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 <ヨルム― 侵食>


 衝撃とともに、窓ガラスにひびが入った

 ヨルムは窓を開けた。身を乗り出すと、同じように外を伺う、ほかの部屋の寄宿生たちと目が合う。その目は怯えきっていて、映しているものを何も理解していない。誰かに助けと答えを求めていた。
 世界が燃えていた。あちこちで悲鳴が上がり、生徒たちが外を走り回っている。
 「化物だ! 化物が暴れてる」
最初に聞こえたのはそんな声だった。あとはもう、言葉ではない悲鳴の羅列。二度目の閃光で、ヨルムは爆発の起きた方角を知った。化学薬品を多く取り扱っている実験棟のほうだ。それでおおよその察しはついた。<アスガルド>から持ち込んだ生物を、ホルマリンづけにでもしていたか、解剖か何か実験していたか、その時、思いもよらぬことが起きたのだ。仮死状態にあった生き物が生き返ったとか。

 とにかく、ここは危険かもしれない。ヨルムは貴重なノートや書物の写しを手持ちカバンに詰め込みはじめた。そんなことをしている場合ではないかもしれないが、彼の場合、それらは命と等価なもので、両方揃わないなら無傷で逃げ切っても意味はないのだった。

 ――そうだ、あの本。

 ヨルムはふいに、ギュンターの研究室にあった蔵書のことを思い出した。このどさくさに紛れれば、あれを持ち出しても誰も気づくまい。そうでなくとも、何かあって失われてしまっては惜しい。出来ることなら全部持ち出して避難させたいが、それが無理でも、せめて何冊かは。

 廊下は、逃げ出そうとする他の寮生たちでごったがえしていた。
 「急げ、大学を出るんだ。東の門から」
 「植物学棟と薬学棟がやられた。軍が来てる」
軍だって? なるほど、消防や警察では手に負えないということか。ヨルムは逃げ惑う生徒たちの流れを逆流して、史学研究棟へと向かっていた。渡り廊下まで来た時、平行して彼と同じ方向へ向かっている人物がいることに気がついた。
 ギュンターだ。小太りな男は、上半身を前後に揺らしながら懸命に走っている。向かう先は史学棟か。まさか蔵書が目当てではないだろう、とヨルムは思った。地下の遺跡のことが心配なのか?
 走る速度はヨルムのほうが速そうだったが、鉢合わせると面倒なことになりそうだった。ギュンターの姿が建物の中に消えたのを見計らって、ヨルムは中庭に回りこんだ。そこからなら、直接、研究室のある二階へ上がれる。
 どこかで爆発音がした。頭上の空は明るい。火が燃え広がっている証拠だ。物の焦げる匂いはしないから、今はこちらが風上だろうが、風向きが変われば危ない。ヨルムは冷静に状況を把握しようと務めていた。最初に騒ぎのあった植物学棟からは、建物三つ分離れている。風向きが変わったとしても、逃げる時間はある。
 研究棟に居た人々は既にみな逃げてしまったのか、しんと静まり返っていた。明かりがついたまま、人の気配だけの消えた古い棟はいつにも増して不気味で、まるでホラー映画だ。ギュンターの研究室は真っ暗。鍵がかかっていることを恐れたが、それは杞憂だった。ドアは開きっぱなし。いや、違う。先に何者かによって打ち壊されているのだ。
 「…ハリス!」
暗がりの中で、人影が蠢いた。暗がりの中、背の高い優男が珍しく強張った表情で立ち尽くしている。
 「何してる」
 「それは、こっちの台詞だ…」
ハリスの手に、紙包みのようなものがある。ずっと気になっていた、棚の隅に隠されていたものだ。ヨルムは眉をしかめた。
 「それは…?」
一瞬、隠そうとしたが、すぐに諦める。ハリスは肩をすくめ、包みをギュンターの机の上に広げた。廊下から差し込む明かりに、金色がきらりと光る。
 「ただの黄金だ」
 「ただの…」
それは、見事な蛇の装飾品だった。ぐるぐると不規則にとぐろを巻き、頭を体の中に突っ込んでいる。今にも動き出しそうなほど書き込まれたウロコは、不自然なほどに精緻だった。一目見たとたん、ヨルムは嫌な予感がした。
 「ここで何をしていたんだ」
詰問するような口調に、ハリスは首を振る。「欲しかったのは黄金じゃない。と言っても、君は信じないかもしれないが――」
 「なら、それは置いていけ」
 「そうはいかない。これも証拠品だ。奴が、遺跡から出る宝物を私物化していたという」
 「告発でもするのか? だとしても、それはただの黄金じゃない」
 「知ってるさ、<アスガルド>から出土したものだろう。おおよその見当はついている。予備調査と称して、春先に行われた――」
 「違う、そうじゃない」
自分が何を焦っているのか、最初はヨルム自身にもはっきりとは分からなかった。だが、次第に疑問は確信に変わっていく。見つめていると、ウロコはよりはっきりと―― 絡み合う体はゆっくりとほぐれて、黄金の塊がじわじわと膨れ上がっていく。
 「そこを離れろ!」
我慢できなくなって、ヨルムはハリスの腕を掴んだ。体格ではハリスが勝っていたが、力はヨルムのほうが強かった。予想外の展開にハリスはバランスを崩し、つんのめりながら廊下へ転がりだす。
 ヨルムは一歩、後退った。カバンを盾のように構えながらだ。
 「ヨルム…」
起き上がろうとしたハリスは、机の上で鎌首をもたげる黄金の塊に気づいて絶句した。それは細工物などではない。無数の細い蛇が、一塊になって固まっていただけなのだ。そして目覚めたばかりの蛇たちは、一様にこちらを見つめている。
 「こんな神話がどこかにあったな」
ヨルムは呟いた。「あれは、どうやって倒したんだっけ?」

