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<荒野の旅路>


 リリーの要求するままに、地図と食料はイザベルが用意した。三人ぶんの荷物はずいぶんな量になったが、力持ちのオッドヴィルには何の苦にもならないようで、一まとめにされた塊を軽々と背負った。生活必需品とリリーの荷物はユーフェミアが。
 ユーフェミアが同行することについて、イザベルは特に何も言わなかった。止めても老婦人は遺跡へ向かうだろうし、そうなったら無事に帰ってこない可能性も大きい。ここでは、自分の命をどう使おうが自由だ。投げ捨てることも。拾い上げることも。
 「有名な歌手だからって、特別扱いしてるわけじゃあないんだよ。」
出発前、イザベルは言った。「支払いが気前いいからっていうんでもない。ただ、あんたも感じているだろう――」
 「ええ、あの人、何か隠していますよね。それから、この土地のことをよく知っている感じ」
それがリリーの亡き夫のお陰なのかどうかは、分からなかった。ただ確実に言えることは、彼女は、この<アスガルド>の何かを必要として訪れた、来るべくして来た人間だということだ。
 イザベルは、カウンターに地図を広げた。
 「この地図は宿に泊まってる連中が作ったものだし、宿の近くはそう地形は変わらないから、きっと役に立つだろう。」
そう言って、彼女は地図の上に×印をつけた。
 「ロードゥルの遺跡は、ここから真っ直ぐ北東へ。海とは逆のほうへ一日歩けばたどり着く。…途中はほとんど草原だ。夜は狼が徘徊する。火を絶やさないようにね。」
 「はい」
 「あの遺跡は、あまり良いところじゃないんだがなあ」
いつもの定位置で二人のやりとりを聞いていたルベットが、ため息ひとつついて話に加わった。
 「もう少し若い頃、苔の植生を調べに行ったことがあるんだが、確かにあそこは嫌な気配のする場所だった。ただの廃墟じゃない、ちょっとした迷宮だよ。あれを作ったのはよほどの捻くれ者だろう。昼間でも薄暗くて、足を踏み外しそうになる。夜なんてとてもとても。でも、それだけじゃあないんだがね、夜は」
 「それ以外に何か? 狼が出るんですか」
 「亡霊さ。ここじゃ亡霊も、れっきとした”住人”なんだよ。」
と、イザベル。「ことにあそこの亡霊は、古き時代の呪いに囚われた死人だからね。まじないが強ければ強いほど、囚われた死人も長くこの世に存在することになる。――ま、あんたなら、行けば分かるよ。ユーフェミア」
 「……。」
二人は、ユーフェミアの強張った顔を見て、困ったように笑った。
 「怖いのかい? 亡霊が。闇も夜も恐れないあんたが」
 「あんまり苛めないでくださいよ、もう」
頬を膨らませて、ユーフェミアは地図を畳みにかかった。時は未来から過去へと流れ、死んでしまえば時は止まる。死人には未来はないのだ。
 「ああ、そうそう。ひとつだけ、大事なことを言い忘れてた」
飲み物のカップに手を伸ばしたところで、ルベットが振り返る。
 「亡霊に出くわしたら、いいかい、絶対に触れちゃいかんよ」
 「え?」
 「ひどく腫れるんだよ。そう、熱湯に触れるか、毒の草の汁が付いたときみたいにね」
幽霊は、物体をすり抜けるのではないのだろうか?
 それは奇妙な忠告に思えたが、ルベットはこういう時に冗談は言わない。ユーフェミアは黙って頷いた。
 やがて準備の整ったリリーが現れて、相変わらず何を考えているのか分からないオッドヴィルがにこにこしながら大きな荷物を抱えて行った。ユーフェミアも自分の荷物を背負って、それに続く。
 朝の早い時間。夜通し歩けば遺跡に付くが、リリーがいるからそうもいかない。
 前日の夜、眠りに落ちる直前。ユーフェミアは、この旅が危険なものであることを感じ取った。命の危機も何度かある。でもそれは―― 致命的なものではない。

 「気をつけて、行ってくるんだよ!」

戸口に立って、イザベルが手を振っている。
 振り返ると、<黄金のチェス亭>の屋根は降り注ぐ朝日の中で金色に輝き、澄んだ空の彼方に、青く霞んだ巨大な樹のてっぺんが、…崩れ落ちて久しい、割れた岩の上端が、切っ先を天にむけて突き立てていた。



