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 <フェンリス― アスガルドの掟>


 くよくよしている暇は無かった。とにかく歩き出さなくては。
 とにかく道はあるのだ。辿っていけば、<黄金のチェス亭>にはたどり着ける。問題は、ここがどの辺りなのか、だ。
 行く手に、一筋の白い煙が上がっていた。人がいる? そういえば、さっきトラックに乗っていた兵士は「基地まで急げ」と言っていた。ということは、この辺りに軍事施設があるかもしれない。未開地のはずのこの土地に軍事施設というのはおかしな話だが、最近出来たのかもしれない。とにかく、フェンリスは道に沿って歩き出した。幸い、足は擦り傷だけで挫いていない。日はまだ高い、時間はある。
 歩いているうちに、彼は、周囲に不穏なものが見え隠れすることに気がついた。まだ骨になっていない大きな動物の死骸や、まだ緑の葉をつけたまま倒れている木。ここはもともとそういう場所なのか、それとも冬の豪雪の被害なのか。天を突くほど高いという、名高い<大樹>は影も形も見えなかった。ここからでは見えない角度なのか、まだまだ遠いか、どちらかだろう。
 間もなく、行く手に、フェンスに囲まれたキャンプ地のようなものが見えてきた。道からは外れたところにあり、道からトラックの車輪の跡が何本か続いていた。焦げ臭い。それに、何ともいえない匂いもする。フェンリスは鼻を押さえながら、しかし、興味からそちらに近づいていった。
 つい最近作られたもののようだった。看板には「第三臨時基地」という看板が掛けられている。フェンスの入り口には見張り小屋があったが、人の気配はなく、扉も開きっぱなしだ。煙は、中庭で横転したトラックが燃えているせいだった。漏れ出したオイルはまだ赤々と火をともし、周囲のテントも幾つか焼け焦げている。まるで戦闘のあとだな、とフェンリスは思った。戦争なんてここ五十年起きていないし、実際に戦場を見たことがあるわけでもなかったが、手当たり次第に破壊しつくされた基地のその惨状は、それ以外の何かには思えなかった。
 人は… いない。
 ここには少なくとも数十人がいたはずなのだが、皆、きれいに消えてしまった。一瞬、どこかに死体が山積みにされているのではないかと恐ろしいことも考えたが、そんなことは一切なかった。血の匂いもなく、死の気配もなく、生きた人間だけがどこかに消えてしまった。一体何が起きたのだろう? せめて一人くらい、状況を知っている人はいないのか。
 かたっ、と小さな物音がした。フェンリスは弾かれたように振り返った。
 「誰かいるんですか?」
影が動く。返事は無い。
 「誰か…」
じゃらっ、と音がした。ふさふさとした尻尾を見たとき、フェンリスの緊張は解けた。そこには、鎖に繋がれた狼の子供が一匹、怯えて疲れ切った目で、寝そべっていた。
 「お前一人か?」
フェンリスが手を伸ばすと、狼の子は小さく唸ったが、それ以上の元気は無いようだった。基地の住人が、たわむれに捕まえて飼っていたものだろう。鎖の側にはひっくり返った餌いれがあったが、もう何日も補充されていないようだった。
 首輪は固く錠で閉じられ、鍵も見当たらない。フェンリスは、しばらく考えたのち、ユーフェミアに貰ったナイフを取り出した。
 「少しガマンしててね」
硬い皮の首輪に刃を押し当て、少しずつ削るようにして外してやる。首輪の下は、逃げようともがいたせいか毛が落ちて擦り切れ、血がにじんでいた。
 「今、水を探してくるよ。ここで大人しくしてな」
狼の子は分かったのか分からなかったのか、きょとんとした目で赤毛の少年を見上げている。フェンリスは、からの餌いれを手に、食料庫を探した。
 既に太陽は中天に達しようとしている。ここから<黄金のチェス亭>までがどのくらいあるにせよ、もう一晩かけて明日の朝早く歩き出したほうがよさそうだった。それに、彼自身の興味もあった。ここで一体、何が起きたのか。基地の人たちは、どこへ行ってしまったのか…。
