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 <ヨルム―深夜の訪問者>


 カーテンを閉めることも忘れて眠っていたヨルムは、顔に当たる日の光の眩しさに目を開けた。既に太陽は高く昇っている。
 起き上がって、眼鏡に手を伸ばし―― いつもの場所に無い事に気づいてようやく、思い出す。そうだ。ここは、家ではない。

 何もかもが昨日とは違って見えた。朝日の差し込む古びた部屋は、薄暗さの中で見た時の不思議な魔力を奪われて、ただいたずらに古いだけだった。まるで、もう建っていられないのを無理やり使い続けるために鞭打っているような状態で、修復に修復を重ねた跡が痛々しい。
 共有の洗面所で顔を洗い、ホールに出たところでハリスが待っていた。
 「やあ、早かったね」
数秒考えたのち、ヨルムは、昨日交わした約束を思い出した。
 「…ああ、昼飯か。もうそんな時間?」
 「その様子じゃ、今起きたばかりだな。まあいい、行こう。美味いランチの店を教えようじゃないか」
空は晴れて、気温も昨日よりは高い。お陰で、残っていた雪は今日中にすべて溶けて無くなりそうだった。
 「昨日は遅くまでかかったのかい」
 「ああ。長い話だったよ…」
 「はは、そうだろうな。あの人は自慢も含めて余計な話しが長い。さて、今日は何が食べたい?」
 「あんたは、この大学でずっと学んでるのか」
門を出た四つ角で、立ち止まって往来を待つ。馬車が数台通り過ぎ、それから数台の大きなトラックが曲がってきた。自動車は、この国では珍しい。ヨルムは横目に車体に書かれた文字とマークを見た。”国家所属特別軍” ――国所属の軍隊だ。ここは首都であると同時に軍の総司令本部も置かれている、国家軍のお膝元の都市。
 「まあウチは、なんだ、これでも昔は貴族だった家系のはしくれなんだよ。家のメンツとかなんとかで、こうした格式の高い学校を卒業することが身内によって義務化されている」
 「成る程ね。」
 「君は西のほうから来たんだったかな。ずいぶん田舎のほうだと…失礼」
 「田舎には違いない。ただ、数年前からだ。出身は東の大陸。履歴書にもそう書いた」
 「ああ、そういえば…。ラングドット生まれだっけ? あそこは都会だな。それじゃ、この町を見ても驚かないわけだ。」
ハリスは、ややつまらなさそうに言って笑った。「地方からこの大学へ進学する連中は、ありとあらゆることに驚くものさ。中には、怯えて一歩も町に出られないまま進級するような極端なものいる」
 「ラングドットにも、あんな塔は無かったけどね」
と、ヨルム。町の中心部に聳える塔<ユグドラシル>に向かってあごをしゃくる。「頂上の人間は酸欠にならないのかい?」
 「あれは、この国の誇りらしいね。世界一の高さを誇る塔。頂上には生身の人間なんて住んじゃいない。レーダーとか展望台とかを置いてるらしいよ」
 「観測所か。それなら地表の気温や大気のゆらぎの少ないほうがいいだろうが…」
二人の視線が合った。どちらの目も、「こんな馬鹿げた見栄だけの塔は必要ない」と物語っている。
 数秒の沈黙。
 「君とは気が会いそうだよ、ヨルム君。思っていたより面白い人で良かった」
 「それは結構。ところで、店はまだ遠いのか」
 「すぐそこだ。ほら、その書店の向かいさ」
指差す先の狭い路地に、ぱっと見では分からないが、どっしりとした門構えの古書店があった。向かいに鄙びた小さなカフェが一件。大通りから離れているお陰でお客は少なく、快適そうだ。