 宿から離れるにつれ、道は細くなり、人の歩いた跡は草に消え、やがて完全に目視できなくなる。海の音は遠ざかり、聞こえるのは夏草のゆらぐ音。大地は夏の気配に満ちている。どこかに灰色狼たちが潜んでいるとしても、その気配は今は感じ取れない。だが彼らとて、たった一頭なら襲ってはこないだろう。今は真昼、狼は夜の生き物だ。巨漢のオッドヴィルもいる。
 <黄金のチェス亭>の一番高い部分、赤いとんがり屋根が見えなくなると、ユーフェミアの胸に一抹の不安がつむじ風のようによぎった。ここは<アスガルド>、最果ての地。いつも家畜たちを連れ出していた牧草地も、とうに見えなくなった。
 初めてここへ来た一年前のことを思い出す。
 あれは夏の始まる少し前のことだった。誰にも相談せず、誰の手も借りようとせず、最寄の町で聞いた「宿に郵便を届ける道がある」という情報だけを頼りに歩き出した。そのくせ、無事に目的の場所へたどり着けるという、何故か不思議な確信があった。たった一人、荒涼とした野原に眠ることも怖くは無かった。祖父の愛したクレイントンの森の気配にどこか似ていたからだ。
 あの時と違って、今は同行者がいる。頭は回らないが力のある大男と、体の不自由な老婦人。だが、連れのいるほうが不安なのは、何故だろう。ユーフェミアは頭の中で幾つかの言葉を思い浮かべてみたが、それらは巧く当てはまることなく、単語の鎖はばらばらになって、意識の中に溶けてしまった。こんな時は、今までにも何度かあった。何かが起こりそうなのだが、それが何なのかが良くわからない。すらすらと詩の思い浮かぶ時と違って、ほんの僅かな言葉も、単語と単語を繋げるもの、未来を予測させる何かに、まだ出合っていないのだろう。
 そうして、ユーフェミアを先頭にした三人は、会話もなくゆっくりと歩き続けた。イザベルから貰った地図によれば、この先ただ真っ直ぐに、目印のない草原を突っ切ればよいだけだ。宿から一日という距離は、短いようで、実際は果てしなく遠い。<アスガルド>の何処からでも見える大樹のあるお陰で方向の狂うことは無かったが、そのふもとにあるはずの宿は見えず、人の気配の全く無い未踏の地を非力な二人を含む三人だけで進むことは、傍目からすれば十分に無謀なはずだ。
 日が完全に昇りきる前、午前中の遅い時間に、三人は昼食のために長めの休憩を取ることにした。
 そこは広く浅く削られた枯れ谷のほとりで、今は水は流れていなかった。ほぼ真上から照りつける日は谷底にだけ僅かな日陰を残し、大地には見渡す限り隠されているものは何もない。白昼の暴きだす世界は、ただ静かで、長閑で、どこか遠くから鳥の声も聞こえる。こんな場所が郊外にでもあれば、休日にはピクニックに出かけたくなるだろう。
 「明るすぎるね。」
朝からずっと押し黙っていたリリーが、ぽつりと言った。「あたしには、明るすぎる。」そう言って、サングラスの上から薄いショールを被せた。
 「大丈夫ですか? 目が痛みますか」
 「ああ、気にしないでおくれ。あたしは夜のほうが具合がいいんだよ。昼間は寝て―― 夜、起きて活動するほうが好みなのさ。ああ、オッドヴィル、お茶を一杯おくれ」
荷物を降ろして食べ物を広げていた大男が、返事をするようにうなり声を上げた。
 昼食は、イザベルの持たせてくれたパンやチーズ。食料は往復のぶんと余分を含めて多めに持って来た。質素だが、量は十分にある。
 「あんた、あそこで働き出して、どのくらいなの?」
 「はい?」
唐突な質問だった。パン切りナイフを取り出そうと荷物を探っていたユーフェミアは、手を止めてリリーのほうを振り返った。
 「夏だけ…働かせてもらっています。今年で二年目なんですが」
 「ああら、この辺りの事情にずいぶん慣れているみたいに見えたものだけど、新人さんなのね」
 「そういうわけじゃないんですけど。…こんなに宿から離れて遠くまで来たのは、初めてで」
 「それで怖がっていたのねえ。」
リリーは口元に手を当てて優雅に笑った。
 「後姿、おっかなびっくりだったわよ」
 「はあ。」
ユーフェミアは苦笑いする。
 「じゃあ、あの宿のおかみさんとも、昔からの付き合いではないのね」
 「ええ、そうですね。」
どうしてそんなことを聞くのだろう?
 「あの人―― お幾つくらいなのかしらね。いつからあの宿を取り仕切っているの?」
そんなことは、考えたこともなかった。
 「ルベットさんに聞けば判るかも」
 「ルベット?」
 「いつもカウンターの端っこに腰掛けている人です。まるで小人みたいな。長いこと宿に住み着いてる植物学者さんなんです」
そういえば、ルベットはもう半世紀も、この<アスガルド>にいるのだった。イザベルはどう見ても五十歳以上には見えない。もしかしたら、イザベルの前の代の宿主のことを知っているのだろうか。
 ユーフェミアは、ふいに気がついた。
 「二十年前のことですか? ご主人がここへ来たっていう――」
リリーは、ショールの中に顔を半分埋めていた。そうしていると、痛々しい傷も年月が刻んだ皺も覆い隠され、若かりし頃の儚げな美貌が、ほんのわずか、戻ってきたように思われた。
 「あの人は、遺跡や古いまじないの類が好きだった」
その声には、彼女の大ヒットした歌と同じように、残酷さと、底知れぬ絶望がまとわりつく。
 「あの人は、価値あるものはこの子以外に何も遺してはくれなかった。あれから二十年、ほとんど暗闇の中で暮らしてきた。あたしは―― あたしはここへ、過去を取り戻すために戻ってきたんだよ…」
ユーフェミアは、ただ口を閉ざしていた。
 癒えぬ傷を負い、歌を失って引退した老いた歌姫と、知恵遅れの大男。<アスガルド>で消えた男。亡霊の彷徨うというロードゥルの遺跡。二十年目の訪問。
 目に見える真実は空回りしている。言葉をつむぐのに何かが足りない。この老婦人は、一体、何を隠しているのか?



