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<黄昏の歌姫>


 昼過ぎて、出かけていた宿泊客たちが戻り始めた。<大樹>のふもとの迷宮や草原、崖など、それぞれの用のある場所に出かけていた人々だ。ある者は観光のため。またある者は未知なる生物や貴重な鉱物を求めて。美術作品のインスピレーションを得るため、という人もいる。――その目的は千差万別だ。
 だが、ユーフェミアもお馴染みの小さな老人、<アスガルド>の外では高名な植物学者であるところのルベットは、まだ戻ってきていない。一年のうち、この地が最も人にやさしく接する季節。日はまだ高く、短い夏を無駄には出来ない。
 ホールで早々と引き上げてきた宿泊客たちの給仕をしていたとき、そのお客は、唐突に現れた。
 入り口のドアベルが、からん、からんと奇妙な調子で響いた。
 「いらっしゃい… ま…」
ユーフェミアも、ホールにいた人々も、ぽかんとして五段の階段の上に突っ立っている、うどの大木を見上げた。それはただ巨体というだけではなく、不恰好で、奇妙もあった。しかしその奇妙さとは打って変わって、衣裳は上等。せむしの若者は、両腕に車椅子を抱えていた。椅子にはちんまりとした、これまた身なりはいいが派手なショールをまとった老夫人が、ちんまりと納まっている。何より視線を釘付けにするのは、その、けばけばしい紫色の髪。
 階段を下りたところに車椅子が降ろされた。
 キィ、と車輪が軋み、老婦人は濃い色眼鏡の奥から厳しい視線でホールを見回す。言葉を失っていた客たちが小さくざわめきだす。
 「あれ… リリー・サーガじゃないか…?」
 「ああ、多分。何でこんなところに…」
 (リリー・サーガ?)
ユーフェミアは首を傾げた。どこが記憶の奥に応ずるものがあった。どこかで聞いたことがあるような… だが、知り合いのようではない…。
 カウンターの奥から、宿の女あるじ、イザベルが出てきた。
 「ご予約のお客様だね。お部屋の準備は出来てますよ、マダム。」
紫の髪の老婦人は、うなづいた。
 「荷物を部屋まで運んどくれ。あたし自身はこの子、息子のオッドヴィルが運ぶよ」
うなづいて、イザベルは先に立ち、ホールを横切った。その後ろを、車椅子を抱えた大男がのっしのっしとついてゆく。ユーフェミアは階段の上に置かれたちんまりとした荷物に気がついた。老婦人の派手さに似つかわしくない、摺り切れた黒いカバンが一つと、四角く無骨なトランクが一つ。彼女は、ひょい、とそれらを抱え上げ、ホールにいた客たちの小さな驚きを買った。見た目によらず、力持ちなのだ。
 先に行った大男は、二階へ続く階段の入り口で、天井につかえた頭と肩を引き抜こうと、しきりにもがいているところだった。
 「頭を下げるんだよ、オッド」
老婦人は優しく息子に話しかけている。「そう、ゆっくりとね」
 この大男、決して頭はよくない、とユーフェミアは控えめに思った。それも、とびきり良いのでも、普通でもなく―― おそらくは、実際に生きてきた年齢の当然ゆきつくべき場所よりもはるか手前で、この大男の考える力は止まっているに違いない。
 用意された客室に到着すると、老婦人は杖をつき、おぼつかなげな足取りで立ち上がって窓に近づいた。断崖絶壁の下に打ち付ける白い泡、どこまでも広がる果ての海<エンドブルー>と、遠く壁のごとく聳え立つ高地地帯<ハイランド>。そして頭上に天まで聳え立つ、既に死に絶えて石と化した<大樹>。
 「悪くはないね。」
それが、この婦人の、世界の果てにある絶景を目にした一声だった。
 「あたしは目が悪いんで、よく見えないんだ。荷物はそこへ置いておいておくれ、娘さん。食事は部屋まで運んでおくれ、何しろこんな足だからね。下まで降りるのは難儀なんだよ」
 「分かりました」
 「それから」
と、婦人は振り返って尚も続けた。「長旅で疲れたから、夜まで休むことにするよ。今日の夕食はいらない。この子にだけ出してやっておくれ。あたしは起きたら暖めたワインとペストリーを頼むよ。朝食は果物にしておくれ」
 「……。」
この宿で、この<黄金のチェス亭>でそんな細かな注文をしたお客は、ユーフェミアの知る限り、いまだかつて、ない。



