ?」
 「俺は、ヨルムを探してくる。先に行って待っててくれ!」
 「ローグ!」
霧が地表を流れている。言うとおりにするしかなかった。フェンリスは岩を目指して走り、そこへたどり着くとすぐ、箱を開いて小人たちを出してやった。
 外の騒ぎは聞こえていたのだろう。リィムたちは、ヨルムがいないことを察しているようだった。
 「ヨルムが、霧の中ではぐれちゃったんだ。どうすればいいんだろう…」
直ぐ頭上で、雷の音。雨が激しさを増す。
 「<アスガルド>は、本当におかしくなっちゃったんだ。僕ら、どうなっちゃうんだろう。本当に、ここから帰れるのかな」
石の下に蹲ったまま、フェンリスは、ローグを待っていた。
 どのくらいの時間が経っただろう。
 うとうとととしていた彼は、ふと、異様な気配で目を覚ました。足音。凄まじい数の人間の足音が近づいてくる。慌てて外に飛び出してみると、いつの間にか雨は止んでいた。それどころか、周囲の光景そのものがさっきまでと全く違っている。森は消え、代わりに畑が広がり、目の前には整備された立派な街道がある。そして、その道を、武装した兵士たちが行進しているのだった。先頭をゆくのは、馬に乗り、立派なマントをまとった騎士。
 「止まれ! あそこにいる子供は何だ」
馬に乗った兵士たちがばらばらとフェンリスめがけて走ってくる。
 「貴様の、その姿… ヴァニールの一族の者か!」
槍を向けられ、フェンリスは混乱した。
 「ヴァニールは出て行け! 予言の魔女の一族は皆殺しだ!」
唐突な敵意の前に、どうすることも出来ない。フェンリスは、岩の下、すぐ側においてあった小人の箱を、中身も確認せずに抱えるなり走り出した。幸いなことに、兵士たちは本気でフェンリスを追いかけてくるつもりはないようだった。畑を越え、小川を越え、息が切れるまで走り続けたところで、フェンリスはようやく足を止めた。心臓が高鳴り、眩暈がする。
 箱を下ろして中を覗きこむと、リィムたちが目を回してぐったりしているのが見えた。
 「ごめんよ… 酷い目にあわせちゃって」
岩陰に腰を下ろし、息を整える。これは一体どういうことだろう。最初はヨルムが消えた。ローグも戻ってこない。そして、気がついたら全く見ず知らずの<アスガルド>に放り出されていた。…
 そういえば、スコーネルとスコーティの姿が何処にもない。いつからだろう? 岩の下から出てきた時には、既に居なかった。確かに、一緒に岩の下にで雨宿りしていたはずなのに。
 「どうしよう…」
泣きたい気持ちだった。いっそ、声を上げて泣けたら楽になるかもしれない。
 だがその時、彼の胸に、姉ユーフェミアの言葉が蘇って来た。

 ”忘れないで。私たちは三人でひとつの家族、いつでも心は一緒にいる”

そうだ。泣いている暇は無い。
 フェンリスは、ポケットの中のナイフを確認し、箱の中のリィムたちに話しかけた。
 「もう少しだけ我慢してて。ここが何処なのか分からないけど、きっと<黄金のチェス亭>にたどり着くから。」
箱を取り上げ、森を歩き出す。とにかく、ここが本当に<アスガルド>なのだと信じるしかない。だとすれば、南へ下れば目的地のはずだ。自分は、ここにいる。小人たちも、ここにいる。夢ではない。


