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<月明かりの館>


 ローグに促されて、一行は朝食は短く切り上げてすぐに歩き出した。リリーは朝はほとんど食べなかったし、朝の冷たい空気は肌の上から突き刺すようで、のんびりできる気分ではなかったこともある。
 振り仰げば、灰色の<大樹>の影が朝もやに包まれ、西へ向かって長く延びていた。空と一体化する靄の中でそれは、まるで天を支える巨大な太い柱のようだった。


 そして道は道なりに、<大樹>を背に歩くこと数時間。一行は、昼前には目的の遺跡に到着した。
 そこは鬱蒼とした沼地の中にあり、石は苔むし、門のアーチは赤と緑のつる草にからまれて奇妙なオブジェと化している。窓は形を無くしてひしゃげ、部屋の中からは亡霊の腕のように枯れた草が延びて風に揺れている。
 ロードゥルの遺跡… ロードゥルの館は、そうした廃墟と庭園をあわせた、ごく小さなものだった。
 「遺跡というには最近のものに思えるわね」
ユーフェミアが言うと、ローグは顔をしかめた。
 「…そうか? 少なくとも、ここに人が住んでたのは歴史が始まる前だろう」
 「それほど昔のことじゃないよ。」と、リリー。「大地殻変動が起きて隆起した山で北の海がふたつに割れ、南の島々が海に沈んだその頃、気候の変化でこの辺り一体が一度、砂漠と化した。大樹が枯れたのは、もっとずっと昔だから関係は無いがね。――その環境の変化で大昔の生き物はほとんど死んでしまうか全く別のものに進化して、そのままのものは大樹の根の下にだけ生き残ったんだよ。」
 「お詳しいんですね」
 「主人が好きだったんだよ。」
リリーは、巨漢の息子の腕の中から館を眺めている。歩くときに使う白い杖も、彼女の腕の中にあった。
 「降ろしてちょうだい、オッドヴィル」
リリーが肩を叩くと、オッドヴィルは何も言わずに優しく小さな母親を地面に降ろした。その動作はずいぶん丁寧で、知恵足らずの粗野な若者とは思えないほど紳士的だった。
 自分の足で地面に立ったリリーは、ショールをかけなおして辺りを見回し、何も恐れることなく館のほうへ歩き出す。その後ろを、オッドヴィルがのっそりと続く。ユーフェミアは、ローグのほうを見た。
 「…まだ昼だ、大丈夫だろう。ここが目的なら、あのバアさんの好きにさせるしかないさ」
 「昼間は危険は無いってこと?」
 「さあね。幽霊が出ないぶん、マシだってこと」
言うなり、ローグは背にあった無骨な大剣を揺すりながら草むらに消えていった。何かあったら助けに入るつもりなのだろう。ユーフェミアはため息をついた。もちろん、ローグがずっとついてきてくれるとは期待していなかったが。もともと、行き帰りの道中だけ警護してくれる約束だったのだ。
 リリーたちを追いかける少女の後姿を、草むらから静かに息を殺して見つめる者がいたが、誰もそれには気づいていなかった。