 一階のホールに戻ると、お客たちは三々五々、歓談に興じていた。イザベルは皿を磨きながら歌を口ずさんでいる。珍しいこともあるものだ。
 そのメロディーはとても有名なもので、ユーフェミアも知っていた。だが、なんという曲だったかは思い出せない。
 「お客さんは落ち着いたかい?」
 「はい。夜まで起こすな、夕食は息子さんにだけ出してやってくれ、って。それから夜食と朝食のオーダー…」
 「そうかい。言われたとおりにしよう」
 「あの人、何者なんですか? こんなところに来る人には見えないけど…」
言ってから、ユーフェミアは、この宿では宿泊客の素性など問わないことを思い出した。女主人イザベルは客の素性を詮索せず、彼女の管理する宿泊台帳には客の「自称名」が記されている。伝説の王の名を名乗ろうが、大悪党の名でサインしようが、かまわない。そもそもイザベルは、この宿に来た客のことを名前で覚えているわけではない。顔と、声と、ちょっとした会話の内容で記憶する。手帳に書き付けて管理する必要があるのは、日々の支払いの有無だけだ。
 だが珍しく、イザベルは客の素性を明瞭に答えた。
 「彼女は、この風の国<ヴィンドランド>で最も有名な歌手だった人さ。今は引退しているけどね。」
 「歌手… ああ」
そうか。
 「今、口ずさんでた歌。確か、東の国でも流行ってた…」
暗い歌だった。音楽は明るいのに、歌詞は底抜けに暗く、残酷で、陰鬱な内容。そんな歌のギャップと、美しい南国風の彼女のいでたちは印象的で、曲は瞬くまに大ヒット。うら若い少女は一躍、世界で最も知られる歌手の仲間入りを果たしたのだ。
 それが、五十年ほど前のこと。いつしか少女は老年を迎え、やがてひっそりと引退して、表舞台を去っていった。
 「予約は、彼女の経営する音楽会社から直接貰ったんだよ。前払いの現金書留つきでね。気前のいい払いっぷりだった。そういうわけさ。何があったのか知らないが、少なくとも<黄金のチェス亭>のお客には違いない」
それは、そのとおりだった。
 ここでは宿泊代金さえ払えば、どんな客でも問題ない。賞金首でもならずものでも。だが、ここでの絶対権威は宿のおかみイザベルただ一人。外の世界での地位も肩書きも、この<アスガルド>では無意味だということ――。
 「いつまで宿泊する予定なんですか?」
 「さあね。ひと夏ぶんのお代はいただいてるし、何か探しものがあると言っていたね。必要なことがあれば、向こうから言ってくるだろうよ」
日はまだ高い位置にあったが、そろそろ夕飯の準備に取り掛かる頃合だった。ユーフェミアは裏口へ行き、そこに置いてあるお気に入りの木箱に上に腰を降ろした。賞金稼ぎに引退した人気歌手、それに知恵遅れの大男。まったく、この夏は何か起きずにはいられない予感をたっぷりと孕んでいる。
 のんびりジャガイモの皮むきでも始めようかとしたとき、視界の端に、ちらと灰色の影が過ぎった。
 狼だ。ずいぶん宿に近いところまで来ている。
 首を上げ、こちらをじっと見ている。
 ユーフェミアは、何か奇妙なものを感じた。狼相手なのに、まるで人に見られているような。
 だが、それも一瞬のことだった。ユーフェミアが足元の石を拾い上げる前に、灰色はさっときびすを返し、勢いよく伸び盛りの夏草の陰に、瞬く間に見えなくなった。