 「そこの書店は、学生章を見せれば割引をしてくれる。品揃えはいいし、頼めば探している本をどこからともなく取り寄せてもくれる。覚えておくといい」
カフェに入ると、馴染みらしい店主がハリスに親しげに声をかけた。受け答えするハリスの声をどこか遠くに聞きながら、ヨルムは、店内を観察した。昼前だというのにお客は数組。学生はいない。いずれも近所の住人のようだ。奥から漂うコーヒーの良い香り。少なくとも、食べ物が拙そうではない。
 「どうした、ヨルム」
 「問題ない。お勧めを注文してくれ」
窓際の席に陣取ると、書店の向こうに大通りが良く見えた。ここからなら、路地に入ってくる者が一目瞭然だ。とうやら、ハリスは、見た目以上に抜け目のない人物のようだ。そんな人物が、ギュンターの下についているのは何故なのだろう。
 …もともと、「高名な学者」に幻想を抱いていたわけではない。
 だが、昨夜の会話で、ギュンターが実際は世間に認められているほどの知識も学識も持ち合わせていないことを、ヨルムは早くも見抜いていた。稚拙な論理、どこかから剽窃してきたようなつぎはぎだらけの知識、独創性の無さ…。もしかすると、これまでギュンターが世間に向けて発表してきた、数々の紛れもない本物の優れた論文は、すべて、このハリスのような学生たちが書き上げてきたものではないか。ヨルムにはそう思えきた。
 「ところで、ヨルム。学生寮の怖い話を知っているかい」
 「いいや? ――七不思議みたいなものか」
 「まさにそれさ。気をつけたほうがいいぞ、あの学校はやたらに古い。一つは校長室の目が動く絵、もう一つは夜中に動き出す中庭の銅像… おっと、途中で目を逸らすなよ。ありふれたものだが、学生寮のはなかなかに面白い。」
 「どう面白いんだ」
 「”口つぐみの仕立て屋”。問いかけに巧く答られなかったら上唇と下唇が縫い付けられるのさ。くれぐれも、門限を越えて寮に戻らないこと! 夜0時を回ったら、さっさと寝ることだよ、ヨルム君! ははは」
ばかばかしい、と呟いて、ヨルムは窓の外に目をやった。晴れていても、この町はどこもかしこも灰色で、人、人、人だらけ。ギュンターの研究室のように、古いものと新しいものが無様に入り混じり、雑多な物音が不協和音を奏でている。あの森の静けさが懐かしかった。窓を開けたときの、澄んだ空気も。今や彼にとって、故郷は「クレイントンの森」、ただ一箇所なのだった。


 ハリスとの昼食を負え、大学に戻ると、ヨルムはすぐさま図書館に向かった。今度はハリスもついてきた。着いてくるな、と追い払うわけにもいかず、ヨルムは黙ってキャンパス内に足を進めた。途中、何台かのトラックとすれ違う。さっき門の前で見た、あの軍の車両だ。
 「軍隊が大学なんかに何の用事だ?」
 「さあ、私も知らないな。ここのところ頻繁に出入りしている。学部の中には最新兵器の研究をしているところもあるから、軍の協力で実験でもやるのか、視察か何かかもね。」
 「兵器か…北方王国連合では、最近小競り合いは無いんじゃなかったのか」
 「備えあれば憂いなし、とでも思ってるんじゃないのかな。軍の連中は戦うことが仕事だから」
ヨルムは、去っていくトラックの荷台に目をやった。幌が掛けられているが、――確か、さっきはもっと膨らんでいたような。同じ車両なら、だが。
 図書館に一歩踏み込むと、外の喧騒から一気に引き離され、静けさが包み込んだ。
 「何を調べているんだい? 君は。」
今日のハリスは、とことんまで、この新参者に食い下がるつもりのようだった。
 「あのエディソン遺跡の論文について、続きを書くつもりかい? それなら、調査資料はここの地下書庫にあるが」
