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 <ヨルム―知恵の蛇>


 北方王国連合の西海地区、「風の国」<ヴィンドランド>の首都、ミッドガルドは、大陸の中心部にある一大都市。すべての街道はミッドガルドに通じ、すべての鉄道はミッドガルド中央駅を経由する。そこは交通の要でもあり、名実ともにこの国の心臓部でもあった。

 首都ミッドガルドについたのは、霧のたちこめる早朝のことだった。
 まだ朝日も昇っていない。それでも駅のホームには人が溢れ、発着する列車の汽笛や雑踏が四方八方から押し寄せてくる。
 大きなトランクを軽々と抱え上げ、チップを貰おうとよってくるポーターを片手で軽く追い払いながら、黒髪の少年は出口を探していた。ここからは馬車で数十分。駅前のターミナルに出るとすぐ、天へ向かって伸びる巨大な塔に気がついた。写真では見たことがある、この国の首都機能を集約させた「ユグドラシル・タワー」だ。人造の建物としては世界最高の高さを誇るというが、ヨルムは好きになれなかった。天を突くその塔は、陰鬱な灰色のうえ無機質で、人の奢りを世に知らしめようとした無様なモニュメントにしか見えなかった。

 目的地、ミッドガルド中央大学は誰もが知っている。道を尋ねるまでも無い。そこらじゅうに矢印つきの看板が出ている。塔の直ぐ側、広大なキャンパスにはありとあらゆる学科棟が並び、キャンパスを取り囲むように寮が並ぶ。年齢も様々な学生たちが町に繰り出して、胸につけた学生章を誇らしげに輝かせている。
 大学前の四辻で馬車を降りたヨルムは、まだ日陰にわずかに雪の残る寮への並木道を迷うことなく歩き出した。彼の入寮するのは、中央大学の中でも最も歴史を持つ建物の一つ、観光名所にもなっている。建物の表面は、何度も修復されてきた彫刻が飾り、五百年の時を経た門が来訪者を歓迎している。何百年かの歴史をもつと思われる古樹の並木道、構内に抱えた広大な森。この大学自体が、ひとつの町といっても差し支えない。
 大理石の階段を昇りきり、建物の入り口ホールに足を踏み入れた途端、彼は、どこからともなく注がれる視線に気がついた。中二階の踊り場のあたりだ。目を合わせないようにしているが、ちらちらこちらを見て笑いあっている。ここの学生だろうか。ヨルムが新参者と見て、値踏みしているらしい。
 無視して通り過ぎようとするとき、一人がわざとらしく声を高めて言った。
 『ご覧あれ、あの粗末な上掛けの具合。さぞかし田舎より来たものと見える』
ヨルムは歩調を緩めた。それは、この国の標準語でも、地方の言葉でもなかった。数百年前に途絶え、死語となった古典語だった。
 もう一人が、したり顔で返す。
 『いとも粗末なるな、あれでは、にょしょうの気を引くにもいたらぬ』
 「…言っておくが」
ちょうど二人の真下まで来た時、彼は足を止め、毅然とした声でこう返した。
 「そこは『田舎より来たる』よりは『いずこの村より来たものぞ』のほうが美しい。『あれでは』の部分は現代語のままだ。『かような出で立ちにしては』と置き換えたほうが正しいだろう。『さても哀れな鳥たちよ、己の歌の拙さを知らぬとは』――だ」
唖然として返す言葉もない二人を置き去りにして、彼はさっさと奥の受付へ向かって歩き出した。


