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<時の循環>



 書斎で机に向かっていたヨルムは、ふと、窓の外に視線を転じた。いつしか日はとっぷりと暮れていた。うとうとしていたのだろうか。思索の狭間で過ごした時間は、起きていたとも寝ていたともつかなかった。
 部屋を出て広間に下りていくと、台所のほうから話し声が聞こえてきた。
 「――ええ。勿論、追い返したわよ。その後もやってくるたびに、ガルムに食いつかれて。でも、一番奮闘したのはマリアーナ叔母さんね。ほかには、村の人たちが役所まで抗議に行ってくれたらしいわ。」
ユーフェミアの声だ。それに… ハリス。こんな時間まで目覚めているとは。ヨルムは足音を消し、話し声に耳を済ませた。
 「この森から追い出そうとは、もうしないんでしょ?」
 「今のところはね」
 「そのほうが賢明。私はあなたたちの味方なのだから」
ユーフェミアは、お湯を沸かしている。テーブルには小さなパンケーキの乗った皿に、クッキーの深皿。館の他の場所は静まり返っている。皆、疲れて眠っているのだろう。
 「味方、というのは随分不思議な言い方ですね」
ハリスはいつもの飄々とした口調だが、何処か緊張しているように感じた。「――我々は、<アスガルド>を切り拓き、古い迷信を排除して、この国を変えようとしている。ヴァニールの子孫である貴女にとって、それは好ましくないのでは?」
 「あら。お忘れかもしれないけど、私の生まれは東の大陸よ。ヨルムと同じラングドットの生まれで、向うで働いていたこともあったわ」
椅子を引き、ユーフェミアが腰を下ろす。淹れたてのお茶のよい香りが漂ってきた。「変えたほうがよいものなら、変えればいいのよ。ただし、それには正しい手続きが必要。今のやり方では、あなたたちに万に一つの勝ち目もない。大砲でも、銃や爆薬でも、<アスガルド>を変えることは決して出来ない。」
 「自信がおありなのですね」
 「あの土地を”視”て来た人なら、誰でもそう言うでしょう。たとえこの国の全ての軍を送り込んだところで、あの土地を破壊することは出来ない。表面を全て焼き払ったところで、何度でも再生するわ。人間はそうはいかないでしょうけれど」
 「それは、未来永劫、あの土地には手を出すなという警告ですか?」
ユーフェミアはティーカップを取り上げた。
 「いいえ。」
ゆらめく湯気が、彼女の謎めいた言葉とともに天井に向かって広がっていく。
 「言ったでしょ、”正しい手続きが必要”と。あなたはそれを知るために此処へ来た。違うかしら?」
ハリスも、ティーカップを取り上げた。
 「あなたを見ていると、予言の力を持つ”魔女”の伝説が、本当のように思えてくるな。まるで何でも知っているような口ぶりだ。」
 「ここへ来てから知ったことよ。祖先の残したもの、祖父の歩いた道、私の中に流れる血、それで十分。十分すぎるほどの遺産を受け継いだわ」
彼女は笑ったかと思うと、ふいに真面目な口調になった。
 「この大陸を最初に訪れた植民者たちの子孫―― あなたなら知っているはずね、ハリスさん。先住民のうち、ヴァニールは最初から余所者たちに好意的だった。この森の周囲を遺しておいてくれるなら、他の土地は好きにして構わない。そういう約束だった。もしも約束が破られるというのなら、私はあなたたちに何も教えてはあげない」
ハリスはティーカップを下ろし、ユーフェミアを見つめている。
 「…確かに、そのような言い伝えはあります。しかし…いや」
彼は苦笑した。
 「約束というものは、双方が覚えているべきものでしたね。失礼」
会話が途切れた。ヨルムは、一つため息をつき、隠れていた場所を離れて広間へ出て行った。
 「俺にもお茶を貰えるかな? 良ければ話に混ぜてもらおう」
 「ええ、どうぞ」
ユーフェミアの傍らには、もう二揃い、ティーセットが用意されている。成る程、ということは、あともう一人この後やって来るのか。
 「マリアーナ叔母さんは?」
 「家に帰ってる。朝一番でまた来るって言ってた」
 「そうか。」
ヨルムは、ちらとハリスに目をやった。「うちの実家はどうだ。見て回ったんだろ」
 「予想以上だよ。素晴らしい遺物と芸術品の宝庫だね。ここにある遺産だけで博物館が建てられそうだ。それに大学の建物よりずっと古い」
 「それだけか?」
 「あとは… 小人やら何やらに邪魔されてね」