 歩いているうちに、森が開けて来た。その向こうに、立派な館がある。
 「遺跡…」
では、なかった。近づいてみると、その館には今も人が住んでおり、壁の向こうに伺い見えるよく手入れされた庭には花が咲き誇っている。立派な門はしっかりと閉ざされ、両側に見張りまでいた。
 「また怒られたりしないよね…」
フェンリスは、おそるおそる館の周りを回ってみた。
 「あら?」
 「うわっ」
裏門が開いて、メイドらしき少女が出てきたのに見つかった。青い瞳。
 「どうされました? こちらは裏ですよ」
 「え、えーと」
 「旦那様にご用ですか。案内しますよ、こちらです」
 「……」
少女は、フェンリスの格好を見てくすっと笑い、先に立って歩き出した。どうやら、ここでは怒られることはなさそうだ。フェンリスは少女の後に続いて、館の中に足を踏み入れた。
 中は広く、まるで迷路のように入り組んだ構造になっていた。壁には年代ものらしきタピストリーや絵が、窓には厚いカーテンがかけられているが、どれも古い。…いや、ものは新しいのだが、時代が古いのだ。今は、こんな様式のものは見かけない。それに、すれ違う使用人たちの格好も、フェンリスからすれば時代がかって見えた。
 「お客様は、どちらからこられたのです?」
 「えーと、…クレイントンの森から」
 「あら。では、フリッカ様の縁者の方かしら」
フェンリスは、驚いて箱を落としそうになった。
 「知ってるの?!」
 「ええ、もちろん存じ上げておりますよ。フリッカ様はお館様の従姉妹にあたられるお方。あんなことがなければ、今も… いえ、余計なことでしたわね」
少女は、立派な両開きの扉の前で足を揃え、咳払いをして声を整えてからその向こうに向かって呼ばわった。
 「失礼いたします。旦那様に、クレイントンの森よりお客様がお見えでございます」
心臓が高鳴った。ややあって、扉の向こうから若々しい声が返ってくる。
 「どうぞ」
少女は扉を開き、フェンリスを奥へ進ませた。部屋の中には、がっしりとした書斎机が一つ。その両脇に、そっくりな顔の、おそらく双子と思しき青年が立っていた。
 「お館様は、使者とお会いになっていて留守だ。すぐ戻られるだろうから、それまで私たちがお相手しよう。お前は下がっていいぞ」
 「では、失礼いたします。」
少女は優雅にスカートの裾をつまんで礼をすると、扉を閉ざして去っていった。フェンリスは、ぽかんとしていた。目の前の二人は、初対面のはずだったが―― どこか懐かしい気がした。そんな彼を、青年たちは面白そうに眺めている。
 「さて」
と、一人が言った。「クレイントンの森から来たというが、君の名は? フリッカ様からの言伝か何かあるのかな」
 「僕はフェンリス。フェンリス・ブランフォード…」
そこで口ごもってしまった。何と言えばいい? フリッカの「子孫」? …いや、そもそも、そんなことを言って信じてもらえるかどうか。
 「その箱は?」
片方の青年がフェンリスの手にしている箱を指した。「贈り物か」
 「違うんです、その」
少し蓋を開けて、中を覗かせた。途端に、覗き込んだ青年が声を上げてあと退る。
 「スコーネル、驚きすぎだぞ。」
 「びっくりした! まさかアールヴが中にいるとは」
青年は、声を上げて笑い始める。
 「スコーネル?」
驚いたのは、フェンリスのほうだった。笑っている青年を見、それからも眉を顰めているもう一人の青年のほうに視線をやる。
 「じゃあ、あなたはスコーティ…?」
眉を顰めていたほうが、フェンリスを振り返った。
 「どうして、私の名を」
涙が溢れそうになった。そういうことか。
 「どうしたんだ。急に」
 「分からない。どうやら、お客人は疲れておいでのようです。少しお休みいただいたほうがいい」
 「大丈夫、なんでもないんだ。…大丈夫」
ここは、呪いのかけられる前の時間。初代、フリッカ・ブランフォードの生きていた時代。二人がまだ人間で、…そう、だからここは、ロードゥルの館なのだ。
 「ロードゥルさんは、まだ無事なんだよね? まだ、戦いにはなっていないんだよね」
 「勿論。いま、戦争を回避すべく、使者と話し合いを…」
 「館に火が付けられる。ロードゥルさんが殺されちゃう!」
ここが変えられない過去であろうと、未来が既に決まっているのであろうと、そんなことはフェンリスには関係無かった。二人の青年の表情が強張っていく。
 「それは… フリッカ様の予言なのか。君は、それを伝えに?」
 「この近くの森の向こうで、兵士を沢山見た。ヴァニールは出て行け、って」
 「父上に伝えなくては。」
スコーティが部屋を飛び出していく。
 「ありがとう、フェンリス。良いときに来てくれた」
 「待って」
同じく出て行こうとするスコーネルを、フェンリスは服の裾を掴んで引き留めた。
 「何故、戦いが起きるの? ヴァニールはどうして追い出されるの」
スコーネルは不思議そうな顔をしている。
