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最終部 白き霧の彼方に

 ―帰還


 開け放した窓から、懐かしい匂いがする。
 とろとろとまどろんでいたフェンリスは目を開けた。進行方向から差し込む眩しい光。窓の外に広がる草原は、クレイントンの森のある荘園に続くそれだ。
 「起きたかね」
隣でルベットが疲れたような微笑を浮かべている。「まだ少しかかりそうだ。寝ていてもいいぞ」
 「…うん、でも」
少年は、後ろを見やった。トランクの中には狼たちが詰め込まれている。
 「大丈夫かなあ」
 「お前さんは寝とったが、何度か途中で休憩した時に様子を見てある。外を散歩させてやったし、水も飲ませてある。元気そうだったぞ」
 「そっか。」
安心したように、フェンリスは車の硬いクッションに体を沈めた。ようやく、家に帰れる。館を発ってから、もう一年も経ったような気がした。色んなことがあった。死にそうな目にも何度も遭った…。
 「姉さん、どうしてるかなあ…」
ぽつりと、彼は呟いた。
 「館はまだ差し押さえられてはいない。途中のスタンドで電話をかけて確かめておいた」
運転席のハリスが、前を向いたまま言う。「その件に関しては、すまなかったと思っている。今の住人が、クレイントンの正当な血縁者だと知らなかったんだ」
 「つまり、それも同じ国策とやらで、繋がっている話だということか。<アスガルド>と同じように、強制的に立ち入る気は無いのか?」
 「今のところは」
ハリスは、意味深だ。「あそこは、自治区のようなものだ。多くの住人がいるからね。昔からの―― それに、有力者の間に”ファン”も多い」
 「ファン?」
 「予言さ。あの地方出身者には、未来の見える力を持つ女性が、ごく稀に生まれるという。政治の世界にはそういった迷信も付きものでね。」
少なくとも、この車に乗っているハリス以外の人間は皆、それが迷信などではないことを知っているのだが、誰も、反論はしなかった。言葉で理解してもらう必要はない。いずれ分かる。
 「あれ、そういえば小人は?」
 「後ろだ」
と、ヨルムは親指をくいくいと背もたれの後ろに出した。「狼たちのところ。何か話しでもしてるのか、こっちの居心地が悪かったのかは知らない。トランクなら暗いし、箱から出て中でのびのびやってるだろう」
 「ふうん…。」
まさか食べられはしないだろうな、とフェンリスは心配になった。だが、そろそろ到着の時間だ。
 行く手に黒々とした森の頭が見え始めた。村の一番高い建物、教会の尖塔。周囲に広がる豊かな畑と、緑の美しく縁取るあぜ道。花の香り、澄んだ空の色…。懐かしい我が家、ここは生きた世界だ。死の気配は何処にも無い。
 ハリスはハンドルを切り、スピードを落としていく。森は最後に見た時は何も変わり無かった。巨大な木々が館に通じる小道に影を落として、周囲に涼しげな気配を放っている。車が止まるのも待ちきれず、フェンリスはルベットの上を飛び越えるようにして地面に降りた。つっかえをして半開きになっているトランクを開き、中を覗き込む。
 「ついたよ!」
狼たちの間に、小人たちが座っている。彼らは顔を見合わせ、元の箱に入っていく。トランクを開けて小人たちの入った箱を取り出すと、続いて狼たちがのっそりと出てくる。
 ヨルムは、トランクを足元に置いて大きく伸びをしていた。ローグは剣を背負いながら物珍しそうに周囲を見回している。ルベットは、真っ先に森の木々に駆け寄って行った。植物学者としての性が騒ぐのだろう。
 全員が降りたのを見て、ハリスは車を動かした。もっと目立たない場所に停めておくためだ。
 窓からヨルムに問う。
 「駐車場はないんだろうね?」
 「そのへんの畑の脇にでも止めておけばいい。この辺りはうちの敷地だし、悪さする奴はいないさ」
 「では、そうしよう」
フェンリスは、狼たちを連れてルベットに近づいた。
 「森の木が、そんなに珍しい?」
 「ああ。これは… これは大発見だぞ」
老人は、珍しく興奮して顔を赤らめている。「こんな大きな…。こいつは絶滅したと思われていた古代の木だ。化石でしか見つからないと思っていた。それが… こんなに…。」
 「古い森だからな」
小人たちの箱を手にしたヨルムは、大したことでもないといわんばかりに、ルベットたちを追い越して森の入り口へ向かっている。「調べるなら後でも大丈夫だ。木は逃げたりしないよ」


