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<疑惑の花>


 重苦しい沈黙を切り裂くようにドアベルが鳴った。ルシアははじかれるようにして部屋を飛び出し、慌しく階段を下りてく。ローグは隣の部屋に隠れる準備をしている。
 「…まあ! 義父さん。えっ? お客様…」
意図的に少し開けられた扉から、玄関で応対するルシアの声が聞こえる。ルシアの声に混じって聞こえる太い声。それと、ルベットの声。
 ユーフェミアは部屋を出て、二階からホールを覗き込んだ。ルベットと目が合う。
 「やあ、ユーフェミア。」
 「ル… おじいさん、専門談義はもう終わったの?」
 「ああ。学生さんたちと話し込んでいたら、こちらの紳士に声をかけられてね。目的地が同じだというので、連れて来てもらったんだ。」
ルベットの隣には、がっしりとした体躯の紳士が立っている。さっき大通りですれ違った人物だ。金縁の眼鏡、なでつけられた髪。特注らしい仕立てのスーツの襟元には、金色のバッドが光っている。立派な口ひげには若干白いものが混じっているが、それでも尚、威風堂々とした顔は若々しい。病床にあるクラウスのほうが、かえって老けて見えるくらいだろう。ルシアがお義父さんと呼んだのは、こちらの人物か。
 「ちょうど、息子の見舞いに行こうと思っていたところなので、馴染みの店に立ち寄ったら、面白そうな話が盛り上がっていたもので仲間に入ってみたら、とんだ掘り出し物というわけだ。まさか、こんなところで高名なトランデル博士にお会いできるとは、思ってもみませんでしたよ。」
男は、ルシアのうろたえるのも構わず、我が家のように踏み込んでくる。二階に上がってくる気だ。ユーフェミアは、背後の部屋でローグが察してくれればいいのだがと思いながら後退った。
 「フロベールさんは独学で植物の道を研究されておるそうで、立派なハーブ園をお持ちとか。あとでお邪魔することにしたんだ」
 「はっはっは、大したものではありませんよ。しかし、クラウスは法学専門で――植物学の先生とは、どのようなお知り合いだったので?」
 「なに、孫がな。」
 「あ、ええと。はい。私の先輩だったんです。お世話になったので…。」
ユーフェミアは、とっさに答えた。大学など行ったことはないが。
 二階のドアが開けられる。何事もなかったかのように、クラウスがこちらに顔を向けた。ローグの姿は影も形もない。ユーフェミアは、ほっと胸をなでおろした。
 「こんにちは、義父さん。」
 「今朝は、元気そうだな。クラウス、体の調子はどうだ。まだ起き上がれないのか?」
 「ええ…。情けないことですが、足に力が入りません」
 「そうか。」
ラズリー・フロベールは大げさに眉をしかめ、金の指輪をはめた太い指で、毛布の上から義理の息子の細い足をさすった。
 「まさかお前まで、こんな不幸に見舞われるとは。我が家は本当に呪われておるのかもしれん。早く良くなってもらわんと」
 「申し訳ありません。ルシアにも迷惑をかけてばかりで」
 「わたしは気にしていませんよ。きっと良くなります、ゆっくり治してゆけばいいんですから。」
そう言いながらも、ルシアははや涙ぐんでいる。
 「さて、あまり病人を疲れさせるのもなんだし、お客人もいらっしゃる。わしは、これでお暇することにしよう。先生、またあとでお迎えに上がりますから」
言うなり、ラズリーはのっそりと身を翻した。
 「おお、そうだ。ルシア、例の薬だが。まだあるかね?」
 「はい。」
 「そろそろ古くなっているのではないかな。あれは鮮度が肝心だ。新しいものと交換しよう。持ち帰るから、準備しておくれ」
 「分かりました。」
ルシアとラズリーは、揃って階下へ降りていく。二人の足音が遠ざかってゆくと、ユーフェミアはほっとして胸をなでおろした。
 「ローグ、もういいぞ」
