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 <フェンリス― 変身>


 ヨルムとフェンリスが出会う、少し前に遡る。


 閉ざされた門を乗り越えて、三人はミッドガルド中央大学の敷地内に侵入した。警備員はいない。それどころか、人の気配もなかった。
 「こっちだ!」
ルベットが先頭を切って走っていく。「植物学棟はこっちだ。わしの研究室がある――」
 「でもどう見ても、そっち燃えてるよ!」
狼たちが空気を嗅いでいる。
 「古い建物ばっかりだな…」
と、ローグ。「敷地内に森がある。ずいぶん古い木だ」
 フェンリスにも、奇妙な懐かしさがあった。歴史と伝統ある学校だというのは知っていたが、どのくらい古いのかはよく知らない。最初から森のあった場所を切り開いたのか、それとも学校建設に併せて木が植えられたのか。建物の雰囲気はクレイントンの森の館に、少し似ていた。
 「とにかく追いかけよう。何があるか分からない」
 「うん」
と言っても、フェンリスは小さなナイフ1つしか持っていない。「何か」あった時は、ローグが頼りだ。
 果たして、ルベットの目指していた建物は半分ほどが崩れ、燃えている隣の建物の煙に包まれて真っ黒だった。
 「ああ、研究棟が…」
ルベットは、力尽きたように地面に座り込む。「なんてことだ。」
 「この辺りは被害が酷そうだな。おい」
ローグは剣を抜く。「何かいる」
 木々の間を、よろよろと移動している細長いイタチのような生き物がいる。犬ではない。
 「あいつは、<アスガルド>で良く見るやつだな、怯えると可燃性の臭い屁を出す。間違いない」
 「あ、あれ!」
今度はフェンリスが見つけた。「あのバッタ、基地で見た!」炎に煽られて地面に散らばった紙の書類を貪っている大きなバッタ。
 「大量輸入だな、こりゃ。何をやらかしたんだ、この大学は」
 「……。」
ルベットは、よろよろと立ち上がった。「とにかく、誰かを見つけて話を聞くんだ。誰かいるだろう。誰か…」
 その期待は持てなかった。いたとして、この状況で落ち着いて話が出来るとも思えない。だがルベットにとって、ここは長年離れていたとしても母校なのだ。ショックなのは分かる。
 背後でガリガリと音がした。振り返ると、門がこじ開けられ、武装した軍用車両が大学の敷地内に入ってくるところだった。消防車がそれに続く。
 三人は、間一髪で見咎められることなく繁みに逃げ込んだ。軍用車両は、逃げ惑う<アスガルド>の生き物たちに向かって容赦なく火炎放射を浴びせていく。証拠を消し去ろうとしているのか。
 「事情を知ってそうなのが来たが…。さすがに軍用車両を乗っ取るのは無理だな」と、ローグ。「…ここは<アスガルド>じゃない。機関銃と剣じゃ勝ち目はない」
 「でも…」
フェンリスは、気づいてしまった。気づかなければ良かったのだが。空を指差し、彼はごくりと息をひとつ、飲んだ。
 「あれと軍隊なら?」
ローグとルベットは同時に空を見上げ、そしてともに絶句した。
 大きさの様々なニーズヘッグが三匹。翼が欠けて、ふらふらしているものの、紛れもない。<アスガルド>に住む、好戦的で厄介な生き物がそこにいる。
 「どうなっておるんだ… こいつは…」
狼たちが繁みに向かって唸りはじめた。
 「おっと。地上もか」
さっきの、自分からは攻撃してこない大人しい獣とは違う。さわさわという音。さわさわ、さわさわと… それは近づいてくる。フェンリスは、はっとした。
 「蟻だ!」
音の主は、人の親指ほどもある蟻の群れだった。木といわず、枝といわず、暗い森を覆い尽くしてこちらへ向かってくる。
 「逃げろ!」
ローグとルベットが走り出す。フェンリスも。だが、初動がまずかった。走り出した方向が少し、違っている。
 「フェンリス! こっちだ!」
 「待って…わっ」
木の根に足を取られた。振り返ると、既にそこに蟻の大群が迫っている。先頭の一匹が足に這い上がり、鋭い顎を振りかざした。
 「来るな!」
とっさに、手にしたナイフを振り回す。蟻は固く、刃で殴ると金属のような音がした。立ち上がって走り出そうとする背中に蟻が何匹もとびついてくる。狼たちが、彼を救おうと周囲を走り回って、蟻を咥えたり踏み潰したりしている。
 「フェンリス、今いく!」
ローグが駆けて来るのが見える。だが、その時フェンリスは既に、蟻の群れに飲み込まれようとしていた。全身に激痛が走る。腕といわず、足といわず、とこかまわず噛み付かれているのだ。
 (食べられちゃうの…?)
それは、ぞっとしない未来だった。
 (こんなところで…)
フェンリスは、死に物狂いでもがいた。蟻を引き剥がすたびに、肉が千切れるような更なる痛みが走る。体が壊れていく気がした。もう、自分の足元も見えない。感覚が麻痺していく。
 (僕は… 姉さん…)
痛みと、恐怖と、そして今まで体験したこともない何か得たいの知れない高ぶる感情が、少年の喉に押し寄せた。自分のもののはずなのに、自分のものとは思えない叫びが、喉をほとばしり出る。
 気がつくと、目の前の世界から色が消えていた。
 「フェ… フェンリス…」
手を伸ばしかけたローグが、その手を止めている。
 (ローグ…)
答えようとして、手が動かないことに気がついた。それどころか、立ち上がることも出来ない。かといって、地面に倒れているわけでもない。
 「お前… 一体…」
 「え…」
フェンリスは、鼻をひくつかせた。潰れた蟻の体液がすっぱい匂いを放っていて、気持ち悪い。だが、どうやら自分は生きている。蟻の群れは別の方向へ向きを変えたようだ。体をゆすって体毛に引っかかっていた蟻の残骸をふるい落としたところで、彼はようやく気がついた。
 「あれ?! 僕… 毛がある…」
ルベットが、ぽつりと言った。
 「お前さん、狼になっとるぞ」
その通りだった。
 人間の少年だったはずのフェンリスの姿は消え、かわりにそこにいるのは、人間の大人の二倍ほども大きさのある、赤毛の立派な狼だったのだ。