 結局、新しく見えたのは外壁だけのようだった。
 アーチ門をくぐると、目の前に現れたのは荒涼とした草地で、草の間からぽつぽつと石のブロックが顔を出している以外は人の手の入った気配などほとんど無いも同然だった。元は前庭か何かだったのだろうか。奥のほうに建物の入り口らしき空洞が見え、崩れかけた壁に囲まれた庭の左右には壁の上に上がる階段、さらに草に埋もれた地下への階段。側には土台しか残っていない小屋の跡があり、表からは見えなかったが、奥のほうに塔らしきものが見えた。枯れ果てた太い倒木の下を水が流れ、赤黒い鉱物の色が溶け出している。そのどれもが少なくとも数百年を経ているように見え、確かに廃墟というよりは遺跡だった。
 リリーの姿は何処にも無い。わずかな時間の差だったはずなのに、もう見えなくなってしまった。
 「リリーさん! どこですか?」
ユーフェミアの声は響くことなく石と地面の闇に吸い込まれてしまう。人の気配はない。返事も無い。あたりは静まり返り、ありとあらゆる生き物が息を潜め、時の歩みを止めてしまおうと懸命に試みているかのようだ。空を見上げる。太陽は―― 間もなく天頂に達する。だが複雑に入り組んだ建物の影は濃く、
 「おい、何してる」
ふいに、庭を囲む壁の上から聞き覚えのある声がした。ローグだ。ユーフェミアは、ほっとして胸をなでおろした。
 「どこから登ったんですか?」
 「裏からだ。一周してみたが、裏にも問題はない。――その顔、まさかバアさんたちとはぐれたのか?」
ローグは、壁から飛び降りて近づいてくる。
 「消えちゃったんです、すぐに追いかけたのに。」
 「地下だろ。よく見ろ、そこにでかい足跡がある」
彼は、ユーフェミアの足元の草が倒れているところを指した。「…迷いがないな。あのバアさん、ここのことをよく知っているのか?」
 「来たのは、はじめてだと思いますけど。亡くなったご主人が遺跡が好きだったそうで…」
彼女はそこで言葉を止めた。いくら知り合いとはいえ、宿の宿泊客のプライベートを、何もかも話してしまうのは良くないことに思えたからだ。
 ローグは、いつもの如く、他人の素性や目的に興味は無さそうだった。ただ、放っておくわけにもいかないと思ったらしい。
 「付いて来い、足元に気をつけろ」
草を分け、地下へと続く穴倉のような階段へと進む。階段といっても半ば土に埋もれ、ところどころに石の突き出た坂道と化している。明るい日差しの下から入る地下の闇の世界は、四方から押しつぶされるようだ。ユーフェミアは、手探りで壁に沿って歩を進めている。
 進むにつれ、目が慣れてきた。完全な闇と思われた地下通路には、実際は天井が崩れたところから光が差し込んでいる。通路の壁には年月の刻んだ水の跡、植物の根が入り込んで割れた跡などがある。
 ふと足元に、何か茶色っぽいものが転がっていることに気がついた。木の枝だろうか? それにしては。
 「…!」
ユーフェミアは声なき悲鳴を上げて後すさった。それは人間の下半身だった。ぼろきれのようなズボンの中から骨、きれいに肉のなくなった足の骨が突き出している。死んでどのくらい経ったのだろう。生きていた頃の面影は全く無く、上半身も近くには見当たらない。
 獣の臭いが、まだ辺りに濃く漂っていた。ズボンの端は鋭い獣の顎に食いちぎられたようになっており、狼に襲われたように思われた。
 「どうした。死体がそんなに珍しいのか」
 「だって…」
 「ここらじゃ、ありふれた光景さ。宿の客で戻ってこない奴は、大抵どこかでこうなってる。行くぞ」
ユーフェミアは、目をそらしながら遺体の側を通り過ぎた。こうして命を落とした者も、幽霊になるのだろうか? そうは思えなかった。この遺跡には死の気配すらなく、枯れ果てた諦めと、過ぎ去った時の残骸だけが空しく散らばっている。本当に恐ろしいのは、不慮の事故で命を落とした者ではなく、強い意志を持って自らの死を見つめていた者。
 …それにしても、もう随分歩いたはずなのに、リリーたちの姿が見えない。



 しばらくのち、二人はまた地表に出ていた。通路の先にあったのは、四方を壁に囲まれた小さな庭園だった。庭園といっても、本当にそうだったかは分からない。ただ、奇跡的に一本だけ立っている優美な柱と、その周りに咲く野生の草花が、そのように見せているだけのこと。雑草にも木にも花の咲くものが極端に少ないこの<アスガルド>において、色鮮やかな花らしい花が咲いているのは珍しい。
 ローグは驚いたように周囲を見回している。
 「こんなところがあったんだな。だが…ここは、どこだ? 塔も見えない」
 「あ。あそこに」
リリーとオッドヴィルはそこにいた。柱の影に、まるで彫像のように佇んでいる。
 「リリーさん!」
杖に両腕と体重を預け、彼女が覗き込んでいるのは小さな泉だった。あるいは井戸かもしれない。丸くくぼんだ地面の穴に、どんよりと濁った緑色の水がわだかまっている。その水は腐ったような嫌な臭いを発し、表面には小さな泡がこぽこぽと浮き上がっている。
 「リリー…さん?」
ユーフェミアの声で振り返った老婦人の目には、異様な光が宿っている。ぞっとするような気迫。
 「見つけた」
低い声で呟く。「やっと… ここまで来た」
 「見つけたって…。その泉?」


 あなたが何処に眼を隠されたのか
 私は知っている
 あの泉の中だ



リリーは、うっすらと笑う。
 「…そうとも、間もなくだよ。今夜、満月が空に上る。泉は映し出す… あたしの求めるものを… ここへ」
 「満月、って。おいバアさん、まさか夜までここにいるつもりなのか?!」
詰め寄ろうとするローグの前に、オッドヴィルが立ちふさがる。あー、あー、と声にならない声をあげ、キッと彼をにらみつける。
 「お前が守るつもりか?  いくら腕力が強くても、この世ならざるものは追い払えんぞ」
 「あー、うー!」
オッドヴィルがめちゃめちゃに腕を振り回した。狙っているわけではないのでローグには当たらない。が、風圧で草や落ち葉が吹っ飛ぶくらいの勢いだ。
 「マム、守る。マムに近づくな」
 「おい! 俺はあんたのお袋のために言ってやってるのに」
ローグは後退りしながら怒鳴る。
 「リリーさん…最初から、そういうつもりだったんですか?」
 「悪いわねえ」
うっすらと笑みを浮かべたまま、老婦人は泉を見下ろしている。
 「知ってたんですね。ここに何があるか、あなたは… …そう、あなたはここへ来るのが、初めてじゃない…」
ユーフェミアの脳裏で、何かが音をたてて収まった。動き出す歯車、自然に言葉が紡ぎだされる。