 「…君は…、そうか、まだ子供だから良く分からないんですね。<大樹>が病んでいるからさ。エーシルとヴァニール、両方をまかなうだけの<蜜酒>を生み出す力は、もうありません」
 「蜜酒…」
 「成人すれば分かりますよ。その時、最初の一口を飲ませてもらえるはずですからね。この<アスガルド>に住む住人たちがみな口にしている、若返りの酒です。それを飲んでいれば、年をとらずに済む。ただし飲むのをやめると、急激に老いてしまうんですけどね」
フェンリスは、首を傾げた。
 「どうして若返るの? そんなもの無くたって、僕らは生きていけるよ」
 「君はフリッカ様と同じことを言うんだね」
スコーネルはまた、声をたてて笑った。表情豊かに。狼の姿からは、想像もつかないことだ。
 「”神々”と呼ばれる人たち、この国の王や貴族は、それじゃ我慢ならないのさ。ずっと生きて、ずっとこの世を支配したいんだよ。――だからね、<蜜酒>の生み出される量が減るから、ヴァニールの分はもうない、と彼らエーシル族は言ってるんだ。フリッカ様は、そんなこの国に嫌気がさして、ずっと昔に出て行かれた。いずれ<大樹>は枯れるのだから、と言い残して…」
 「そうだったんだ」
 「君は本当に何も知らないんですね。…本当に、フリッカ様のところから来たんですか? 何か証は?」
 「これしか持ってない」
フェンリスは、ポケットから小さなナイフを取り出した。
 「…それは、…確かにフリッカ様がお持ちだったもの。ですが、それなら何故君は、何も知らされていないんでしょうね」
フェンリスは、ただ首を振った。初めて<アスガルド>へ来たときのことを思い出す。あの時も、ユーフェミアは何も教えてくれなかった。
 「行くべき時と、行くべき場所、伝えるべきこと。それだけしか教えてくれなかった」
二人は並んで部屋を出た。日差しの差し込む中庭と、心地よい風の吹きぬけるテラス。テラスのすぐ下が謁見室らしかった。風に乗って、かすかに話し声が聞こえてくる。あまり穏やかな話し合いでは無さそうだ。
 「ロードゥル様は、意地でもこの土地に留まるおつもりです。<蜜酒>が無くても、体が老いて朽ちるまでここに留まると。あの方は、この<アスガルド>に住まうヴァニールの長ですから、そうなれば、ヴァニールの追い出しも、巧くはいかないでしょう」
 「どうして? みんなでクレイントンに行けばいいのに」
スコーネルは、一瞬、遠い目をした。
 「ここが生まれた土地だからでしょう。…故郷とは、そうしたものです」
階下の部屋で、騒ぎが起こった。スコーネルが部屋に到着したのだ。幾人かの罵声が飛び、会話が中断された。
 「お館様が来られるようですね」
耳のよいスコーネルは、会話の内容を聞き取ったようだ。「君に会われるようだ」
 その言葉通り、間もなく、ローブを纏った老人が廊下に姿を現した。後ろには、黒々とした髭をたたえた、がっしりとした大男が、スコーティとともに付き添っている。
 「こちらか、フリッカのところから来たという客人は」
 「は。」
スコーネルが一歩下がる。フェンリスは、目の前の長身の老人を見上げた。眉も髪も、ロッソ老人のように真っ白。目は灰色で、皺の奥に隠れている。
 「ふむ、確かにわが一族の者のようだが… それにしても不思議な格好をしておるな」
この人が、のちに亡霊となって館を彷徨い続けることになる人なのだろうか。このはつらつとした老人からは、ユーフェミアから聞いた恐怖の体験は想像できない。
 「だが、ともかくもフリッカの予言は外れることはあるまい。兵も来ていると? ふむ。実力行使ということか。我らはどうするべきか」
 「どうしても、ここを離れられないんですか?」
 「どうしても、だ」
 「殺されるって分かってるのに」
フェンリスは、思わず声を上げた。「それだけじゃない… スコルの一族もみんな、酷い目に遭うのに。皆でクレイントンの森に逃げて。そうすれば、誰も苦しまないですむよ」
 「…わしはもう、長くはない。ただ、この土地で死なせて貰いたいだけだ」
そう言って、老人は踵を返した。「あの使者どもと、もう一度話をしよう。<蜜酒>など要らぬ。この土地でわしが朽ち果てるまで、そう時間はかからんのだから大人しく待てとな」
フェンリスを眺めていた黒髭の男も、その後ろに付き従って去って行く。このままでは、止められそうも無い。未来は、変えられないのだ。
 しょんぼりしているフェンリスを見て、スコーティは肩をすくめた。
 「お館様は、ああいう人さ。頑固で、運命なんて気にしてもいません。無駄足になってしまったが、君も巻き込まれないうちに、早く戻ったほうがいいでしょう」
 「でも、君たちは…」
 「我々は、お館様と運命を共にするだけですよ」
彼らの決意は固いようだった。主がここに残るというのに、自分たちだけ逃げ出そうなどとは露ほども考えていない。未来は、変えられないのだ。

