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 <フェンリス― 追走>


 フェンリスは、ルベットの部屋を出た。目的地には着いたものの、これからどうすべきかが分からない。このまま何もせずに家へ帰ってもいいのか。ユーフェミアは、詳しいことは何も教てくれなかった。ただ、ここへ伝言を届けろ、とだけ。
 ベランダには、まだ宿泊客たちが集まって、あれこれと談義しながら不安そうに空を眺めていた。空気はもう冷たい。それに、海の匂いがする。そうだ。ここは、もう海の側だ。唐突に、フェンリスはそれを思い出した。
 狭い廊下を抜けて、これぞと思しき一角を探し出す。突き当たりの木戸を開くと、そこは、もう海だった。

 断崖絶壁を、海に向かって突き出した丸いホール。床は白黒のタイルを交互に並べ、大理石の柱が周囲に整然と立ち並んでいる。部屋の真ん中には机と椅子、そして黄金のチェス。何度も話に聞いた、生きて戦うチェスだ。対極者がそろった時だけ、命あるもののように動き出すという。
 西の果ての海は静かで、月明かりに小さな波が揺れている。外の炎も、衝撃も、ここまでは届かなかった。ただ波の音だけ。まるで別世界のよう。
 
 「おや… 先客かい?」

振り返ると、ちょうどイザベルが出てくるところだった。
 「疲れてないのかい。ユーフェミアの使ってた部屋があるよ」
フェンリスは、首を振った。
 「大丈夫です。なんだか目が冴えて」
 「そうかい。」
イザベルはフェンリスの横に立ち、海のほうを眺めた。ちら、と見上げた宿の女主人の横顔は、最初に見たときよりずっと若く、美しく見えた。それでいて、とてつもない年寄りのようにも見える。優しげでもあり、恐ろしげでもあり。謎めいた瞳は、ユーフェミアにも、肖像画のマーサ・クレイントンにも似ている気がした。
 「…どうするべきなんだろうね、私は」
ふいに、イザベルはぽつりと言った。「ずっと、この宿を守っていくつもりだったけど、それももう限界なのか…」
気丈に振舞ってはいても、やはり彼女も不安だったのだ。明日が見える者はいない。ユーフェミアとて、何もかも完全に知ることが出来るわけではない。
 「イザベルさんは、どうして、この宿を?」
 「聞きたいかい?」
イザベルは、笑ってフェンリスのほうを見た。「約束なのさ、遠い昔の…。ここに宿を建てて、人を呼ぶ。人が集まり、騒げる場所を作る。絶えず人の声が聞こえるように、ここに眠る彼女が寂しくないように、ってね。そうすることが、あたしの役目――。」
ふ、と瞳に悲しげな色が宿った。「違うね。贖罪のためだ―― あたしは、取り戻せない過去のために、人を集めていた…。」
フェンリスは黙っていた。言葉が見つからない。ふいに目の前にいる人は、とてつもなく長い年月を生きてきたような気がした。
 「時はどこから始まるのだろうね。もしもユーフェミアがここへ来なかったら…その前に、あんたのお祖父さんがここへ来なかったら、”今”は違っていたかもしれない。今っていうのはね、色んな過去が紡ぎあわされて存在するんだよ。過去を知る者は今を知り、今を知れば明日を知る。<因果律>というのさ」
 「じゃあ未来は、もう決まっているんですか?」
 「一部はね。全てじゃない。残りは、今も織られ続けているんだよ、様々な人たちによって」
波音が足元から這い上がってくる。少し肌寒い。もう夜明けだ。
 フェンリスの耳に、かすかな悲鳴が聞こえてきた。廊下を誰かがバタバタと走っている。
 「イザベル!」
飛び出して来たのは、ローグ。
 「どうしたんだい」
 「敵だ!」
一言で十分だった。
 イザベル、ローグ、それにフェンリスの順で、三人は狭い廊下を体を擦りながら走り抜けた。ホールは既に大パニックだ。蒼白な顔をしたルベットが、他の客たちと一緒にドアの前に椅子やテーブルのバリケードを築こうととしてる。
 「蟲だ! 奴ら、ワームの巣を探り当ておった」
 「なんだって?」
窓の外を見れば、草原にびっしりと、何かが黒い津波のように押し寄せている。人間の子供ほどもある丸みを帯びた蟲の群れ。イザベルは舌打ちした。