 復讐の宴
 声奪われた こま鳥は
 契り結びし男の不義に憎しみを燃やし
 愚か者は裏切り者の心臓食らいて
 地の果てに立つ



ユーフェミアは片手を額に当てた。噛みあわなかった幾つかの事実を繋ぐ、欠けていた真実に出会い、彼女は、今ようやく理解した。だが、無意識の中で繋がれたその物語の凄惨さに、彼女のまだ若い意識は混乱していた。
 リリーは、よく響く美しい声で笑う。
 「そう、知っていたわよ。初めて見たときから、あんたが、あたしと同じ詩の才能を受け継ぐ者だってこと。同じ力を持っていることも。ただ、あたしのは、あんたと違って弱すぎたのねえ。体がこんなになってから漸く知ったわ… あれは、あたしが若い頃に書いていたあの歌は、ぜんぶ自分の身に将来起こることだったんだって」
 「お前…」
ローグは、抜かりなくオッドヴィルの動きを注視しながら、リリーのほうにも視線を振る。今、ローグとユーフェミアは、リリーたちを挟んでほぼ対角線上にあった。ユーフェミアの足元には、さっき通ってきた地下通路があり、ローグの側には、崩れ落ちていない立派な石積みの壁が山のようにそそり立っている。
 「ばかな人生を歩んできたもの。あれほど繰り返し、何百何千回と我が身に警告し続けていたというのに。おお、リリー・サーガ、哀れな予言者! あたしの歌はあたしを幸せにはしてくれなかった。あの人はただ、わたしの遺産が欲しかっただけ。あの頃のあたしは美しかった… 歌で世界をかしづかせ、ありとあらゆる富と名声を手に入れられたものを!」
 「あなたの、その体の傷は… ご主人がつけたものなの?」
 「そうよ、でもあたしは死ななかった。声を失った惨めなこま鳥、だけどあたしにはこの子がいる」
オッドヴィルは、話を理解してはいないだろう。だが、母の呼ぶのは分かったらしい。ローグを無視し、のっそりと元の位置に戻り、リリーを守るようにその後ろに立つ。
 「復讐を! 泉は我が望みを映し出す。この二十年、片時も忘れたことはなく、捜し求めてきたあの男。この世界の何処かで、まだ生きていることは分かっていた。でも、それ以上は、あたしの詩は教えてくれない…。」
 「夜までここにいて、生きてここを出られるかどうかは分からないぞ。俺たちも巻き込むつもりか!」
 「ああ、あんたたちは構わないよ。外にいておくれ。あたしは怖くない… どうせ半分死んだ身だ。亡霊も同じこと」
 「最初から、そのつもりで…。でも、どうして」
ユーフェミアは、一歩踏み出そうとした。背後に迫るものに気づかずに。
 「それならどうして、護衛を雇おうなんて」
と、その時だった。
何か冷たいものが足首を掴んだ。力ずくに引っ張られ、後ろざまに穴の中に転がり落ちる。
 「きゃっ…?!」
 「ユーフェミア!」
体に衝撃を感じ、何かともみあった次の瞬間…… 世界が暗転した。