 森に一歩入り込むと、空気が変わる。辺りは昼でも薄暗く、しんと静まり返っていた。木々の奥に昼の国がちらちらと見え隠れするのがなければ、異世界に入り込んだと思うかもしれない。館に続く小道以外の場所は積もった落ち葉でふかふか、まるで巨大な柱のような木々がびっしりと枝を張り巡らせ、空も見えない。
 ルベットは始終、辺りを見回していて、足元もおぼつかなさげだった。ぶつぶつと専門用語を呟いて、しきりと感心している。ハリスはその後ろに続き、ローグは最後尾。木々の作る暗がりは、昼の明るさに慣れた目では実際以上に暗く思える。
 「あ」
 フェンリスは、木々の間に動く白っぽい影を見つけて声を上げた。のっそりと、落ち葉を踏みながら音もなく姿を現したのは、普段ほとんど動かない老犬ガルムだ。
 「よう、ガルム」
ヨルムも気づいて声をかけたが、犬は一声、面倒くさそうに吼えただけだった。人間たちにも、狼や小人にも目もくれず、踵を返し、ゆっくりと木々の奥へ消えていく。
 「相変わらず愛想悪いな、あいつは」
 「見回りしてたんだよ、きっと。僕らだって分かって戻っていったんじゃないかな。ほら」
行く手に、館の入り口が見えてきた。ガルムはそこへ向かっている。入り口に座り、二度ほど、投げやりな声で吼えると、またのっそりと木々の間へ戻っていく。
 ドアが開いた。
 近づいてくる弟たちと、客人を見てにっこり笑っている。
 「姉さん!」
フェンリスは駆け出した。
 「ただいまっ」
 「お帰りなさい、フェンリス、ヨルム。それから皆さん――」
ユーフェミアは、ローグ、ルベット、そして初対面のハリスたちを見回す。
 「ようこそ、クレイントンの森へ。」


 驚いたことに、広間には来客のための豪華な食事の用意がされようとしており、マリアーナがてきぱきと食器を並べていた。
 ぽかんとしているフェンリスたちの格好を見て、彼女は眉をしかめた。
 「なんてこと! あんたたち、それじゃ食卓につけるわけにはいかないわ。裏にお風呂を沸かしてあるから、さっさと行って洗ってきなさい!」
 「…え」
 「到着の時間はお見通しだった、ってわけだな。」
ルベットは、肩をすくめた。「必要なものもご存知と見える。」
 「話を聞くのは後。まずはゆっくり休んで、みんな」
ユーフェミアは、館の女主人然として言った。「客間も用意してあるから。」
 人間たちは、有無を言わさず風呂と着替えに追い立てられた。
 「…何だか、前にもこんなことがあった気がするんだが」
ローグはぶつぶつ言っていたが、マリアーナの気迫に押されてそれ以上は口をつぐんでいた。小人、リィムと仲間たちも、抗議の声を上げるのもおかまいなしに、マリアーナの手にかかった。頭巾も針の剣も取り上げられ、おまけに、風呂上りには人形用の可愛いピンク色のチュニックを着せられてしまった。これには誰もが苦笑するしかなかったが、しかし、まともに垢をすり落とした小人たちは色が白く、白い髭もどこか威厳があり、まるで生まれ変わったように見えた。
 そうした一連の騒ぎの間、狼たちは辛抱強く広間で待っていた。戻ってきたガルムも広間に加わり、何故か狼たちの横に並んでいた。