 …いや。
 まだ方法がある。一つだけ。

 「そうだ、教えて欲しいんだ。<黄金のチェス亭>って、この時代にもある? イザベル・ゲーリングって人のこと知ってる?」
スコーネルとスコーティの評定が強張った。
 「イザベル? あの、エーシルの魔女のことですか」
 「知ってるんだね。どこにいるの」
 「…あいつは、エーシルの王がその力を恐れてどこかに閉じ込めたきりです。<蜜酒>も与えられず、寿命通り生きていつか死ぬでしょう。その魔女が、どうかしたのですか。エーシルの館にある黄金のチェスと、何か関係が?」
 「エーシルの館…」
 「あそこですよ」
テラスから身を乗り出して、スコーティが指差した。「あの、<大樹>のふもとにある」
 同じく身を乗り出したフェンリスは、枯れて石と化していたはずの<大樹>が、青々と葉を茂らせているのを見た。そのふもとには、石造りの城が白くそびえたっている。
 <黄金のチェス亭>のあった場所だ。間違いない。
 「イザベルは、どんな力を持ってるの」
 「予言の力です、フリッカ様と同じ。エーシルにも時々、そんな力を持つ女の子が生まれるんです」
 「混血の結果にね」
二人は続けて喋っていた。
 「しかも彼女は人の運命を弄ぶ。未来に干渉する力を持ってる」
 「未来を視る者は、確実な未来のみを口にし、それ以上干渉しないのが普通だ。あいつだけが違う。呪われた黒い女神、人の不運を齎す巫女は滅びればいい。」
 「人を狼にしたりは出来ないの? 言葉を奪ったりは?」
 「そんな力は無いはずですが…。」
では、スコルの一族を狼に変えたのは、イザベルではないのだろうか。いや、そもそも、目の前にいるこの二人は、本当にあのスコーネルとスコーティなのだろうか。フェンリスは、だんだん自信が無くなってきた。
 「そういえば」
ふと、スコーネルが言った。
 「フリッカ様が<アスガルド>を発たれる前、最後に予言した光景を、イザベルも見たと言ったそうですよ。」 
 「あの、<アスガルド>が滅びるという予言か」
 「そう、地下に追いやられたヨートゥンが蘇って、災いを引き起こすとか。」
 「待って、それは…」

 ――何か大きな”出来事”があって、それで<アスガルド>を捨ててこの土地へ来たの。その何かが、土地とともに眠りに就くことを望んでいた。
 ――でも時が流れるうちに、隠そうとしていたものが”何”だったのか、何故、<不可侵>の土地が生まれたのかを、私たち自身が忘れてしまった。…