 頬に当たる何かの冷たさと、体の痛みで目を覚ました。
 見えているものの意味が分かるまで、しばらく時間を要した。幽霊ではない、人間の足。それは… ユーフェミアのみじろぎする気配に気づいて振り返る。体が動かない。ユーフェミアは、自分を見下ろす野卑な男の顔を首の動作だけで見上げた。
 「気がついたか。悪いな、手荒なマネをして」
宿に来た、五人の賞金稼ぎのうちの一人だ。あと二人、後ろにいる。どうやら幽霊にさらわれたわけではなかったようだ。ほっとしたものの、この状況は良くないことに代わりは無い。
 「奴の潜んでいそうな場所を探っていたら、大当たりだ。しかも連れがいやがるなんてな。…おっと、連れじゃねぇなんて言い訳はしないことだな。あんたが悪いんだぜ? 賞金首なんかと親しげに話し合ってたんだから」
むっとして、ユーフェミアは体を起こした。縄がきつく食い込んでいる。落ちた天井から差し込む光の加減からして、もう日がだいぶ傾いているようだ。ということは、ここはロードゥルの遺跡からそう遠くはない。
 「人質のつもりですか? あなたたちの探している人とは面識ありますけど、途中で出会って護衛に雇っただけですよ。」
 「さあて」
にやにやしながら、男はユーフェミアの顔を覗き込んだ。「それならそれで構わんさ。こんな未開地なら、若い娘が出かけて無事に戻ってこなくても、誰も文句を言いやしないだろ?」
 「…!」
 「おいおい、あんまり脅かすな。これじゃどっちが悪役か分からん」
そうして三人の男たちは下卑た笑い声をたてた。ユーフェミアは、からからに乾いた苔に覆われた石壁に背中をもたせかけた。冷たい、でこぼこした石に横たわっていた体が痛むが、大丈夫、命の危険はない。ただ、ローグが… ローグとリリーは無事だろうか。
 下のほうから、足音が近づいてくる。二人。音からして狭い階段が続いているらしい。
 入ってくるなり、一人が口を開いた。
 「奴は逃がしちまった。バアさんと大男は元の場所にずっといるぜ。ありゃあ、どっか頭のおかしい自殺志願者だな」
 「ほっとけ、金にならない奴は。それより、ちゃんと伝えたんだろうな? かわいこちゃんはお預かりしてます、って」
どうやらリリーとオッドヴィルは自分たちの目的を果たせそうだ。だがローグは? 今、どこにいるのだろう。
 ユーフェミアは、笑いあう賞金稼ぎたちの様子を伺った。<黄金のチェス亭>で見たときと同じように、武装している。ローグ一人で五人を相手に出来るだろうか? いや、それ以前に、果たして助けになど来てくれるだろうか…。
 そこに考えが至ったとき、ユーフェミアの胸に不安がよぎった。そう、ローグは賞金首で、人殺しの嫌疑で追われる身なのだ。荒野に生きるならず者、ユーフェミアとも一夏の縁しかない。
 「あの人は戻りませんよ。警護の約束をしたのは、私の雇い主とです。私を助けることは契約の中には入っていませんから」
 「まあ、その物好きな雇い主も、この遺跡で夜を明かすっていうからねえ」
男はくっくっと笑い声を立てる。「この遺跡」。ということは、ここもロードゥルの遺跡の一部で、ユーフェミアがさらわれた場所から、そう遠くはないということだ。視線を巡らせると、男たちの背後に小さな窓が見えた。その特徴的な窓の形には見覚えがある。入り口に近い場所から見えた、塔の窓。――そうか。この男たちは、遺跡を見渡せる塔の上に陣取っているのだ。
 意識が澄んできた。ユーフェミアは、後ろ手に縛られた縄目を動かしてみた。とても軽く解けそうではないが、賞金稼ぎたちはユーフェミアをごく普通の少女と侮っていた。これならば、多少無理をすれば逃げ出せる。…無傷で、とはいかないだろうが。
 ユーフェミアが逃げ出すそぶりも見せないので、賞金稼ぎたちは、のんびりと夕餉の支度を始めた。どこから持って来たのか、薪を積み上げて火をおこし、談笑しながら湯を沸かしている。その間、一人が絶えず窓辺に立ち、もう一人はどこか見えない場所にいる。残る三人が食事をし、のんびりとくつろいでいる。
 ユーフェミアは、急に朝から何も食べていないことを思い出した。そういえば、空腹を感じる暇も無かった。リリーは、まだ泉の側にいるのだろうか? 夕日の赤い光が天井に空いた穴のあたりを過ぎると、辺りの気温は急激に下がり、闇がそこかしこから這い寄って来る。

 ”この遺跡には、亡霊が出る”