クラウスが声をかけると、続きの奥の部屋からローグが顔を出した。何故かひどく不機嫌そうだ。
 「…ラズリーの奴、昔よりツヤツヤして元気そうじゃねえか」
 「まあそう言うな。あの人は何も気に病むことなんてないのさ。今も現役の町長だし、つぎつぎと新しい事業を起こして成功させてる。本当は、私が手伝うべきなんだが…このざまでは」
 「ずいぶん具合が悪そうだな。足に力が入らないとか?」
ルベットは、寝台に近づいて毛布をめくる。<黄金のチェス亭>では冒険者たちの怪我や病気も看ている。大抵の症状は、そこいらの医者より遥かによく知っている。
 「足は全く動かせんのかね」
 「ええ…。去年、落馬してから、体が麻痺して、思うように動かないのです。医者の話では、どこか大事な神経を痛めたのではないかという話ですが」
細くやせ細った足は、折り曲げられて冷たくなっている。「傷は太ももに出来ました。たくさん血が出て、腫れて高熱が一週間以上続きました。もうこれまでかと思いましたよ。奇跡的に助かりはしましたが、今でも寝たきりです」
 「ふむ。…」
足を叩き、肌を軽く押し、それからルベットは、クラウスの頭のほうに回って瞼をひっくり返したり、耳の後ろを見たり、肩の辺りを揉んだりしはじめた。そのうち、クラウスは大あくびをした。
 「いけない、もう眠くなってきた。最近、眠くていけません。ほとんど目を開けていられなくて…」
 「どうも不可解だな。」
ルベットは、首をひねる。「心当たりのある原因が幾つかある。だが、そのどれも現実的ではない。はてさて」
 「どうなんだよ。兄貴は治りそうなのか?」
ローグが、じれったそうに言う。
 「まあ待て。わしは医者じゃない。薬草学には通じていても、これを治す薬を思いつくには、まずは原因をよく調べてみなければならん。…何かが足りんな。そう、下に降りてみよう」
ルベットを先頭に、ユーフェミア、ローグが後に続く。ルシアはちょうどラズリーを表へ送り出したところだった。
 「奥さん、台所を少し診せてもらいますよ」
 「どうしたの? 何があるの?」
朝の光の差し込む台所の窓からは、小奇麗に整えられた庭が見て取れた。色とりどりのハーブが花を咲かせ、蝶が飛んでいる。
 ルベットは、ひくひくと鼻を動かしながら台所を言ったりきたりしはじめた。戸棚、床、天井まで。
 「何をしているの?」
 「探しておるんだが。…昨日、確かにここで嗅いだ覚えがある。おお、ここだ」
片隅の戸棚の引き出しを開く。中にはオイルに漬け込んだハーブ、塩などの瓶…。その一番端のあたりが開いていて、瓶の底の跡がくっきりと残っている。
 顔を近づけ、ルベットは目を閉じた。
 「…間違いないな。つい最近までここにあったはずだ。奥さん、ここにあった瓶は何処へ?」
 「さっき、義父が持って帰りました」
ルシアの表情は強張っている。「あれは、主人が倒れた後、義父が持ってきてくれるようになったものなんです。栄養剤だから、と言って。でも、どうしてそれを?」
 「それはな、ある地方でしか育たない、特別な花の匂いだからだ。瓶の中身はどろりとした透明な蜜ではなかったですかな。白い花の咲く植物の蜜を煮詰めて作る。その花は、ここの庭には無い。…」
 「どういうことなんだ? ルベット。じらさないでくれ」
 「その薬は、植物学界ではこう呼ばれておる。<モーリアスの毒>」
一瞬の絶句の後、ルシアは声にならない悲鳴を上げて両手で顔を覆った。倒れ掛かる彼女を、ユーフェミアが支える。
 「毒? 毒だっていうのか? それをラズリーが兄貴に飲ませようとしていたと」
 「少なくとも、もう既に冒されているようだ。眠りの時間が長くなるのが特徴でな。毒が体に溜まると足から順に動かなくなり、少しずつ上半身へと痺れが移動して、やがて眠っている間に息が止まる。毒性はそう強くない、体に証拠も残らん。時間はかかるが、完全犯罪なる毒殺には最も適した薬剤だよ。しかし、こんな恐ろしいものを育てている人間が居たとはな」