 残されていた軍用のカンヅメや水を与えられた狼の子は、よほど疲れていたのか、フェンリスの側で寝入ってしまった。何があったにせよ、この狼の子は見ていたに違いない。様子からして、よほどの恐怖を味わったのだろう。眠っていても、時々うなされているように鼻をひくつかせ、寝返りを打つ。
 フェンリスは、護身用のナイフを直ぐに取り出せるカバンのポケットに入れ、基地の中を散策して回ることにした。
 人の気配は消えていたが、基地内は既に<アスガルド>の生物たちに侵食されていた。燃えているトラックの周辺だけは近づかなかったが、それ以外の場所には見たこともないような大きなバッタが集まっていて、人の残して行ったあらゆる場所を食べかすと糞まみれにしていた。驚いたことに、紙を食べている。このぶんだと、書類や報告書のようなものも、あっという間になくなってしまうに違いない。フェンリスは急いで、壁に張ってあった地図と、既に穴だらけにされていた何かの図面らしきものを回収した。あとでよく見ると、地図は、最近作られた基地の位置を示しているものらしかった。肝心の<黄金のチェス亭>が書かれていないことにはがっかりしたが、<大樹>の位置だけは漠然と指し示されていたので、何とかなりそうだ。
 他には鳥がいた。鳥といっても、顔がコウモリのような奇妙な種類だったが、バッタを狙っているらしかった。地面には決して降りず、地面すれすれを飛んでバッタを狙っては、空中でばりばりと貪り食う。お陰で食べ残しや零したバッタの足が空から降ってきて、運が悪ければ頭に当たったりする。あまり気分のいいものではない。
 驚いたことに、金属をたべている大小さまざまなダンゴムシのような生き物もいた。アルミ缶やドラム缶の塗装がはげた部分が好きらしく、そのへんを食い散らかしているので、倉庫は漏れ出した液体まみれだった。地面にオイルやその他の液体が染みこんで、真っ黒になっている。ここで焚き火をするのは、やめたほうがよさそうだ。
 食い散らかされた食料庫は、中で大きなものがうごめく気配がして怖くて入れなかった。
 テントの布は、まだ数日のはずなのに触れるとボロボロに崩れ落ち、まるで千年も経ってしまったかのよう。
 何もかもが侵食されていた。ユーフェミアやヨルムから聞いてはいたが、想像以上の場所だ。初めて目の当たりにする、この地方の不思議な力に、フェンリスはただただ圧倒されているだけだった。ここで一夜を過ごして無事でいられるかどうかも不安だ。


 だが、野原の真ん中よりは少しはマシに違いなかった。フェンリスは、軍用ハンモックをひとつ確保して見張り小屋の天井近くに張り、そこで一夜を過ごすことを決めた。ランタンも見つけたし、ダンゴムシのようなものに食われる前に回収した簡易鍋もある。一晩はなんとかなるはずだ。 
 夜行性の狼の子は、日が暮れてからもそもそしていたが、外に出て行く気にはならないようだった。群れとはぐれて帰り方が分からないのかもしれない。フェンリスは、その狼の子もハンモックに載せておくことにした。
 日が暮れる頃になると、生き物の種類はいっせいに入れ替わった。鳥やバッタのような見慣れた形のものは去り、かわりにトカゲや夜行性の小動物、何かに喩えるのは難しい異形の生き物たちがぞくぞくと基地に集まりはじめていた。フェンリスは、野営にこの場所を選んだことを少し後悔しはじめていた。彼らにとって、この基地はよいエサ場であるらしい。化学薬品や合成繊維、金属など、外の世界の物質は、珍味のようなものなのだろうか。ここにヨルムがいれば、詳しく解説してくれたかもしれないのだが。とにかく、このぶんだと他の基地も酷い目に遭っているはずだった。
 せめて心を落ち付けようと、彼はランタンに火を灯し、回収してきた穴だらけの地図をハンモックの上に広げた。ここと同じような基地は全部で三つ、町に近い場所に作られている。今いるのは、<アスガルド>の中心部に向かって伸びるたった一本の道に沿っている基地の中。とすると、ここから<黄金のチェス亭>までは、まだ半分以上も歩かなくてはならないのだ。地図には川や丘、森や遺跡が幾つか書き込まれていた。だが、それらの位置は曖昧で、距離の測定が出来ていないようだった。