ユーフェミアは思わず体を震わせた。目の前の荒くれたちは、そんなことを言っても信じはしないだろう。亡霊を避けて遺跡を出たところで、じきに夜になる。外は狼の群れが彷徨う、身を隠す場所もない危険な草原。どちらも同じこと。
 「うひょう、見ろよ、あれ」
窓辺に腰掛け、見張りをしていた男が声を上げた。
 「何だ?」
 「でかい狼だ。ありゃバケモンだぜ」
男たちが窓に集まっている。ユーフェミアは、そっと腕のあたりを動かした。こちらから注意の逸れている隙に。だが、階段へ続くと思しき出入り口には、まだ一人、見張りが立っている。そこからは逃げ出せない。塔の上だとすれば、飛び降りても逃げられまい。
 「本当だ、よそじゃ見かけない種類の狼だな。この辺をねぐらにしているのか」
 「まさか上がって来たりはしないだろうな?」
 「さあて。そこまで頭が良くはないだろうが」
遠くで、狼の声が聞こえた。ユーフェミアの脳裏に、地下道で見た白骨遺体と、その奥にいるはずのリリーとオッドヴィルのことが浮かんだ。狼は、巨漢のオッドヴィルを見て逃げ出すだろうか。一匹ならそうかもしれない。だが、飢えた狼が群れで襲い掛かったとすれば…。
 「あ、おい。こら!」
入り口にいた男が、ユーフェミアの動きに気づいて大股に近づいてくる。しまった。
 「何してる! こいつ、縄をこんなに…」
頬に衝撃が走り、ユーフェミアは顔から床に倒れこんだ。賞金稼ぎたちのあざ笑う声が聞こえる。
 「おいおい、手やわらかにしてやれよ。折角の人質だっていうのに」
 「大人しくしてな、お嬢ちゃん。朝になれば解放してやるよ。今逃げても、狼の餌食になるだけだぜ?」
 「……。」
せっかく緩んだ縄が、さっきよりもキツく締め上げられる。痛みで涙が滲み、空腹で頭がぼうっとする。そのせいか、意識の片隅で何か白いものが蠢くのを感じた。誰もいないはずの暗がりの隅、幻覚なのか、それとも本当に何かそこにいるのか。
 突然、グルルル、という低い声が聞こえた。
 「お、おい」
ざわめき、男たちの足音が乱れる。獣の臭い―― ユーフェミアは顔を上げた。目の前に、青い狼の瞳がある。
 「きゃ、」
声を上げるより早く、狼はきびすを返し、男たちのほうを向いた。縛られて転がっている獲物は逃げないので後回し、ということなのか?
 舌をだらりと下げた巨躯の狼は、用心深く尾を立てたまま、低くうなり声を上げ、ひきつった顔の賞金稼ぎたちを見回した。狼の遠吠えが聞こえる。塔の中に入り込んだのは一頭のみ、だが、通常の狼の二倍もあるその大きな狼の前に、人間など、赤ん坊も同然に思えた。
 「こ、こいつ…」
剣を振りかざし、一人が突っ込んでいく。だが剣の一振りは空しく空を切り、ひらりと避けた狼は、男の二の腕にガブリと食いついた。飛び散る鮮血、床に落ちる剣。
 「うわあああっ」
 「ひぃっ」
パニックに陥った別の一人がベルトから短銃を抜く。
 「おいっ、よせ! こんな狭いところで」
 「外へ! 早く!」
ユーフェミアは、踏みつけられないよう壁にぴったりと体を寄せているのがやっとだった。われ先にと狭い部屋を飛び出し、転がり落ちるように階段を駆け下りていく足音が遠ざかっていく。それらは、やがて塔の外へと消えていった。
 ユーフェミアは、ほっとして、床に残された刃物を眺めた。うまく使えば縄を切れるかもしれない。だが、時間はかかるだろう。
 ――ほっとする?
 まだだ!
目の前には、はっはっと息をついている灰色狼がそびえて立っている。階段のほうに耳を澄ませ、賞金稼ぎたちが戻ってこないことを確認すると、ゆっくりとした足取りで、ユーフェミアのほうに近づいてくる。
 不思議と、怖いとは思わなかった。その瞳は、何処かローグの連れた黒い女神に似ていた。知性があり、戦いの後でも穏やかだ。