 「どういうことなの? あの人は、クラウスさんを養子にしたんじゃないの?」
 「結論を急がぬことだ。確かめねばならん。幸いにして、わしは今日のランチに誘われておる。だがその前に、ひとつやるべきことをやっておくとしよう」
ユーフェミアは、ローグと二人がかりでルシアを椅子に座らせ、冷たい水を彼女の口に含ませた。その間、ルベットは台所を漁りまわり、何種類かの薬草と、塩や、その他の様々な調味料を並べ始めた。
 「ルベット、何を始めるんだ?」
 「無論、解毒薬を作るんじゃ。心配いらん、<モーリアスの毒>は、薬を飲んで下せば体の外に流れ出す。あとは大量に水を飲むこと。起きている間、ひたすらこれを心がければいい」
 「では、あの人は助かると? …」
 「おそらくな。体の痺れは毒によるもので、神経はどこも傷ついとらんだろう。毒さえ消えれば健康に戻る」
それを聞いて、ルシアの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。ほっとしたのも束の間、ユーフェミアはその時、背筋にぞっとする気配を感じた。振り返ると、ローグが部屋を出て行くところだ。
 「ローグ!」
慌てて追いかける。
 「何をする気? ラズリーさんのところに押し入るつもりじゃないでしょうね」
ローグのただならぬ形相と殺気は、今にも縄を食いちぎりそうな獣のそれだ。
 「あいつが兄貴を殺そうとした、それは確かなことだ。許せるか!」
 「でも、カイルさんの仇うちはどうするのよ」
ユーフェミアはローグの腕を掴んだ。「落ち着いて。十年前と同じ失敗を繰り返すつもり? それじゃ私たちがついてきた意味がないじゃない。何を成すべきか、誰が罰を受けるべきなのかよく見極めなきゃ。」
台所のほうでは、ルベットとルシアが大忙しだ。
 「今はこらえて。町長さんが疑わしいのは分かったけど、本当に意図して毒を盛ったのか分からない。それに、義理の息子を殺す意味があるの?」
 「……。」
 「ローグ、あなた何か隠してるでしょ」
ユーフェミアは、ローグの目を覗き込む。
 「カイルさんを”殺したいほど”憎む理由、って言った時、あなた何か不自然だった。何を考えていたの? 弁解もせずに、この町を逃げ出したのは――」
 「ああ、分かった、分かったよ。まったく、あんたときたら。どうしてそう、肝心なところだけは鼻が利くんだか。いいぜ、どうせ十年も前の話だ。カイルも、もうこの世にはいない。バラしたって怒られやしないだろう。
 ――あいつは、カイルはルシアのことが好きだったんだよ。ずっと隠してたけどな」
ローグは、ユーフェミアの手を振り払って、ホールの端に腰を下ろす。吹き抜け二階の窓から差し込んだ光が足元に落ち、床タイルの模様を鮮明に描き出す。
 「カイルは、俺より何でもよく出来て、勉強も剣の腕も上だった。財産もあったし…俺は親の決めた婚約者なんざ真っ平だったし結婚する気も無かった。ルシアのことが嫌いだったわけじゃないが…正直あいつのほうが相応しいと思ってた。だから言ってやったんだ、自分の気持ちに正直になれと。あいつ真っ赤になって、まあ… それで」
 「それで喧嘩に? ルシアさんのことを避けたっていうのも?」
 「皆して頑固なんだよ。自分に素直に生きればいいのに! ゴッドフリーにも言ってやったんだ。婚約なんざ解消したいって。無理やり結婚させるつもりなら、俺は家出てやるってさ。ゴッドフリーの家には、ラズリーが預けた一人息子の立派なカイルがいる。ゴッドフリーにとっちゃ実の息子も同然だ。そいつに家を譲ればいいじゃないか。…なのにあの頑固親父ときたら、こっちの話なんてちっとも聞きやがらねえ。やれ祖先の血が、守護女神がどうの、名誉の血筋がどうのって。どれもこれも、俺の知ったことじゃない。あの頃、俺が荒れてたのは…まあ、そんな理由だ。カイルとは無茶苦茶な喧嘩も何度かしたが、それが憎しみだったのか、別の何かだったのか、今でもよく分からない」