 そもそもここへは、ただの学生として来たのではなかった。書き送った論文によって、学部卒業の資格は既に得ていた。今さら一般の学生に混じって学科を受ける必要はない。ヨルムは、この大学の高名な博士に招かれ、研究室で腕を試すためにやって来たのだった。二年間の間に、博士に認められる論文を書き、合格すれば晴れて学位を得られる。覚えたての古典語で囀る学生たちなど、年上であっても彼の試練にもなりはしなかった。
 受付を済ませ、割り当ての部屋まで案内してもらって部屋の鍵を受け取ると、彼はもう、即座に動き出していた。
 鍵は古風な金属製。ここでは鍵は生徒個人が管理する。無くせば罰則。最悪退寮処分となる。歴史ある建物だけに寮の各部屋はそのものがアンティークといったところで、据付けの調度品は価値あるものだが現代的な快適さからは程遠く、年代ものの暖房器具に軋むガラス戸、重苦しい色の天井に滑りやすい石の床、部屋は広いのに落ち着かないと生徒の間では専らの評判だった。もともと、そのような古い家に好んで住んできたヨルムにとっては、かえって自宅にいるような快適さだったが。むしろ、森の館よりこの建物のほうが歴史的には新しい。何しろ暖炉に薪をくべずに済んで、部屋にラジオの電波まで入るのだから。
 荷物をほどくのもそこそこに、必要なものだけ出して、彼はすぐさま部屋を出た。必要なものは学生章と、身分を示す揃いのネクタイ。このタイの色と線の数で、所属する学部と年次が分かるようになっている。
 寮を出るとき、先ほど古典語で嘲ろうとした二人組とすれ違った。彼らは、ヨルムのタイを見てぎょっとしたようだった。だがヨルムは、得意げになることもなく、彼らの側を足早に通り過ぎただけだった。彼の視界に余計なものは入っていなかった。