肩をすくめる。そうえば小人たちの姿が見えない。ミッドガルドでは、太陽の脅威が遠ざかるこのくらいの時間になると彼らは元気に大学の構内を走り回っていたのだ。
 「それにしても、君の姉さんは凄い人だ。我々のトップシークレットを何でもご存知らしいね。君たちが、数年前まで東の大陸に住んでいたことを忘れそうになる」
 「何処にいても、変わらないさ。俺も、姉さんも」
ヨルムは、夜食のパンケーキを一つ取り上げ、口に放り込んだ。ユーフェミアはヨルムのカップにお茶を注ぐ。
 「だが、我々植民者に好意的なヴァニールは、一体我々に何を与えてくれるのだろう? 貴女は本気で、好意的ではない<アスガルド>の生き物たちをどうにかする方法を教えてくれるのかな?」
 「ええ、望むなら。…でも、あなたたちのためだけではないわ。<アスガルド>も、こちら側の世界も、それを望んでいるからよ。お互いの関係は変わるべき時に来ているわ」
僅かな沈黙。
 ハリスが口を開こうとしたとき、外でがたん、どんどん、と物音がした。振り返る三人の目の前で、入り口が開き、木の葉を頭に載せたルベットが、よろよろしながら入ってきた。
 「あら。お帰りなさい」
ユーフェミアは席を立ち、ルベットの肩を支えて開いている席に連れて来る。これで四人揃った。
 「お茶はいかが? 朝早くから、そんなに動き回って大丈夫?」
 「ああ、大丈夫だ。大丈夫だとも。それより、この森はすごいぞ!」
老人は、目を輝かせながら両手を広げた。「この森の木々は、<アスガルド>にある植物はほとんど同じものだ!それに草や虫も―― 小動物もだ。素晴らしい…」
 「あら。ヴァニールの子孫が生き残ってるんだから、あってもおかしくないでしょ」
ユーフェミアは、さらりと言う。「ご先祖様が持ち出して育てたものらしいわ。」
 「これは大発見だぞ。<アスガルド>の植物や生き物は、外に持ち出しても生きていける。そっくりそのままではないが… 見てくれ、この草はずいぶん小型化しているが、<アスガルド>に生えておったのと同じものだ」
ルベットの手には、小さなスミレのような花が握られている。
 「私たちの祖先は… ”何か”を察知して、種子とともに<アスガルド>を後にした。その後、あの土地は何もかも変わってしまったの。」
 「では、今の<アスガルド>は以前とは違っていると?」
 「いいえ」と、ユーフェミア。「以前と全く同じなのよ。今のこの土地は、<アスガルド>がそうなるはずだった未来の姿。おそらく、かつては<ミッドガルド>も同じだったはず。”彼女”は、それを知る最後の人物…」
 「彼女?」
 「マーサ・クレイントン。私より八代前、”クレイントン”の名を持つ最後の館の主」
ハリスは、肩をすくめた。「少し夜風に当たって頭を冷やして来たほうがよさそうだ。私は今、色々なことを聞きすぎたようだ。」
ルベットは、真っ直ぐに出て行く青年の後姿を、クッキーをつまみながら眺めている。ヨルムは、ユーフェミアの視線を受けて立ち上がった。ハリスを追って出て行く。
 ぱたん、と入り口の戸が閉まり、広間には静寂が落ちた。
 「…イザべルは心配しとったが」
クッキーを口に放り込む。「ユーフェミア、お前さん、過去を”視”てきたんだな」
 「ええ。」
ユーフェミアは、頷いた。「そして分かったの。この館の主が、何故、代々女性だったのかを。とても画期的な方法だったわ。たとえ途中で直系の血が途絶えても、口伝が廃れてしまっても、元の情報を少しも損ねることなく、決して忘れられることなく、確実に伝える方法。」
 「今のお前さんに見えておるはずの、それはな、”因果律”というのだ。現在は過去の様々な出来事から成り立ち、現在を基にして未来は織り成される。過去を知ることは、現在を知り、未来を予測するのと同じこと。時は繋がっている。―― 予言する者は、ただ未来だけを視ているのではない。現在を形作る大きな要素となった過去を視る力、それが、本来の力なんだよ」
 「イザべルは知ってたのね。最初から」
柱時計が、ちょうどの時間を指す。低い、時を告げる音が時刻の数ぶん。広間に響き渡る。
 「今なら分かるわ、彼女が誰なのか。…ルベットも知ってたのね?」
老人は、小さく頷く。
 「わしは、あそこの最古参だからな…」
 「ルベットは、どうするべきだと思う? 私は、変えるべきだと思っている。…ルベットは元のままがいい?」
 「……わしに、その問いかけは難しすぎる。」
 「何ににせよ、イザベルに会わなくちゃね。もう一度」
彼女は、席を立った。「――そのとき、答えが出るわ。」