 「フリッカが予言した? 知ってたの?」
 「ええ、もちろん。だからこそ、フリッカ様はその予言を信じた同胞たちと<アスガルド>を去られたのです。そんなものは信じないと意気込んでいるエーシルや、そもそも予言を伝えられていない下々の連中はまだここに残っていますが」
 「そういえば、エーシル側は、予言を変えるために、あのイザベルの力を借りるつもりかもしれませんね」

二人はまだかわるがわる話し続けていたが、後半は耳に入らなかった。フェンリスの頭は、今までに聞いたことで一杯になっている。だとすれば、フリッカは、意図的にその災いの予言を記憶として残さなかったことになる。何故?

 「ヨートゥンって、今はもういない? 巨人族って聞いたけど、僕は会ったことない」
 「あいつらは蛮族です。何百年も昔に、エーシルが最後のヨートゥンを地の底に叩き落しました。エーシルの奴等がヴァニールより大きな顔をするようになったのは、それからですよ。」
 「ヨートゥンが蘇ると、また戦いになるってことかな。」
 「さて、具体的なことは、我々も聞かされていません。ただ、戦争になったとしても、<アスガルド>は滅びはしないでしょうよ。」
それはきっと、正しいのだろう。フェンリスは、未来の<アスガルド>が今とは全く異なる姿になっていることを知っている。それは大昔に地殻変動が起きたせいだとも。それは戦争のせいではない。
 「さて、お話はこのくらいでいいでしょう。フェンリスくん。見たところ、君は汚れているし、長旅でおなかも空いているんじゃないですか?。あのアールヴたちにも持て成しを準備させよう。せめて今夜はゆっくりくつろいでいくといいでしょう」
スコーネルとスコーティは、そう言って笑いながら彼を客間に案内してくれた。さっきのメイドが仲間を連れてやって来て、さっそく、風呂と食事の支度を整え始める。小人たちは、太陽の光を恐れてカーテンがしっかりと閉められるまで箱から出てこなかった。フェンリスには小人たちの言葉は分からなかったが、彼らは、過去に来てしまったらしいことについてどう思っているのかは気になった。


 考えることはありすぎた。そもそも、どうすれば元の時代に戻れるのかも分からなかった。もし、この時代にフリッカがいるのなら、彼女に聞けば分かるのかもしれない。だが、どうやってクレイントンの森まで行けばいいだろう。
 ベッドはふかふかで心地よかったが、フェンリスは眠ることが出来なかった。カーテンの隙間から、明るい月の輝きが漏れ出してくるせいもある。今夜は満月。月はそろそろ天頂に差し掛かる。
 気がつくと、枕元に小人たちが立っていた。
 「どうしたの?」
何か、様子がおかしい。小人たちは腰に針の剣を下げ、武装している。
 リィムが口早に何か呟き、ぴょんと床に飛びおりた。ついてこい、といわんばかりだ。フェンリスは、ナイフをそっとガウンのポケットにしのばせ、足音を忍ばせて廊下に出た。
 廊下は、不気味なほど静まり返っていた。まだ夜はそれほど更けていないはずだ。何かがおかしい。
 入り組んだ廊下は、一人では迷ってしまいそうだった。誰かいないだろうか。
 「すいません、誰か…」
開いていたドアの中を覗き込んだフェンリスは、絶句した。洗濯物を片付けようとした仕種のまま、畳んだシーツの上に頭を乗せて眠りこけているメイドの少女がいる。隣では、クローゼットの前で別の年配女性が丸くなって眠りこけている。揺すっても、叩いても目を覚まさない。
 「誰かが薬か何かで眠らせたんだ。…まさか、他のみんなも?」
廊下の向こうで、物音がした。駆けつけると、スコーネルが壁にもたれかかっている。必死で、襲い掛かってくる眠気と戦っているようだった。目を覚まさせるために自分でやったのだろうか、足に短剣が突き刺さり、血が流れ出している。
 「スコーネル、起きて! 眠っちゃだめだ」
フェンリスが助け起こそうとするが、スコーネルの体はまるで、芯のない人形のようだ。
 「…フェンリス、…これは君の仕業ですか」
 「そんなわけない! 僕は確かに今日来たばっかりの余所者だけど…、こんなこと」
 「そう…ですか」
 「スコーネル!」
これでは、隙だらけだ。館に目覚めている者は誰もいないのか。庭を見下ろしたフェンリスは、そこに人影を見つけてぎょっとした。壁を乗り越えて、次々と進入してくる。武装し、手に剣を持った兵士たち。昼間見た、あの連中だ。
 「このままじゃ、みんな殺される」
フェンリスはナイフを握り締めた。
 「僕が… 皆を守らなくちゃ」


