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 <館の女主人>



 最後に祖父、シゲイルと会ったのは、あれは十歳くらいの頃だっただろうか。両親に連れられ、弟たちと、四人でこの森を訪れたときの記憶は、今ではほとんど残っていない。かつては暗い森が怖かったし、館の入り口に寝そべって動かない老犬ガルムのことも、まるでドラゴンのように恐れていたものだ。ただ、迷宮のようなふるい館はお気に入りで、弟たちとあちこち走り回って探検した。あの頃は、いつか自分がそこに住むことになるとは夢にも思っていなかった。
 父は、技師だった。
 この大陸ではまだあまり使われていない飛行機の制御装置を調整することができ、東の大陸で職を得て、母と出会い、結婚した。東の大陸生まれのユーフェミアたちにとって、先祖代々暮らしてきたこの土地は、よそ者の土地のはずだった。祖父が亡くなり、館と森を相続するため、この地方に戻ってから、まだ五年にも満たない。幼い頃に何度か訪れていたとはいえ、この館のことも、親戚たちのことも、十分に知っているとは言いがたい。
 だが… ここでは不思議と、自分たちがよそ者だと感じたことはないのだった。ここに戻ってきた時からそうだった。何もかもがしっくりきて、かつて恐ろしく感じた森も番犬も、背の伸びた今では恐れるものではなくなっていた。むしろ東の大陸の、かつて両親と暮らした町のほうが、今でははるか遠い異国のことに思えるほどだ。
 両親が事故で亡くなった時のことを、ユーフェミアは、遠い昔のように思い出していた。身寄りもなく、親戚もいない。どうやって暮らしていこうかと思案した挙句、ユーフェミアは学校を止め、近所のパン屋で働き始めた。そんなときマリアーナが現れた。「わたしはあなたたちの叔母さんのようなものよ」… そして、彼らは海を渡り、この祖父の館に連れてこられたのだった。

 それ以来、マリアーナは足しげく館を訪れては、三人の身の回りの世話をし、この地方のことや先祖のことを色々教えてくれた。祖父の遺言で、館はユーフェミアが継ぐことになっているのだということも。祖父は両親より少し前に亡くなっていた。思えば不思議なことだが、ユーフェミアたち姉弟は、戻ってくるまでそのことも知らされていなかった。
 「ねえユーフェミア?」
 「はい」
箱を暖炉の上に置くと、ユーフェミアは振り返った。
 「今年の夏もあそこへ行くの?」
 「あそこって――」
 「お祖父さんが行っていた場所よ。」
ユーフェミアはどきりとした。「…叔母さん」
 「お説教じゃないわ、安心なさい。もう大人だもの、自分の道は好きに決めるといい。それにしても早いものだわ。あんなにちっちゃかったあなたが。ヨルムもフェンリスも、大きくなった。」
無言のうちに、暖炉の周りのソファに人が集まった。ユーフェミアと、ヨルム、フェンリス。黒い服を着たマリアーナが、真ん中に陣取っている。
 「あなたたちには、今まで何も話したことがなかったわね。この森のこと、わたしたちのご先祖様のこと。初代のフリッカ・クレイントン・ウィードは<アスガルド>の近くに住んでいたそうよ。あなたたちにも、その血が流れているの。シゲイル―― あんたたちのお祖父さんは、若い頃からご先祖様に興味があったらしくてね。シゲイルの息子のシグルズは、そんなの大嫌いだったけど」
 「そういえば、父からは、何も聞いたことがありませんでした」
 「でしょうね」
マリアーナは、お茶のカップを取り上げ、一口すすった。
 「でもシゲイルは分かっていた。ユーフェミアが生まれて、はじめてこの館へ連れて帰ってきたとき、言っていたもの。”この子はいつか館を継ぐんだ”って。――初代のクレイントン以降、この森と、この館の主は常に女性だったの。」
 「そうなんですか?」
想像もしてなかったことだった。常に女性? 祖父は、だからユーフェミアを後継者に選んだ? 「長女だから」という理由ではなく…
 「でも、前の館の持ち主は、お祖父さんだったはず」
 「いいえ。本当の館の主人は、あなたたちの八代前に途切れてしまった。マーサ・クレイントン、本来は彼女がこの館と森を受け継ぐはずだったの。でも、彼女は旅に出て、二度と帰って来なかったわ。――」
ヨルムが素早く反応する。
 「旅に出たまま? どこで死んだのかも分からない?」
 「ええ、そう。彼女のことを、私は私のおばあさんから聞いたわ。とても不思議な人だったと…。まるで、未来のことはぜんぶお見通しみたいな人で、<魔女>ってあだ名されていたそうよ。だけど館を継いだ直後、突然旅に出て、それっきり。」
 「何があったんですか?」
 「分からないわ。一体何があったのかは、誰も知らない。」そこで一息ついて、声の調子を落とす。「隠すつもりは無かったんだけどね、…ただ、わたしは心配なのよ、ユーフェミア」
マリアーナは、じっとユーフェミアを見つめる。「マーサのように、あなたも戻ってこないんじゃないかって。」