 「巣を攻撃されて気が立ってるね。刺激すると強烈な酸を出すよ。みんな、とにかく窓と戸を閉めて。ローグ、フェンリス、あんたたち馬をホールへ連れ込んで。裏口から行けばいい」
 「分かった。フェンリス、手伝え」
 「うん」
馬たちは既に外の異変に気づいて、半狂乱になっている。そのせいで、思うように言うことを聞かない。
 「くそ、時間がないのに。」
 「任せて」
フェンリスは馬たちの首筋を叩いて言った。「落ち着いて、大丈夫だから」
 嘘のように馬たちが静まった。
 「…お前」
 「動物に言うこと聞かせるの得意なんだよ。ほら、連れていこう」
ローグは肩をすくめた。「さすがは、あいつの弟、か。」
 馬を連れ込んで裏口を閉ざして間もなく、外は真っ黒に蟲で埋め尽くされた。戸に体当たりするものもいれば、勢い余って海に転がり落ちるものもいる。巣を見失い、闇の世界から月の明かりの下に誘い出されて、蟲たちは途方に暮れ、怒り狂っていた。その様子を、宿の客たちは二階から恐ろしげに見下ろしている。
 「おかしいな」
と、ルベット。
 「群れを統率する女王が見えない」
 「女王って?」
 「女王は大きい。そして周囲には、腹に黄色い帯のある雄たちが付き添っているものだ。…そういえば、雄も見えんな」
 「まさか」
話を聞いていたローグが呟いた。「…女王を殺した、とかじゃないだろうな」
 「まさか… いや」
ルベットは絶望的な表情になった。「ありそうな話だ。それならば、この統率の取れなさも説明がつく。奴らは本来、もっと大人しい…」
 「どうなるんですか?」
 「脳を失った手足と同じことさ。命尽きるまで暴れまわるんだよ、女王が戻らないならね」
イザベルも来ていた。「だけど女王が殺されたなら、その死体を囲んで集まっているはずだね。蟲には、生死の概念なんてないんだから」
 「とすると?」
 「女王を見失ったのかもしれない。死体にしろ、生かしてあるにしろ… いい標本だと思ったのかも」
フェンリスの脳裏に、フランシェーロの町で見た軍用トラックが思い出された。あのトラックは、何か生き物を沢山積んでいた。まさか。
 「町から運ばれていく獣や植物を見ました。どこへ行くのか分からなかったけど…。」
 「運ぶ… そうか、わかったぞ」
ルベットが、ぽんと手を打った。「ここへ来た軍の連中が、酒飲みついでに話していたのを聞いた。ミッドガルドだ。ミッドガルド中央大学の学者が、遺跡の調査をしていると言っていた。軍が持ち込むようなものを研究できるのは、あそこしかない!」
 「ミッドガルド…首都…?」
フェンリスの心臓が高鳴った。ミッドガルド中央大学には、ヨルムがいる。
 「まだ間に合うね」
しばしの沈黙のあと、イザベルは、言った。「一匹のワームの寿命は二週間。そんな長いこと、暴れ回られても困る。ここにある食料だって、そうはもたない。あんたたち。蟲の女王様を回収してくるんだよ」
その言葉は、ローグとフェンリス、それにルベットに向けられている。
 「馬を使うといい。日が昇ったらすぐ、町まで飛ばすんだ。それと、――」
イザベルは、宿の住人たちを見回し、聞こえるようにはっきりとこう言った。「あんたたちみんな、荷造りをしておくんだ。蟲が引けたら、町へ向かうんだよ。外のポンコツ車を何とか直せば使えるだろう。ここはじきに、常世の”掟”から閉ざされる。」
ざわめきが起こった。人々はうろたえている。無理も無い。今ここにいる大半は、ならず者ではないにせよ、外の世界を捨て去って、<アスガルド>に住み着くと決めた人たち。場合によっては何十年も住み続けていた人たちなのだから。
 「イザベル、宿を畳むのか」
 「運がよければ、また始められる。でも今は、正直言ってどうなるか分からないんだよ。もし政府が本気でこの土地を攻めるつもりなら、災いは国中に及んで何年でも続くだろう。」
宿の女将は、恐ろしいことをさらりと言う。「このまま手を引いたところで、果たして<アスガルド>が静まるかどうか。まだ誰にも分からない。とにかく、ここじゃ身を守れないんだよ。城壁もない、武器もない。あんたたちも死にたくないだろう?」
イザベルは、もう決めてしまったようだった。ここでは女主人の決定は絶対、誰も決定は覆せない。
 ルベットもショックを隠しきれないようだったが、外の様子を見て覚悟を決めたようだった。


