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 <旅立ちの日>



 雪の消えるのは遅く、待ちくたびれた春の兆しはニ月も半ばになってから訪れた。

 雪の重みに耐え続けた古い森の木々はようやく肩の荷を下ろし、家々は軒を乾かしている。町のほうでは、雪に埋もれて家が潰れたり、急病に医者を呼べなかったり、風邪をこじらせたりして亡くなった人もいたという。まったく酷い冬だった、と誰もが言った。こんな大雪は百年に一度だと。多くの家畜も死んだ。冬を越せなかった野生の獣たちが溶けかかった雪の下から見つかり、折れた木々の白い肌は、まだ痛々しいみずみずしさを保っていた。
 館の長男ヨルムは、首都へ旅立つため、ようやく荷造りを始めていた。この冬は色々なことがあった。延びすぎたつららが館の二階の窓を割ったり、マリアーナの家の納屋が壊れたり。誰にとっても春の訪れは待ち遠しかった。凍り付いていた街道の雪が溶け、旅人が行きかうようになり、溜まりに溜まっていた手紙や新聞もようやく家々に届き始めている。
 ここ、クレイントンの森の奥深くにある館でもそうだった。
 ポストに何かかが届く音を耳ざとく聞きつけて、勢いよく飛び出したのはフェンリス。少年は、束になった郵便物を手に得意げに居間に戻ってくると1つ年上の兄に戦利品を見せびらかした。
 「こんなに! 二ヶ月ぶんだよ」
 「ひどいな。まるで干草の束みたいだ」
顔をしかめ、ヨルムは束の上から、一番新しい新聞を取り上げた。「どこも酷いみたいだな。首都のほうは雪が少なかったみたいだけど、ここから北は壊滅状態らしい。連絡の取れない村もあるとか」
 「あ、これ。ヨルム見て」
フェンリスが別の新聞を取り上げている。

  ”北部未開地域でも大量死を確認”  ”調査は困難” ――”貴重な動植物に多大な被害”

 「――どうやら、<アスガルド>も例外じゃないらしいな」
 「姉さんのお友達の人たちは大丈夫かな」
 「わからん。」
ヨルムは新聞の束をざっと眺め、郵便物のいくつかを確かめただけで、あとは投げ捨ててしまった。「ああ、考えることが多すぎる。寮に入るにも荷物を送る手段がない。持てるだけ持っていくか? マリアーナおばさんに頼もうか。それに家のことも…」
 「何言ってるの、私がいるでしょ」
振り返れば、彼らの姉・ユーフェミアが微笑みながら立っている。
 「言ったでしょ。他にやるべきことがあるし、もう子供じゃないんだから、やみくもに道を探したりはしない。」
 「でも、姉さん…」
ユーフェミアは、ちらと新聞に踊る見出しの文字に目をやったが、注意が注がれたのはほんの数秒のことだった。
 「皆は、大丈夫よ。私には分かる。今は、私にあそこで私に出来ることは何もないわ。」
弟たちは、ユーフェミアが冬の間に少し変わってしまったと感じていた。あの吹雪の合間の日に、マリアーナから腕輪を受け取った時を境にして。だがそれは、いずれ誰もに訪れる、大人への進化の過程かもしれなかった。ヨルムは新生活の準備に忙しく、フェンリスは冬の間、雪下ろしやガルムの世話といったこまごましたことを片付けていた。ユーフェミアは…、 
 彼女は、自分の持てる権利を最大限に生かすことに決めたようだった。この館の女主人として、それまで使われていなかった部屋の検分に乗り出したのだった。

 彼らは、祖父から受け継いだ館のことを、実はほとんど知らなかった。
 そもそもこの館は、一体いつごろから建っていたのか。館を包み込む森は深く、木立ちは天に聳え立っている。数百年をゆうに越えるだろう。その森と一体化し、所々が幹と一体化している石造りの館の基盤は、同じくらい古く思えた。
 入り組んだ廊下に大小さまざまな部屋が連なり、中にも外にも年代物と思われるが価値もよく分からない調度品が並んでいる。かつては大家族だったのだろうか、建て増しした跡があちこちに見られた。ユーフェミアたちは今まで、気に入った部屋を幾つか選んで使っていただけで、それ以外の部屋には無関心だった。マリアーナは、それぞれ部屋のいわくや歴史ある調度品について何度か丁寧な説明をしてくれたが、今ではそれらもほとんど覚えていない。ユーフェミアに興味があったのは祖父の残した膨大な蔵書だけで、それらはマリアーナの説明項目には入っていなかった。ヨルムの興味は残念ながら、高価な骨董品や調度品や美術品ではなかった。フェンリスには、森に囲まれた静かな暮らしと、広々とした住処でノンビリ暮らせることが大事だった。要するに―― 自分たちの館の正確な広さも、そこに収められた遺産の価値も知らないまま暮らしていたのだ。