 と、そのとき、繁みの中で何かが素早く動いた。大きな影。谷のほうだ。
 「オッドヴィル!」
耳ざとく音を聞きつけた老婦人が喉を潰されたような奇妙な声で叫んだ。大男が吼える。一匹、いや、もう一つ。黒い影がさっと走った。四つんばいで、しかしそれは狼のそれより遥かに遅く、質量がない。
 「待って!」
ユーフェミアが重ねて叫ぶ。「敵じゃない、その人は――」
 だが、僅かに遅かった。オッドヴィルにはいっぺんに二つの言葉を処理する能力は無い。”敵”に向かって腕を振り下ろそうとした矢先にユーフェミアの制止の声が耳に届いた彼は、どうしていいか分からず、足と腕の動きだけをぴったりと止めてしまったのだ。体が崩れる。斜めになったまま、バランスを失った巨体が、逃げようとしてユーフェミアの声で振り返った”何か”の上に、雪崩のように覆いかぶさっていった。
 「うわぁっ」
どしゃっ、という重たい音。二人はもつれあったまま水の無い谷底へ転がり落ちる。
 「ローグさん!」
ユーフェミアは慌てて谷を覗き込んだ。
 そう、それは彼女もよく知る人物、賞金首ローグ・フラウムベルグだった。彼に付かず離れずの守護霊、黒い熊の女神も、こうしたハプニングからは彼を護ってくれないらしい。まるで影のように、少し離れた安全な場所からのんびりと見守っている。
 「なんだい? 人間じゃないか。あんたの知り合い?」
 「はい、宿の常連さんで…。」
リリーはじろりと、オッドヴィルの下でもがいている男を見やった。地面に転がっている大きな古めかしい剣にも視線を這わせる。
 「あの武器は飾りじゃないわねえ」
 「おい! 何なんだ、このデカいのは」
ようやく自由になれたローグは、まだ起き上がれずにいるオッドヴィルに舌打ちしながら立ち上がった。
 「それに、何であんたがこんなところにいる? ユーフェミア」
 「それは、こっちのセリフですよ。こんな宿から離れてない場所で何してるんです? あなたを探してる賞金稼ぎがいるっていうのに。」
 「賞金稼ぎ…?」
 「五人。宿に来たんですよ、あなたのことを色々聞いてました。去年、怪我をしたことも知ってましたよ。――知らないんですか? 竜殺しの肩書きが付いたお陰で、賞金が上がったって」
ローグは頭を掻いた。
 「知らねぇよ、そんなこと…」
 「成る程、賞金首ね」
突然、リリーが二人の話に割り込んできた。
 「では竜殺しのローグ、あんた腕は立つっていうことなのね」
 「はあ?」
ローグが谷から上がってきた。ショールをまとい、サングラスをつけた派手な紫色の髪の老婦人を怪訝そうに見下ろす。確かにこの人は、この<アスガルド>ではあまりにも異質な、――存在だった。
 「誰だ? この派手なのは。」
 「宿のお客様です! 案内中なんですよ。その、…」
 「ロードゥルの遺跡まで、ね。」
 「なんだって?」
みるみるローグの顔色が変わった。「正気か?!」
 「もちろん、あたしは正気さ。そこの、あたしの息子と二人だけじゃ心元ないから、宿の主人にこの子を借りてきたんだよ。他には誰も、護衛に雇われてくれなかったものでね」
 「おい…」
ユーフェミアは、小さく頷く。
 「イザベル姐さんもルベットも止めなかったのか? あそこはマジでヤバいぞ。狼も多いし」
 「注意は聞いたわ。幽霊から護ってくれなんて言ってないし、力ずくでどうにかなるものじゃないと思う。ただ、行き帰りに狼に出くわすのが怖いだけ」
自分でも不思議なほど、すらすらと言葉が出てきた。「遺跡に入らなくてもいいから、途中の警護だけお願い出来ない?」
畳み掛けるようにリリーが続ける。
 「雇い賃は弾むよ。もっとも、あんたは金なんか貰って喜ぶようには見えないから、他のものでも構わないがね」
 「……。」
ローグは腕組みをして何やら考え込んでいる。
 「…しょうがねえな。ここで頼みを断ったら、後で姐さんに何て言われるか分かったもんじゃない。護衛はする、だが、いくら俺でも幽霊は斬れんぞ」
 「ええ、構わないわ」
 「商談成立かね? 報酬はどうする」
 「いらん」
黒髪の剣士は、ぷいとそっぽを向いた。「俺は傭兵じゃない」
 「損は無いはずよ」
ユーフェミアは言った。「ここで出会ったのだから」
それは奇妙な台詞だったが、ローグは何も聞き返さなかった。立ち話をしているうちに、日が天頂へと差し掛かっている。周囲はますますまばゆいばかりになり、強い夏の日差しが草原の影を打ち払う。彷徨える男に付き従う闇色の精霊さえ、色あせて見えた。



