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<哀しみの幻影>


 時を告げる教会の鐘が鳴り響く。ユーフェミアは、立ち上がった。それほど時間は経っていないつもりだったが、小一時間は墓地にいたらしい。どちらにせよ、ここからクラウス邸までは目と鼻の先だ。夏の長い日は、暮れるまでたっぷりと時間がある。
 そういえば、事件の現場となったのは、この教会なのだった。町には、大きな教会は一つしかない。小さな教会も幾つかあるが、それらは、地元の名士の葬儀を執り行うにはみすぼらしすぎた。葬儀がここで行われ、棺が土に埋められ、参列者が帰っていった後、ローグは一人でここへ戻り、酔いつぶれていた。カイルはローグを探して、そこへやって来た…。
 ユーフェミアは、墓地から続く回廊を歩いていた。教会への入り口は、三箇所ある。ひとつは正面入り口、もう一つは裏の僧坊から続く僧侶専用の道。そしてもう一つが、葬列も通るであろう、墓地から続くこの通路の先にある。
 教会堂へ入ると、天井は高く、太い木の梁が渡されていた。くすんだ色の天井、重々しい彫刻に彩られた天蓋の下は、どこもほの暗い。窓がほとんど無いせいだろう。入り口から近い場所は明るいが、祭壇に近づくにつれて暗さは増す。そして祭殿の中央に掲げられた磔の十字架だけが、天窓から差し込む光の中に浮かび上がっている。一列目のあたりは、昼でも薄暗がりの中。足元に何か穴が空いている。祭壇の脇には見えにくい位置に地下室への入り口がある。手すりも何も無いが、地元の人たちは分かっているから、間違って落ちたりしないのだろう。
 ユーフェミアは、最前列の古びた木の椅子に腰を下ろし、正面の祭壇に刻まれた木彫りの模様を眺めた。椅子は体重をかけるとギシギシ言う。歴史のある、古い教会なのだろう。
 それにしても、まだ早い時間のはずなのに、不思議と人の気配がしない。表にはあんなに人がいたのに、教会の中まで入って来る人もいないようだ。
 と、そんなことを考えていた、その時だった。
 何かが、視界の端を過ぎったのは。

 「……!」

ユーフェミアは、思わず息を呑んだ。白いものが形を成し、崩れかけた上半身を悲しげに揺らす。――ロードゥルの遺跡で、月夜の晩に見たのと同じもの。声が出ない。ここには、守ってくれる黒い熊の女神もいない。
 だが、その幽霊に近づいて来る気配は無かった。ただ、ゆらゆらと、目の前で揺れているばかり。懸命に、何かを伝えようとしているようだ。顔が見えた。目をあわさないようにしていたユーフェミアは、ふと、その顔をどこかで見た様な気がして視線を戻す。
 ――まさか。
 「あなたは…」
 首が揺れる。ユーフェミアは亡霊の名を呼ぶ。
 「…カイル・フロベール?」
その瞬間、世界が変わった。耳元でごうっと音がして、ユーフェミアの意識は空へと吹き飛ばされる。



