TOPBACKNEXT

<霧のアスガルド>


 車は、目指す場所に到着していた。
 丁度、夜明けの太陽が、東の低い位置にかかる雲から、一条の光とともに姿をあらわすところだった。夜は西の地平線へ追いやられ、世界が急速に塗り替えられてゆく。
 「私がお送りできるのは、ここまでです」
 「十分だ。ハリスに宜しく伝えてくれ。」
メリッサは、一礼だけして運転席へ戻っていく。ヨルム、フェンリス、ローグ、それにスコーネルとスコーティ、リィムたち小人の入った箱。
 「朝でなかったら、リィムたちを外に出してやれたんだけどな」
 「朝で良かったさ。普段でさえ、夜の<アスガルド>は危険だらけだ」
 「そうらしいな。」
行く手には岩だらけの斜面が続いている。このあたりは道も民家もないため、<アスガルド>とその外側の境界線は曖昧で、ほんの数本の針金が、申し訳程度に打たれた朽ちかけた杭の間をつないでいるくらい。
 「フェンリス」
兄に呼ばれて、少年は振り返った。
 「姉さんに貰った、あのナイフは持って来たな」
 「…うん」
 「制御できるようになったか?」
少年は、自身なさげな顔をした。
 「そんな顔をするな。自分なら出来る、と無理やりでも思うんだ。ここから先、使えるものは全部使え。でないと、生き残れんぞ」
 「分かってるよ。…分かってる」
 「なら、行こう。ローグ、道案内を頼む」
 「ああ」
先頭にローグ。その後ろにヨルム、フェンリス、狼たちが続く。夏だというのに<アスガルド>は静まり返り、いつもの年に比べ、生き物の気配がほとんど感じ取れない。
 雲は低い位置を保ったまま、太陽の光は現れたり隠れたりを繰り返している。
 「近いうちに雨になりそうだな」
と、ローグ。「このあたりに、雨宿りをする場所は見つからないかもしれない。俺も初めての場所だ」
 「道を急ごう。まだ、すぐには降り出さないだろう」
とはいえ、行程は容易ではなかった。白い岩が露出した地面は歩きづらく、その先は谷になっている。雲は静かに厚みを増している。襲い掛かってくる獣のような危険なものに出会わないのは良いことだったが、これまでほとんど休みらしき休みも取らず移動しつづけていた一行には、序盤から既に疲れが見えはじめていた。
 幸運にも、雨が降り出すより前に廃墟跡を見つけて中に滑り込むことが出来た。太陽の光は完全に隠れ、雨音と靄が視界を埋めていく。
 ヨルムが箱を開けて小人たちを出してやっている間、フェンリスは狼たちと一緒に廃墟の中を見て回っていた。
 「ここ、何だか普通の家っていうよりお城みたいだね。」
 「城門があるな。砦の跡かもしれない」
と、ローグ。
 「…ヨルム先生の見解は?」
 「おそらく正解だ。地図には載っていないが… ふむ。かつては、ここから南へ向かう街道があったりかもしれない」
 「雨が止んだら、その道を辿るか?」
 「そのほうがいいだろう。少し遠回りになるが、同じような要塞跡があるかもしれないし、かつて道のあった場所なら、他より歩きやすいはずだ。」
ローグは、ヨルムの手元の地図を覗き込んでいる。
 「南へ下れば、俺も良く知っている辺りに出る。ふむ。結果的に、この道で正解だったようだな。」
 「宜しく頼む。」
雨が止んでも、空はどんよりと曇ったままだった。白い靄が谷間に渦巻き、視界は閉ざされている。一行は歩き出したが、ぬかるみと、視界のきかないせいで思うように進めない。
 「まるで、この先へ行くことを阻まれているようだな」
ヨルムは苦笑した。
 「世界は、真実を明らかにされることを望まない、…か。」
 「嫌な気配だ。」
ローグは呟いて、背の剣を抜いた。「攻撃してくるような気配じゃない、が…」
 「僕も感じる」
フェンリスは、胸の辺りをぎゅっと押さえている。スコーティとスコーネルが鼻を鳴らした。
 歩くうち、違和感の正体は、すぐに姿を現した。白い靄に混じって、大地が白く変色しているところがある。フェンリスの目は、その白いものの正体を捉えた。
 「これは…、地下の研究室で繁殖していた、あれか?」
研究棟の地下に持ち込まれた、あの遺跡を覆っていた菌糸の山。それが、地表を侵食しようとしている。しかもそれは、ところどころ巨大なキノコと化していた。真っ白で、今にも弾けそうな傘は、遠目に見ても、二階建ての家くらいの高さはありそうだった。
 「あんなもの、今まで<アスガルド>で見たことが無いぞ。」
 「研究室の地下で、人を巻き込んでいるのを見た。近づかないほうがよさそうだ」
異変は、それだけではなかった。突然、行く手に予定にはなかった城壁が現れたのだ。切れ目なく、丘の向こうまで続いている。黒っぽい石で作られた表面に継ぎ目はほとんど見当たらず、明らかな人工的なものだ。高さも、とうてい飛び越えられるものではない。
 「予想以上に混乱している、というわけだな。」
ヨルムは奥歯を噛み締めた。「南へ真っ直ぐに向かうか… どうする…」壁に手を当てる。
 と、その瞬間だ。ヨルムが手を当てたところから石と石の間に光の筋が生まれ、壁を駆け巡り、轟音を立てて石が崩れはじめたのだ。
 「ヨルム!」
 「下がれっ」