話しているうちに、ローグの気配が落ち着いてきた。それは憎しみなどではなかっただろう。始まりは、少年たちがお互いに向けた嫉妬と羨望。人の運命のもつれの原因は、得てして単純なものかもしれなかった。
 だが、未熟な激情を利用して、悲劇を仕組んだ誰かがいる。
 ユーフェミアの頭に、ひらめいたことがあった。
 「クラウスさんは今、町長さんの家の養子なのよね? でも、ローグの伯父さん…ゴッドフリーさんの家の財産も受け継いでいる」
 「ああ。そのはずだ。ゴッドフリーとラズリーは昔から仲が悪かったんだが、ラズリーが息子のカイルの養育をゴッドフリーに任せること、ゴッドフリーの跡継ぎの俺に親戚のルシアを結びつけることで仲直りしようとしてた。カイルの養育を任せる話は、俺が生まれる前についていたらしいけどな。カイルは俺の2つ上で、俺が伯父の家で熊に魅入られて、突然跡継ぎ宣言された時には、カイルはもうゴッドフリーの家に住んでたよ。」
 「じゃあもし、あなたが居なければ、カイルさんがゴッドフリーさんの跡継ぎになって、ルシアさんと結婚してた?」
 「かもな。」
 「あなたが家出して戻らなかったら、ルシアさんとの婚約は解消されてカイルさんと結ばれていたかしら。」
 「さあな。頑固なゴッドフリーのことだ、命の続く限り何年も待ち続けたかもしれない。もし命尽きてても、あのクソ真面目なカイルのことだ。自分からは切り出せなかっただろうし、周りが勧めても律儀に断り続けたかもしれない」
 「旅先で、あなたが死んだら?」
 「その時はゴッドフリーも諦めたかもしれんが。…いや、待てよ。兄貴を養子に迎えて、今と同じようにルシアと結婚させてたかもしれない」
 「じゃあ、あなたが無事で、何者かがカイルさんを殺してしまったとしたら?」
ローグは眉をひそめた。「何が言いたいんだ」
 「仮説よ。大事なことなの。…その場合は、あなたがゴッドフリーさんの財産を継ぎ、ラズリーさんの血縁のルシアさんと結婚して… 将来はラズリーさんの財産も継ぐことになったんじゃないの?」
 「…そうかもしれないな。考えたことはなかったが」
 「ゴッドフリーさんが亡くなったあと、跡継ぎのあなたは、まだ正式に遺産を受け継ぐ前だった?」
 「ああ、まだ。葬式の日までゴッドフリーが亡くなったことは知らなかったし、葬式が始まってばたばたしてたし」
ユーフェミアと、ローグの視線が合った。

 「そうか。…もしかして、俺が殺されるはずだったのか」

ユーフェミアは頷いた。犯人には、時間が無かったはずだ。ローグは都合よく酔っ払っていて、しかも一人で姿を消した。もしもカイルが探しに来なかったら、時間はたっぷりあったはずなのだが。



 昼のちょっと前、予告した通りラズリー・フロベールはクラウス邸に迎えを寄越した。立派な四頭だての馬車で。町長宅に招かれる客人ともなれば、こうして派手に街中をパレードさせられるものらしい。本人の派手な格好からしても、ラズリーが目立つこと、己の権力を誇示することに無関心でないことくらい分かる。
 馬車に揺られながら、ユーフェミアはそっとルベットに囁いた。
 「解毒剤は出来たの?」
 「わしの調合に間違いなどないわい。まだ若いし、一週間もすりゃ足は動くようになるだろうよ。お前さんのほうはどうだった、ユーフェミア」
 「ローグをなだめておいた。ローグが隠してたことも分かったの。…後で話す」
馬車は広場をぐるりと一周して、大通りへ向かう。わざわざ人通りの多いほうへ向かっているのだ。成る程。