 そこからの道はローグが先頭に立ち、ユーフェミア、その後ろにリリーと荷物を抱えたオッドヴィル… という列で進んだ。ローグは遺跡のことは知っているようだったが、近くに立ち寄ってみたことはないと言う。その理由は行けば分かる、と彼は言葉を濁した。護衛が一人増えたせいか、リリーは機嫌が良かった。ローグにアスガルドでのことをあれこれと尋ね、嫌がるのも構わず話しかけ続けた。危惧していた狼は現れず、その日は何事もなく日が暮れた。
 完全に暗くなる前に、彼らは寝床の場所を大きな岩のふもとに選び、焚き火を作り、燃料となる薪を積み上げた。そこは枯れた古い沼地のほとりで、立ち枯れた古い木々が鬱蒼と生い茂り、乾いてひび割れた泥の中に半ば埋もれていた。
 早い時間に夕食を作り、食べてしまうと、少しは疲れがあったのか、それとも習慣からなのか、大男のオッドヴィルは即座に寝入ってしまった。無防備に、大の字になっていびきをかいている姿を見る限り、彼はあまり護衛向きではない。ローグがいて本当に良かった、と、ユーフェミアは思った。
 反対に、リリーは本当に夜のほうが調子がいいようだった。濃いサングラスとショールを外し、煙管を取り出して煙をくゆらせながら月明かりの下で何か書き物をしている。掠れた声で時折、何かを口ずさむ。それは遠い昔にヒットした彼女自身の歌のようでもあり、いつか歌おうと作っていた未完の歌のようでもあった。
 「あんた、歌手だったんだろう?」
焚き火をかき回しながらローグが尋ねた。
 「昔、町に住んでいた頃、おふくろが良く聞いていた。<定められた日の歌>… どんな曲だったかな」
 「ああ、あれはね」
リリーは顔を挙げ、一瞬、視線を虚空に彷徨わせると、おもむろに口を開いた。


 一人座る木陰、老翁は来られ私に尋ねる
 王よ、何をお尋ねになるのか
 なぜ、私にお聞きなさるのか
 あなたが何処に眼を隠されたのか
 私は知っている
 あの泉の中だ
 あなたは滅びの時をお知りになりたい
 やがて来る死の運命を
 世界の柱は崩れ落ち
 大地は炎に包まれる
 子が親に剣を向け 兄弟は引き裂かれる