 狼は鼻面で合図してユーフェミアに後ろを向かせ、腕を縛っているキツい縄目に歯を立てた。時間はかかったが、なんとか脆い部分を噛み千切って縄を解く。半日ぶりに腕が自由になったユーフェミアは、両腕の、血行が悪くなって白くなった部分をさすった。擦り切れた跡もある。戻ったら、ルベットの特製傷薬を貰わなくては。
 (――ふむ。)
狼の声が響いた。
 (驚かんようだな)
その声は低く、カーラのものと違って年かさの男性のものに思えた。
 「ありがとう、助けてくれて。でも、どうして私を?」
 (用があったからだ。縛られたままの相手に頼みを告げるわけにもいくまい。)
 「頼み?」
 (その前に、紹介しよう)
言うなり、狼は一声、空にむけて声を放った。窓に歩み寄り、ユーフェミアに外を見るよう促す。
 いつしか表は真っ暗になっていた。まばゆい月明かり、低い満月の照らし出す長い影が、館全体を覆っている。塔の前に集合したのは、大きなものから小さなものまで、約百頭の灰色狼。
 (わが一族だ。わたしは「月」、荒野のあるじ。…みなからはスコルと呼ばれている。)
ユーフェミアは、狼に伴われて階段を降りた。塔は元はもっと高かったものが、半分ほどに折れ、今では三階分の高さしかなかった。
 月明かりの庭で、狼たちが吼えた。尻尾を振る幼い狼、不審げな顔をした若い狼、見るからに年老いた、白い毛のものもいる。
 「よく宿の近くに来ていたのは、あなたたちなの? 私に用があったっていうこと?」
 (確かめていたのだ。だが、それは確信に変わった)
そう言うと、スコルはユーフェミアの前に立った。
 (我らは待っていたのだ)
 「待っていた?」
 (予言の巫女の現れるのを。さあ、我々に教えてくれ。この呪いはいつ解けるのか? 我々は、いつ元の存在に戻れるのだ)
眩暈がした。…考えてみれば、狼が喋ること自体が不思議だった。昨日から、思いもかけないことばかり起きていて、驚く余裕もなかったのだけれど。
 (どうした)
 「ちょっと…待ってね。状況を理解するわ。ええと、まず。あなたたちは… 何?」
狼は低い笑い声をたてた。声は、喉のあたりから響いてくる。
 (そうだったな。我々は荒野の民。――何千年か昔、南のほうから、この<アスガルド>へと移り住んできた)
 「何千年? そんな昔に?」
 (…正確なところは覚えていない。だが、我々は、もとは人間だったはずなのだ)
まさか、と言いたくなった。だが、狼たちは皆、真剣な表情でユーフェミアを見つめている。…疑えば食い殺されそうだとすら思える真剣さで。ユーフェミアは口を閉ざしていた。次に口を開くときは、慎重に言葉を選ばねばならない。
 (呪いをかけた魔女は言ったのだ。やがてこの地に力ある巫女がやって来て、我々に告げると)
 (満月の晩だけ、呪いは薄まり、我らは人の力を少しだけ取り戻す)
 (あれから幾千の時が流れ、今やわが一族もこればかりになった。あとは皆、ただの獣と化して荒野に散っていった)
 (――さあ巫女よ、教えてくれ。我らは待つことに疲れたのだ。もはやこれ以上、待つことは出来ぬ)
 「分かった」
頷いて、ユーフェミアはスコルの前に膝をついた。狼に手を伸ばし、両手でそっと、その尖った顔を抱く。「でも怒らないでね。どんな結末が視えようとも」
 (無論だ)
いつの間にか、狼たちがユーフェミアを取り囲んでいた。白く輝く月の光が降り注ぐ。痛いほどの視線が周囲から注がれる。かつて忌まわしいものとして嫌われ、自分でもあまり好きではなかったその力が、これほどの数に望まれるものになろうとは。
 ユーフェミアは心を落ち着かせ、自然に湧き上がる言葉に舌を任せた。


