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 <フェンリス― 異界への進入>



 ひとりで旅をするのは初めてのことだった。それでも、夜はよく眠れた。一人でいることも、未知の場所へ出かけることも、不思議と寂しくも恐ろしくもなかった。姉ユーフェミアが詳しく語って聞かせてくれた<アスガルド>のことを、訪れる前から良く知っている気になっていたかもしれない。或いは、遠い祖先が住んだというその場所を、血が、覚えているのかもしれない。
 さんざん列車が遅れ、ようやく<アスガルド>の入り口、フランシェーロに到着したフェンリスが見たものは、大混雑した駅と、混乱した町の様子だった。町に入る道は封鎖され、至るところに、警官ではなく軍の兵士がいる。まるで前線のような物々しさだ。新聞売りや屋台の活気のない駅前広場は、がらんとして、毎年の夏の賑やかさは何処にも無い。町から出る折り返しの列車は満員で、足止めを食らっていた旅行者や商売人が、われ先にとこの地方を逃げ出そうとしているのが見て取れた。逆にこの駅で降りた客は、フェンリスを含めわずか数人。
 プラットホームで佇んでいると、駅員が近づいてきた。
 「坊や、一人かい? 旅行なら、今は止めた方がいいぞ」
 「旅行じゃないよ。姉さんのお使いで、知り合いのおばさんのとこに用事をしにきたんだ。終わったら直ぐ帰るけど… 何があったの?」
 「未開地域で異変があったんだよ。」
駅員は片手を帽子のつばにやった。「ここ数十年、大きな騒動も無かったんだがね。もしもに備えて軍が展開されているよ。今のところ命の危険はないらしいが、外出は制限されている。気をつけることだ」
駅舎にべたべたと貼り付けられたチラシには、警告と、イザという時の避難経路、問い合わせ先などが記されている。夜間は絶対外出禁止、とも。
 駅前の売店で買った地方新聞には、全国版より詳しい記事が載っていた。豪雪が原因で、<アスガルド>の生き物たちの一部が未開地域の境界を越え、町まで押し寄せてきたのだと。おまけに冬の到来が早く、冬篭りのしたくが十分ではなかった獣たちの一部は眠りに就かず、雪溶けと春の芽吹きが遅れたために食べ物を求めて熊や狼が人里を襲った。<アスガルド>にいる動物たちときたら、ここにしかいないようなものも沢山居る。熊くらいならなんとかなるが、<ニースヘッグ>なんかが出てきた日には、軍隊でなくては太刀打ちできない。
 だが、今のところ死者は出ていないとのことだった。<ニーズヘッグ>のような巨大で危険な生き物も、少し姿を見せただけで、軍が展開されているのを見るとすぐに引き返していったという。知能のある生き物は、危険を感じ取ることに優れているのだ。代わりにフェンリスが見たのは、黒っぽいコウモリのような生き物が、キーキー鳴いて翼をばたつかせているのを捕獲され、籠に詰められて持ち去られるところだった。捕獲している人々はみな、防毒マスクのようなものをつけ、毒蛇を捕らえるときのような、仰々しい重装備をしている。ユーフェミアが不思議そうな顔をして見ていると、腕に軍マークをつけた兵士がひとり近づいて来て、そっと囁いた。
 「あれは夜目ツバメという生き物だ。ツバメとは言うが、コウモリの一種だな。普段は大人しいが、噛まれると体が痺れて数日は動けなくなる。見つけたら、触らずにすぐに知らせてくれ」
命の危険には至らないが厄介な小動物が、まだ町のそこかしこに密かに侵入を企てているということらしい。町の住民たちはみな重装備で、恐ろしげにヒソヒソと話し合っている。
 「自然が多いのは良い事だけど、危険なんじゃねえ」
 「政府はどうして、あんな未開地的をそのままにしておくのかしら。もっと整備してくれれば観光にだって役に立つのに…」
見れば、軍は町と<アスガルド>の間にバリケードを築いている。さっきのような防護服の人々のほかに専門家らしい人々、武器を装備した戦闘員までいる。運ばれていった夜目ツバメの籠は、ほかの籠とともに装甲車に積み込まれ、どこへともなく運ばれていく。遠目にはよく分からなかったが、ほかにも、仕留められた獣や植物のサンプルらしきものを積み込んだトラックが、どこかへ走り去っていく。
 このぶんだと、堂々と<アスガルド>へは入れそうも無い。観光コースは閉鎖され、日帰りツアーのオフィスは休業中。旅行者の姿は無く、フェンリスは一人、途方にくれた。<黄金のチェス亭>へ行くには、どうしたらいいだろう。