 琥珀色の世界だった。
 水面に映る幻影か、それとも水面を通して覗き込む世界。彼女は祭壇の前に居た。目の前のベンチに、正体なく眠りこけている少年がいる。くしゃくしゃの黒髪、泣きはらしたらしい腫れぼったい瞼。黒い礼服の上着は丸めて床に捨ててあった。剣も椅子の下に転がり落ちている。この頃、彼はまだ、肌身離さず剣を持つという習慣を持っていなかったらしい。
 教会の正面の入り口は閉まっている。だが、墓地から続く入り口はまだ閉じられていなかった。そこから誰かが忍び込んでくる。そっと、足音を忍ばせて… 眠っている少年に近づき、目の前で手を叩く。だが、少年は目を覚まさない。それが誰なのか知ろうと、ユーフェミアは目を凝らした。黒いマントですっぽりと体を覆っているが、体格からして大人の男に違いない。男は、マントの下にそっと手を差し入れ、ごそごそと何かを取り出そうとしている…
 と、どこかから足音が響いた。男は慌てて周囲を見回し、祭壇の脇の地下への階段に目を留める。男が穴に滑り込むと同時に、墓地のほうから別の誰かが入ってきた。
 カイルだ。
 「ああ、いた。やっぱりここか、ローグ」
ローグより一つか二つ年上のカイルは、この頃のローグよりずっと背が高い。やれやれといった表情で椅子の側に屈みこみ、眠りこけている少年を揺すり始めた。
 「おい、起きろよ。…ローグ? まったく… 飲みすぎなんだよ、弱いくせに」
 「…う、ん…」
 「ルシアが心配してる。嫌なのは分かってるが、相続人はお前なんだぞ、主役がいなくてどうするんだ。さあ、帰るんだ」
ローグは、いやいやするように手足を振り、
 「お前にやる。全部」
 「おい、…まだ言ってるのか、そんな話」
 「ゴッドフリーはもう居ないんだ。俺は好きにする… お前にやるよ… 全部。俺は… 出て行く、こんな町…」
地下室から黒い影が躍り出た。
 「カイル、そいつの言うとおりにしろ」
 「父さん!」
年かさの少年が弾かれたように立ち上がる。黒いマントのフードを脱いで、少年のほうを向く、――その男は、確かにラズリー・フロベール。
 「でも父さん。父さんが決めたことじゃなかったのか? ルシアをローグの婚約者にする、僕はフロベールの家を、ローグがゴッドフリーの家を継ぐって。ゴッドフリーとも、約束したんじゃないか」
 「そいつが自分で決めたことだ。言うとおりにすればいい。好きにさせてやれ、それで丸く収まるんだ」
少年は首を振る。断固とした表情で。
 「僕は嫌だ」
押し殺したような声からは、強い意志を感じる。
 「父さんの思い通りになんかしたくない。僕にだってやりたいことはある。ローグが町を出て行くなら、僕も出ていく」
 「カイル!」
 「父さんは僕らを、ただの駆け引きの駒にしか思っていなかった。仲の悪かったゴッドフリーを、僕を使って丸め込もうとしたりしてさ。本当はずっと、ゴッドフリーの財産を手に入れる機会を付け狙っていただけなんだ。ローグのことが邪魔だったんだろ? 知ってるよ。僕がゴッドフリーの跡継ぎに指名されれば良かったと、本当は思っていたはずだ」
 「何を言うんだ、お前は」
 「今だってそうだ。どうしてここにいるんだ?! そんな格好で!」
ラズリーの目がぎらぎらと光り、尋常ではない凄みを帯びているのが分かる。カイルは、後ずさりながらローグの足元に転がっている剣に手を伸ばす。ラズリーが吼えた。
 「カイル! 貴様、親に向かって武器を向けるつもりかッ」
鋭く光る短剣が抜かれた。飾り細工のある豪華な柄。反射的に、少年は腕を上げた。鈍い金属音。カイルの剣はラズリーのマントと服を切り裂いている。だがラズリーは、ぬかりなく服の下に鎧を着込んでいる。カイルのほうは、剣を取り落とし腕を押さえている。赤いものが床に伝った。
 「ふん、やはり貴様に剣など習わせるのでは無かったな」
本気の殺意の前に、少年は敵意を失って、ただ、震えている。剣術を習ったとはいえ、日常生活の中では生きるか死ぬかの覚悟など、身に付けようも無い。カイルは実の父親の変貌ぶりを前にして、ただただ気おされていた。後ろには、酔いつぶれたローグがいる。逃げるという選択肢も選べない。
 「このばか者めが。――親に逆らうとどうなるか、思い知らせてやる!」
声なき悲鳴を上げて、ユーフェミアは、目をつぶりそうになった。これ以上は、もう、見たくない。顔を背けようとしたとき、ぴりっと痺れるような痛みが腕に走った。見れば傍らに、カイルが立っている。
 彼は首を振って、ユーフェミアに見るよう促した。見届けて欲しいのだ。彼を襲った運命の、最期の瞬間を。
 ラズリーの巨体の影で、カイルの悲鳴が途切れた。どさっ、と床に崩れ落ちる音。その声でローグが呻く。ラズリーは、自分のナイフを仕舞いこみ、床に落ちていたローグの剣を拾い上げると、両手で高く掲げ、無常にも、息子の背めがけて振り下ろした。