 荒野の月よ聞け、汝らを待つ運命を
 風の時代、狼の時代は過ぎ
 やがて凪が訪れるだろう
 鎖はちぎられ、狼は走り出す

 荒野を訪れる、獣たちの主
 彼の手に戒めを解く刃がある
 天の柱が崩れ落ち
 太陽が翳り、空は暗く

 時は来たれり、三夏の内に
 赤い髪の若者が
 汝らに救いをもたらすだろう


オオオオ、と、狼たちが吼えた。(救いの時は来たれり!)
灰色の風が沸き起こる。(我らは間もなく自由になる!)
そのあまりの大音量に、ユーフェミアは両手で耳を押さえた。
 (感謝するぞ、新世界より来る巫女よ。我らの友情は常に汝と共に在り!)
吼えるなり、スコルとその一族は走り出した。まるで嵐だ。遺跡の岩を飛び越え、草を踏み潰し、歓喜の声とともに月夜の荒野へと散らばっていく。
 後に残されたのは、ユーフェミアただ一人。



 呆然としていたのも束の間。どこかそう遠くない場所で人の怒号が聞こえた。金属のぶつかりあう音、銃声。
 「そっちだ、逃がすな!」
 「首は傷つけるよな! 賞金が貰えなくなる」
ユーフェミアは、声のするほうへ走った。枯れた木々の向こうに崩れかけた壁がある。声は、その向こうを移動している。登れないほどではないが、もたもたしていたら見失ってしまう。じれったい。少女は駆け出した。元は廊下だったらしい狭い路地を駆け抜け、崩れかけた階段を駆け上がり、中庭のような場所を見下ろすバルコニーの上に飛び出した。銃を構え、真下を狙っている男がいる。――ユーフェミアは、何も考えずその男に全力で体当たりを食らわせた。
 「わあっ」
バランスを崩した男が、銃もろとも手すりの向こうに転がり落ちていく。真下で剣を交えていた男が、驚いたように振り返る。
 「よぉ、無事だったのか。元気そうだな!」
にやりと笑うと、ローグは目の前の男に一撃を叩き込み、さっと身を翻した。「そこにいろ、後で迎えに来る」
 「あ、ローグさん!」
その後ろを二人の賞金稼ぎが追いかけていく。一人は忌々しそうにちらとユーフェミアのほうを見上げたが、それも一瞬のことだ。
 見れば、既に一人は倒れ、別の一人も今のローグの一撃で剣を取り落としたままもがいていた。やはり強い、とユーフェミアは思った。ローグが怪我をしているかどうかは見えなかったが、二対一でも負けるようなことはないだろう。
 そう思ってほっと胸をなで降ろしたとき、庭の端からゆるゆると歩いてくる人影に気がついた。
 六人目? …いや、違う。
 自分たち以外の誰かが遺跡に隠れていたのか。だが、その白い影は、暗がりの中にいるのにあまりにもはっきりと見えていた。体は傾き、足取りも不確かで、…何かが、足りない。
 そう、首が足りない!
 ぞっとした。長いマントを引きずり、倒れている男たちにふわふわと近づいていくそれの足元は透けている。最初に気づいたのは、さっきローグに倒されたばかりの男。振り返ってそれを目にするや、絶叫して這うように後退る。その声で、ユーフェミアにベランダから突き落とされて気絶していた男が目を覚ました。
 「ぼ、亡霊?! 冗談だろう、こんな、こんなもの」
無いと思われた首は、背中に垂れ下がっていた。豪華な衣裳にはフリルがつけられ、襟首が揺れている。どうやら寝巻き姿のようだ。服の裾が浮き上がると、胸の辺りに抉り取られたような穴が見えた。この男は誰かに殺されたか、処刑されたのだ。
 銃の音が響き渡る。だが死者は動じない。
 「うわああああ」
逃げようとした男だったが、突然、泡を吹いて倒れてしまった。首があらぬ方向に曲がっている。もう一人はぶつぶつと祈りの言葉をつぶやきながら胸の前で神の印を描いた。亡霊は背を向けたまま、―― いや、背中に首を逆さにぶら下げたまま、奇妙な笑みを浮かべた。髭面の男。年寄りに見える。
 首は、ベランダの上にいるユーフェミアにも気づいたようだ。視線が合う。背筋に冷たいものが走る。
 逃げなくては、そう思っても体がゆっくりとしか動かない。手も足も麻痺してしまったかのようだ。彼女は、こんな時に祈るべき相手も言葉も知らなかった。庭に背を向け、ぼろぼろの部屋の中へ逃げ込むのがやっと。背後で、男の断末魔の悲鳴と、ばりばりという嫌な音が響いた。何があったのかは考えたくない。見たいとも思わない。次は自分だ、そう思うと体の芯が熱くなった。
 と、思いがけず、何かがユーフェミアの体を押し上げた。毛むくじゃらな、暖かな感触がユーフェミアを宙に浮かせたまま、どこかへ運び去ろうとしている。
 「…?!」
彼女は、体の下にあるそれをまじまじと眺めた。黒い獣――熊? これは、ローグの守護女神ではないのか。
 「あなた、どうして私を。それに、私に触れられるなんて…」
 (今宵は特別な夜だから)
熊の体が小さく震え、声が伝わってくる。
 「あなたも人間だったの? まさか」
 (人間だったこともある。わたしは三度生まれ変わった。一度目は人、二度目は白鳥になり、そのどちらも短い生涯だった。この三度目の姿で、私は人よりはるかに長い年月を生きた… それは呪いのせいではなく、わたし自身が望んだこと)
熊はユーフェミアを載せたまま、曲がりくねった廊下を進んでいく。館の中は思いのほか広かった。まるで迷路のように入り組んでおり、埃まみれになった何かの石像、先の見えないほどとてつもなく長い廊下、吹き抜けの途中の壁という突拍子もない場所に作られた扉、擦り切れた絨毯らしきものの下に見えている石扉など―― 様々な仕掛けが見て取れた。昼間でも、一度入ってしまったら、無事に出られるかどうかの自信はない。一体誰が、こんな迷宮を作ったというのか。
 そうしたカラクリだらけの館を抜け、熊は彼女を最初に来たアーチ型の門の前へと運んできた。そこからなら、リリーがいるはずのあの隠された庭まで迷うことなく行ける。外に出るにも迷うことはない。
 「ありがとう。あの…」
 (わたしの名はカーラ。あなたに頼みがある。巫女よ)
 「頼み?」
 (どうか、あの子を守っておくれ。この先、起きるべくして起こることを前に――わたしの力では、あの子を守れない)
その言葉は、まるで手の届かぬ場所へ旅立つ恋人のことを思うようでもあり、わが子を思う母のようでもあった。カーラと名乗る闇の守護霊は、静かにユーフェミアの目を見つめた。
 「私に出来ることなの? それは」
 (わたしは古き掟に従うもの、旧世界に属するもの。この地や、狼たちや、あの亡霊と同じもの。だが貴女は違う。歪められた掟に支配されない、新世界で生まれた)
理解するのに時間がかかった。だが、確かなのは、これからローグに起きる”何か”をカーラは知っていて、ユーフェミアにしか出来ない助けを求めているということだ。
 「分かった。…助けてもらったんだもの、そのお返しはするわ。私はもう大丈夫。ローグのところへ戻って」
熊は頷いて、闇に溶けた。だが、見えなくなっただけで気配はまだそこにある。
 ユーフェミアは振り返って、地面に空いた暗い穴を探した。死体が転がっていても、もう平気だ。これほどの不思議が起きた夜ならば、今更恐がるほどでもない。