 夕方、ユーフェミアは言われたとおり巨躯の若者オッドヴィルに食事を供しに行った。
 リリーの予約した部屋というのは二部屋続きで、リリーが奥の寝室、オッドヴィルは居間のほうを使っているらしかった。もちろんオッドヴィルの巨体では、普通のベッドからは、はみ出してしまうだろう。部屋には肘掛なしのソファが四つ並べられ、即席のダブル・ベットにされていた。
 この知恵遅れの若者は、よく食べた。こちらの話しかけることには「ああ」とか「うん」しか言わなかったが、性格は大人しく、素直だった。
 一度だけ、ユーフェミアは彼がリリーのことを「マム」と呼ぶのを耳にした。
 「え?」
部屋を出ようとしていた時のことだ。あまりに唐突だったので、彼女は思わず聞き返した。
 「マム、夜中すぎに起きる。いつも」
口いっぱいに料理を頬張ったまま、オッドヴィルは黒光りする目を向けた。
 「すぐ赤いの水、欲しがる」
 「あ、ワインね。分かった、準備しておくわ」
 「うう」
それきり、オッドヴィルはユーフェミアには目もくれなかった。ただ一心不乱に、目の前にある料理のことだけに集中していた。



 そんなわけで、この珍しいお客の「噂」は、瞬くまに<黄金のチェス亭>に広まった。
 「若い頃は夢中になったもんだよ、皆」
カウンターの定位置、いちばん奥の壁際の席でホワイトラムのお湯割りをちびりちびりとやりながら、ルベットは懐かしそうにそう言った。「一時期はそりゃあもう、皆、彼女のことばかり気にかけていたものさ。だが、その後の消息は知らない」
 「その頃には、あんたもう此処にいたじゃないの」
と、イザベル。「しかも新聞も雑誌も読まないし、そりゃあ世間にも疎くなるってものさ」
 「時の流れには逆らえんよ。美しい花をつけた樹も、いつかは朽ちて土となる。美しかった歌姫も、今や老年の黄昏のうちにありにけり、か」
 「歌はやめても今も現役さ、おそらくね。彼女名義の音楽会社を経営してる。結婚もして息子もいて、それなりに満たされていると思うけどね」
 「だが、なぜ今になって、こんな辺鄙な場所へ来たんだろう?」
誰もがそれを気にしていた。ただ観光するにしては、ここ<アスガルド>はあまりに突飛すぎる。<大樹>やアスガルドの奇観を見たいだけならば、夏にこの辺りまでやって来る観光船を使えば良い。おまけにリリーは足を悪くしている。もちろん、ここには車椅子用のスロープも、介護設備もありはしない。自力で歩けない者が楽しむには、ここはハードルが高すぎた。ただ変わった休日を楽しみたいだけなら、彼女の名声と財産があれば、世界中のどんな場所にだって行けただろう。もっと豪華なもてなしを受けられるところだって。何故、わざわざこんな隔離された場所へ?