 もう一枚は遺跡の地図。建物の構造と、周辺の地形が細かく書き込まれている。どこにある遺跡かは分からないが、この基地で調査していたものか、調査する予定だったものだろう。右下のほうに「持ち出し済」と書かれている。軍の機密マークがついているが、今さら気にしている場合ではない。放置されて虫に食われて消えてしまうよりは、旅人に拾われたほうがマシというものだ。
 と、その時、フェンリスは首筋がチリチリするような感覚に襲われた。何かが近づいてくる。
 ウウ、と狼の子が吼える。フェンリスも気がついた。何かが、こちらに向かって疾走してくる。
 「…やばい」
地図や荷物を抱え上げ、狼の子をかばんに詰め込むと、フェンリスはハンモックから飛び降りた。小屋から飛び出すのと、その生き物が小屋に体当たりするのは、ほぼ同時だった。
 メリメリ、と大きな音を立てて、小屋の支柱が折れた。周囲のフェンスも巻き込んで、もうもうと埃をたてながら、さっきまで彼りいたあたりが地面にぺっしゃんこになっている。茫然として声も出なかった。それはあまりに一瞬のことで、信じがたい光景だったから。
 突進してきたのは、短い八本の足を持つ、胴体はトカゲのような、尻尾はウマのような、得体の知れない生き物だった。ずんぐりした体格とは思えないスピードだ。そいつはフェンリスのほうをゆっくりと振り返り、足元に落ちているランタンを見つめた。
 「明かりから離れろ!」
突然、人間の声がした。フェンリスは、まだ動けないでいる。
 「明かりから離れるんだ!」
二回目でようやく、言葉の意味を理解する。幻聴ではない。獣のように跳ね起きて走り出す彼の背後すれすれを、破壊的な嵐が掠めた。悲鳴を上げて転がり落ちかける狼の子を、彼はしっかり捕まえた。がむしゃらに走って振り返ると、さっきまだランタンのあった辺りには、えぐられた穴が空いていた。そして星明りの照らす夜空に、まるで巨大な柱のように―― その生き物は、直立していた。
 息を呑む沈黙ののち、周囲をひとにらみ、その生き物は攻撃対象がなくなったことを確認して、来た時とはうらはらに、ゆっくり、のそのそと去っていく。巨体にも関わらず、音はしなかった。夢を見ているのかと疑いたくなる光景だった。


 我に返って、彼は辺りを見回した。今しがた、助けてくれた声の主はどこにいるのだろう。気配はなかったが、すぐに見つかった。夜の闇に溶け込む黒いマントの男、軍の人間ではなさそうだ。
 「何やってるんだ、お前。あの連中の仲間になりたいのか?」
そう言って、男は不機嫌そうにあごをしゃくった。そこは、基地の裏手の土手の下で、基地の中からは見えない場所だった。窪みの中に、銃やら剣やらが散乱している。かすかな匂いと服の切れ端から、フェンリスは、そこで何が起きたのかを察した。そして、今が夜であることに感謝した。基地にいた人々は、―― さっきの生き物に全員やられてしまったのだ。


 フェンリスの腕から、狼の子が転がり落ちた。まだ混乱しているようで、男の姿に気づくと、とっさに構えを取って唸り始めた。
 「こら、駄目だって。この人、助けてくれたんだぞ」
まるで実家でガルムにするように、彼は狼の子の首を押さえた。男のほうは、その時ようやく、フェンリスが何者であるかに気づいたようだった。
 「なんだ… お前、まだ子供…? 軍の人間じゃないのか」
 「えーと」
 「家出にしちゃあ、随分と危険な場所へ来たもんだな」
フェンリスのほうも、この男をしげしげと眺めた。格好はぼろぼろだし、手には銃ではなくフェンリスの背丈ほどもある大剣を握っている。この辺りに慣れてそうな雰囲気だ。こんな未開地に住んでいるからには、相当な変わり者か、町に暮らせない事情があるに違いない。
 「<黄金のチェス亭>へ行くんです。軍用トラックに忍び込んだつもりが、途中で空飛ぶ大きな生き物に襲われて」
 「―― <黄金のチェス亭>へ? 何をしに?」
 「えーと… その」
 「訳アリか。まあいい、お互い様だな」
男は剣を鞘に収めた。
 「あの、さっきの生き物は? 何で襲ってきたんですか」
 「光だ。奴はランタンのあの青白い光が嫌いらしい」
 「光…」