 ここに来るまでに、学園の大まかな間取りは頭に叩き込んであった。この大学の敷地は広大だ。関係のない区画に迷い込むと遭難しかねない。目指す場所は、これから世話になる研究室棟だった。今日着くことを、指導教官は知っている。ギュンター・フォン・アーデルハイド、仰々しい名前だが、そのとおり、この国では名門の家系らしい。そもそもの切っ掛けは、この博士の書いた論文を見つけ、問い合わせの手紙を送ったことからだった。それが縁で誘われ、奨学生としてこの大学へ招かれた。ヨルムとしても好都合だった。この大学の書庫には、在学生しか手に取れない、外部未公開の貴重な資料が山ほどある。彼の知りたいことの多くが、そこで明らかになるはずだ。
 寮と同じように古びた、しかし研究の必要上と防犯上の必要からある程度は近代的に改装された研究棟に足を踏み入れると、ほこりっぽい、古文書と遺物のにおいが微かにした。昼だというのに中は薄暗く、人の気配がない。
 階段を上がっていくと、並んだ研究室の中から人の話し声が聞こえてきた。それぞれの扉に所有者のプレートがかかり、その下に「現在、取り込み中!」だの、「講義のため外出」だののプレートがかけられている。目指す研究室は、奥のほうにあった。プレートに刻まれた名前を確認し、ヨルムは、プレートの脇をノックした。
 「失礼します。アーデルハイド博士、本日よりお世話になるヨルム・ブランフォードです」
中でごそごそと音がした。
 「入りたまえ」
スライド式のドアを開くと、薄暗い廊下に向けて、ぱっと光が広がった。外とは違う、清潔でどこか無機質な匂い。中は明るい照明に照らし出され、高価な最新器具で一杯だ。そしてピカピカ光る白い画面―― 電算機というやつだな、とヨルムは思った ―― の、前に、その人物はいた。
 この国最高の歴史研究家にして古文書の解読者、ギュンター・フォン・アーデルハイド。白衣を着て椅子にふんぞりかえっているその姿は、写真よりも太って見えた。ヨルムは後ろ手にドアを閉め、一歩部屋の中に入った。と、その時、すぐ脇に、別の誰かがいるのに気がついた。長髪で、眼鏡をかけた長身の青年。大学の研究室にはにつかわしくない、ずいぶんな優男だ。
 「ああ、そいつはウチの研究生で、ハリス・レミルトン」
 「はじめまして、お噂はかねがね。」
差し出された手を、ヨルムはそっけなく握り返した。
 「はじめまして、どうぞよろしく。」
 「君に会えるのを楽しみにしていた。まさか本当に、こんなに若いとは。君の解読した、エディソン遺跡の床絵の論文を読んだよ。実に素晴らしい出来だった。天体図と羅針盤についての興味深い指摘も――」
 「これこれ、そのくらいにしておきたまえ、ハリス。彼は今日からここでともに研究するんだ。時間はたっぷりある。」
 「ああ、そうでしたね。失礼…」
優男ハリスはいたずらっぽくヨルムにウィンクしてみせた。なんとも変わった歴史学者の卵だ。
 「私はまだ用事があるから、先にハリスに学内を案内させよう。分からないことがあれば何なりと彼に聞くといい。――そうそう、夕食のあとでまたここへ来られるかな? 君に、ぜひ見せたいものがあるんだが。」
 「喜んでお伺いしましょう、博士。何時くらいがよろしいでしょうか」
 「そうだな。…」ギュンターは袖をめくって、ぽっちゃりした丸っこい腕にはめられた腕時計に目をやった。「21時ではどうかな? 寮の門限は23時だ。それまでには間に合わせよう」
 「分かりました。では後ほど。」
言いながら、ヨルムは素早く室内に視線をめぐらせていた。それで、そこにあるものは、あらかた認識した。この国に数冊しかない希少な古文書の写し、20年前に発刊されたきれすぐに世間から消えてしまった図版、物議を醸した新説の数少ない初版、… 電算機と繋がっていた電話を使って書類を送る装置、最新の暖房器具、吸い掛けの煙草の粕、棚に並べられた数々の賞、…戸棚の隅に、曰くありげに置かれていた「何かの包み」。
 部屋を出ると、すぐさまハリスが話しかけてきた。
 「さて、どこへ行こう? とりあえず講堂と学食、それに売店の位置くらいは教えようか。何しろ、学内は広い。うっかりすると迷子になってしまうからね」
 「だいたいの位置は分かりますよ、レミルトンさん。それより――」
 「ああ、レミルトンさんなんてじれったい。私のことはハリスと呼んでください、是非。君のこともヨルムと呼びたい。」
 「…結構。それではハリス、俺は図書館へ行って新規借り出しカードの申請をしたい。博士に申し付かった体面もあるから、そこまでは雑談でもしながら一緒にに行こう。あとは案内は不要だ。お気遣いなく」
 「ははは、着いて早々にお勉強かい? 研究熱心だなあ、君は」
 「そのためにここへ来たんだ。」
ハリスは愉快そうに笑っていたが、研究棟を出るとすぐに笑みは消えた。すれ違う学生はまばらだ。この辺は一般の生徒が授業を受ける学科棟からは離れているし、食堂や売店といった人の集まりやすい区画とも数ブロック離れていた。
 「気をつけたほうがいいぞ。ここでは純真な熱心さは、命取りだ」
そう言ったハリスの声は、先ほどまでより1オクターヴ低く、まるで別人のようだった。
 「ギュンターが何のつもりで君のような全く無名の新人を呼び寄せたかは知らないが、あの人に若手を育てる気などない。」
 「知っているつもりさ、学会の権力争いや学生の扱いなんて」
 「なら、いいがね」
長身の若者は、頭ふたつぶん下にあるヨルムの表情を伺った。「――君のあの素晴らしい論文は、他の学者にも送ったのかい。」
 「いや。」
 「そうか」
残念そうに、ハリスはため息をついた。
 「それなら、あれは今後一切世に出ることはないだろうな。出るとしてもギュンター博士の名義で… 研究の一部として、だ。残念だったな。あれをしかるべき場所に送れば、君はここで何年も過ごさなくても博士号を取れただろうに。」
 「そんなことを心配してくれていたのか?」 
ヨルムは、呆れたように首を振った。
 「俺が欲しいのは学位でも名声でもない。論文なんてものは幾らでも書ける。利用しているのは俺のほうさ」
 「ほう?」
 「ここの学生じゃなきゃ出来ないこともあるんだよ。」
そう言って、彼は足を止めた。目の前に聳え立つのは、まるで教会の大聖堂のようなファサード。天使が守り、脇から伸びた石の樹が門の上で枝を絡めあう豪華な石造りの門だ。金色の文字が、古典語で、「大図書館」と目的地の名を告げている。
 「おい、ヨルム」
既に門に向かって歩き出していたヨルムはハリスの声で足を止めた。彼は、図書館の敷地入り口に立って片手を上げている。
 「夕飯は一緒にどうかな? 食堂のメシは拙いぞ。町に出ようじゃないか」
 「今日は遠慮しておく。明日の昼でよければ」
 「よし。じゃあ寮の入り口まで迎えに行く。忘れるなよ!」
その声を背後に聞きながら、しかし、ヨルムの注意は、既に大図書館の中へと、脳裏にリストを描き、待ち望んでいた夥しい資料との対面の時へと向けられていた。