 ひんやりと冷えて湿った空気が、首筋から入り込んでくる。外はまだ、夜の中だ。
 地平線が白み始めていても、森はまだ、木々の作る重たい闇の中に沈みこんでいた。木々の合間から、辛うじて細い青が見え隠れする。かさかさと落ち葉の鳴るのは、小動物が走り回っているせいなのか。足元はほとんど見えなかったが、館から続く小道に敷かれた小石は所々青白く光、行くべき道を指し示している。
 ハリスはそこに佇んでいた。ヨルムが近づくと、彼は気配に気づいて振り返った。
 「見てごらん、小人たちが踊っている」
月の光が梢の隙間から差し込む中を、小人たちが飛び跳ね、時々何かさけんでいる。その中にリィムもいた。手を叩き、口早に古典語で何かを口ずさむ。まるで鳥が囀るようだ。彼らはもう、人形の服は着ていなかった。マリアーナが手直しした、急ごしらえだが立派な衣裳に身を包み、まるで古い御伽噺に出てくる妖精か地の精のようだ。
 「彼らは、何と言ってる? 私には聞き取れない」
 「『樹の周りで踊れ、宴の時間だ』… そう聞こえた」
彼らは歌っていた。甲高い、独特の声で歌われる早い旋律は、楽器を奏でているようだ。
 小人たちの歌に呼応するかのように、森はざわめき、気のせいか、ほんのかすかに木々の表面が青白く光っているようだ。これは木々と語る歌、小人たちの持つ特別な力なのだろう。
 「木々と語ることが出来るのか… 彼らは…」
 「少し前までは、彼らのような存在がまだ生き残っているとは思わなかった」ヨルムは言った。「…自分たちの先祖のことも知らなかったくらいだからな。今なら理解出切る。<アスガルド>だけではない。この国には、いたるところに、失われた過去の切れ端が残っている。俺たちの中に流れる血は、その一つに過ぎない」
ハリスは小さく声を立てて笑った。
 「まさにそれこそが、政府の悩みの種なのさ。些細なものでいえば、例えばラウネース地方の”決闘”や”血族の復讐”という慣習。法律で禁じることは出来ても、長年その地域を支配して来た伝統は、そう簡単には根絶出来ない。ああした閉ざされた環境では、一族同士の繋がりも強い。一族の守護女神信仰や、運命論も根強く残っている。…この国は、数多くの過去の破片が継ぎ接ぎにされて出来ているのさ。過去は切り離せない。私が大学で今の専攻を選んだのも、そういう理由からだ。」
 夜風が出てきていた。
 「身内の言うことは信用ならないかもしれないが、ユーフェミアは本物だ。今までに、彼女が予言した未来は外れたことがない。…たとえどんな些細なことであっても」
 「そうか。…ならば本当なのだろうな。このまま行けば、我が国の軍が負けるというのは」
ハリスが迷っているのは感じられた。
 ヨルムはハリスの肩を叩いた。「来て欲しいところがある。つきあってくれ」
 彼は裏庭のほうへ歩いていく。ハリスも後ろに続いた。
 館の裏手、風呂焚き釜や薪を積み上げた狭い庭を抜けると、本館から別館に続く空中回廊がある。階段を上がり、回廊を別館のほうへ向かう。
 「まるで迷路だな」
と、ハリス。
 「古い館だからな。ここだ」
ヨルムは、自室のドアに手をかけた。