 町長の屋敷は海を見下ろす小高い丘の下にあるのだと、出発前にルシアから聞いた。丘の上にあるのがゴッドフリーの屋敷で、今は誰も住んでいない。ラズリーはゴッドフリーの屋敷が上にあることが気に入らなかった。ゴッドフリーのほうが祖先から受け継いだ牧草地が広いことや、町での名声が高いことも。そして求めようとも得られない、祖先の誇りを持っていることも。ローグの伯父、ゴッドフリーは古い血筋の家柄で、家計図を遡れば高名な戦士や豪商が幾人もいるという。以前、ローグも言っていた。”そのむかし四つの大国が戦った時は一族総出で戦いに赴いたらしい”と…。
 カイルが死に、ローグも遁走した後、クラウスが養子として迎えられた時、ラズリーはフロベール性を名乗ることを条件に、クラウスを自分の跡取りとすることを宣言した。血縁のルシアと結婚させたのち、広場の側に一件家を与えたのもラズリーだ。彼は丘の上の屋敷を嫌い、ゴッドフリーの営んでいた牧場経営もやめさせて牧草地は売り払わせた。ローグが子供の頃、馬に親しんだ牧場も、今は人手に渡っている。
 やがて丘の上に、人気もなく静まり返った屋敷が黒々と姿を表した。ラズリーは取り壊せと要求していたが、クラウスは、それだけは拒み続けているという。そこには、兄弟の思い出も残されていた。たとえ牧場は無くなっていても、いつかまた、そこに住める日が来ないとも限らない。
 丘に近づくと、ふもとにある、真新しい真っ白な建物が目に入ってきた。輝くような白。色とりどりの花を咲かせた庭に包まれている。
 「どうやらあれが、町長氏の豪邸らしい。」
町の家々とは比べ物にならないくらいの広さだ。馬車は入り口の門から滑り込み、玄関前で執事に迎えられて止まった。町長氏がにこやかに出迎え、二人を中庭へと案内する。
 「庭の東屋に食事を用意させました。先生、お酒はいけますかな」
 「ええ、少しなら。この子はあまり飲みません」
ユーフェミアは、ちょっと肩をすくめた。そうだ、町長氏は自分をオッディ大学の学生で、クラウスの後輩だと思っている。演技をしなければ。
 東屋は、色とりどりの花が咲き乱れるハーブ園の中にあった。ルベットは目を輝かせる。
 「これは、素晴らしい。珍しいものが沢山だ。取り寄せたのですかな?」
 「ええ。どれも最初は苦労したものですが」
席につくなり、二人は話し始めた。
 「昔から園芸が好きでしてな。薬草学も趣味で始めたのです。その中でも先生の著作はどれも素晴らしかった。今は―― 北部未開地でフィールドワークをされているとか。」
 「あそこは新種の宝庫です。ありふれた種も、他には見られない姿で暮らしている。すべての野生が本来の姿に戻る。まさに学者が一生をかけるに相応しいところですよ」
そこには、あの飄々とした小人のような老人、ユーフェミアのチェス相手の姿はない。まるで、本物の学者のような―― いや、本物の学者なのだ。こちらの世界でのルベットは、世界で指折りの高名な植物学者。<黄金のチェス亭>にいながら、世界に新発見を知らせ、有意義な論文を届ける超一流の専門家なのだ。ユーフェミアは驚きつつも、新しく発見したルベットの姿を見守った。
 料理は美味しく、どれもふんだんにハーブが使ってあった。二人は熱心に話しこんでいる。ユーフェミアは、お手洗いに行くふりをして席を立った。
 屋敷は広い。
 ラズリーは早くに妻を亡くし、一人息子も十年前に失い、それ以来、家族を持っていないという。この広々とした屋敷に手伝いや、仕事の部下とともに暮らしている。屋敷の一階部分の大半はラズリーの行う貿易事業の事務所になっており、二階がプライベートな空間。趣味のハーブ園は中庭で、前庭は見目い草木が、まるで城の庭園ように整えられている。緑と花に包まれた館。だが、その何処かに、人間を証拠を残さず毒殺できる恐ろしい毒をもたらす花が咲いているはずなのだ。
 ラズリーがクラウスに与えていた<モーリアスの毒>の原料となる花は、ルベットでなければ見つけられない。ユーフェミアに出来ることは、それ以外の疑いと可能性を、一つずつ確かめること。