すんでのところで、ローグがヨルムを抱えて横に飛んだ。崩壊は壁の果てまで伝播していく。反動で周囲に風が巻き起こり、一瞬だけ、靄を空へと押しやった。
 その一瞬に、ヨルムは見てしまった。
 壁の向こうに、―― たった今まで人が住んでいたかのような、整然とした美しい街並が現れているのを。
 「大丈夫か? おい!」
茫然としているヨルムの頬を、ローグがひっぱたく。彼はわれに返った。
 「頭打った?」
 「大丈夫だ、二人とも。… 今、そこに」
振り返ったヨルムは、わが目を疑った。白い靄がゆっくりと覆い隠していく、そこにあるのは、ぼろぼろになった滅びた町の廃墟。たった今まで、そこにあった街並は消えうせ、冷たい水滴に濡れそぼって、灰色に立ち尽くしている。
 「……」
 「ヨルム、ほんとに大丈夫なの」
フェンリスの手を無言に押しのけて、彼は、壁の消えた向こう側へ向かって歩き出した。フェンリスとローグは顔を見合わせ、あとに続く。壁を構成していた石は、粉々になった地面に落ちていた。そればかりか、つい今しがた崩れ落ちたとは思えないほど、苔むし、雨風に晒され、地面に半分うずもれている。
 (外から来た俺たちが触れたことで、過去の姿のままここにあった町が、一瞬で廃墟に戻ったのか…)
ヨルムは、足元に落ちている風化しかかった皿の破片を取り上げた。かつて色が塗られていた跡がかすかに残っているそれは、かつてここに住んでいた人々が使ったものだろうか。
 「ヨルム?」
 「ああ、大丈夫。――体はなんとも無い。ただ、少し驚いただけだ。この町…」
フェンリスは、鼻をひくつかせ、周囲を見回した。
 「燃えた跡… それに、これ」
足元に、折れて錆びた剣が落ちている。持ち主はどうなったのだろう。もしここで死んだのだとしても、体はとっくに腐り落ち、ここに住む動物たちのえさになって骨まで跡形も無く消えてしまっただろう。
 「はじめて戦争の跡のある遺跡を見つけた、ってことだな。ユーフェミアが持って来た、あの日記とも符号する」
ローグは、錆びた剣を拾い上げた。「それにしても、新しいな。その戦いがあったというのは、ずっと昔の話だろう? いや、時間が繰り返しているなら、つい最近のことなのか」
 「…何かがおかしい。この町も、戦火で焼かれたというより、山火事か何か… もっと強烈な、いや」
ヨルムは、拾い上げた、ひしゃげた金属の器を手に考え込んでいる。「…災害? 戦争ではない… まさかな」
ふいに、狼たちが声を上げた。同時にフェンリスも顔を顰めて跡退る。
 「な、なにこれっ」
 「どうし…」
言いかけたローグも、思わず鼻をつまんだ。「何だ?! この、強烈な…」
 原因は、すぐにわかった。町の中心部にある噴水跡から、どろどろとした黒っぽい液体が湧き出しているのだった。液体は水盤のふちを越えて周囲に流れ出し、強烈な悪臭を辺りに撒き散らしてている。
 「卵が腐ったものにソースかけたみたいだね」
 「…食欲が無くなるような喩えをするな、たとえ妥当な喩えであってもだ」
ヨルムは、鼻を押さえながら風上を探った。「あっちだ。少しはマシになる」
 この匂いでは、町に長く留まるのは難しそうだった。町から続く道は、ほとんど草に埋もれてはいたが、辛うじて方向が分かる程度には残っている。
 「あんな臭いのは、初めてだぞ」
匂いの元を離れて随分たってから、ローグはようやく鼻をつまんでいた指を下ろした。
 「それに、この辺りは俺も来た事があるはずだ。あんな壁や町を見た覚えはない。」
 「だろうな。俺も、何が何だかわからない。せめて、<黄金のチェス亭>の辺りが、あんたの知ってる<アスガルド>のままであることを願うよ」
雨は、再びぽつぽつと降り始めていた。それは汗と交じり合い、体の芯まで染みとおる。
 「記憶どおりなら、この先に少しは雨風を凌げる岩場があるはずだ。急ごう」
再びローグは、先頭に立って足早に歩き始めた。
 気がつけば、雲はさっきより低い位置に暗くたれこめ、見渡す限りの空を覆っている。どこか遠くで雷の音が聞こえた。
 「まずいな」
舌打ちする。「…走れるか」
 「何とか」
 「ついてこい。小人は俺が持っててやる」
ヨルムから箱を受け取って、ローグは走り出した。ヨルムとフェンリス、狼たちが続く。霧はますます深くなり、すぐそこまで迫って来ていた。まるで生き物のようで、足を止めたらあっという間に飲み込まれてしまう錯覚に襲われた。
 「くそ。これじゃまるで」
声が途切れた。
 「ローグ? ど…」
フェンリスの不安げな声が背後で途絶える。
 「!」
はっとして、ヨルムは足を止めた。二人と、それに狼たちの足音が突然消えた。
 「フェンリス! ローグ!」
返事は無い。霧だけが渦巻いている。フェンリスは腕を組み、しばし考え込んだ。こんなときは、焦って動き回らないに限る。そうだ、そういえば、雨はどうした?
 霧が晴れていく。唐突に、空から眩しい光が降りてきた。足元はぬかるんだ雨の道ではない。乾いた、心地よい緑の草原。
 眩しさに手をかざしながら、彼は、空に聳えたつ「それ」を見上げた。―― 伝説でしか語られたことはないもの、御伽噺の中の遠い遠い昔にあったもの。


 緑輝く葉を生い茂らせた大樹が、そこに、大地の中心に聳え立っていた。



TOPBACKNEXT