 シャーッ、と開戦の声が上がった。蛇たちが一斉に飛び掛ってくる。
 「ハリス下がれ!」
ヨルムはカバンを投げ捨て、死に物狂いでドアに飛びついた。勢い良く閉めたドアの内側にヘビがぶつかり、ばたばたと音を立てる。しかし、それでは防ぎきれない。ドアの下の隙間から、小さな何匹かがちょろちょろと這い出してきて、足に喰らいつこうとしている。
 「くそっ、この」
踏みつけようとしても、ヘビたちは器用に鎌首をもたげて避けてしまう。ドアの下の隙間を塞ぐのは無理だ。
 「走れ、こっちだ!」
ヨルムは、自分が向かっているのが地下室への階段だと気づいていたが、今はそれ以外に選択肢はない。ハリスは側にあった椅子を掴んで威嚇のために振り回し、ヘビたちの隙を作る。
 地下室への入り口のドアには、隙間がない。狭い階段の踊り場に転がり込み、ドアを閉めると、ひとまずほっと息がつけた。あの小さなヘビなら、ドアを開けたり食い破ったりは出来まい。
 「危なかったな」
 「…ああ、助かった」
ハリスは汗を拭った。「ギュンターめ、黄金だと思っていたものがあんな恐ろしい罠とは気づいていなかっただろうな。本人があれを回収しに来ていたら、ヘビのごちそうになるのは当然の報いだったんだろうが、我々じゃとばっちりだ」
と、ヨルムのほうを見たハリスは、様子がおかしいのに気づいた。
 「どうした?! 噛まれたのか」
 「…本を持ってこられなかった」
 「は?」
 「あの研究室の蔵書を避難させるつもりだったんだ…」
ヨルムの手には、もともと持っていたカバンが一つあるきりだ。ハリスは呆れた顔をした。
 「そのために研究棟へ? 君って人は…。」
 「もう少しだったんだ」
ヨルムは首を振る。「もう少しで繋がるはずだった。もう少しで―― だが、今はそれどころじゃないな。あんたがあそこに居た理由も聞きたいが、とにかく安全な場所へ行かなくては」
 「そうだな」
天井の灯りが弱まった気がする。火災が広がっていれば、電気の供給も途絶えてしまう。真っ暗な地下室に閉じ込められるのは御免だ。
 「ほかに出口はあるのか? 地下室には行ったことがない」
 「狭いが、通気口があったはずだ。」
階段の下は静まり返っている。「そこから抜け出せるか、やってみよう」