 中庭に戻るふりをして、玄関ホールのほうまでぐるりと回った。建物はどこもかも真新しく、塵ひとつ落ちていないほど掃き清められている。大きな明るい窓の並ぶ廊下の壁には、絵やタピストリなどがあちこちにかけられ、彫刻が置かれている。フロベール家の事業がうまくいっていることは確かだ。
 誰かに見られているような気がして、ユーフェミアは、ふと足を止めた。廊下の突き当たりに、人物画がかけられている。描かれているのは、色白でほっそりとした、まだ頬の赤い少年だ。膝の上に剣を置き、こちらをまっすぐに見つめている。遠目にはよく分からなかったので、近づいてみた。…額縁に、何か、文字が…。
 「ここにいらしたのですか」
びくっとして、ユーフェミアは振り返った。ラズリーがにこにこしながら立っている。
 「なかなかお戻りにならないので、迷われたかと思って迎えに来ました」
 「ええ、とても広いお屋敷で…。すいません。それに、とても素晴らしいものが沢山あって。」
 「ほう、美術に興味がおありですかな」
ユーフェミアは、ほっと胸をなでおろした。大丈夫、何も疑われるはずがない。
 「この絵は、どなたですか? この絵だけ新しいものに思えるのですが」
 「…これは」
ラズリー氏の声の調子が変わった。「これは息子なのです。十年前、暴漢に襲われて死にました。」
 「まあ…」
それでは、これが、カイル・フロベールなのだ。父親とはあまり似ていない。見た感じは優しそうだが、ローグは、剣の腕ではかなわないと言っていた。
 「この剣は?」
 「ああ、私がしつらえてやったものです。本人がどうしても、剣術を学びたいと言うもので…。この家は商人の家だし、もう剣がものを言う時代は終わった。剣術など必要ない、と口を酸っぱくして何度も言ったのですが、それなのに」
ラズリーの口調は、心底、息子の死を悲しんでいるようだった。ユーフェミアは、唾を飲み込んだ。もう少し。
 「クラウス先輩から少し聞いたことがあります。身内の哀しい出来事… さぞ、この方もご無念だったでしょうね」
一瞬の気まずい沈黙。―― だが、ラズリーの声は、変わらない。
  「そうですとも。ひどい事件でした。それで私は、息子のために犯人に賞金をかけてやったのです。さっさと捕まって罪をあがなってくれれば良いのだが。さ、戻りましょう、そんな暗い話は今日の日に似つかわしくない」
これ以上、話を引き伸ばすのは無理だった。向こうが一枚上手のようだ。ユーフェミアはしぶしぶ、ラズリーの後に従う。…絵の中で時を止めた少年に別れを告げるとき、少年は、ほんの少し悲しげに顔を歪めた気がした。
 立ち去ってゆくユーフェミアの背後から、描かれたカイルの視線が、まだ追いかけてくるようだった。


 庭に戻ると、ルベットが上機嫌だった。上等のワインをふるまわれて、頬が蒸気している。
 「大丈夫?」
ユーフェミアが近づくと、老人は、顔をくしゃくしゃにして笑った。「おおユーフェミア。ここは素晴らしいところだよ。ほら、これがサイサラ草。<アスガルド>でもとれるやつだ。傷薬に使う。すりつぶすのを手伝ってもらったことがあっただろう?」
 「そうだった? ちょっと水を飲んだほうがいいんじゃない」
 「いや、何だいじょう…ぶ…おっと」
ユーフェミアは慌てて、バランスを崩しかけたルベットを支える。
 「ちょっと、…」
 「しーっ。大丈夫、ほんとは酔っ払っちゃいないよ」
顔を覗き込んだとき、ルベットはいたずらっぽくニヤリとした。「奴がお前さんを探しに行っとる間に、例のものを見つけた。有難うよ、時間を稼いでくれて」
 「…!」
 「ういー、っと。やれやれ。少し回ってしまったかな」
何食わぬ顔で演技に戻る。なんという、食えない爺さんだろう。ユーフェミアは呆れた。
 「すいません、祖父が。」