 フェンリスは途方に暮れてしまった。両手両足、どちらを見ても立派な肉球がついている。耳も尻尾も動かせる。夢ではない。
 「どうしよう、これじゃ学校に行けないよ」
これでは、クラスの女の子たちにさんざん笑われるに違いない。男の子たちとサッカーをすることも出来なければ、そもそも机に向かうこともままならない。
 「…お前、狼人間だったのか?」
 「違うよ! 今までこんなことなかったし…」
離れたところから様子を見守っていた狼たちが、そろそろとフェンリスに寄ってきて、匂いを嗅いでいる。
 「仲間に見えるらしいぞ。」
 「そんなあ…。君たち、僕に何かしたの?」
 (いいえ、私たちは何もしていませんが。)
驚いたことに、返事が返ってきた。ただし、それは人間の言葉ではなく狼の唸り声だ。今まで意味の分からなかったものが、今は、はっきりといいたいことを理解できる。フェンリスは驚いて狼たちを見つめた。
 「君たち、僕の言うことが分かるの? どうして?」
 (それは、あなたが狼になったからでしょう。)
狼の一頭は、さも当然のように答える。(やっとお話が出来ました。赤毛の人間よ、妹を助けてくれてありがとう。我々は、あの子の兄二人なのです)
 「え、お兄さん…」
 (我らの父、荒野のあるじスコルが、我らの一族の掟に従い恩返しをせよと命じたのです。まさかこんなことになるとは思ってもみませんでしたが)
 「おい、フェンリス、そいつらの言ってることが分かるのか?」
はたで見ているローグたちには、狼の言葉は理解できない。
 「うん、何だかこの姿だと話が通じるみたい。… だけどどうしよう。どうやって元に戻ればいいのかな… あ!」
 「どうした?」
 「僕のナイフ」
フェンリスは周囲を見回した。「姉さんに貰ったナイフがない…」
 狼の手では、ものは握れない。どこかに落としたに違いなかった。だが、見渡す限りどこにも、それらしきものは見当たらない。
 「どうしよう、あれを無くすなんて」
少年は泣き出しそうになっている。
 「命を落とさなかっただけでも、めっけもんだろ。この暗がりじゃ無理だ。」
 「うう」
諦めきれないフェンリスは、地面に鼻をつけてクンクンやっている。そうこうしている間に炎は燃え広がり、サイレン音はひっきりなしに鳴り続けている。いつしか町は完全な暗がりに沈みこんでいる。銃声、爆発音。空を舞うニーズヘッグの一匹が翼をやられ、広場の向こうにある建物の屋根に落下していく。
 ぴくん、とフェンリスの鼻が動いた。
 「…ヨルムのにおいだ」
 「ヨルム?」
 「僕の兄さん。ここにいるんだ、――そうだ。ヨルムならもしかしたら、何か知ってるかもしれない」
 「あっちは史学研究棟だな」
 「じゃあ間違いないよ。ヨルムは昔のことを研究してた!」
言って、フェンリスは駆け出した。狼たちもそれに続く。逃げてきたらしいネズミたちが暗い芝生の上を飛び跳ねながら駆けて行く。それ以外に生き物の姿は見当たらない。
 風に乗るかすかな匂いは、ニーズヘッグが屋根に落ちた建物の辺りからしていた。心臓が高鳴る。ヨルムは、まだあそこにいる? 近づくにつれて、匂いはどんどん近くなっていく。無事でいて欲しい。そして――
 匂いを追って建物の裏庭に駆け込んだところで、フェンリスは、今まさにヨルムに襲いかかろうとしているニーズヘッグの眼前に飛び出したのだった。


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