 ユーフェミアが何かを探しているのに気がついたのは、冬も終りに近づく頃だった。最初は、雪で表に出られず退屈しのぎに歩き回っているのだと思っていた弟たちだったが、ある日の一言で、ついにその目的を知ることになる。
 「昔、父さんと母さんと一緒に初めてこの館に来たときのこと、覚えている?」
ヨルムとガルムは、顔を見合わせた。
 「昔って…、10年近く前のことだよね。お祖父さんがまだ生きていた頃の」
 「そう。あの時、私、丸一日いなくなっていたことがあったでしょ。お母さんが血相変えて探してたっていう」
そうなのだった。
 ユーフェミアは、ある日突然姿を消し、日が落ちても帰ってこなかった。半狂乱になって探し回る両親を見て、祖父は何か心得たようにふらりと立ち上がり、そして何事もなかったかのように、館の奥からユーフェミアを連れて来て、夕餉の席に座らせた。何処にいたのかを聞かれても、ユーフェミアには答えられなかった。どこ、という概念がなかったのだ。自分は、ただ家の中にいただけ――。一人ではなかったから寂しくなかった、と。
 「思い出したの。あの時、私、この館のどこかでマーサを見たの」
 「見たって… その人は、八代前だから、少なくとも何百年かは前の」
 「そう、だからきっと、肖像画とか、銅像とか、そんなものだと思うの。でも、この館のどこかだつたことは確かなのよ。…お祖父さんが迎えに来てくれて、それで戻ってきたんだもの」
 「引っ越してきたとき、一通り古美術の類は確認したはずだけどなあ」
ヨルムは首をひねる。「屋根裏部屋とか、かな…?」
 「それを探すの。もう一度見れば思い出せるかもしれない。あの時、お祖父さんが教えてくれた話」
それから冬の毎日、ユーフェミアは、弟のフェンリスも引き連れて館の中をくまなく探して回った。だが結果は無残。普段のずぼらがたたって、埃まみれの部屋を這いずり回り、全身真っ白になりながらガラクタの山に突っ込むのがオチだった。そうこうしている間に、雪は次第に弱まり、時折り厚い雲の切れ間から太陽の日差しが見えるようになり、いつしか季節は春になっていた。


 ヨルムが旅立つ日は、間もなくやって来た。
 その前日、ユーフェミアの提案で、三人で連れ立って祖父の墓を参りに出かけることになった。祖父を含む一族の墓地は、森の直ぐ側の村の教会堂の裏手にあり、丘を取り巻くようにして代々の館のあるじたちの墓標が並んでいる。
 村はクレイントンの森のすぐ側にある。マリアーナを含む遠い親戚たちが、ずっと昔から住んでいる。小さな集落は中心に高い教会の尖塔と広場を備え、道は古風な石畳。周囲には果樹園や畑が広がっていて、いつものんびりとした時間の中にある。三人揃って村に出かけることは、あまりない。村には店や娯楽施設はほとんどなく、若者たちが出かける場所は、少し離れた隣町だった。末の弟フェンリスは村にある学校に通ったが、ヨルムは最初から、町の進学校に通っていた。そしてユーフェミアは、大抵ひとりで館に残っていた。