 「焚き火の炎はそうでもないらしいが。ここの連中は、外の世界から持ち込まれるものを食べたり壊したりして片っ端から排除する。<あるべきもの>、<あっていいもの>が限られているのさ。それを知らないと、ああなる」
と、地面に穿たれた兵士たちの墓穴を指す。「ここから先は、そういう世界だ。銃も大砲も意味が無い。」
 「ナイフや剣なら使えるんでしょ?」
フェンリスは、カバンから護身用のナイフを取り出した。
 「戦い方は知らないけど…その。」
足元で、狼の子が唸って飛び跳ねた。「ええと、味方もいるし。」
 「…まさか、俺に道案内をしろとは言わないだろうな」
 「駄目ですか」
 「言っておくが、俺は賞金首だぞ」
男は機嫌を損ねたようだった。「ただでさえ、人助けなんて気分の悪いことをしちまったあとだって言うのに…。ガキのお守なんぞやってられるか」
 「ガキじゃないよ、来年は学校卒業だし。それにフェンリスっていう名前だってあるんだ」
 「…?」
去りかけていた男の足が止まった。
 「フェンリス…?」
暗がりの中で、まじまじと少年を見詰める。「…そういえば、こういう無謀なことをする奴をもう一人知っている。いや、確かに似てるな。おい、まさかお前、ユーフェミアって名前に覚えはあるか」
 「姉さんだよ、知ってるの?」
 「……。」
男は、いやローグは、額に手を当てた。「やっぱり。そういうことか…」
 「え?」
 「ついて来い。お前の姉さんには借りがある。」
そういえば、とフェンリスは思い出した。ユーフェミアが話してくれた<アスガルド>での物語の中に、守護女神の熊を連れ、大剣を背負って未開地を流離う、賞金首の男が出て来た。
 「じゃあ、あなたが”竜殺しのローグ”なんだ」
足早に基地を去ろうとしているローグのあとを、フェンリスは小走りについていく。基地の辺りには生き物が沢山いたのに、草原の中にはほとんど気配が感じられない。星明かりの下の世界は嘘のように静まり返って、平和そのものだった。
 「どうしてローグさんは、あそこにいたの?」
 「ここのところ、騒がしかったからな。軍の連中が基地なんぞ作って、ここの生き物と小競り合いをやってるのは知ってた。ここ数日は爆弾仕掛けたり大砲撃ったりひどい騒ぎで、静かになったら見にきたら案の定…ってわけさ」
 「……なるほど」
確かに、この静けさの中では、銃撃戦の音はひどく目立つだろう。フェンリスは最初、生き残りと間違われたのだ。
 「こっちも聞きたいことがある。お前は、どうしてここへ来た。まだ春だし、ここへ来るのは姉さんじゃなかったのか」
 「…それは」
フェンリスは、声の調子を落とした。どこから話せばいいのか分からない。「姉さんの代わりに、伝言を届けなきゃいけないんだ。<黄金のチェス亭>の人たちに、禁忌が忘れられて不可侵の約束は破られる、って。政府の役人が土地を取り上げに来たんだ。僕もよく分かってないけど、言えば、たぶん分かると思う」
 「ふむ」
ローグは足を止め、フェンリスが追いついてくるのを待った。
 「なら、そいつは俺よりイザベルに話したほうが良さそうだな。」
ローグの立っている場所まで辿りついたフェンリスは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。昇ったばかりの月を背に、白く照らし出されたなだらかな斜面。その遥か果てに、ずっしりと聳え立つ木の形が見えた。大陸の西の果て、海に面して立つ石化した古代の<大樹>は、ここからでは、大きさも距離感もつかめなかった。
 「ここから向かえば、軍の連中と鉢合わせずに最短距離で行ける。まだ歩けるか?」
 「大丈夫」
 「なら、行くぞ。」
無愛想だったが、言葉の端々には奇妙な親近感が溢れている気がした。ユーフェミアに色々聞いていたせいかもしれないが… 人殺しもしたことのある高額な賞金首だとは、フェンリスには思えなかった。ヨルムにちょっと似ているかもしれない、と彼は思った。人を寄せ付けない雰囲気を常に放っているくせに、本当は優しい。
 歩く彼らの足元で、まばらな草が揺れている。世界は死んだように沈黙していたが、束の間の静けさかもしれなかった。