無視して、ヨルムは書籍検索機に目的の書物名を打ち込む。「禁帯出」の赤い文字とともに、書架の位置が表示される。
 「ゾルターナ文書… おいおい、まさかいきなり」
ハリスの苦笑いは、続いて打ち込まれた文書名を見てかき消された。「ウリック研究記録… おい、君。君が探しに来たというのは…。無茶だ! そのテーマで論文を発表できた者はいない。学会を追放されるだけじゃ済まないぞ。自費出版の本ですら、政府圧力で回収処分になる――」
 「俺は世間に公表したいわけじゃない。」
書き留めた書架のメモを手に、ヨルムは静かに言った。「ただ知りたいだけだ」
 「そのために? ギュンターを利用して、この大学に滑り込んだというのか」
呆れたような視線が、背後から追いかけてくる。ヨルムはメモを片手に、既にカウンターで特別保管室へ入る手続きを始めていた。特別な本のある書架への入室は、所属研究室名と指導教員の許可が必要だ。だがこの学園内でも地位の高いギュンターの研究室所属となれば、受付で厳しく利用目的を問われることはない。
 ヨルムは、ハリスもついてくるのに気がついていたが、敢えて文句は言わなかった。貴重書の保管された地下書庫は入り口から既にひんやりしていて、この広大な図書館の中でも特に秘密めいた場所だった。存在に気づかないまま卒業していく生徒もいるだろう。
 「いいのか?」
司書が鍵を回している。普段その部屋は鍵をかけられていて、自由に出入りは出来ないのだ。
 「入室記録は残るぞ」
 「構わないさ。」
二人が部屋に入ると、後ろで錠が下りた。外へ出る時は、中から司書に声をかけなければならない。さほど広くない室内には、古い紙とインクの匂いが満ちている。ここにあるのはいずれも貴重で、世間にほとんど出回っていない本と書類ばかり。合法的に中身を見るには、研究生という身分はうってつけだ。
 「ここに入ったのは初めてだな」
と、ハリス。天井まである書架の群れを見回している。その時には、ヨルムは既に目的の本を見つけ出していた。一冊は、分厚い辞書のような本。そしてもう一冊は、手書きの原稿をホッチキスで止めた、同人誌のような薄っぺらい書物だった。
 「これが150年前、世間を大いに騒がせたという”ゾルターナ文書”か。へえ、実物を目にする日が来るとはね」
 「そしてこっちが、存在しないとされた”ウリック研究記録”、ゾルターナ文書の中で言及されている。」
二冊を並べて調べ物机に置くと、ヨルムはまず分厚いほうを捲って目次を追った。その間に、ハリスは薄いほうを手に取った。くすんで茶色くなった表紙には、丁寧な手書き文字で、「ゾルターナ遺跡における時空列と近代研究の誤り ―仮説に基づく<アスガルド>年代表の修正―」という長ったらしいが興味を引くタイトルが書き込まれている。二人とも本を傷めないよう、白い手袋をはめている。
 「そもそも、こいつの存在を知ってる人間が世間にどのくらいいるか。君は、何故存在を知った。」
 「祖父が研究していた。名も無き在野の研究者で、論文も出していない。そういうあんたは」
 「まあ、――成り行きだ」
ヨルムは曖昧な相槌を打ち、その間にも手を動かして、開いたページの中身を素早く書き写している。
 「そっちも貸してくれ」
 「考えてみれば、おかしな話だ。”<アスガルド>の中では、時間の流れが一定ではない。” そんな突拍子もない話が世間に受け入れられるはずもない。事実、あそこから回収される遺物は時として、古いものがあり得ないほど新しく見えたり、新しいものが異様に早く劣化していることもある。しかしそれは年代測定法が不完全か、特殊な生態系が物質の腐敗に作用しているというのが定説だ。にもかかわらず、国は何故か過剰なほどに、同様の説を忌避してきた…」