 異変に気づいたのは、半分以上も降りてからだった。地下室の灯りはついているようだ。鍵も開いている。ドアはうっすらと開いていて、中に動く気配はない。
 ハリスは、眉をしかめて服の裾で口元を覆った。
 「何だ? この匂い…」
 「この前来た時は、こんな匂いは無かった。防腐剤とも違うな…」
かさかさと物音。見れば、足元にネズミが居る。だが様子がおかしい。ぴくぴくと痙攣して、体中がうっすらと白いものに覆われている。埃? …違う。
 「ハリス、息を止めろ。これを持っててくれ」
そう言って、ヨルムはカバンを渡し、ドアに近づいた。嫌な予感がする。
 隙間から中を覗き込んだヨルムは、一瞬で悟った。
 予感は的中した。室内は真っ白だ。…… 巨大なキノコが生長し、すべてが菌に埋もれてまるで雪の降ったあとのよう。その中に人間の腕らしきものが見えた気がしたが、深くは考えないでおいた。その腕に、ギュンターがしていたのによく似た立派な腕時計があったように思えるのも気のせいだろう。金庫に閉まってあった宝石類を、しっかり握り締めていた気がするのも…。


 とにかく、ここは使えない。それどころか、一刻も早く離れないと菌を吸い込んで菌糸の温床に仲間入りだ。
 階段の上まで戻ったところで、ハリスとヨルムはようやく息をついた。
 「…一体なんなんだ、何もかもが一斉に起こってる。この大学はどうなっているんだ?」
ハリスの言うことはもっともだった。黄金色のヘビの塊も、地下のキノコも、どこかで暴れまわっている生き物も、時期を異にして<アスガルド>から持ち込まれたものだ。一見、無害に見えたそれらが、同時に害をなす本性をあらわすなど在り得るのだろうか? まるで全てが仕組まれていたかのようだ。
 天井付近で、かさっと音がした。暗がりの中にネズミとは違う、小さな影が走る。
 「リィム!」
 「何?」
ヨルムは、天井に向かって叫んだ。それは心から出た、喜びの言葉だった。
 『わが友たちよ! 無事だったのか?』
隙間から、真っ黒な小人たちの群れが湧き出してきた。ハリスはぎょっとして腰を浮かす。先頭には見慣れた、赤い頭巾に白髭の小人。
 『友よ、この事態に再会できたことを我は寿ぐ』
 『我らは黄金の蛇に追われり。外は如何に? 地下は白きものに覆われ行くことあたわず』 
リィムは、後ろにいた小人たちに声をかけた。キィキィと甲高い声が何かを話し合っている。
 『…そは、”愚か者の金”なり。金に化けて長き眠りにあり、人の手に掘り出されし時、その心臓を食らいて大蛇となる。汝らは幸いなり。欲深き者ならざれば』
それから、また何かを話し合う。
 『ともにゆかん。そは、我らの敵にもあれば』 
振り返って、ヨルムはハリスに言った。
 「蛇を退治して、逃げ道を作る手伝いをしてくれるそうだ」
 「…まさか、彼らはアールヴなのか」
 「ああ、七不思議の”裁縫屋”さ」
ハリスは髪をかきあげ、笑い声を上げた。「本当にいたとは! 私の前には一度も姿を見せてくれなかったというのに。しかも君は、知っていたんだな。」
小人たちは首をかしげ、ざわついている。
 『その者は、汝が従者か?』
と、リィム。
 「いや――」
研究室の仲間… に近い言葉を捜そうとして、ヨルムの脳裏にふいに、姉からの手紙が浮かんだ。”汝が友は、真の友なり”
 『友人だ。』
リィムは大きく頷き、後ろの小人たちに何か指示した。彼らは一斉に腰から縫い針の剣を抜く。ヨルムは、背後のドアに手をかけた。
 「せーので開ける。気を抜くな」
ドアを押し開けた途端、廊下にいた一匹の蛇がこちらに気づいて鎌首をもたげた。勇敢な小人たちが雄たけびを上げながら走り出す。蛇たちはさっきより分散しているようだ。ヨルムはカバンの中から定規を取り出した。ハリスは何処からか拾ってきた箒で武装している。
 「無いよりマシだろ?」
 「…ああ、そうだな」
小人たちは蛇の頭に縫い針を叩き込み、次々と仕留めていく。そのスキに、ヨルムは研究室に戻って手早く本棚から数冊の本を抜き取った。