 マリアーナは、雪が降り出す前に館を発った。残された三人は、暖炉の側で微妙な顔で黙り込んでいた。
 「困ったわね。」
最初に口を開いたのは、ユーフェミアだった。「これじゃまるで、私は生まれたときから、この館の主人になるべくして期待されていたってことみたいじゃない。何百年も待ち望まれて生まれた、ただ一人の直系女の子ってことでしょ」
 「そうみたいだね。」
愉快そうに笑うのはヨルム。「俺たちは何も気づかなかったよ。村の人たちも、みんなそう思っていたのかな?」
 「お館様の実の弟だっていうのに、僕はこっちの学校じゃ少しもモテなかったよ」
と、フェンリス。
 「あんたたち、冗談じゃないのよ。まったく… 私、これじゃ期待に背けないってことじゃない」
マリアーナから受け取った腕輪が、今さらのように重たいものに思えてきた。だが、少なくともマリアーナは、ユーフェミアをここに連れてきてすぐそれを渡しはしなかった。数年は好きにさせておいてくれたのだし、祖父の遺言を聞かせたあと、この館を継ぐか否かを彼女の自由意志に委ねて決定もさせてくれたのだった。いわば、これは自分で選んだ道だ。その重さに気づいていなかったとしても。
 「でも、叔母さんは姉さんに、一体なにをさせたいんだろう。お館様って何をする人?」
 「いいところに気がついたな、フェンリス。お祖父さんが、この館で何をして収入を得ていたと思う?」
 「何って…」
 「地主さ。荘園からの収入で暮らしていたんだよ」
ユーフェミアは、うなづいた。「このあたりに、かなりの広さの畑と森を持ってるの。帳簿はマリアーナ叔母さんが管理しているわ」
 「そうだったんだ。全然知らなかったよ」
 「じゃあ、姉さんはここで、帳簿をつけたり畑の貸し賃を回収したりする仕事を?」
 「パン屋でお金の計算をしたことくらいはあるけど。そういうのって苦手。第一、家にひとりで篭ってるのなんて向かないわ。ヨルムじゃあるまいし」
 「お祖父さんや俺みたいな人間は、家に篭りきりで暮らせるのなら大歓迎だけどね。」
 「話を戻しましょ。気になるのは、戻ってこなかったっていう八代前のご先祖様よ。彼女に何があったのかしら」
ユーフェミアは、暖炉の上に置いた箱に、ちらと視線をやった。「魔女って呼ばれていたって。その人も、私と同じように、その… 未来が見えたんでしょう?」

 ”未来のことはぜんぶお見通しみたいな人で、<魔女>ってあだ名されていた”