 歩いているうちに、大通りに面した広場に出ていた。そこも閑散として、屋台なども無い。代わりに、見晴らしの良くなった広場の向こうに郵便局が見えた。郵便局…そうだ。<黄金のチェス亭>には、このフランシェーロの町から馬車で定期的に手紙を届ける郵便局員がいるとユーフェミアは言っていた。
 思いついた時には、郵便局の前まで来ていた。町の小さな郵便局、だが、見覚えのある局員の姿はない。
 「あの」
空いている窓口に近づいて、声をかける。「アス… いえ、<未開地域>の中にある、<黄金のチェス亭>に手紙を送りたいんですが。配達はやってますか?」
局員は、一瞬きょとんとした顔になったが、すぐさま意味を飲み込んだようだ。
 「特別区への郵便は、今は軍の人たちにお願いしているんです。残念ながら…。我々では、生きて帰れないでしょうから」
 「じゃあ、まだ<黄金のチェス亭>の人たちは、未開地域の中に?」
 「そのようですね。もしお知り合いがいるのなら、軍の人たちと一緒に戻ってくるよう勧めたほうがいいでしょう」
 「次回の配達はいつになりますか。」
 「明日です。食料や何やと一緒に運んでもらうんですよ。もし手紙があるなら、ここで出していけばいかがですか。」
結局フェンリスは、唯一と思われるその方法を選んだ。郵便局の側に張り込み、軍の運搬用トラックが来るのを待ったのだ。一度乗り込んでしまえば、未開地の途中でたたき出されることは無いだろう。それにしても、フェンリスは、<黄金のチェス亭>までどのくらいあるのかを知らなかった。地図は持っている、…が<アスガルド>の地図は曖昧で、二度目に訪れた時、前回は無かった山が出現しているようなこともざらにあった。ユーフェミアは、「馬車で町から配達に来る郵便局員は、朝日の出る頃に出発して、夕方までには町につく」と言っていたが。車なら、昼前には到着できるだろうか。
 日が暮れて、町の人々が家に追い立てられる頃、うとうとしかかっていたフェンリスは、不愉快なエンジン音で目を覚ました。軍用トラックがやってきて、郵便局の裏口に横付けし、局員から手紙や郵送物を受け取っている。間違いない、アスガルドへ行く車だ。トラックの荷台には、武器や食料、その他さまざまな荷物が積み込まれている。<黄金のチェス亭>以外にも、配達で寄る場所があるのかもしれない。フェンリスは不安になったが、迷っている暇は無かった。運転手が余所見している隙をついて、素早く荷台に転がり込む。荷物はやわらかかった。積荷の一つは、毛布だ。
 「…では、宜しくお願いします。お気をつけて…」
会話の一部が聞こえた。エンジンがかかり、荷台の下から鈍い振動が伝わってくる。すぐ側に誰かが座る気配がして、車が走り出した。毛布の隙間からそっと覗くと、銃を抱えた兵士が二人、荷台に乗っている。ここで見つかるとまずそうだ。息を殺して、フェンリスは毛布の奥に身を潜めた。野営用の荒目の素材とはいえ、軍用毛布は温かく、紛れているうちに次第に眠気が襲ってきた。


 ――そして気がつくと、フェンリスは、まだ車の上で揺られていた。空が白い。もう、町ではなさそうだ。いつの間にか、トラックは境界線を越え、<アスガルド>に入っていたらしい。
 ここはどのあたりだろう。二人の兵士の気配は、側には無い。もそもそと顔を出すと、冷たい風が頬に当たった。兵士の一人は、運転席の屋根の上から周囲を見回して警戒している。もう一人は荷台の後ろのほうだ。<アスガルド>唯一の整備された道とはいえ、馬車の轍が刻まれ、町の道よりはずっと凹凸も多い。車は何度も上下に飛び跳ね。そのたびにフェンリスは、隠れている場所から放り出されないよう気をつけなくてはならなかった。
 どこかから、焦げ臭い匂いがした。
 「前方!」
運転席の上に居る兵士が怒鳴った。「速度を落としてくれ。何かいるぞ!」
がちゃがちゃと銃の音がする。車が速度を落とすのと同時に、はるか頭上のほうで、聞いたことも無いような奇妙な音が響き渡った。指の隙間に息を吹き込んだ時の高い音と、縦笛の一番低い音を同時に鳴らしたような。
 「来た!」
ぱらららっ、と連続した音とともに、目の前に何か金属が落ちてきた。火薬の匂い。銃を撃っているのだ、と少年は気がついた。毛布を被っていても、音は間近に聞こえる。
 「走れ! 基地まで急げ」
 「つかまれっ、振り落とされるなよ!」
車が速度をめいっぱい上げた。荷物が飛び跳ねている。見れば、兵士たちは空に向けて銃を撃っていた。風を切る音とともに、大きな影が頭上を過ぎる。―― 鳥? 一瞬すぎて、その姿は良く見えない。だが、何かがこの車を襲っているのは分かった。
 「駄目だ… うわあああ!」
がしゃん、とガラスの割れる音とともに、車が道を逸れた。一人が外へ向かって吹き飛ばされる。
 「!」
フェンリスの体が宙に浮いた。隠れ場所はもはや役に立たない。荷台にしがみつきながら、彼が見たのは、恐怖に顔を引きつらせながら投げ出されていくもう一人の姿と、…… 運転台の屋根に爪を立て、空に持ち上げようとしている、羽毛の生えたトカゲのような生き物だった。


 そこから先は記憶が途切れている。トラックから投げ出され、草の生えた斜面を転がり落ちたらしいことは、いま自分のいる場所と、擦りむいた膝小僧の具合から分かる。さいわい、荷物は無事だった。といっても、小さな肩掛けカバン一つだけなのだが。太陽は今ようやく地平線から離れ朝らしい朝が始まっていた。目の前には、光り輝く草原とまばらな潅木。頭上には鳥の声。見渡す限り人の痕跡はどこにもなく、道はおろか、町すらどこにも見えない。
 痛む肩をさすりながら、フェンリスは斜面を上がってみた。やって来た道は確かにそこにあった。だがトラックは陰も形も無い。割れたガラスの破片と、彼が隠れてきた毛布の塊。荷台から放り出されたらしい荷物が点々と草の陰に落ちていたが、人間のほうは見当たらなかった。皆、どこかへ消えてしまった。
 <北部未開地域>―― フェンリスは、自分が、そのど真ん中に置き去りにされたことを知った。


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