 部屋は書物に埋もれていた。
 整頓はされていたが、それはおそらく本人にしか判らない法則によってだろう。足の踏み場がないほど本や雑多なものが堆く詰まれている。窓際には、ガラス戸のほうを向いた大きな書斎机がある。ガラス戸は床から天井まで続く両開きの扉になっていて、外には、緑の梢に守られた石造りの小さなテラスがあった。
 「ほう…これは。まるで研究室だな。」
ハリスは感嘆の声を漏らした。
 「祖父の遺したものだ。」
ヨルムは、そっけなく言って書斎机の上に紙を広げた。「これは、フェンリスが<アスガルド>から持ち帰ったものだ。遺跡の図面と、アスガルドの地図。この図面は、ミッドガルド中央大学に運び込まれた遺跡のもので間違いない。”持ち出し済み”。そういうことだ。――そして、地図を良く見ると、この遺跡が元あった場所が記されている」
ヨルムは、地図の変色している部分に指を置いた。「<アスガルド>をよく知っているローグに、さっき確認した。この地図は、正確さで言うと、かなりでたらめだ。だが、東西をもっと縮めて、南北との軸を斜めにすれば、それなりに近くなるらしい」
 「ということは、この遺跡は海とは反対の境界線近く?」
 「そうなるな。」
よく見ると、地図には既に幾つかの線と文字が書き込まれていた。視線に気づいてか無意識にか、ヨルムは説明を始めた。
 「ここがロードゥル遺跡。ここがアルフリット寺院。ヴェニエの宝物庫。ラルマスの館。俺が論文を書いたエディソン遺跡もある。――そして、ここがゾルターナ遺跡。すべて、過去にいくらかでも調査されたことのある遺跡ばかりだ。その中で最も年代の推測にばらつきのあるのがロードゥル遺跡。ここは近代になってから建てられたという説を唱える学者もいれば、新しい部分は近年の改築で基礎は1万年遡ると言い張る学者もいる奇妙な遺跡だ。」
 「知っている。だが構造的に近代というのは在り得ない」
 「このラルマスの館は数百年から五百年と幅が狭い」
 「そこはほとんど石積みしか残っていない場所なのに、何故か過去の記録では新しいものと書かれている。おそらく別の遺跡と取り違えたのだろう。」
ヨルムは地図から目を上げ、じっとハリスを見つめた。
 「種明かしをしよう。あんたも知りたかったことのはずだ」
そう言って、ヨルムは机に積み上げてあった書籍や論文の塊を引っ張り出した。
 「<アスガルド>に関する調査が始まったのは、せいぜいここ数百年のことだ。それ以前は全く誰も見向きもしなかったか、恐れられていたために手を出す者が誰もいなかった。記録にも残されていない。俺は、その数百年の間に記された調査報告書を片っ端から集めて読んだ。… 初めは困惑したさ。どれも書いていることがまちまちで、同じ遺跡についての報告書でさえ互いに矛盾して、まるで別の遺跡について語っているようだった。だが、ふと気がついたんだ。もしかしたら、それは本当に別の遺跡を見ていたからではないかと」
彼はゆっくりと部屋の中を歩き出した。
 「ロードゥル遺跡の調査は今から約百年前に始まり、継続してたびたび行われている。百年前の調査では最も古く、そこから次第に年代が新しく評価されなおしている。他の遺跡は数回の調査だが、傾向として近年のものほど新しい年代に評価されている。写真や図面はほとんどない、文字だけの調査報告書。――研究者たちが場所を間違えたんじゃない。時間の流れがおかしくなったわけでもない。
 あの土地は… <アスガルド>は、文字通り閉じた世界なんだ。時間の流れが」
理解するのに数十秒、かかった。ハリスはゆっくりと口を開く。
 「時が止まっているとでも?」
 「止まってはいない。時を止めることは、この世界の回転を止めるのと同じで、不可能なんだ。おそらくね。ただ、流れを輪にすることは出来る。ある一定まで進むと、最初に戻ってしまう。繰り返し、繰り返し。一人の人間が生きている間に二周目を見ることはないだけの時間―― 最低でも、百年以上の幅を持って。百年前の記録と今ある遺跡は真逆の状態を指してしまう現実、崩壊しきった”最期”の姿と、真新しい最盛期の姿を交互に見せる理由も、これで辻褄があう。」
 「…突拍子もない話だ。”ウリック研究書”以上に危険な考えだ。」
ヨルムは足を止めた。
 「この考えが合理的であることは、あんたなら判るはずだ。人が文字で記録を始めて数百年が経ち、時が一周以上して、ようやくそれが目に見えるようになってきた。この仮説に辿りついたのは、五十年前、祖父が歩いた詳細な記録が残されていたからだ。それがなければ、ここまでたどり着けなかったかもしれない。祖父の記録は、学者たちの調査の隙間を埋めてくれていた。」
 「確かに辻褄はあう。」腕組みをしたハリスが言った。「今までも、<アスガルド>から持ち出された状態のいい遺物が、しばらくして急速に劣化してあっという間に崩壊したという話が何度もある。持ち出すと劣化する原因は、気候の違いだけでは説明がつかない。急激に何千年ぶんも変化している、そういうことなら、まだ理解できる。――存在していた建物が一夜にして消えたり、僅かの間に湖が移動することも。しかし…」彼は歯切れが悪い。「何故、そんなことに?」
 「それは、時の循環は、一体”いつ”から始まったのかという問題に関わる。」
ヨルムは指を組んだ。
 「もう一つの疑問だ。繰り返されているのは、一体、”いつ”から”いつ”までなのか。その循環は、生きているものにも作用するのか? 繰り返される”はるか昔”に属さない最近の住人たちは、循環から外れているはずだ。では”何”が、あるいは”誰”が、その循環の中にいるのか。おそらくそれが、”何故そんなことに”の答えになると思う。」
彼の言わんとしていることを、ハリスは察した。
 「”時の循環”を引き起こす原因は、当然、その循環の中にいるはずだということだな」
 「おそらくは。推論に推論を重ねてしまうが、もし、俺の仮説に狂いがないのなら、”彼女”は全ての答えを知っている。<アスガルド>ただ一人の正規住人…」
宿の女主人、イザベル・ゲーリング。
 「彼女はいつから、どのようにしてあの土地に住み着いた?」
 「…戸籍や住民票を洗ってみたことはない。そうだ。確かに彼女については何も情報が無いも同然だ。なぜ気がつかなかったんだ!」
 「もう一つ、気になる点がある」
ヨルムは祖父のノートを取り上げた。
 「昔、このノートを初めて見た時には意味が判らなかった詩がある。―ーこんな詩だ。