 侵入者たちは、フェンリスに気づいた様子はなかった。
 「おい、そっちはどうだ」
 「眠っています。朝まで目覚めないでしょう」
 「よし、よし。夕飯に仕込んだ薬の効き目は、ばっちりだな」
彼らは、その夕食を同じ席で食べなかった客人の存在は知らなかったのだ。
 安堵は突如として恐怖に変わる。突然、バルコニーから降ってきた黒い影に、無防備だった一人はなすすべもなく地面に叩きつけられた。
 「ぎゃっ」
 「何だ!」
 「誰かいます! 誰… ギャアア!」
月明かりに、赤い毛が輝く。巨大な狼が、らんらんと目を光らせ、唸りながら兵士を組み敷いている。
 「何だ、こいつは!」
 「うわっ…」
 「まだいるのか!」
小人たちだ。針の剣を手に、ぴょんぴょん飛び回りながら兵士たちのかぶとの隙間から目を狙っている。
 「アールヴだと? アールヴが何故ここに」
 「いいから、さっさと始末するんだ! ロードゥルを探せ。見つけ次第、首を刎ねろ!」
そうはさせじと、フェンリスが追いすがる。無我夢中だった。狼の咆哮は館じゅうに響き渡り、窓を振動させる。
 だが、多勢に無勢だった。フェンリスと小人たちの力では、戦うことも出来ない、眠りこけた館の住人たちを守ることが出来ない。兵士たちは次々と館に侵入し、その凶刃を振るっていった。フェンリス自身も傷だらけになっていた。それでも、戦うことをやめない。
 「もういいだろう。火を放て!」
残酷な指令が、目の前の騎士から飛んだ。塀を乗り越えてきた兵士たちが、油のしみこんだ布の塊に火をつけ、館の中に次々と投げ込んでいく。
 「やめろ!」
フェンリスの叫びは、燃え上がった業火の音にかき消される。風に煽られて、火は瞬く間に燃え広がる。
 「皆、起きて!」
館は沈黙している。兵士たちがフェンリスを横目に去って行く。フェンリスは、ベランダに駆け上った。
 「スコーネル!」
スコーネルは、さっきの場所で壁にもたれかかったままだ。近づいて、フェンリスははっとした。
 さっきの兵士たちは、容赦なく若者の首筋に剣をあて、その命を確実に奪っていたのだ。
 「そんな…」
フェンリスは、鼻面で、まだぬくもりの残る体をつついた。
 「うそでしょ」
未来は、変わるはずがなかった。変えられるとは思っていなかった。それも、悪い方向になんて。
 階段を駆け下りる。そこでもう一人の片割れ、スコーティが倒れていた。同じように、一刀のもとに命を奪われて。側には、朦朧とする意識の中で抜いた剣が落ちていた。
 「僕のせい? 僕のせいで皆…」
匂いを頼りに、ロードゥルの部屋にたどり着く。そこも、惨劇の行われた後だ。ベッドの側にはスコルが仰向けに倒れ、老人は、枕を赤く染めて固く目を閉ざしている。
 「駄目だよ、目を開けて! お願いだから、僕を一人にしないで!」
 「…もう、遅い」
驚いたことに、ロードゥルにはまだ息があった。片方の目を半分だけ開き、狼の姿となったフェンリスを見やる。
 「死が今、わしの目の前にある。今なら分かるぞ、フリッカの予言は正しかったのだ。大地は滅び、<アスガルド>は死に絶える。…だが、まだ希望の芽は詰まれていない。種子は生まれてもいない。遥か未来… そう、未来だ。未来に… 変えられる… 」
 「うあああ!」
フェンリスは叫んだ。声を限りに。ただ、そうすることしか出来なかった。頭を布団にうずめて泣いた。
 小人たちが追いついてきた。フェンリスの頭の上にぴょんと飛び乗り、耳をひっぱる。早く脱出しないと、館もろとも焼け死ぬと言いたいのだ。