 月が過ぎ去り、太陽が昇る頃、二人はようやく歩くのを止め、岩陰でしばしの休息を取った。夜じゅう歩きどおしで足が痛かったのもあるが、岩陰に集められた木の葉や枝のベッドが心地よく、フェンリスは泥のように眠りこけていた。
 ローグはあまり説明はしなかったが、ここが彼の良く来る場所であることは分かった。賞金首である彼が、夏の間の滞在場所を他人に教えるのは、ある意味で自殺行為に等しかった。それだけ、フェンリスを信用しているのだろう。
 目を覚ますと日は高く上がり、鳥やその他の獣たちの声が聞こえていた。周囲はいつの間にか、草原から森へと様相を変えていた。緑の木立ちの間に、溶岩の冷えて出来た岩があちこちに突き出して、複雑な地形を形作っている。水の音。岩に群生する苔が、地下水の湧き出している場所が近いことを意味している。
 ローグは、岩の上で武器の手入れをしていた。フェンリスが目を覚ましたのを見ると、黙って岩の向こうを指した。
 「顔を洗うなら、そこだ」
 「えーと… あいつは?」
側にいたはずの、狼の子がいない。
 「知らん。夜の間に帰ったんじゃないのか」
 「帰った…」
狼は、この森に住んでいるのかもしれなかった。残念そうな少年を見て、ローグは言った。
 「あれはこの辺りに住む野生の狼だ。<アスガルド>の生き物は<アスガルド>の外では飼えないぞ」
 「ペットにするつもりじゃなかったんだ、群れに返してやるつもりだったし…。元気になったのならいいんだけど」
ローグは肩をすくめただけだった。
 時計などはなく、時間も分からなかったがまだ昼にはなっていないらしい。遅い朝食は、焚き火を起こしてお湯を沸かし、ビスケットと粉スープで済ませた。ローグは何か胃に入れたあとらしかった。フェンリスの勧めるビスケットや、軍の基地からもらってきた缶詰を断って、もう出発したそうだった。
 「雨が来る」
と、彼はぽそりと言った。「この季節は、天候が変わりやすい。昼過ぎには雨が来る」
空は良く晴れて、雲ひとつ見えなかった。風が少し湿っている気はしたものの、フェンリスにはそれ以上のことは分からない。
 だが、ローグの言ったとおり、歩き出して数時間もたたないうちに空はにわかに曇り始めた。岩だらけの森の中は歩きにくく、おまけに、木の根につまづいて転んでフェンリスは足を痛めてしまった。
 まだいくらも進まないうちから、ぽつぽつと雨が降り始めた。本降りになる前に、どこか雨宿りできる場所を見つけなくてはならない。
 「まだ歩けるか」
フェンリスは、息を切らせながら頷いた。ローグは大きな岩を駆け上がり、上から手を差し出した。
 「こっちだ」
苔に滑りながら、手に捕まって岩の上に上りきると、そこには岩の真ん中が崩れ落ちて出来た、そう奥は深くない洞が、ぼっかりと口を開いている。
 二人が洞に滑り込むのと、背後で滝のような雨が流れ落ちるのは、ほとんど同時だった。濡れた土のにおいが、むっと立ち込める。見ると森は、土砂降りの中、灰色の靄に包まれていた。
 ローグはマントを脱いで、旅装束を解き始めた。
 「このぶんだと夕方まで止まないだろう。今日はもう進めない」
 「…すいません、足手まといに」
ぽん、と少年の赤毛の頭にを置いて、ローグは無言に火を起こし始めた。
 外の雨の音はまるで滝のようで、洞の奥にいても耳障りだった。火に当たって服を乾かしながら、フェンリスは話を振った。
 「この辺りには、良く来るんですか」
 「幾つかある狩場のうちの一つだ。賞金首に見つかっても逃げ切りやすい。」
少年は、壁に立てかけた大剣にちらと目をやった。ローグの賞金が、罪状のわりにずば抜けて高いことはユーフェミアから聞いて知っている。もちろんマフィアの親玉や凶悪犯よりは安いが、狙われることは少なく無いだろう。
 「…すいません、今さらですけど。その」
 「言っただろう。借りを返すだけだ」
 「去年の夏のことですか?」
 「それ以外にも、まあ…。お前の姉さんには世話になった。お前にその面倒な用事を言いつけたのも姉さんだろう。気にすることはない」
ローグは憮然としてそう言った。それから、ふいに思いがけないことを聞いた。
 「ユーフェミア… お前の姉さんは、元気か」