 荷物をまとめ、三人は、慌しく出発の準備をした。荷物を解く暇も無い。フェンリスの<黄金のチェス亭>滞在時間は短かった。
 「僕の伝言のせいなのかな」
馬に鞍をつけながら、少年は呟いた。「姉さんのあの言葉、イザベルさんは何か知ってたのかな」
 「<アスガルド>には手を出してはいけない、深入りすると災いを呼ぶ、学者の間では、そう昔から言われていたもんさ」
ルベットは、何かを詰め込んだカバンを馬の背に乗せながらそう言った。「迷信や言い伝えではなく、実際に”そう”なんだ。観光客が持ち帰った植物が、一夜して町中の花を枯らしたり、持ち帰った石が実は卵で、有害な虫が孵ったり。かといって、森を焼いたり土地を開墾しようとしたりすれば、さらに大きな災いを呼ぶ。未開地域の境界線は、お互いを分ける絶対の境界だった。その境界を越えようとするならば、<アスガルド>の生き物たちは、人の住む世界と戦うだろう。」
 「俺もこっち側の人間だからな」
と、ローグが言う。「こっち側でしか生きられない人間は、外がどうなろうと知ったこっちゃない」
 「でも、外の世界に家族がいるんでしょ」
 「……。」
ローグは、答えずに馬に飛び乗った。外はまだ蟲たちが蠢いている。突破するなら日の出の一瞬を狙うしかない。
 「繋がリは完全にきれとらん。ローグ、わしもお前も、ただの人間だ。本当はどちらでも生きられるものを、敢えてこちら側を選んだだけの話だ」
 「――俺が生きられるのは、こちら側だけだ。<アスガルド>の外に出れば殺される。虫や獣と同じさ」
馬たちは落ち着きなく鼻を鳴らしている。
 「準備しろ。日が出て蟲どもの目がくらんでる間に走る。踏み潰すなよ。奴らの体液は強烈だ」
 「合図は、わしが出す。戸を開けたら、せーので出るんだ」
三人が出たあとに戸を閉めようと、宿の住人が数人、固い面持ちで待機している。既に空は白みかけている。地平線に太陽の端が触れ、最初の光が草原を照らし出した。
 「今だ!」
戸を開け放つと同時に、馬が外へ飛び出す。地下の生き物たちが日の光に戸惑い、日陰を求めて逃げ惑う間を、三頭と三人は一塊となって走り抜けた。フェンリスは、日の差す方角に手をかざし、昨夜連続して爆発があったあたりを見ようとした。風はほとんどなく、周囲は虫たちの放つキツい刺激臭に満ちている。空に立ち上る煙は、その下で何かが燃えていることを意味している。軍の基地はどうなったのだろう。大地に穴をうがった人々は逃げ切れたのだろうか。
 「何かくるぞ! 気をつけろ」
ローグが怒鳴った。道に沿って走る馬を追って、併走する影がある。
 「狼だ」
二頭の狼がこちらへ向かってくる。ローグは背の武器に手をかける。
 「待って、敵じゃない」
 「何?」
 「昨日も居た。僕らを見てた」
二頭はぴたりと馬の側につけると、フェンリスの乗る馬の側を、一定の間隔を置いて走り始めた。
 「ついてくる気か。なんだ…?」
 「あの子供の狼の仲間かもね。何か用があるのかも」
 「気を抜くなよ。相手は野生の獣だ」
フェンリスは馬の上から二頭を見た。どちらも大人より大きな体で、毛並みはふさふさとしている。獣にしては理性的な、澄んだ美しい瞳をしている。それが気に入った。
 頭上を何かが過ぎていく。高い音と低い音が入り混じった、奇妙な声がこだまする。
 「ほ! あいつは、飛蜥蜴じゃないか。こんなところまで」
 「最初に襲ってきたやつだ。あれのせいで、トラックから放り出されたんです」
 「今は子育ての季節だ。餌が足りないんだろう」
ローグは武器を抜こうとしない。「…トラックだって? 車と獣の区別なんかつくもんか。あいつは小さすぎる獲物は狙わない。トラックくらいの”獣”なら、手ごろな大きさだろうがな」
 「…じゃあ、消えたトラックは…まさか」
餌と間違えて、巣に運ばれてしまったのか。フェンリスはぞっとした。あの時、トラックから投げ出されていなければ、そのまま空の旅に連れて行かれるところだったのだ。
 巨大な空とぶ蜥蜴は羽ばたかず悠々と風に乗り、影は、ゆったりと草原を横切っていく。
 「町のほうだな。… ここからだと、フランシェーロは目と鼻の先だ」
いやな予感がした。そしてそれは、確信に変わる。町のほうで黒煙が上がっている。ただごとではない。
 馬を走らせて数時間、既に背後に<大樹>は見えない。