 ギュンターとの約束の時間の少し前、ヨルムは研究棟の入り口に立っていた。
 図書館が閉まる午後20時半まで粘って、それから出てきたのだ。昼食と夕食は、まだ空いていた売店で買ったパンと飲み物を流し込んだ。結局のところ森の館で暮らしていたころと大差ないのだったが、違うのはといえば、姉のユーフェミアが差し入れを持ってきたり、弟のフェンリスが学校の宿題を聞きに来たりして邪魔をしないこと。ひと段落ついて広間に下りていくと、そこにはいつも赤々と燃えている温かい暖炉があったものだが、―― それも、ここには無い。
 春とはいえ、まだ季節は冬に近い。夜は思いのほか肌寒かったが、ヨルムには気になるほどではなかった。背を丸め、コートを着こんで寮への道を急ぐ学生たちは、薄着のヨルムを見てぎょっとしている。
 研究棟は相変わらず静まり返っていたが、廊下に明かりが灯されているお陰で、昼間よりは明るいくらいだった。昼は気づかなかったが、天井にも壁にも、長い年月の刻んだ微かな窪み細かな傷跡が無数に浮かび上がっている。歴史ある建物はどこもそうだが、この大学も、幽霊話にも事欠かない。その意味では幽霊の一人も住んでいなかった実家が珍しいほうだったのかもしれないが、とにかく、夜が不気味な建物に違いは無かった。
 再び訪れた研究室に、ギュンターの姿は無かった。プレートは在室中となっていたから、変え忘れでなければ、お手洗いか何かだろう。
 ヨルムはそっと棚に近づいた。最初に来た時、無性に気になっていた包みが、その隅っこに置いてある。無雑作に丸められた油紙の表面には、文字もない。端のほうに、僅かに茶色い染みが滲み出ている。中身は何だろう。ナマモノだろうか。植物の標本のような?
 廊下で足音がする。ヨルムは素早く棚から離れ、入り口近くの本棚の前に立った。
 「おお、待たせたかな。すまんすまん」
ドアを開けたのは、ギュンター。
 「いえ、今来たところです。先生の素晴らしい蔵書を眺めていました」
 「それには前任者の置き土産も入っているのだ。さあ、こちらへ来たまえ。見せたいものというのは、別の場所にあるのだ」
ヨルムの肩を抱き、押し出すようにしてギュンターはドアを閉め、鍵をかけた。カチリという錠前の音を、ヨルムは聞き逃さなかった。
 ギュンターは饒舌だった。この学校の歴史、ここでの研究、最近行った講演会についてなど、長々と話しているうちに、彼らは薄暗い廊下を通り抜け、階段を降り、地下室の前まで来ていた。「保存室」という文字が見える。
 「さあ、ここだ。この研究はまだ世間には公表されていないんだぞ」
ドアの鍵はギュンターの、サイズが小さすぎるのか、はちきれんばかりになっているチョッキのポケットから出てきた。扉の奥は、真っ暗な空間。ギュンターが明かりに手を伸ばす。―― 白っぽい蛍光灯の光が辺りを照らし出す。
 「…これは」
ヨルムは眉を寄せた。並べられた机の上に、今まさに修復作業の行われようとしている古い羊皮紙がびっしりと並び、壊れた土器や、剥がされた床石も床の上に広げられている。壁にかけられた巨大な温度計から、室温、湿度が完璧にコントロールされていることが分かる。
 「最近になって、<北部未開地域>から回収されたものだよ。このプロジェクトについては、信頼できる学生にしか声をかけていないのだ。」
 「ほぼ完璧な形ですね。」
それは持ち出された遺跡がごっそりそのままであることに対する皮肉だったが、ギュンターは遺跡の状態の良さと受け取ったようだ。
 「そこを解明するのが我々の腕の見せ所だな、ブランフォード君。もっとも、このプロジェクトには多くの学部が関わっている。我々は、我々の専門分野である解読をもって貢献する。この遺跡から、あの未開地域の秘密が明かされるかもしれんのだ」
断る理由は無かった。ヨルムは悟った。自分が呼ばれたのは、この遺跡から出る古文書の解読を任せるだめだったのだと。
 「素晴らしいですね。是非、やらせてください」
 「そう言ってもらえると思ったよ。ただし――」
ギュンターは、必要以上にヨルムに顔を近づけた。かすかな煙草のヤニの匂い、それに―― 酒の匂いが、がヨルムの眉をしかめさせる。
 「この発掘品については、まだ世間に知らされていない。分かるかね?口外無用だよ。決して誰にも漏らさないこと」
 「レミルトンさんにも、ですか?」
 「そうだ。あれは頭はきれるが、少々お喋りなところがある。見たまえ」
ギュンターは、部屋の隅にある頑丈な金庫を指した。幾つもの鍵に、監視カメラまで備わっている。
 「この遺物からは貴重な品も発見されているのだ。宝石だとか、金だとか…。そういったものは、すべてここに仕舞われている。普段ここに鍵がかかっているのも、そのためだ。盗人でも入ったら大変だからな」
 「分かりました。決して喋りません」
ヨルムは頷いた。新参の余所者である自分は首が切りやすい。使い物にならないと思われたら何かと理由をつけて大学を追い出されるだろう。慎重に振舞わなくては。