 通路を抜けた先には、果たして、昼間と同じく老婦人が立っていた。しらしらと降り注ぐ満月の光の下、聳え立つたった一本の柱の傍らに人形のように、うっすらと笑みを浮かべて濁った不快な臭いのする泉を覗き込んでいる。
 人の気配に気づくと彼女はゆっくりと顔を上げ、十年ぶりのような懐かしさを込めて口を開いた。
 「ああ、ユーフェミア」
ユーフェミアはリリーに近づきながら、オッドヴィルを探した。ここにはいない。では、何処だ?
 「見つけたのよ、あの人を。見て…。なんて幸せなのでしょう、二十年ぶりにあの人の姿を見ることが出来たわ」
泉の中には、ぼんやりとした光が揺れている。月が生み出した幻か、まやかしか。その光の中に、何処かの鄙びた村が映っていた。立派な髭を生やし、帽子を目深に被った痩せっぽちの老紳士。びくびくした様子で周囲を見回し、用心深くあばら家に滑り込んでいく。そこは輝く海を背にした緑の島。どこか遠い海にあるのだろう。光景が途切れ、光が揺れた。映し出されたのは、幸せそうな新婚のカップル。背の高い、若いハンサムな新郎と、腕をからめて歩くまばゆいばかりの美貌の女性。若い頃のリリーだ。
 「皮肉なものね。この遺跡は新婚の時、あのひとが連れて来てくれた場所なのよ。二人の未来が見える不思議な泉がある、と言われてね。そして…ここで…あの人は、あたしを」
 「リリーさん、復讐をするつもりなんですか? …本当に?」
ユーフェミアは、老婦人の側に立った。
 「オッドヴィルにそうさせるつもりなのね。あなたのご主人は… オッドヴィルにとって父親なんでしょう? それなのに」
 「あの人はあたしを、お腹の中にいるオッドヴィルもろとも殺そうとしたんだよ。オッドヴィルはあたしの息子。あたしだけのもの。子は母のもの、…その命は、あたしの手の中さ。」
うっすらと浮かんだ笑みは揺るがない。
 「あたしは古い掟を知っている。母の復讐のために父を殺すのは息子の義務。この土地は今でも、その掟のもとに生きているんだ。さあ目的は果たしたよ、居場所は分かった。オッドヴィル、オッドヴィル!」
闇の中から、のそりと大男が立ち上がった。今まで全く気配を消していた。何があったのか、今までに無い光を目に宿している。
 「巻きこんですまなかったわねえ、ユーフェミア。お代はきっちり払わせて貰うよ。あの坊やにも、それから」
 「ここにいたのか、ユーフェミア。庭で連中が死んでた… 何があった?!」
ローグが大股に近づいてくる。体には血と汗の臭いがまとわりつき、まだ戦いの気配を残している。彼はユーフェミアを見、それからリリー、オッドヴィルに視線をやって、全員揃っているのを見ると少しほっとした顔にはなった。
 「悪いな、俺の客人が余計な面倒をかけた。だがまあ、結果的に目的が果たせたんなら、バアさんも満足だろ?」
 「そうだねえ。」
 「ローグ、あの人たちは? 二人、追いかけていったでしょ」
 「ああ、途中で巻いたよ。迷路みたいなところに迷いこんじまったからな。また戻ってくるかもしれん、とっとと此処を出たほうがいい」
きっともう、追いかけてくることはない。
 幽霊にやられたんだろう、とユーフェミアは思った。あの亡霊は危険だ。あれは―― 確かに、人の力でどうにか出来るものではない。
 ユーフェミアは、リリーを促して出発の準備を始めた。ユーフェミアが浚われたとき、荷物はその場に放置されていたから、無くしたものは何もなかった。準備をしているその間、ローグは手持ち無沙汰といったふうで、泉のあたりをうろうろしていた。そして、何かの弾みで、リリーの見たがっていたもののことを思い出したのだろう。月明かりの揺れる泉を覗き込んだ。眉をひそめ、しばらく覗き込んでいたかと思うと、ふいに短く鋭い声を上げて飛び退った。
 「どうかしたの?」
 「い、いや」
ローグは蒼白になった顔を隠した。ユーフェミアは泉を覗き込む。そこにあるのは、濁った水の沸き立たせる小さな泡と、映りこんで揺れる満月の光だけ。
 「何も見えない…」
 「いや、何でもない。気にするな」
リリーは、オッドヴィルの肩の上で小さな笑い声をたてた。
 「言っただろう? 泉はその者の望みを映し出すと。何か見えたなら、それは今、あんたが一番知りたがっていることさ」
 「知りたがっていること…」
水面がざわめき、波紋が広がる。その一瞬、ユーフェミアは確かに見た。揺れるおぼろげな光が映し出したのは、どこかの家の窓から見える、町の光景。寝台に、痩せた黒髪の男が眠っている。どこかローグによく似た、…だが、野性的な鋭さは一切持たず、弱々しく伏せり、今にも命の灯が消えてしまいそうに見える若い男。
 ローグは首を振った。
 「あり得ない。」
 「信じないならば、それもまた良し。さて行こうか? 宿までの道案内を頼むよ」
元来た道を辿り、アーチ型の門をくぐり、ユーフェミアたちは遺跡の外へ出た。どこか遠くで狼たちの呼び交わす声が響く。草原の向こうに、月明かりに照らされて、じっとこちらを見ている大きな狼の姿が見えた。スコルだ。
 「チ、群れがいやがるな。やっぱ夜は――かといって、あの遺跡で一晩過ごすのも…。」
 「大丈夫、彼らは襲ってこないから」
ユーフェミアが言うと、ローグは怪訝そうな顔をする。
 今夜、遺跡で起きた出来事をすべて話そうかとも思った。だが、それは長くなりすぎるし、皆疲れている。それにユーフェミア自身、整理がついていないのだ。
 「とにかく、そういうこと」
 「…ふうん。なら、まあいいがな。」
月が傾きつつあった。
 リリーも、ローグも、一言も喋らない。泉で見たそれぞれの光景が、彼らの意識を占めているのだろう。ユーフェミアもまた、月夜に出会った灰色の狼と、黒い熊の言葉を思い出していた。かつて人であり、今は人ではないものたち。月は不思議な魔力を持って、今宵、人の言葉を彼らに返した…。



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