 そうして、準備が整ったところで、食事の時間が始まった。会話を仕切るのは、もっぱらマリアーナの仕事だった。ユーフェミアから話を聞いていたから、ローグとルベットのことは名前だけであっさり流してしまった。ハリスについては、興味津々だった。
 「首相の息子ね。いいとこの坊ちゃんじゃない。それにしても、あなたのお父様は歴史問題を甘く見すぎだと思うの。この国は地方ごとに特色があるんだから、強制的に統一しようとしても駄目でしょう。それじゃ地方の信頼を失って、次の選挙ではひどい目に遭うわよ」
などなど…。ハリスは、ただただ苦笑しているばかり。
 その間に、給仕をしていたユーフェミアが仕事を終えて戻ってきていた。彼女は、ローグとルベットの間に腰を下ろした。
 「おお、ユーフェミア」
 「久しぶりね、二人とも」
 「変わってなくて何よりだ」
マリアーナの良く響く声に隠れて、彼女の声は小さい。
 「ね、うちの弟はどうだった?」
 「元気のいい子たちだな、二人とも。」
 「それは良かった。ごめんなさい、迷惑かけたかしら」
 「お前、分かってて<アスガルド>にフェンリスを送り込んだな?」
ユーフェミアは、いたずらっぽく笑った。「きっと大丈夫だと思ってた。あら、カーラ。あなたも久しぶり」
ローグはびくっとして足を寄せた。ユーフェミアが話しかけたのは、テーブルの下の何も無い物陰だった。
 「…分かっちゃいるし、最近は慣れてきたつもりなんだが、姿は見えない、気配も感じないものが付いて回ってるってのも気持ちの良くないもんだな」
 「いいじゃないか。守護女神なんぞ、欲しいと思っても手に入るもんじゃないぞ。在り難く思っておけ、ローグ。」
ルベットは、サラミとチーズをつまんでうまそうに口に運んでいる。「うむ、いい味だ。」
ユーフェミアの腕には、腕輪が光っている。
 「私、二人から<アスガルド>のことを聞きたいの。<黄金のチェス亭>のことも。イザヴェルや、ハロルド。それに宿の人たち」
 「ハロルドはしばらく会っていないが、他はみな元気にしている。―― だがもう、あの宿に留まり続けることは難しいだろうな」
途中からフェンリスも加わって、三人はめいめいに、見てきたものについて話した。ユーフェミアは熱心に聴いていた。
 「それで、あそこにいる二人がスコルの息子さんたちなのね」
 「うん。名前は、スコーティとスコーネル。」
名を呼ばれた狼たちが、耳をぴくりとさせた。
 「きっと、去年の夏に会ってるはずね。あの時は混乱してて、スコル以外のことは覚えてないけど」
 「そうだ姉さん。僕、狼に変身したんだ。あのナイフのせい?」
 「さあ」
ユーフェミアは、はぐらかすように笑った。「よく分からない。あの時、あれを持っていくべきだ、って思ったから渡しただけ。きっと、これからはっきりする」
 「そっか、…」
マリアーナの話題は、アスガルド中央大学のことに及んでいる。学校の様子や、町のこと。首都が壊滅状態になったと聞いて、ずいぶん驚いているようだった。軍隊は何をしているの、そのための軍でしょうに、と――。
 「まさか主力を<アスガルド>に送り込んで手薄になっていたとは、公表できんだろうな」
と、ルベット。
 「下手すれば、軍が余計なちょっかいをかけたことも世間に知られずに終わる。突然暴れだした未知の生き物たち、危険だ、徹底的に殺し尽くせ、と、なっても、おかしくない」
ローグも声を潜める。「少なくとも、あの坊ちゃんはそういう意見だろ」
ユーフェミアの表情からは笑みが消えていた。話を聞いているうちに、彼女は、内に言葉が湧き上がってくるのを感じていた。それは、もう何度も感じた、心地よくも恐ろしい、抗いがたい衝動だった。
 「”そして、世界は二度滅びる”」
呟いて、彼女は席を立った。
 「少し席を外すね。お風呂の火を落とさなくちゃ。眠くなったら、部屋はマリアーナおばさんに聞いて」
二階の自室へ向かう姿を、フェンリスとヨルムは視線で追い、それとなく目配せしあった。
 「僕も満腹になったから…。僕は自分の部屋でちょっと休むよ。すぐそこなんだ」
 「俺も、調べてきた本を整理したい。離れの部屋にいる。用があったらたずねてきてくれ」
スコーティとスコーネルは、フェンリスについていく。小人たちは、甲高いキィキィ声を上げながら、マリアーナの前に飛び出してきて、どうやら服を返せと直訴しているらしい。
 「だめ! あんなボロボロのものをいつまでも着てるのはみっともないの。ちゃんと洗濯して、つくろわなきゃ!」
 「おやおや、どうやら会話になっておるぞ」
ルベットは愉快そうだ。「さて、ではわしは、外の木を拝見してこよう。ローグ、お前は?」
 「…俺は」
ローグは、傍らに立てかけてあった剣を手に取った。
 「そのへんで寝てる」
ハリスはまだ食卓に残っていた。彼がどうするかはローグの知ったことではなかったが、しかし気になった。
 首相の息子、<アスガルド>を切り拓こうとする考えを持つ人々の一人。敵に思える彼を、どうしてユーフェミアはこの場に引き寄せたのだろう。彼女のことだ。この場にハリスが同席することはずっと前から知っていた。もし望まない人物だったなら、この席に紛れ込むことは阻止しただろう。
 彼女が見ているものは何だろう? ローグは、それが知りたかった。それに、さっき確かに呟いた。「世界は二度滅びる」と…。