 「ここにもう用事はない。撤退だ!」
煙がひどくなって、研究棟まで流れてきている。炎がさっきより近い。サイレンの音、空を照らすサーチライト。騒ぎはますます大きくなってきているようだ。町のほうまで巻き込まれているらしい。
 『我らは行けぬ』
学棟を出ようとしたとき、リィムの声が聞こえた。ヨルムは足を止めた。
 『我らは、日に当たることも出来ず、この地に縛られし者なれば。我らは待たねばならぬ…』
白い髭の奥から、きらきらと輝く瞳が覗いている。『我らは予言の時を待っている… 長き… 時を。旅人よ、汝は我らに希望を与えてくれた。行くがよい、我らの友情は、汝とともにある』
 「…アールヴたちは、何かを待っている? ふむ。興味深いな。『希望とは? その時が来たとは、いかにして知るや』」
通訳もしていないのに、ハリスは小人たちの言葉を理解している。ハリスが古典語を操れると知っても、ヨルムは今さら驚かなかった。只者でないことは、既に知っている。
 『炎の時代、霜の時代の後に我らを解き放つ者が来る。協議の間に、九人の王が集うとき。黄金の盃が契りを結び、黄金の腕輪は記憶する…』
 「それで訊ねて回っていたのか。協議の間が実在することを知って、…腕輪の主が本当にいることを知って、予言の時が近いと思ったんだな」
言ってから、ヨルムは気づいた。腕輪の主… ユーフェミアの腕輪は、もともと館の主が代々受け継いできたものだ。今、この時代の館の主人はユーフェミアだが、約束の時は次の代かも、次の次の代かもしれない。九人の王ということは、他に必要な八人が指定されているということか。だが、その八人は何処にいるというのか。
 「ここはもう危険だ。ヨルム」
ハリスがヨルムの肩に手をかける。「彼らの運命は、彼らに任せるべきだ」
 「ああ…」
その時だった。
 棟の屋根の辺りに何かが落下してきた。瓦の砕ける音、降ってくる細かな破片。甲高い声を上げ、不恰好な巨大なものが屋根の端にしがみ付いている。
 「あれは… ドラゴン…?」
 『ニーズヘッグ! 災いの蛇!』
小人たちは恐れおののき、縫い針を抜くのも忘れている。一声啼いて、蛇は地面に転がり落ちた。翼をやられている。もともと瀕死だったところが、傷ついて飛べなくなっているのだろう。手負いの化物は、地面に落ちてなお瞳の輝きを失わず、四足で這いずりながら、ヨルムたちをねめつけた。千切れかかった尾が、うねるように動いている。
 見つめていると、動けなくなりそうな瞳の色だった。瀕死の獣でありながら、奇妙に美しく、見入られそうになる。だが、ヨルムはそんな考えを振り払った。とにかく、間合いを取らなくては…
 「ハリス?」
ふと横を見ると、ハリスが硬直している。瞬きすらしていない。
 「リィム!」
小人たちも同様だ。ニーズヘッグの不思議な色の瞳を見つめたまま、動けない。
 「くそっ、蛇の目にこんな力があるなんて、どんな本にも書いてなかったぞ!」
ヨルムは足元の石を拾うと、ニーズヘッグ向かって投げつけた。
 「こっちだ!」
視線が逸れた。ハリスと小人たちが、はっと我に返る。
 「こいつの目を見るな。逃げろ、ひきつける!」
 「おい、無茶だ!」
切り裂かれた翼をばたつかせながら、蛇が地面を走る。早い。ヨルムはカバンを抱え、蛇の顎を避けるため地面に転がった。
 「ヨルム!」
声が聞こえた。ハリスではない。だが、他に自分を呼ぶ人間がこの場にいるはずはない。
 狼の吼える声。「ヨルム!」聞き間違いではない。まさか――
 「フェンリス…?」
 「そうだよ、ヨルム! やっと会えた」
顔を上げると、目の前に狼の鼻面があった。
 「ああ、ヨルム! 無事だったんだね!」
これは夢か何かか。
 「俺は無事だが… お前、その格好…」
目の前にいるのは、大人の大人より大きな狼が一頭。しかし弟フェンリスの声は、確かにその狼が発しているのだった。


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