ハリスは、ちらと監視窓のほうに目をやった。窓は部屋の外の小部屋に繋がっている。鍵を持って来た司書は、まだそこにいるはずだ。とはいえ、長時間中の様子を監視し続けるのは難しい。一人なら、居眠りや手洗いで意識が逸れることもある。
 「君は、その説を信じているのか。」
 「信じるかどうかと真実であるか、真実であるかと価値があるかどうかは別の話だ。」
ヨルムは手を止め、机の側に立つハリスを見上げた。
 「<アスガルド>に最後に人が住んだのがいつだったか? そんな基本的な問いかけにさえ答えが出ていない。地質を研究する者は一万年から七千年だと言い、遺跡学者は七千年から五千年だと言う。文献学者はわずか数百年前だとすら言う。時間がばらつきすぎだ。しかも、全く同じものを調査しても、人によって結論が大きく異なる」
 「君は、どうだと思っている?」
 「・・・・・・。」
彼は手元に書き写したばかりの年表を指した。「タイムラインを導き出す基準となった遺跡は幾つかあるが、それらの建造年代の見積もりは古すぎる。この文書の作者はそう考えた。時間の流れが一定でない、というのが正しい結論かどうかは分からない。ただ、ゾルターナ遺跡の”千五百年”というのが、実は妥当な唯一の年代だという説には同意する。」
 「ほう。そう思った根拠は?」
 「――少なくとも、千五百年前からの記録はある、という点だ。この大陸に移住者が増え、国を作りはじめたという記録…」
ヨルムは、ちらと監視窓のほうを見やった。その奥に動きは見られない。少し声が高くなりはしたが、話しの内容まで聞かれてはいないだろう。
 「この大陸にもともと住んでいたのが別な民族だと、あんたは知っているか」
 「伝承の類だな。巨人族に小人族、古えの神々、予言の巫女」
 「…民俗学者ではないから伝承の類にはあまり詳しくないが、<アスガルド>に地殻変動が起きたのがそのくらいの時期だろう。彼らは環境の変化によって移住していったと推測できる。元の住人が居なくなったあと、この大陸へ移ってきたのが、俺やあんたのような余所者さ。国が隠したいのは、この国の成り立ちに纏わる歴史だろう」
 「君はどうやら、学会では口をつぐんでいたほうがよさそうだな。そんな突拍子もないことを言い出したら、最初の10分で叩き出される」
そうは言いながらも、ハリスの目ははや活き活きとしていた。「…だが興味があるね。君がどうやって、そこまで辿りついたのか」
 「勿論、他所では言わないさ。あんたは共謀者だ」
 「信頼の証ってわけだ。ヨルム、君は本当は何者なんだい? 政府転覆を企むマッド・サイエンティストの仲間か、他国からのスパイ? 何を企んでる」
 「何も。」
彼は肩をすくめた。「この大学に入る前に、身元は洗われてるはずさ。戸籍にも名前にも偽りはない。ラングドット生まれ、父は飛行機技師。数年前に親類を頼ってこの国に移住。高校はこっちで出た。――俺は、ただのヨルム・ブランフォードさ。」
 「ふん、成る程ね。ギュンターのことだ、その辺に抜かりはないんだろう。私のことを信用しないようにね。…さて」
ハリスは腕時計に目をやった。「そろそろ閲覧許可時間を過ぎる。あまり熱心にやりすぎると怪しまれるぞ」
 「そうだな。」
席を立ち、本を返すふりをしながらヨルムは、それとなく素早く薄い冊子をコートのポケットに滑り込ませた。
 (おい!)