 それからの数時間、これらの品について説明を受け、またも長々としたギュンターの雑談を聞き流している間にも、ヨルムは既に、そこにある文書のうちの幾つかから、重要な断片を読み取っていた。<アスガルド>から持ち出したというそれらについて、ギュンターは何故か出所をぼかし、曖昧なことしか教えてくれなかったが、今まで誰も調査したことのない、かなり奥地の遺跡から持ち出されたものに違いなかった。ただの旅行者や、個人の冒険者が、これだけの量を一気に持ち出せるはずはなかった。それに、持ち出されたのはつい最近のようだった。頻繁に動かされることはないだろう大型の手付かずの遺物に積もっているホコリは、せいぜいが数ヶ月分だ。
 アスガルドは未開地と言われるが、人の住めない地でもなければ、前人未到の地でもない。ただ、かつて住んでいた人々が何らかの理由で土地を放棄し、その記録が残されていない。ギュンターはどうやら、遺跡から過去を探り、<アスガルド>に再び人が住めるようになることを願っているようだった。
 だが、真新しいものは何も無かった。
 持ち出された遺跡本体はともかく中にあった書物や生活用品の類は、何らかの理由でアスガルドに逃れ、住み着いた世捨て人の遺品だった。古いといってもせいぜいが数百年前のものでしかない。もちろん貴重なものには違いなかったが、ギュンターの知りたいものとは違っていた。かつて<アスガルド>に住み、その地を放棄した人々は、何の記録も残さなかった。それだけは確かだ。
 少し気になったのは、遺跡に付着している白っぽい胞子のようなもののことだった。これだけ完璧に管理された気温と湿度で、カビが生えるとも思えない。植物学は詳しくないが、元の場所から運ばれてきたキノコか何かだろうか? だとすると、今後、遺跡を洗浄するときに取り除かれるはずだが。
 23時少し前、寮の門限を理由にヨルムは退出した。ギュンターはまだまだ話し足りなさそうではあったが、ヨルムには十分すぎた。結果の出るはずのない研究を手伝っているふりをすることは、気が重い。だが、うまくやらねばならない。

 こうして、ミッドガルド中央大学でのヨルムの初日は終わった。
 その日は流石に疲れ、部屋に帰るや、服も脱がずにベッドに倒れこみ、そのまま眠りこけてしまった。その夜は、夢さえ見なかった。


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