 それからどうやって館を出たのか、フェンリスは覚えていなかった。気がついたとき、体中の毛は焼け焦げ、体じゅう煤だらけで、ほとんど燃え尽きかけた館の前にいた。
 小人たちが、彼の背中から滑り降りた。
 「未来は、変わったよね」
通じないと分かっていて、フェンリスは小人たちに話しかけていた。
 「もう会えないんだ。あの二人に。もう…」
涙が溢れてきた。こんなことって。
 背後で、草を踏む音がした。だが、もう、フェンリスには振り返る気力もない。
 「未来は変わっていない。私以外にそんなことが出来るとすれば、あのヴァニールの女くらいのもんよ」
蓮っ葉な、若い女の声。どこかで聞いたような…
 「だけど、スコーネルもスコーティも死んでしまった。スコルも…。生き残るはずだったのに。本当は」
 「最初からこうなる運命よ」
 「でも僕は知ってるんだ。僕は!」
涙でぐしゃぐしゃになりながら漸く振り返ったとき、目の前が真っ白になった。
 (あれ…?)
足元がぐらつく。周囲に何も見えない。霧だ。霧が辺りを包み込んでいる。


 (…リス、フェンリス! 起きて)
 「う、うん」
 (よかった、目を覚ましましたね。どうしたんです、うなされて)
目を開けると、目の前に湿った鼻面があった。
 「スコーティ?」
 (そうです。眠りながら、いきなり泣き出すから驚きましたよ。さあ立って)
頬には、まだ涙の跡がかすかに残っていた。雨はやみ、空は晴れ渡って月が出ている。満月だ。
 「あれ、…僕、変身してないのに言葉が通じてるよ」 
 (今夜は満月ですからね)
と、スコーネル。満月を見上げて、気持ち良さそうに尻尾を立てている。(ローグもヨルムも戻ってきませんでしたが、ここは私たちもよく知っている場所のようです。森を抜けたときにロードゥルの館がありますよ。<黄金のチェス亭>まで、すぐ近くです! さあ、立って)
何事も無かったかのようだ。では、あれは全て夢?
 フェンリスは、箱のほうを見やった。小人たちも今目覚めたばかりのようで、箱から顔を出して月を眺めている。その視線が、彼らもまた同じ夢の中にいたことを物語っている。
 
 あれは、夢であって夢ではない。
 ――過去の、本当にあった光景なのだ。

 歩き出してから、フェンリスは、あの夢のことをずっと考えていた。
 「二人とも、館が燃えた日の夜、お酒に眠り薬とか入れられた?」
 (いいえ? でも、どうしてそんな話を)
 「うん… ちょっと」
そこは夢の話なのか。
 (私たちは盛られませんでしたが、館を離れていたので)
と、スコーティ。(…この姿にされて、館に戻った時にはもう、皆。卑劣な手です。和平の使者を寄越せと言って我らを誘き出しておきながら、その間に館に間者を送り込んで皆殺しにするなんて)
 「じゃあ、中庭で敵と戦ったりした?」
 (ええ、それはもう必死で。でも…、結局は誰も救えませんでした。でも、なぜそんなことを? そこまでお話したでしょうか)
スコーネルは尻尾を垂れた。
 では、あの時、中庭で戦ったのはフェンリスではなくスコーティたちだったのだ。でも、あのスコーティたちの死体は。

 森を抜ける。
 その先には―― 月明かりに白く浮かび上がる、「ロードゥルの館」があった。


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