 「あれを見ろ」
ルベットが指差す方向、黒っぽい雲のようなものが町の上空を旋回している。
 「あれは…」
 「鳥… じゃない。夜目ツバメの群れだ!」
まるで蚊柱のように、無数のコウモリに似た生き物が乱舞している。数千、いや数万の数が、町を取り巻いている。その周囲を悠々と飛ぶひときわ大きな姿。
 まるでイワシの群れを囲い込む鯨のようだった。先ほどの飛蜥蜴に似た、しかし色の違う別の種類が、空中で食事をしている。口から零れ落ちた夜目ツバメの残骸が、町にぼつぼつと降り注ぐ。下にいる人間はたまったものではないだろう。
 「境界を越えている」
ルベットが絶望的な声を上げた。「今まで、こちら側の生き物が町に出たことはなかったのに」
 「……。」
ローグは手綱を引き、馬の速度を緩めた。<アスガルド>と町の境界にはバリケードと簡易な鉄柵が作られている。ルベットとフェンリスもそれに倣った。もしワームたちの女王を積んだトラックが町に入ってしまっていたら、追いかけてももう無駄だ。軍の兵士たちを前に、返してくれといっても聞いてはくれまい。それに、ローグは賞金稼ぎの身だ。どうするべきか。今から<黄金のチェス亭>へ引き返しても、周りは興奮した蟲たちに取り囲まれて近づけない。
 と、狼たちが唸り声を上げた。<アスガルド>のほうから、走ってくるトラックが小さく見えた。ずいぶんボロボロになって、フロントガラスには大きなひびが入っている。
 「あれだ!」
ルベットが声を上げたときには、ローグはもう、馬に拍車を当てていた。
 「まって!」
フェンリスがあたふたと馬の踵を返す。バリケードのあたりからは、まだトラックが見えていないはずだ。ローグは素早かった。いきなり進行方向に飛び出してきた馬に驚いた運転者がブレーキを踏み、トラックは急停止する。
 「おい、何だ! いきな… りっ」
乱暴にドアが開かれ、運転手は外へ引きずり出される。助手席の兵士が銃を引き抜くより早く、武器が叩き落され、胸倉をつかまれる。
 「じっとしてろ。殺しはしない」
それから、追いついてきた後ろの二人に、振り返らずに言う。
 「荷台を調べろ。あれがあるかどうか」
 「分かった」
フェンリスは荷台に馬を寄せ、中を覗き込んだ。ビニールシートの下に鉄製の檻があり、目が痛くなるほどの強烈な酸の匂いがする。
 「あるみたい。それに…」
もぞもぞと黒っぽい足が蠢いた。「…まだ生きてる」
 ローグは頷いた。
 「よし、車を戻せ」
 「何を…」
彼は乱暴に、運転席にいた男の腕をひねりあげる。
 「腕は一本でも運転は出来るよな」
 「ぎゃああ! 痛た、やめてくれ!」
狼たちが唸り声を上げる。フェンリスは、その声に警告を感じ取った。
 「まって、何か来るみたい」
町のほうではない。<アスガルド>のほう。フェンリスは振り返り、馬の上から目を凝らした。
 「…なんだろう。鼻がおかしくなったのかな」
 「いや待て、これは」
ルベットは、シートをめくった。
 「女王が呼んどるんだ! 瀕死の女王が、仲間に助けを求めておる」
一言で十分だった。ローグは手を離した。かすかな地鳴り…、地平線に見える黒い影。
 「ワームが来る!」
 「くそ」
三人は馬に飛び乗った。とにかく、ここから離れなければ。だが、地平線を埋め尽くす黒い波に隙間など見えない。
 「町のほうだ。それしかないぞ」
彼らは、死に物狂いで拍車を当てた。トラックの運転手は茫然としていたが、助手席の仲間に促されてはたと気づく。
 「うわああぁ」
運転席に飛び乗り、アクセルをいっぱい踏み込む。ローグたちにわき目もくれず、車はパニック状態のままバリケードに真っ直ぐ突っ込んでいく。
 「あの馬鹿ども、町に車ごと逃げ込むつもりか。蟲を誘い込むだけだぞ!」
振り返れば、波はもうすぐそこだ。
 「あんな数、見たことがないぞ…」
 「ルベットさん、前見て前!」
狼たちも必死についてきている。町との境界を守っていた兵士たちが大声を上げている。人間には目もくれない。それどころではないのだ。
 頭上を何かが掠めた。背後で爆発音。大砲か何かだろう。だがそんなものでは、すさまじい数の蟲たちを止めることは出来ない。押し寄せる蟲をよそに、上空では夜目ツバメの群れが、次第に小さくなりつつあった。残りは飛蜥蜴の胃袋の中へ消えたのだ。