 「え? あ、はい」
 「…そうか」
一瞬、ローグの顔には読み取りにくい表情が浮かんだ。ほんの一瞬で、フェンリスにはその意味が分からなかったが。
 「自分で来なかったのは何故だろうと思った。」
 「――それは…」
理由は、説明しづらかった。フェンリス自身もよく理解できていない。ただ、それが自分の「役目」であること以外。
 「姉さんは今、家を離れられないんだ。お祖父さんから受け継いだ、あの館の主人だから。姉さんだけしか分からないこともあるんだ。とにかく、早く<黄金のチェス亭>へ行って、それから帰らないと。よくないことが起きそうなんだ… ヨルムも今はいないし…」
 「<黄金のチェス亭>へは、明日にはたどり着く。でもな、期待通りにはいかないかもしれないぞ」
 「どうして?」
 「あそこは今、軍の連中の目と鼻の先に置かれているからだ。」
フェンリスはぎょっとして、慌てて地図を広げた。基地は3つだけ。<黄金のチェス亭>については、どこにも書かれて居ない。
 「ほう、そいつはあの基地から取ってきたのか。――なるほど、情報が不正確だな」
覗き込んだローグは、指で「1番」と書かれた基地を叩いた。「こいつもっと西の、丘より向こう側にある。<黄金のチェス亭>とロードゥルの遺跡の間だ。冬が終わってすぐに出来た最初の前線基地、今も生き残ってる唯一の基地さ」
 「唯一…」
それでは、2番の基地も、フェンリスが見た3番目と同じように既に壊滅させられてしまったのだ。あの<黄金のチェス亭>に郵便や物資を届けていたトラックの行き先は、この1番目の基地だったに違いない。
 「まあ、<黄金のチェス亭>自体は無事だ。あそこはイザベルがいるし、ただ、冬まで居座られると面倒くさいがな」
 「軍って、ここで何をしてるんですか?」
 「調査だ、名目上はな。」
そう言った時の口調からして、ローグが信じていないのは確かだった。
 「この辺りは冬の大雪でひどい損害を蒙った。森も生き物も。無法地帯に逃げ込んできた賞金首やならず者も大勢死んだし、雪崩や春の雪解けで洪水に巻き込まれた土地もある。――町にも被害が出たんだろう? 狼や熊が彷徨い出たとか」
 「うん」
 「で、害獣駆除に、ここの被害状況の確認… ってのが最初の名目さ。見てれば、やってることは遺跡荒しに賞金首の狩り出し、獣を捕まえて運び出したり、なにやらキナ臭さがぷんぷんだがな」
フェンリスは、挫いた足首を暖めながら、マーサの部屋で聞いたユーフェミアの言葉を思い出していた。少しずつ… ゆっくりと、何かが見え初めていた。
 「<アスガルド>は不可侵の土地だって姉さんは言ってた。古い約束に守られた土地だって。大昔にあった”何か”が原因で、土地ごと封印してしまおうとしたって」
 「封印ねえ。ま、この土地には眠らせておきたいものは山ほどあるさ。見つかったら奪い合いになりかねない財宝、タチの悪い亡霊、ここにしかいない危険な動物や植物、行方不明か死んだことになってる誰かとか。今まで軍が入ってきたことなんて無かった。少なくとも、俺がここへ逃げ込んでからは」
 「どうして今になって…?」
 「わからん。大した理由は無いのかもしれん。ただ分かることは、連中は何かを探してるってことさ。ま、イザヴェルなら何か知ってるかもしれん。」
そう言って、ローグはごろりと横になった。武器だけは傍らに置いて。
 「考えるだけ無駄だ。取り合えずは休んでおけ。ここじゃ、いつ何が起きるか分からんぞ」
 「…うん」
雨音は強いままだ。気温が下がってきた。フェンリスは、姉ユーフェミアも、かつてこの<アスガルド>を旅していたことを思い出した。夏の初めに、たった一人で。季節の不安定な春と比べれば容易いのかもしれない。軍の基地で思わぬハプニングに巻き込まれたりしなければ、もっと平穏だったかもしれない。しかし、やはりユーフェミアは特別な人間だと思った。この<アスガルド>を旅することは、この土地の掟に従い、土地に受け入れられる素質を持たなくてはならないのだ。


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