ということは、ユーフェミアの力はイザベルの言ったとおり、一族が昔から持っていたものなのだろう。だが未来が見えたにも関わらず、彼女は二度と戻ってこなかった。――いや、未来が見えたからこそ、敢えて姿を消したのか。
 気がつくと、ヨルムがじっとこちらを見ていた。ユーフェミアのとは違う、明るい虹彩に彩られた緑色の瞳の奥で、読み取りがたい炎が揺れている。
 「姉さん。――今年も、あそこへ行くの?」
 「ええ」
考えるより早く、ユーフェミアは答えていた。「これで最後にするかもしれないけれど、今年は行かなくてはいけないわ。」
頷くと、ヨルムは、積み上げていた本の間から一通の手紙を取り出した。立派な紋章のついた、封蝋で閉じられた大きな封筒だ。
 「俺も決めたんだ。春になったら、ここへ行こうと思う。」
 「これ――」
 「首都ミッドガルドの中央大学へ進学することを認められたんだ」
 「えー、すごいや!」
フェンリスは無邪気に手を叩く。「一番頭いいとこだろ?! さすがだな、ヨルム!」
 だがユーフェミアは、沈んだ顔だった。今までずっと、三人一緒だった。お互い隠し事もなく、知らないことは何も無い関係がずっと続いていた。
 「奨学生だし寮住まいだから、もう姉さんには迷惑かけないよ。将来は、どこかの研究所か大学で職に就ければいい」
 「迷惑なんてそんなこと。でも一人で大丈夫なの?」
 「多分ね。冬には戻ってくるつもりだよ。そんなに遠くないし、すぐに会える」
 「僕、学校卒業したらどうしようかなあ…。」
弟たちの会話を聞きながら、ユーフェミアは口を開くことができなかった。館の女主人、この森を継ぐものとして、自分はここに留まらなくてはならない。それが不服なわけではないのだが、定められた道に微かな不安を覚えたのだった。見えない何かが――、運命と呼ばれるべきものが、物陰から静かにこちらを伺っているような気がした。



 夕方から降り出した雪は、夜が更けてもまだ降り続いている。
 夕食のあと、ヨルムとフェンリスはめいめいの部屋に戻って行った。ユーフェミアは、今の暖炉の側にまだ残っていた。火は弱まってはいたが、冷え切った廊下や階段よりは遥かに暖かだった。老犬ガルムは相変わらず暖炉の側に寝そべったまま、動こうともしない。静かな夜だった。雪が全ての音を飲み込んで、世界にただ一人であるかのような錯覚を起こさせる。
 ユーフェミアは決めかねていた。
 マリアーナから受け取った豪華な誕生日の贈り物を、どうするべきなのか。それが祖父や先祖の形見であり、自分が持つべきなのは分かっていたが、身に着けて出歩くには少し高価すぎた。古代の王権を象徴するもののように重々しく、そこらを歩けば強盗に襲われるか何かであっというまに失われてしまいそうだった。今の世の中にはあまりにも似つかわしくなかった。それは既に過ぎ去った時代の遺物なのだ。
 迷った挙句、ユーファミアはようやく、暖炉の上に置いた小箱を手にとって、部屋に戻る階段に足をかけた。ガルムが首を挙げ、彼女の後姿を見送る。雲の切れ間からうっすらと月が覗き、踊り場から見える雪原は暗く、凪いだ夜の世界でまるで、海のようだった。<黄金のチェス亭>の窓から見える、あの冷たい西の果ての海に良く似ていた。ホールでは賑やかに酒盛りの音が響いていても、一歩外に出れば無音の世界が広がり、暗い海には波一つ無く、太古の記憶を深くそのうちに沈めた荒涼とした水面がただ地平線まで続いているだけ。
 覚悟を決めなくてはならない。箱を開け、指先で金の腕輪をまさぐって持ち上げる。指先が緑の石に触れ、その冷たい感触に吸い込まれるように人差し指と中指で輪をすべらせた。思っていたほどそれは重たくはなかった。分厚くもなく、女主人に相応しく、ほっそりとした輪で四方とも均一な重さに作られていた。
 金の腕輪は、不思議なほどしっくりと腕に収まった。ユーフェミアは、雪に反射するうっすらと青白い月明かりの下、しげしげとそれを眺めた。刻まれた古い文字を指でなぞる。奇妙な感覚だった。それを身につけるのは初めてのはずなのに、自分は体のどこかで、それを”覚えて”いる。まるで、ずっと昔から知っているような… そんな。