 息をつく暇も無かった。フランシェーロの町は荷物を抱えて逃げ惑う人で一杯だ。避難勧告が出されたのが遅すぎた。列車は満杯、窓からあふれ出すばかりの人を乗せて出発していく。それでもホームには多数の人々が、泣き叫びながら残されていた。
 「次の列車をお待ち下さい。ミッドガルド行き臨時列車、次の便は間もなく来ますから!」
駅員の怒鳴る声が外まで聞こえている。人々は町から逃げ出すのに必死だ。フェンリスは町と<アスガルド>を分けるフェンスのほうを振り返った。一気に町の中心部まで駆け抜けてきたお陰で、ここからは押し寄せる蟲は見えない。避難しようとしている町の人々が知ったら、今よりひどいパニックになる。そうでなくとも、頭上には見たことも無い、鳥でもコウモリでもない生き物が飛び交っている。
 「なんとかせにゃあならん」
ルベットは、険しい表情で言った。「こんなことをしていたら、<アスガルド>もこの国もともにお仕舞いだ。これはいわば戦争だ。人間と、それ以外の生き物との、だが」
 「そうは言っても、誰がどうやって止める? 軍の上層部に顔が効くなら少しは見込みがあるかもしれないが、政府の方針ならそれだけじゃ不十分だ。それに、人間側は手を引くつもりでも、<アスガルド>の生き物をどうやって止める? 連中は<大樹>の根元に穴を空けた。地下の世界と外を繋げちまった。オルガムなんかに話が通じるとは思えないしな」
 「あれは本能で動く生き物だ。…いや、生物の形をした兵器と言っていいかもしれん」
苦々しげに老人は呟く。「わしらの世代はそれを知っていた。少なくとも数十年前までは当たり前のことだった。<アスガルド>に手を出してはいかん。そっと触れ、恐れながら知るべき場所だった。何故誰も止めなんだのか。そうすべき役目の人間はおったはずなのに」
 「みんな死んじまって世代交代したとか?」
 「――いや、まだだ」
ルベットは突如、決意の表情を浮かべた。「まだ、わしがおる。ミッドガルドだ。ミッドガルド中央大学へ行くぞ。わしは、かつてそこに籍を置いていた。今でも定期的に郵便や論文のやり取りをしとる。あそこなら、話の分かる専門家もおるだろう」
 「でも、<アスガルド>で集めた生き物は、そのミッドガルド中央大学に運ばれていたんでしょ」
 「それなら尚更だ。行って、誰の指示かを確かめねばならん。」
老人の決意は固い。だが、列車は期待できなかった。この一刻を争う時に、ぎゅうぎゅうづめで発車もままならず、次の便が何時来るかもわからない。おそらく近隣の町の住人たちも逃げ出そうとして、列車に殺到しているに違いなかった。
 「馬じゃ無理だ」
と、ローグ。「…軍の車を奪おう。そのほうが列車より早い」
 「お前さんも来てくれるのか? ミッドガルドに?」
 「いやな予感がする。あんただけ行かせるわけにもいかない。首都… まあ、首都に乗り込む賞金首ってのも斬新でいいだろ」
 「あのう」
フェンリスは手を上げた。「…こいつらも連れてっていいかな」見れば、狼二匹がまだフェンリスの傍らにくっついている。
 「どうやら、その狼は本当にお前さんに何か用事があると見える。人に慣れるはずのない獣だというのに」
 「何でもいい。賞金首に植物学者にハイスクールの学生に狼二匹。最高の組み合わせじゃないか? えっ、まるで冗談みたいだろう」
フェンリスは、思わず笑ってしまった。
 「そうそう、その笑顔だ。そういやお前、ナイフ持ってたよな。ちょいと貸してくれ。あのトラックを奪おう。運転手つきで」