声無き声でハリスが叫んだが、ヨルムは少しも表情を変えなかった。
 監視窓を叩くと、しばらくして中からゴソゴソと音がした。どうやら司書は居眠りをしていたらしい。鍵が開くと、二人は足早に階段を昇った。司書が本の紛失に気づくのは、運がよければ当分先のことだろう。それまでにもう一度、あの地下書庫へ行く機会を作って返却すれば、公になることはない。
 「まったく…」
外に出るなり、ハリスは子供のような表情になって大笑いしながらヨルムの肩を抱いた。「君は見かけによらず凄い奴だな! 度胸もある。ますます気に入った」
 「そいつはどうも」
 「で、どうするんだい? それを借りて」
 「全ページ写すんだ。今夜中に仕上げる。明日には返却しないと。」
 「成る程ね。あと何冊あるんだ、調べる必要がある本は。まさか、そう頻繁にあの地下書庫で盗みを働くわけにもいかないだろう?」
ハリスは意味ありげに目配せしてみせた。 「例の店が使えるかもしれない。ほら、今日ランチに行ったあの店の向かいの書店さ。それに、他にもツテはある。」
 「何故、こんなことに協力するんだ。あんたは、マジメに勉強して卒業するためにここへ入学したんだろう」
 「卒業なら出来るさ。遊んでいようが、単位を落とそうがね。その―― まあ、なんだ。そういう家なのさ、うちは。」
 「成る程。」
多額の寄付金を積んだか、家族に高名な卒業生がいて、ほとんどフリーパスで入学し、名目だけの卒業証書を貰って卒業していく名家のご子息、というやつだ。それにしては、このハリスは随分真面目に自分の所属分野を研究しているようだが。それも、一般の学生の知らないところまで。
 「明日、また誘いに行く」
断っても無理やり押しかけてきそうな口調だった。ヨルムも、断りはしなかった。奇妙なことだったが、この初対面の優男との間には、言葉にせずとも自然に協定のようなものが結ばれていた。だがそれは、「味方」という意味ではなかった。今はお互いの利害が一致している、それだけのこと。あのハリスにとって、ヨルムの活動がどのような利益に繋がるのかは分からなかったが。
 そういえばハリスは、ギュンターが「この私を信用しない」と言っていた。
 ギュンターも、ハリスを極秘のプロジェクトには関わらせていない。どういうことだろう?



 新しい暮らしを始めてから、まだ二日目だった。
 薄い冊子を一気に書き写し、作業を終えて顔を上げると、柱時計はちょうど23時を回ったところだった。夕食も食べずに集中していた。この時間では、食堂も屋台も閉まっているだろう。ヨルムは、まだ解いてもいない荷物の中に缶詰などのちょっとした食料を持って来ていたことを思い出した。探検に行くわけでもないのに、必要になるだろうからとユーフェミアが入れたものだった。未来を読んでそうしたのか、ただいつも自分が旅に出る時にそうしていたからの癖なのかは分かりかねた。ヨルムにとって、姉ユーフェミアは理屈で説明のつかない、この世で最も不思議なものの一つだった。
 共同の台所で湯を沸かし、お茶を淹れて一休みする。荷物の中からは、家から持って来た何冊かの本も取り出した。一冊は祖父のノート。もう一冊は、いつか姉と弟のいる前で内容を公表した「植民の書」。どちらも、世の中に発表することは出来ないような内容が書かれている。実を言うと、ヨルムが<アスガルド>に最後に人の住んだのが千五百年前と結論付けた最大の根拠はここにあった。その書の記述が千五百年前になっているからだ。そして、少なくとも、クレイントンの一族が今の地方に移り住んだのは、一万年も前のはずはなかった。自分たちの森の館の家―― あの家と周りの木々は、長くて数千年しか時を経ていない。
 これらの資料をハリスに見せたらどんな反応をするだろうか。今はまだそうするつもりはなかったが、彼は、思いがけず出会った奇妙な理解者のことを計りかねていた。今まで変人扱いされることはあっても、家族や親戚以外で最初から好意的に接してくれた者はおらず、大抵は彼の言うことが理解できずに終わるのだ。あのギュンターでさえそうだろう。
 本当は自分の足で<アスガルド>に行ければ良かったのだ。姉ユーフェミアが<アスガルド>へ赴いたとき、ヨルムは、実は羨ましいと思った。何事にも自分から、真正面から飛び込んで行ける大胆さと行動力。彼女は恐れ知らずで、たとえ未来が見えない時でも、自分なら必ず切り抜けられると信じていた。弟のフェンリスもそうだ。自分だけが、こうして書庫に篭る臆病者だ。知ったふりをしながら、実は何も知ってはいない。