 その理由は、間もなく知れた。
 宿を訪れて数日の間、息子に抱えられて宿の周囲を散策していたリリーだったが、ある日の午後、自らホールへ降りてきて、ついに自分がここへやって来た理由というものを語り始めたのだ。
 「ロードゥルの遺跡だって?」
カウンターの脇で片付けをしていたユーフェミアは、思わず手を止めて聞き耳を立てた。この辺りにある遺跡なのだろう。宿に泊まる考古学者や冒険者の話を聞いていると様々な遺跡の名前が飛び出してくるから、その遺跡の名も聞いたような覚えがある。
 「あそこは観光で行くような場所じゃない。何もないし、第一、日帰りは出来ないよ。」
 「重々承知の上さ。ただね、探したいんだよ。」
 「探したい?」
 「あたしの亭主―― 二十年前、あたしの亭主が亡くなった場所が、そこだったからさ」
車椅子の上で、老婦人は懐かしそうに両手の指を組み合わせた。だがその表情は、濃いサングラスが半ば覆い隠している。
 「物好きな人だった。長い休みのとれるたび、変わった場所へ行きたがってねえ。あたしは、このとおり足が悪いし、息子もあれだから―― あの人が最後に訪れたのが、ここ、ロードゥルの遺跡なんだよ。」
 「二十年前ねえ…」
イザベルは、眉を寄せる。「二十年…」
 「宿帳にも無いだろうさ。偽名でも使って泊まったんだろう。一冬越えても戻って来なくて、次の年、うちの社員に探しに来させたら、ずたずたにされた服だけが戻ってきた。遺体は結局見つからず。おおかた狼にでも食われちまったんだろうって」
 「狼に?」
ユーフェミアは思わず声を上げた。リリーと視線が合う。「でも… あの狼は人は襲わないって」
 「ここではね。」
と、イザベル。「この宿の近くでは、という意味だよ。荒くれ者も大勢泊まってる宿だ、<アスガルド>で最も人口密度の高い場所だよ。その近くで愚かなことをすれば、手ひどいしっぺ返しを食らうじゃないか」
 「そう、狼は賢い生き物だからね。縄張りでしか狩をしない。遺跡は彼らの縄張りのうち。うちの人はそのルールを知らずに踏み込んだのさ、きっとね」
そう言ったとき、何故か、リリーは口元を歪めた。薄い笑い。ユーフェミアは、何か違和感を覚えた。ちらとイザベルのほうを伺い見るが、宿の女主人の表情からは何も読み取れない。
 「それでね」
リリーは話し続けている。「そこへ行けば、あの人の最期の、何か手がかりが掴めるんじゃないかと思ったのさ。遺品とかね。二十年も経っているんだ、そんなものは無いかもしれないが、それでもいい。あの人が最後に居た場所を見てみたいのだよ。息子もいるしね、なんとかなるだろう」
 「危険だわね」
ずっと黙って聞いていたイザベルが、閉ざしていた口を開いた。「ここは、そんな生易しい土地じゃない。夏の夜なら、道の側はそう危険じゃないんだけどね、遺跡となると話は別さ。泊まってる連中だってみんなそう言うよ。旦那さんから何か聞いていないのかい?」
老婦人は首を振った。
 「さあてね。聞いたかもしれないが、みんな忘れてしまったよ。昔の私は仕事仕事で忙しかったし、いつも世界中を飛び回っていたから…。」
 「人の手がはいったところには、大抵余計なものが住み着くことになっているんだよ。幽霊やら怪物やら。この土地の遺跡がほとんど手付かずなのは、そういうわけさ。信じなくてもいいがね、とにかく夜は気をつけて、遺跡の中でなんか眠らないことだよ。日帰りが無理でも、せめて日が暮れる前には遺跡を離れたほうがいい」
 「あらあら、そんなもんなの。じゃあ、日が暮れたあとも遺跡にいれば、亭主を殺した仇に会えたりするのかしらね?」
リリーの口調は、面白がっているようだった。それでいて、どこか真剣な、ひどく暗いものを感じさせる。大ヒットした彼女の歌と同じように。どこか―― 全てに絶望し、そのくせ全てを受け入れるような――。
 「道案内が欲しいのよ。誰か適当な人はいないかしらね?」
 「さて、宿泊してる冒険者に声をかけてみるのが一番いいと思うよ。あたしは宿を離れられないし。」
 「じゃ、そうしてみようかしらね。」
リリーとの話はそれで終わった。その日リリーは、オッドヴィルを二階の部屋においたまま、戻ってきた宿泊客の一人一人に声をかけ、積極的に話を聞き込み始めた。かつての大歌手じきじきの訪問とあって、宿泊客たちはみな興奮していた。サインを欲しがる者もいた。リリーはそれらの一つ一つに愛想よく答えながら、しかし、自分の目的を果たすための要求も怠らなかった。