通りにトラックが一台。荷台に屋根がついている。たった今、町についたばかりのようで、状況をまだ把握できていないらしい。助手席から一人が降りて、詰め所のほうに駆けて行く。もう一人はタバコに火をつけながらのんびりと待っている。
 ローグの動きは素早かった。ドアを開けるなり、素早く助手席に滑り込み、男の腕を掴んだ。
 「な、なんだ?! お前…」
 「いいから声上げるな。おい、じいさん! 馬は置いてこい。荷台へ乗るんだ!」
ルベットがあたふたと荷台に転がり込み、フェンリスと狼も続いた。
 「悪いが、ミッドガルドへ行って貰う。嫌なら腕を切り落とすが、どっちがいい?」
 「……」
ローグがナイフを押し当てるのを見て、運転手は強張った顔のまま黙ってアクセルを踏み込んだ。輸送兵とはいえ訓練は受けている。相手が本気かどうかくらいは分かる。
 車が走り出すとすぐ、フロントガラスに何かが落ちてきた。びちゃっ。…黒っぽい塊から緑色の気持ちの悪い汁が流れ落ちる。
 「ひっ」
 「お前、運が良かったんだぜ。実は」
トラックは揺れながら町から出る道を走っている。その行く手に、<アスガルド>との境界線あたりで攻防を続けるワームの群れと人間たちの姿が見えた。時折り閃光が走り、爆薬が派手に蟲を吹き飛ばす。その欠片が空に巻き上げられ、周辺に降り注いでいるのだった。気持ちのよい光景のはずはない。そして戦線は、目に見えてじりじりと後退していた。
 「じきにこの辺りまで来るな…」
荷台と運転席を繋ぐ窓を開け、フェンリスが顔を出した。
 「駅にいた人たちは大丈夫かな?」
 「心配ないだろ、あの蟲どもは人間を食ったりしない。ただ踏んづけると厄介なのと、齧られると酷く腫れてしばらく身動きとれないのと、運が悪ければ群れに巻き込まれて窒息死するだけだ。」
 「…それってかなり致命的だと思うけどな」
 「要は、奴らの巣穴に飛び込んだり、興奮させたりしなければいいんだよ。そのどっちもやった阿呆どもがおったようだがな」
ルベットは、がたがた揺れる座りの悪いトラックの床に、なんとか居場所を見つけようと苦戦している。運悪く、荷台はほとんど空だった。何かを積みこみに来たトラックだったのだろう。おそらく、<アスガルド>から持ち出そうとしていた何かを。
 フェンリスは、窓から運転席のローグに言った。
 「ここから何時間くらい?」
 「…なんだ?」
疑問をそのまま、隣の運転席に振る。
 「…約一日」
 「めいっぱい飛ばせ」
 「は、半日です。はい」
振り返ると、ルベットは絶望的な表情をしている。
 「着くまでに、わしの腰が砕けてしまうわい」
狼たちも、トラックの端に座り込んで不快そうな顔をしている。
 「我慢してくれ。リムジンのようにはいかない。首都が近くなれば道路が舗装される」
それきり、ローグは黙ってしまった。首都が近くなれば、お尋ね者である彼は、捕まる危険度が増す。
 既に昼は過ぎていた。首都に着くのが夜になりそうなのは、幸いだった。暗ければまだ、見つかる可能性は低いだろう。
 フェンリスは、狼たちがじっと自分のほうを見つめているのに気がついた。何か言いたげだ。
 「お前たち、あの狼の子の仲間?」
話しかけても返事はない。当たり前だ。言葉が通じるはずもない。
 「…ついてきて良かったの?」
返事はなかったが、狼は一つ欠伸をした。一頭が目を閉じ、前足に頭を乗せる。フェンリスも、荷台に座っているうちに眠気に襲われていた。考えてみれば、一昼夜ほとんど眠っていないのだ。<アスガルド>についてからの僅かな間で、何度も危険な目にあった。たった数日でも大冒険だ。こんな話、きっと学校の仲間は信じてくれないに違いない――