 世界が赤く滲んでいく。
 悲鳴でかけつけた僧侶たちが、目を覚ましたローグが呆然と立っている姿を見て”人殺し”と叫びだす。町の人々が次々に駆けつける。遅れて、息を弾ませたラズリーもやって来た。マントも鎧もどこかに隠して、下手人だ、貴様は息子の仇だ、などと怒鳴っている。ローグは顔を真っ赤にしている。だが、”違う”とも”自分はやっていない”とも言わない。ただ混乱している。
 彼は歯を食いしばり、ただ一言だけ、こう叫んだ。

 「俺は―― 一度たりとも自分の心を裏切ったことは無い!」



 冷たい教会の椅子の上で、ユーフェミアは目覚めた。今見たものは、ここで起きた過去の出来事なのか。
 夢ではない。何故なら彼女の腕には、幽霊のつけた指の跡が、まるで火傷のように、くっきりと残されていたのだから。
 よろめきながら立ち上がったとき、会話しながら入ってくる僧侶たちとすれ違った。ユーフェミアを見て、驚いたように声を上げる。
 「あんた、どうしたんだね? まるで幽霊でも見たような顔色じゃないか。奥で休んでいくかね?」
ユーフェミアは苦笑し、手を振った。
 「大丈夫です、すぐ、そこですから。」
表に出ると、眩しい昼の光が目を指した。生者の世界の輝き、夏の青い空。ひとつ、深呼吸して上着を脱ぎ、腕の痣を隠した。証拠を見つける方法はある――カイルの幽霊が教えてくれた。
 足早に通りを横切り、おもむろにクラウス邸のドアを叩く。しばらくの間があった。
 「私です、ルシアさん。いますか?」
遠くのほうから、ぱたぱたと足音。ルシアが顔を出す。顔が蒸気して、涙が滲んでいる。
 「ごめんなさい、ちょっと取り込んでて。…さあ、入って。」
ユーフェミアを招き入れると、ルシアはそそくさと立ち去っていく。入れ替わり、ローグが置くの部屋から出てきた。見るからに不機嫌そうだ。
 「…何かあったの?」
 「別に、何も。」
ローグは、手に「釣具入れ」をぶら下げている。
 「今、どんな風に暮らしてるか聞かれたから、正直に答えたんだよ。それに、あんたとの関係を聞かれた。そしたら、あのざまさ」
 「正直に答えたの?」
 「ああ、隠すことは無いからな。」
 「…それが、まずかったんだと思う」
平和に暮らす一市民にとって、未開地で賞金稼ぎや野生動物に命を狙われ。危険に晒されながら暮らす逃亡者の生活は、あまりに刺激が強すぎる。ことにルシアのような女性には。
 ユーフェミアは、ローグのシャツがこの町に来たときとは違っていることにも気がついた。ルシアが着替えを用意したのだろう。もしかしたら、嫌がるのを無理やり着替えさせていたかもしれない。ローグの体には、癒えきらない傷も、辛うじて命をとりとめるような傷も山ほどある。
 「私のことは、何て話したの?」
 「世話になってる宿の手伝いだと言っといた。」
 「良かった」
 「何が?」
 「私まで、あなたと同じような生活してると思われたら困るでしょ」
 「…どういう意味だ」
くすっと笑って、ユーフェミアは腕にかけていた上着を羽織った。その動きに何気なく視線をやったローグは、上着で覆われていた彼女の手首にクッキリと残る指の跡に目を留めた。
 「おい、それ…」
 「聞きたいことがあるの」
ユーフェミアは、声を潜めた。
 「カイルが飾りのついた金の柄の剣を持っていたかどうか、覚えている? 特別に作られたものらしいんだけど」
 「…そういえば、あったかもしれない。一度見せてもらったような気がするが、本人が気に入っていなかったらしく、持ち歩きはしなかった。それが?」
 「ロードゥルの遺跡で見た犯人の短剣というのは、それと同じ模様じゃない?」
ローグの目が大きく見開かれていく。
 「そうか…! 同じしつらえで、剣と護身用の短剣を作らせていたということか。それで見覚えが。だとすれば、それは簡単に捨てたり売ったりするわけにはいかない。手がかりになる。でもどうやって探し出す?」
 「方法があるの。来週、町長さんの作った新しい町内会館の落成式で、ルベットが公演をする。そこへ、犯人自身にその武器を持って来させるのよ。」
それだけ言って、彼女は口を閉ざした。今考えていることは、単なる思い付きに過ぎない。あの狡猾なラズリーを巧く釣り上げるには、余っ程巧くやらないと。ローグは、怪訝そうな顔をしている。
 「ユーフェミア、お前何を見た?」
 「幽霊に会ったの」
単刀直入に、彼女は答えた。「彼が教えてくれた。誰が犯人なのかを私は知ってる。でも今は教えない―― あなた自身の目で確かめて。決着の付け方は、任せるわ」