 小さな村に住む人々は、ほとんど全員が顔見知りで、みな似通った背恰好だった。マリアーナと同じ、燃えるような赤毛にすらりとした背の高い体躯。腕も足も、そう太くはないのに力持ち。そして女性たちはみな、どこか浮世離れした光を瞳に宿している。この地方には珍しく、村の周囲は土地が豊かで、地平線まで続くユーフェミアの受け継いだ荘園は、作物のみずみずしい息吹と生命力に溢れて輝いていた。
 教会堂は、館と同じく何時からそこに立っているのか分からないような年代物で、村の多くの建物同様、今ではほとんど見られなくなった、こぢんまりとしていながら重厚な建築物だった。組み合わされた梁は隙間なく、床に敷き詰められた石は長年のあいだに磨り減っているもののすべらかに硬い。まだ日陰に雪の残る小道を、三人は白い息を弾ませながら歩いていた。寒気で痛めつけられたツタの残骸が黒々と覆う礼拝堂の側を過ぎ、墓所へ続く鉄のアーチを潜り抜けると、そこには無数の墓標が覆い尽くす丘の斜面が広がっている。
 大きさも形もさまざまだった。十字架のものもあれば、掘り出した石をそのまま地面に突き立てたようなものもある。一族で一番新しい祖父の墓は、一本の機の根元にあった。控えめな石版がひとつ。そこにはありふれた書体でそっけなく、「詩人にして歴史家 シゲイル・ブランフォードここに眠る」とだけ記されている。
 ユーフェミアは、墓標の側に持って来た花を供えた。春一番に咲く雪割り草の花束、館のある森で見つけたものだ。
 「ここへ来るのも久しぶりね。今まで年に一回しか来なかったから」
 「そうだね」
マリアーナから聞かされた、祖父の命日は冬至の少し前だった。ユーフェミアの誕生日と二日しか違わない。
 フェンリスは、しゃがみこんで墓標を撫でた。
 「僕、お祖父さんのこと覚えてないんだよな。会った時は小さかったから」
 「俺は少しだけ覚えている。一緒に天体観測をしたよ。お祖父さんの持っていた望遠鏡を使って」
 「あ、私もそれは覚えてる。」
 「そんなの、覚えてないよ。」
 「あんたはもう寝てたもの。」
 「えー…」
墓地に冷えた風が駆け抜けて行く。
 両親の墓標は、ここには無い。遠い東の大陸にある。いつかそこへ、もう一度行く日があるのかどうか、ユーフェミアには確信が持てなかった。そのくらい、かつての故郷は今や遠い場所だった。
 「ヨルム、フェンリス」
二人の弟たちが振り返る。「たとえ離れ離れになったとしても、必ずここへ戻ってきましょう。この場所は私たちの帰る場所、最後に訪れる場所になるはずなのだから」
ドキリとするような言葉だった。
 「…姉さん」
 「ああ、勘違いしないでね。私たちの誰かが、すぐに死ぬようなことになるって意味じゃないの。いつか、遠い日に…」
そう言って、彼女はふと、謎めいた微笑みを浮かべた。美しくも侘しげな、――どこか達観したような笑みだった。
 日が暮れるまで、まだ数時間はあった。いまごろ館では、マリアーナが、ヨルムの出発にむけてお祝いとお別れの料理を準備しているはずだった。明日旅立てば、順調にいっても次の帰宅は夏を過ぎた頃。忙しくてそれが出来なければ、冬の始め頃になる。
 まだ長い冬の痛手から立ち直りきっておらず、家の一部や納屋を修復中の村を通り過ぎ、顔なじみに挨拶しながら、三人は森に囲まれた我が家へと向かって歩き出していた。
 「これだけ由緒正しい家なら、家系図みたいなものがあってもよさそうなのにね」と、ヨルムは言った。「少なくとも15代前までは遡れる。今の国ができる前から、俺たちのご先祖様はここに住んでたってことさ。」
 「由緒正しいっていうか、ただ古いだけのような気もするけど…」
 「あら、古いほうがいいものはあるものよ。ワインとかね。血はどうだか知らないけど」
フェンリスは、やれやれというように首を振った。「僕は過去より未来を見ていたいな。未来は作れるけど、過去は自分じゃ変えられないじゃないか。」
 「――そうね。でも、私たちが今いる現在は、過去も、未来に繋がってるのよ」
森の入り口に達していた。まだ日は西の地平に達していないのに、木々のつくる黒々とした影は小道を覆っている。
 「そう。未来は無限じゃないわ。過去から繋がる糸は、織られるべき未来にも繋がっている…」
仕事の終りを告げる村の教会堂の鐘の音が、背後の世界に響き渡る。けれどその音は、森の小道に踏み込んだとたん遠くなり、やがて夕暮れの光とともにどこかへ消え去って行った。


 翌朝、ヨルムはユーフェミアとフェンリス、それにマリアーナに見送られて、首都ミッドガルドへ向かう長距離列車に乗った。去年、ユーフェミアが<アスガルド>からローグやルベットと一緒に乗ったのと同じ、首都を経て、東の果てラウネース地方へ通じている路線だ。列車は一週間近くかけて大陸を西から東まで横断する。ここからミッドガルドまでは乗り換えを入れて一昼夜。
 「向こう落ち着いたら手紙を書くよ。姉さんたちも、叔母さんも元気で」
 「ええ。体に気をつけてね」
 「行ってらっしゃい!」
何かにつけてリアクションの大きなマリアーナは、感極まったかのように目を涙に潤ませ、ハンカチでしきりと目元を擦っている。日差しは温かく、天気は良好。これなら旅は快適だろう。ホームは、見送りと出迎えの人でごったがえしていた。この冬はあまりに雪が多く、ようやく列車が運転を再開したのは、つい二週間前のことだった。
 時間が来た。汽笛を響かせ、長距離列車の黒い車体がゆっくりとホームを滑り出す。窓から手を振るヨルムの姿はあっというまに視界から消えた。
 「いっちゃったなあ」
フェンリスは、ぽつりと呟いた。「なんだか寂しいな」
 「すぐにまた会えるわよ。ところでフェンリス、ヨルムが何を勉強しに大学に行ったか知ってる?」
 「え? …えー、と」
 「古文書と遺物の研究。歴史よ。要するに」
ユーフェミアは駅の出口に向かって歩き出した。ちょうど見送りの人々が駅を去るところで、フェンリスも人の流れに押されるようにして姉の後を追った。
 「過去、か。」
ふいに彼は、その意味に気づいた。
 「僕は… 未来を作りにいきたい」
 「そうね。あなたはヨルムとは違う」
会話はそれきりだった。マリアーナが追いついてきて、折角だからユーフェミアに大人っぽい良い服を着せたい、とか、美味しい紅茶の店があるから付き合うといい、などと世話を焼き始め、それを断るのに必死だったからだ。マリアーナとしては、ユーフェミアが今年は旅に出ないと宣言してくれたことで、館の後継者としておとなしく留まってくれる気になっているようだった。このままだと、早く婿を取れと言って強制的に見合いをさせられるのも秒読みだった。たとえユーフェミアに、未来を読む力が無かったとしても、そのくらいは分かる。

 そして事件は、ヨルムが旅立って僅か数日後に起きた。



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