  時は流れて繰り返す
  川から海へ 海から空へ
  空を巡って雨となる

  川で子牛が水を飲み
  遠いお山で死にました
  
  川をせきとめ水を汲み
  海へ流れる水は消え
 
  時は流れて繰り返す
  雨が降らねば大地は枯れる
  時のしずくは戻らない
  時のしずくは戻らない



――今なら、この詩の意味が理解できる。循環する時は、外部からの干渉が無い限り完璧だ。しかし実際は、外から来た人間や生き物の介入によって、少しずつ壊れていく。持ち出されたものは再生されず、欠けたままなんだ。時の循環は、いつか壊れる。姉さんが言っていたのは、多分そういうことだ」
 「循環が壊れると、どうなる?」
 「時はもう戻らない、正常な流れに戻るんだろう。おそらくは。…その結果が、たとえ悲劇的なものであっても」
ヨルムは大きな椅子に、どさっと身を投げた。「時を止めたくなるのはどんな時だろう? 例えばそれは、好ましくない出来事が起こることを知っていて、その未来が不可避の時だ。循環している時は平和で、取り立てて何も起こらない。ただ物が変化するだけでね。もし俺の推測が正しいのなら… 時が正常に流れ出した時、<アスガルド>に何か大きな出来事が起きるんだ。」
その出来事は、外の世界から見れば「過去」、<アスガルド>から見れば「未来」。彼らは押し黙った。起こるべき出来事は― それが何であれ、良いことであるとは到底思えなかった。


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