 ローグとの話を終えてホールへ出ると、箒を手にしたルシアとすれ違った。さっと顔を赤らめ、どこかぎこちなく掃除を始める。話を聞いていたのだな、とユーフェミアは思った。
 「ごめんなさい」
まだ何も言わないうちから、ルシアは詫びの言葉を口にした。
 「邪魔しちゃいけないと思って」
 「ここはあなたの家なんだから、謝る必要はないと思うわ。でも、知らないほうがいいこともある。」
ルシアの瞳には、泣きはらしたような跡がある。心労のせいなのか、まだ若く、ユーフェミアと年もそう変わらないはずのこの主婦の目元には、既に諦めという名の歳月が刻まれようとしている。
 「私には何も教えてくれない。あの時も、今も。ローグもカイルも、クラウスだって… 私は知らないことばかりだった。この十年、何も知らずにいた。知らないことは幸せとは違う。私は、いつだって蚊帳の外」
 「知れば、もっと辛いかもしれない。それでもいいの?」
ルシアは、ぎゅっと箒を握り締めて俯いた。泣いているのか。
 「…今は、ご主人のことだけ考えて。きっと良くなる、そうすれば胸のつかえもとれる」
 「でもローグは、この町には戻らないのでしょう?」
潤んだ瞳が、無言のうちに彼女の本心を訴えかけている。ユーフェミアは自分でも不思議なほど冷静になっている自分に気がついた。この町に住む人々の感情すべてを、客観的に見ている。同情することも、憤慨することもなく。すべてが、スクリーンの向こうで繰り広げられるドラマのようだ。
 「ひとつだけ、教えて欲しいの」
ユーフェミアは、ゆっくりと言葉を区切りながら、たずねた。
 「――本当は、誰と結婚したかったの?」
ルシアが硬直した。ローグが出てきたからだ。話の流れが見えず、二人を見比べて不思議そうな顔をしている。
 だが彼女は思い切ったように口を開いた。
 「…好きだったわ。親が決めた相手でも、わたしはあの頃のあなたが本当に好きだった」
遅すぎた告白。だがローグは、軽く肩をすくめただけ。
 「俺もあんたのことが嫌いだったわけじゃないさ、――義姉さん。」
ルシアの顔色が蒼白になった。彼女は唇を噛み、ローグに箒を投げつけてスカートを翻した。ばたばたと走り去り、台所のドアが激しく閉ざされる音が聞こえた。
 「あーあ。…らしいといえば、らしいけど。」
 「じゃあ、どうすれば良かったんだよ」
ローグはむすっとした表情である。ユーフェミアが戻ってきた時と同じ顔。成る程、そういうことか。
 「ルベットが来たら、ルシアさんも交えて相談しましょ。彼女にも協力してもらうことがあるの」
 「あいつを巻き込むのか?」
 「それが彼女の望みなのよ。すべての未練を断ち切る唯一の方法だわ」
それ以上、ローグは何も言わなかった。



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