 「いや、何。興味深い話を沢山聞けて今日は大変に楽しかった。名残惜しいが、私も仕事に戻らねばならない。――ああ、そうそう。先生、来週の件、忘れないでくださいよ。」
 「はいはい。もちろん忘れませんよ。来週末に、新しく出来た町内会館で特別演説をやるっていうお話。面白い話を用意していきますよ」
 「是非とも。お待ちしておりますからね」
ユーフェミアは、ルベットを抱えて来たときと同じ馬車に乗り込んだ。ラズリー邸が遠ざかってゆく。ほっとすると同時に、少し疲れを感じた。
 ルベットが上着のポケットをごそごそやっている。ふわり、と甘い匂いが漂った。
 「それ…」
内ポケットから取り出したハンカチにくるまれた、まだ咲き初めの花の蕾。クラウス邸の台所に漂っていたのと同じ香りだ。
 「あやつめ、わしが来るからとこいつを鉢植えに移して植え込みの向こうに隠しておった。だが、わしの鼻はごまかせんぞ。」
 「隠したってことは、効能も知っていたのね。」
 「ああ、間違いなく。それで、ルシアに渡してあった瓶も回収したんだろう。悪どい奴じゃな。だが… 奴がクラウスを殺す理由があるだろうか? 何故、自分の養子を」
 「私のほうも面白いことを聞いたわ。あの人、ローグに賞金をかけてる… って」
 「ほう」
ルベットの目が光った。「どおりで。人一人殺めたにしては、高すぎると思ってたんだよ。」
 「どういうこと?」
 「賞金首は、罪状で基本の賞金額が決まるんだよ。それに逃亡年数、逃亡中の再犯なんぞを積み上げていく。ただし個人や団体、政府なんかが、基本賞金額の一定割合まで、賞金額を上乗せすることが出来るんじゃよ。ローグの場合、初犯で一人。それも当時は未成年だったわけだから、まぁ普通なら二百か。十年の逃亡を入れても、竜殺しの分が無ければ、本来の賞金額は、二百五十ってとこだ。」
 「そんな…。それじゃ、三倍以上じゃない」
まだそんな仕組みを知らなかったローグは、自分の賞金額を知って恐れを成したかもしれない。高額賞金に釣られた賞金稼ぎに狙われることも多かっただろう。町を離れ、一人で逃亡生活を送る中、彼は一体何を考えていたのだろうか。
 「すべては一本の道を示し始めた。――だが、最後のひとかけらが足りんな。」
ユーフェミアは、頷いた。
 「ラズリーがクラウスさんを殺そうとしたことは証明できても、カイルさんを殺そうとした証拠が無い。…ローグがロードゥルの泉で見たという凶器の短剣、それが見つかればいいんだけど…」
だが、その望みは最初から殆ど無い。理由も、今はまだ推測でしかない。その理由は、義理の息子だけではなく、実の息子まで手にかけるほど強いものだったのだろうか?
 大通りの、教会に近い広場に差し掛かったところでユーフェミアは馬車の御者に声をかけた。
 「ここでいいわ。あとは歩いていくから、ありがとう」
馬車を降りると、そこは教会の前。重たい鉄の扉は今日は開いていて、礼拝に訪れる人、階段で蝋燭や花飾りを売る人、談笑する人々などで賑わっている。
 「私、ちょっと寄って行くところがあるの。あとで、クラウスさんのところにも顔を出してから宿に戻るわ」
 「おお。そうか、じゃあまた後で」
ユーフェミアは、墓地のほうに足を向けた。教会の裏手、白い墓標が整然と並ぶ。足は自然に動いていた。何となく分かる。
 しばらく歩いて、彼女は目的のものを見つけた。


 カイル・フロベール ここに眠る
 享年17際


そっけない文字が、花に飾られた石の真ん中に刻まれている。花は、誰かが供えたものか、まだ真新しかった。ユーフェミアは、墓標の前に膝まづき、亡き少年の魂に祈った。
 彼は、知っているはず。―― そう、彼は知っているはずなのだ。
 自分を殺したのか誰か。親友に罪を着せたのが一体誰なのか。


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