 ふいに、目の前が真っ白になった。


 吃驚して、ユーフェミアは思わず目を擦った。たった今まで館の中にいたはずなのに、周囲は真っ白な雪野原。――いや、雪ではない。
 ユーフェミアは空を見上げ、舞い落ちてくる微かに灰色がかった白いものに手を伸ばした。それは灰だった。雪と見えたものは地面を覆いつくす灰。そして空は赤く燃え上がり、その色が地平線の彼方を染めている。そこは炎に蹂躙された世界、想像を絶する高温で焼かれ、焼け焦げることすらなく石も土もあらゆるものが灰と化した世界だった。全てのものが死んでいた。立ち尽くす、ユーフェミアに足元に一片の灰が落ちる。
 煙を上げ続ける空の果て、天を支える巨大な柱、炎に包まれ真っ赤な葉を茂らせた大樹が、黒々と聳え立っていた。


 「・・・・・!」


声にならない悲鳴をあげて、ユーフェミアはその場に蹲った。腕輪がするりと抜け落ちて、それとともに幻も消える。一瞬、だがそれは、あまりにも鮮明で、今までに感じたことも無いような圧倒的な臨場感を伴う幻だった。
 館の中は静まり返っている。ヨルムも、フェンリスも、目を覚ました気配はない。ガルムはさっきと同じ場所でうとうととしている。ユーフェミアは、足元に滑り落ちた腕輪に視線を落とすと、呼吸を整え、再びゆっくりと腕にはめなおした。

 幻が襲ってくる。だが、二度目のせいか、それは最初の頃ほどの恐怖をもたらさなかった。ユーフェミアは、落ち着いて燃え盛る炎を見据えた。これは幻だ。腕輪の感触は手元にはっきりしている。周囲は全て焼け焦げ、自分自身も降り注ぐ灰の中に居るが、熱くも無いし、苦しくも無い。
 これは―― 過去の光景だ。
 唐突に、彼女は気がついた。そう、過去だ。いつも感じる未来とは違う。言葉となって脳裏にあふれ出す「未来」には、いつもどこか、確信の持てない曖昧さがあった。これは違う。既に確定した出来事だ。
 ならば、いつ、何処で起きたことなのか。
 どうして、この腕輪を通して見ることが出来るのか――

 揺らぐ炎の向こうで、誰かがゆっくりと起き上がった。真っ白に灰を振りかぶり、服の裾はぼろぼろに焼け焦げ、顔も性別も良く分からない。炎に追われてここまで逃げてきた人のようだった。
 その人物は、人の気配に気づいて振り返った。ユーフェミアのほうを、ではない。同じ場所に、誰かがいたのだ。この光景の中で。
 「どうして、ここに…」
驚きとともに発声られた声は、どこか聞き覚えのあるような、女性の声。
 「戻ってきていたの、フリッカ…?」
ユーフェミアは腕輪を外した。十分だった。

 今まで過去が語りかけてきたことはない。だが過去は現在を作る基盤となり、未来へと続く始まりの時。知りたいことは山ほどあった。知るべきことも、おそらく同じくらい山ほどある。「フリッカ」とあの声は言った。過去は――そこから始まっているのだ。
 彼女には思い出すべきことがあったのだ。
 (私は知っている)
ユーフェミアは心の中で呟いた。そう、知っているはずなのだ。今知ったのではない。たった今、”思い出した”。
 かつて初めてこの館に訪れたとき、祖父は教えてくれたはずなのだ。始まりの刻のこと。自分の役目。そして、館から消えた魔女、マーサのことも…。


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