 ガクン、と車が揺れた。はっとして。フェンリスは目を覚ます。
 運転席を覗く。「どうしたの?!」言いかけて、ぎょっとした。目の前が赤い。 夕焼け… ではない。日の光は、既に西の空に消えかかっている。その中に、この国の中心に聳え立つ巨大な塔が影となって直立していた。赤いのはふもとの町の上空。

 首都ミッドガルドが炎上している。
 
 運転席の男は泣き出しそうな顔をしていた。言葉にならない、訳の分からない声を上げながら震えている。
 「ブレーキ踏むな! 走れ、あそこへ行くんだ」
 「うああああ」
運転者は、一瞬の隙をついて外へ転がりだした。そのまま無茶苦茶に駆け去っていく。追いかけるつもりはなかった。無理に連れ戻したところで、大人しく運転をしてくれるとは思えない。
 「くそ、駄目か… 仕方ない」
ローグは助手席から外へ飛び降り、車の後ろへ回って幌を開けた。腰の痛みに耐えながら、よろよろとルベットが立ち上がる。
 「何事だ、ローグ」
 「遅かったらしい。町が燃えてる」
 「ほ?! 今、なんと…」
フェンリスと狼たちが一足先に外に出ている。フェンリスにとって首都ミッドガルドは、はじめてに近い場所だった。学校で習ったことはあるし、写真でも見た。ずっと小さい頃に列車で側を通ったこともある。だがそれらどの記憶の中にある光景も、今目の前で燃えているものとは違っていた。
 悲鳴にも似た汽笛の音と、線路が擦れる甲高い金属音がした。ミッドガルド中央駅へ向かおうとしていた列車が、惨状に気づいて急停車する音だ。駅舎の屋根が見えている。ここから町の入り口までは、そう遠くない。
 「ルベット、車ってどうやって運転するんだ」
 「なんじゃと?」
 「ここからマラソンしたくなければ車動かしたほうがいいだろ。っと、フェンリス。ほら、こいつを返す」
ローグはフェンリスにナイフを手渡した。やる気だ。
 「お前さんが車の運転なんぞした日にゃ… 全滅じゃないか!」
 「どうしろっていうんだ」
 「僕がやってみるよ」
と、フェンリス。「農耕用の車なら運転したことあるし。なんとなく分かるよ、多分。…免許はないけど」
 「この状況で、無免許運転の逮捕なんてやってる警官はいないだろ。よし、じゃお前に任せた。ルベット、助手席から道案内だ。」
 「やってみよう」
今度はローグが荷台に潜り込む。「なるほど、こいつは確かに座り心地が悪いな」
 車は、おっかなびっくりといった様子で動き出した。最初はそろそろと。しかし調子が出てくるとあっというまにスピードに乗る。
 「おい、フェンリス、無茶はよせ。あまり速いと、ぶつかったとき大変なことになる」
 「分かってます、でも…」
近づくにつれ、町の様子がより明瞭になってきた。燃えているのは町の一角だ。時折りサーチライトが虚空を照らし出し、どこかで銃声が聞こえる。何が起きているのか見当もつかなかった。だが、<アスガルド>で起きていたことと無関係ではないと勘が告げる。
 「大学は?」
 「そこを右へ曲がる。大通りを直進すれば、すぐに門が見えてくるはずだ」
道路には車が乗り捨てられ、大都市のはずなのに人の気配がない。ガス灯はことごとく破壊され、家々に点る光もない。停電しているのだろうか。
 大通りに出たとたん、いきなり横から車が飛び出してきた。
 「わっ」
フェンリスはあわててハンドルを切る。黒塗りの豪華な車だった。明るいサーチライトを光らせ、猛スピードで走り去ろうとするその後ろから、何かが追いすがる。