 部屋の隅々に出来た闇を背景に、お茶の湯気がゆらゆらと揺れている。ヨルムはふと、視界の端にモゾモゾと蠢くものを見たような気がした。目が疲れているのか? 眼鏡を外し、目をこすった。まだだ。さっきより酷い。天井の隅、ベッドの影、テーブルの足の下…自分の足元でも――
 「?!」
声を上げ、立ち上がろうとする彼の体を信じられないほど強い力が引きとめた。目の前に、針がある。恐る恐る眼球だけを動かしてみると、手にも、足の上にも、無数の黒い小さな腕がしっかと絡みついていた。柱時計に目をやる。0時をちょうど過ぎたところ…
 『汝は知るや否や』
機械質な声が、耳元で語りかける。『黄金の盃はいずこ。館の名は。腕輪はどこへ行った。汝は知るや、協議の間を?』
 (ハリスの言った七不思議か。どうやら夢ではなさそうだな)
ヨルムは冷静に考えていた。肩の辺りに重みがある。耳元で聞こえる声は、それが発している。目の前に突きつけられた縫い針は、反対側の肩の上から差し出されている。
 『黄金の盃はいずこ。館の名は。腕輪はどこへ行った』
声は、辛抱強く繰り返している。なるほど、ひどい発音だが、これは古典語に違いない。訛っているのか。この問いかけの意味するところは。
 『知らぬ者に用はなし』
 『焦るは災いの元、夜明けはまだ遠し』
ざわっ、と周囲で小さなざわめきが上がった。最初の衝撃は過ぎた。ヨルムの目には、それが部屋をびっしりと埋め尽くす「小人」たちの仕業であることが分かっている。
 『協議の間というのは、どの協議の間のことだ』
 『天におわす王たちの間、大樹のふもと、汝は知るや?』
 『黄金のチェスのある場所のことか』
声が上ずった。
 『汝は知るや? かの地のことを?』
 『知ってはいる、が訪れたことはない。その館の名は<黄金のチェス亭>という。あるじの名はイザベル・ゲーリング』
目の前に突きつけられていた針が下ろされた。無数の腕から解放され、ヨルムはようやく小人たちの姿をはっきりと見ることが出来た。どれもこれもみな、大人の掌から肘の長さくらいの身長しかなく、色は黒っぽい。ただ水浴びが嫌いなだけかもしれなかった。服はよれよれで、古風な縫い取りがされている。チョッキにマント、まるで大昔の壁画から抜け出てきたような格好だ。
 押さえつけられていた腕には、小さな腕の跡がびっしりとついていた。消えなかったら、虫にかぶれたとでも言い訳するしかない。
 『お尋ねの話しはそれだけか。汝らはいずこより来る。何ゆえに旅人に尋ねるか』
机の上に、ぴょんと一人が飛び乗った。長い髭を持ち、それに埋もれて表情はほとんど分からない。
 『我らはこの館に住まいし者。我らはアールヴなり』
 「伝説の小人族か!」
思わず現代語で小さく叫び、小人たちが首をかしげるのに気づいてヨルムは言い直した。『汝ら、いにしえの物語に言い伝えられし者どもなり。我ははじめてこの目に見ゆる』
 『さりとて幻にあらず、旅人よ。汝はいずこより来る。我らが問いの答えを知るや』
 「『我が住まいしは”クレイントンの森”』――ああ、分からないか…」
小人たちが首をひねるのを見て、ヨルムは額に手を当てた。その地名は新しすぎる。何しろ相手は古典語で語りかけてくるような、今はもう死に絶えたと思われている古い人々なのだ。
 天啓のように、彼の脳裏にある言葉が閃いた。そうか。
 「『我はヴァニールの館より来れり。我が姉の住まいし館より。』――そうか。こういうことか。『予言の巫女は腕輪を持てり。そは相続の証』…」
皆まで言い終わらぬうちに、騒ぎが起こった。小人たちは天に向かって吠え立てはじめ、キィキィ声はまるで壊れたラジオのボリュームを全開にしたようなさまだった。
 『血が蘇った! 我らは救われる!』
嵐のように小人たちの群れが散らばっていく。壁の隙間、扉の下、カーテンの陰。それは一瞬のことで、ヨルムはぽかんとして見ているしかなかった。あとには何も残されていない。そう、彼の腕や足につけられた無数の手形のアザ以外は。

 時計はきっかり、0時15分を指していた。


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