 だが、やがて緑の大地が浮かび上がり
 銀の鷲が空を飛ぶだろう
 神々の世の滅び去ったのちに
 世界は巡る環の中で
 若い太陽の光に包まれる



掠れた声、途切れ途切れになりながらそれは、かえって迫力を持ち、暗い森に朗々と響き渡る。ユーフェミアは目を閉じる。ローグは火のついた枝を振りながら、もう一方の手で頭を掻く。
 「…暗い歌詞だな」
 「そうでもないさ。この歌はね、悪しきものどもが滅びさって、人間の世界が来ることを歌っているのさ。はじめは<福音>という名をつけたんだがね。似合わない、と主人に却下されたんだよ」
笑って、リリーは手元の書き物に意識を戻した。何を書き付けているのだろう。さらさらと流れるような独特の筆跡は、遠目からは読めない。
 ひときわ大きな寝息をたてて、オッドヴィルが激しく寝返りを打った。何やらむにゃむにゃと口の中で呟いている。うんざりした表情で立ち上り、ローグは岩の上に駆け上がった。
 「何してるの?」
と、ユーフェミア。
 「そいつの隣で寝るのは御免だ。朝には潰されてる。俺はここでいい、どうせ見張りは仮眠だ」
 「そんな、途中で交代します」
 「あんたよりは俺のほうが夜目が効くさ。」
どこか遠くで、狼の遠吠えが聞こえる。ユーフェミアは空を振り仰いだ。…月が丸い。明日か明後日には、満月を迎える。
 ユーフェミアは、仮の寝床とした粗目の毛布にくるまりながら、その月と夜空をしばらく見つめていた。雲ひとつない空は果てしなく高く、銀の椀のようになめらかな孤を描く。


 幾年を荒野に過ごし雨露をしのぐ
 灰色狼の声は遠く
 おのが運命知らせる者を招き
 呪いの解かれん日を望む



 いつしか、うとうととしていたらしい。
 気がつくと夜半過ぎ、月はもう西の空へと傾いていた。ユーフェミアの動く気配に反応して、岩の上にうずくまっていたローグが振り返る。だが、すぐにまた目を閉じた。
 焚き火に追加の薪をくべ、彼女は一つ伸びをした。リリーはよく眠っている。丸まった背中は小さく、シルエットは子供のよう。熟睡しているオッドヴィルは、まるで丸太のようだ。
 「早く眠りすぎたか」
ローグの声。
 「そうかもね。まだ少し眠いけど」
 「夜明けまでは時間がある。ゆっくりしておけ」
珍しく、優しいな… とユーフェミアは思った。半分、うとうとしているからなのか。いつもの、人を突き放すような刺々しさが無い。あれは、気を緩めると命を落とす追われる身、アスガルドの一人暮らしの中で染み付いた警戒心からだったのか。
 「夜が明けたら、二人をたたき起こせ。朝飯は早く切り上げて、すぐに遺跡へ向かう。…日が暮れる前に出なけりゃ危険だ」
 「どうして? 何があるの?」
 「あそこは――」
胡乱なまま、ローグき言葉を切った。「…見てはならないものがある」
 話しているうちに意識が目覚めてきたのか、ローグの口調に僅かにいつもの調子が戻てきた。
 「ロードゥルの遺跡は、別名”心の迷宮”… 光や音が迷い込んだ者の意識を惑わせるという… そういう仕掛けがされた屋敷だ。幽霊なんざ信じていない奴でも、あそこにいけば幽霊が見える。自分でそれを生み出すからだ。それに、本物の幽霊もいる… 多分な。俺は、そいつに会ったことがある…」
 「会った?」
 「アスガルドへ来て間もない頃。あの廃墟をねぐらに出来ないかと思ったんだが…」
言葉が途切れた。ローグはうつらうつらしはじめている。
 「あ、眠ってください。あとは私が起きてる」
返事はなかった。東の地平線にうっすらと白い光が見える。夜明けまで、あと数時間といったところだろうか。
 闇の中に、もう一つ目覚めている影があった。のっそりと動いたそれは、暗がりの中でも輝く、金色の相貌をユーフェミアに向けた。最初は畏れに似た感情を抱いたそれも、今では何処か親しみ深い。優しげだとすら思えるようになった。
 「そう、あなたが守ったんだ」
ユーフェミアは、触れないと知りつつ熊の毛深い鼻面に手を差し伸べた。
 「あなたは―― 行くべきではない、と思う?」
瞳を覗き込むと、その奥に炎の揺らぐのが見えた。答えが感じ取れる。彼女は諦めにも似た何かを覚えている。遺跡には何があるのか。…そこに待っているのは決して良いことでは無いようだが、行かねばならない。
 そう感じた一瞬、はっと意識を戻したとき、元の場所には既に闇色の女神の姿はなく、何事もなかったかのように枯れた木の枝がひょろりとした草の陰に転がっているばかりだった。



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