 「…オルガム…?!」


ぎょっとして、ルベットは身を乗り出した。
 「フェンリス、止めろ! 今、今のは」
フェンリスは車を戻そうとしたが、その必要は無かった。疾風の如く追いすがった影に突撃され、黒塗りの車は壁に激突した。
 ルベットはトラックから飛び降り、そちらへ走る。
 「間違いない… オルガムだ、こんな間近に…」
 「おい、ルベット! 危ない」
ローグが剣を抜きながら追いかける。フェンリスは、一瞬遅れてブレーキから足を離して地面に降りた。目の前に、闇に包まれた大きな門があり、金文字の刻まれたプレートが掛けられている。その脇には、暗がりでもはっきりとこう読めた。

 <ミッドガルド中央大学>

ここにヨルムがいる。だが今は、その前に二人を追いかけなくては。


 ローグは、途中でルベットを追い抜いていた。潰れた車から、誰かが這い出そうとしているのが見える。白髪の、身なりのいい男。懐から銃を抜いて、果敢にもオルガムに向かって発砲する構えをとる。
 「やめろ!」
叫んで、ローグは男の手から銃を叩き落した。突然現れた、都市には不釣合いな黒マントの剣士の姿に、白髪の男はぎょっとする。
 「刺激するな。こうするんだ!」
言うなり、ローグは手にした大剣で、まだ点いたままだった車のライトを叩き壊した。辺りを闇が包み込み、オルガムの巨体がゆらりと揺れる。
 八本の足は、足音も立てずに規則正しく動く。攻撃目標を失った、その驚くべき生き物は、微かな靄を纏いながら闇の中へと消えていく。
 「大丈夫ですか?」
フェンリスは、腰を屈めて白髪の男の手を取った。「ああ、まだ運転手が…」
 「こっちにおる、息はしているが頭を打っとるかもしれん。」
ルベットが、運転席で気を失っている男の首筋に手をあてて脈を取っている。
 「救急隊を呼ぶ。まだ電話は使えるはずだ」
 「なら、自分の身は自分で守るんだな。あいつは人工の光が嫌いだ」
と、ローグはどこまでもぶっきらぼうだ。「<アスガルド>随一の化物に、銃なんてチャチなもんは向けても無駄だ。戦えると思うな。とにかく逃げろ」
 「…ご忠告、ありがとう。」
それ以上、男は何も尋ねはしなかった。時間を無駄にする気はないのだろう。お互い様だった。ここへは、人命救助をしにきたのではない。
 「何故オルガムがここにおるかは、後だ。とにかく当初の目的地へ行こう」
 「中央大学、すぐそこです」
 「といっても、アテはあんのか。この状況だと、みんな逃げ出してもぬけの空じゃないのか」
 「少なくとも、状況は分かるはずだ」
慌しく走り去る三人を、白髪の男は意味ありげな視線で見送っていたが、やがて思い立ったように車に戻り、運転席にすえつけた電話の受話器を取り上げた。


 この時、ミッドガルドの住人にとって、悪夢のような夜は、まだ始まったばかりだった。そしてそれが、やがて国全体を巻き込んでいくものになろうとは、まだ一部の人々しか認識していなかったのだった。



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