 外に出ると、木々の切れ間からちょうど金色の光が彼の目の前に落ちていた。手をかざし、はるかな梢の切れ間を見上げる。空が遠い。木々の幹はまっすぐに伸び、どこまでも天を遠くする。鳥の声も、風の音も聞こえない。――ここも静寂の世界だった。だがそれは、心地よい静寂。
 「ローグ」
頭上から声がした。
 「こっち、こっち」
振り返ると、屋根の上からユーフェミアが見下ろしていた。「この時間は、ここが日当たりいいの。登ってこられる?」
ローグは、無言に壁に手をかけた。石組みのでっぱりを利用して、するすると器用に屋根の上に上がる。
 「さすがね。」
 「切り立った崖を登るよりは、ずっと簡単だ。」
笑っているユーフェミアは、ほんの一年前に会った時よりずっと大人びて見えた。最初に会った時に見た、幼さを残すそばかすは、もう殆ど消えている。促されるまま、ローグは、ユーフェミアの隣に座った。後ろには窓が開いている。中からは、じんわりと生活の匂いが漂ってくる。普段ローグの暮らす世界からはあまりに遠く、懐かしい匂いだ。
 「いいのか? 下を放って置いて」
 「叔母さんがいるから。何があっても動じない人なの。」
 「そうらしいな」
 「…あの人は、私をこの館へ連れてきた人なのよ」
ユーフェミアは、膝を抱えて遠い目をする。「両親が死んだあと、何も知らない私たちを東の大陸まではるばる引き取りに来た人。その時は何も知らなかったし、何も考えてなかった。あの人は、私にとっての、もう一人のイザヴェル。」
ローグは、ユーフェミアの腕に光る重たげな腕輪にもう一度、視線をやった。
 「この館を継ぐことが役目か」
 「そうね。もう、以前のように、あなたたちと一緒に冒険することは出来ないと思う」
肌に直接当たる光は、木々の葉を通しても熱く感じられた。季節は夏。生命の最も輝く季節。いつもの年なら、<アスガルド>には大勢の観光客が押し寄せ、<黄金のチェス亭>も賑わっているはずだ。西の海<イースト・ブルー>には毎日、観光用の船が出て、輝くブルーの海から、崖の上の石化した<大樹>を見上げる。
 それらが、ひどく遠い世界に思えた。ローグは、重たい口を開いた。
 「…<アスガルド>は、どうなる?」
ユーフェミアは、ゆっくりと一つ息を吸い、静かに歌った。

 私には見える、世界を支える柱
 かの偉大な木が 焼け落ちるのが

 剣は折れ 声は止み
 やがて凪が訪れるだろう


 「…私には今、二つの未来が見える。どちらがいいのかは、私には分からない…。」
さわさわと梢が微かな音を立てる。風が出てきたのか。
 「人には誰しも、生まれ持った役目がある。運命と呼ぶほど大げさなものではなく、ただ最初からそれを持って生まれてくるもの。あなたにとってのカーラのようなもの。…”それ”からは逃げられないわ」
 「誰かが死ぬのか」
ユーフェミアは何も言わなかった。言葉にすることで、筋書きを変えてしまうことを恐れたのかもしれない。
 「私に見えるのは、ほんの一部だけよ。たとえ未来が分かったとしても、それは未来を作ることにはならないの。今までだってそうだったでしょ? 避けられないもの、変えられないもの、遅いか早いかは別として、既に決定されたこと。ヒビの入ったグラスは、いつか割れる。投げ上げたボールは、必ず落ちる。それが私に見えるもの。それが決して予言が外れない理由。私も、あなたもいつかは死ぬ。その意味では、100年後には誰も生きてはいないわ」
謎めいた光が、瞳の中を揺れる。
 「はじめて会ったとき、あなたは死にたがってた。」
 「・・・・・・。」
 「今もまだ、そう?」
ローグは答えなかった。思いもよらない問いかけだった。
 「もしも、もう死にたいと思っていないなら、…私は―― 生きてもらいたいの」
それだけ言って、彼女は窓の中に姿を消した。
 ローグは、まだ光の中にいて、ぼんやり木々を見上げていた。汚名を雪ぎ、親友の仇を討ち、兄を救い、名誉ある称号を得て、これ以上何を望むだろう。故郷を飛び出して来た日は遠く、荒野を流離ううち、その手は何人もの血に汚されて来た。既に死んでいるも同然の命、―― 死は、怖くない。だがそれは、自暴自棄に陥って、死に場所を求めながら死ねなかったあの頃とは、確かに違う感情だった。


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