 だがユーフェミアには、分かっていた。
 遺跡への供を申し出る者は、誰一人としていないだろうということ。



 月は遅く昇ってきた。
 夜更けの風が吹き抜ける<協議の間>で、ユーフェミアは一人ぼんやりと海を眺めていた。
 戦う相手のいない空の席を前にして、黄金のチェス駒たちはみな、おとなしく眠りについている。海は穏やかで、ほとんど波もなく、ホールの喧騒とうってかわって静かだ。
 キイ、とかすかな音をたてて、背後の扉が軋んだ。
 「あらあら、こんなところがあったのねえ。」
振り返ると、杖に寄りかかるようにして立つリリーの姿があった。金のスパンコールが散った、派手で分厚いショールをかけている。
 ユーフェミアが駆け寄って手を貸すと、老婦人はさも当然のようにその手を使って<協議の間>へ降りてきた。
 「これが黄金のチェス? 魔法で動くという? こんなところに置いておいて、盗まれたりしないの」
 「平気みたいですよ。」
 「そう。ここは本当に不思議な場所だねえ」
ユーフェミアと老婦人が椅子に腰を下ろすと、駒たちは薄くめざめてカタカタと鳴った。だが、二人にチェスで戦う気がないようだと知ると、すぐにまた眠りについてしまった。
 遥か遠くから、波の音が聞こえる。
 「駄目だったんでしょう? 協力者募集」
 「ええ、とても危険な場所だからって誰もついてきやしない。報酬の問題じゃないんだそうだよ、まったく。あの遺跡には幽霊が出るんだって、ひどく恐れてる人もいたねえ。そりゃあね、幽霊は銃でも剣でも倒せないもんだがね。」
そう、幽霊と同じレベルの古いまじないか、何か魔法でもない限りは。
 「ねえ」
ふいにリリーはチェス盤の上に身を乗り出した。
 「あんたを借りたいって話をつけてきたんだよ。ユーフェミア? 一緒に遺跡まで行っておくれじゃないかね」
 「えっ…?」
ユーフェミアは、思わず身をのけぞらせた。「私、ですか。でも」
 「あんた見かけによらず力持ちだし、ここのこともよく知ってるんだろう。もちろんあたしや荷物を運ぶのは息子にやらせる。あんたはその、それ以外のことをやってくれればいいさ。」
イザベルが、ユーフェミアの力のことを話したはずはない。もちろんルベットも。今晩の宿泊客の中には去年の夏もここにいた常連の冒険者もいたけれど、彼らは何も知ってはいないだろう。
 だがリリーには確信があるようだった。――ユーフェミアがいれば、致命的に危険な目にはあわない、と。
 「…分かりました。」
少女は頷いた。興味もある。この老婦人が何を考え、何を欲しているのか。恐れられるロードゥルの遺跡とは、どんなところなのか…。
 「あ、ところで」
話題を変えようと、ユーフェミアはつとめて明るく、何の含みもなく尋ねた。
 「あなたは、有名な歌手だったそうですね。皆が話していたので。その… 引退されてからはもう、歌は歌わないんですか?」
紫色の、カールした髪が揺れた。くっくっくっ、と喉を鳴らすような笑い声。やにわに老婦人は背を逸らして笑い出し、その良く通る澄んだ響きに、ユーフェミアはぎょっとして体をこわばらせた。
 「ご覧」
言うなり、リリーはショールをずらし、ドレスの襟ぐりを指で引き降ろした。現れた喉元には年からくる皺だけではない、はっきりとした、大きな傷跡が白く残されていた。その傷は頬を縦断し、さらに―― 濃い色の、この時間ではほとんど黒に近い、色眼鏡の奥に消えていた。
 「――あたしはもう歌えないんだよ。歌おうにも、長く息を続けることが出来ない。」
冷たい横顔、だがそこには諦めも絶望もなく、むしろ瞳にはいつもより、激しく狂おしい炎が揺らめいている。


 しらしらと 月は映え
 波間に光は落ちる
 十の霜月数えし昔 青白い娘の館に招き入れられし者求め
 かの女は
 いにしえの記憶の園へ臨む




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