TOPBACK 第一部へNEXT

第二部 黒き復讐者

<灰色狼と賞金稼ぎ>


 予告どおり、次の夏の始まる前に彼女はそこにいた。
 持ち主の動くたび、それ自体がひとつの生き物のように動く、艶のある長い銀髪は首の辺りで二つに分けられ、片方の房は背中に、もう片方は胸の前あたりに垂らされている。まだ空気は夜の残り香を宿して冷たく、はるかな昔に枯れ落ちて石と化した灰色の<大樹>の割れた幹から、光が斜めに降り注いでいる。
 ユーフェミアは、宿のかたわらの牧草地でヤギに草を食ませていた。その傍らにはせわしなく動くニワトリたち。これが彼女の朝の仕事だった。家畜が外に出ている間に家畜小屋を掃除すること。そして冬に備えて干草を作ること。
 ここ、<黄金のチェス亭>は、未開地域<アスガルド>で唯一のお宿にして、唯一住人の住まう場所。もちろん他には店もなければ民家もない。最も近い町までも、人の足では往復するに一日がかり。もちろん定期的に食材などは届けられるが、宿で供される新鮮なミルクや卵は、こうして自給自足しているというわけだ。
 ここでの夏は短く、冬は長い。
 冬の間、家畜たちに与える餌は今のうちに十分な干草を作っておくほかない。おまけに夏は観光シーズンでもあり、アスガルドには「外の世界」― 町から物好きな観光客が訪れる季節でもある。やらねばならないことは、ことはいくらでもあった。今までイザベル一人でどうやって切り盛りしていたのか不思議なくらいだ。


 草を刈る手を止めて、ユーフェミアは汗を拭った。
 日はまだ天頂へ昇り始めたばかり。早起きして仕事を始めただけに、昼まではまだ時間がある。宿に泊まっていた冒険者たちは、みな出払った頃あいだろう。宿のほうは、おかみのイザベルが引き受けている。何も心配することはない。
 ――だが、この胸によぎる不安は一体、何だろう。



 陸の孤島とは呼ばれるものの、観光目的であれ、それ以外の目的であれ、<アスガルド>を訪れる者は意外に多い。だが、好んで何度も訪れる者や、まして住み着こうなどと考える者はほとんどいない。それもそのはず、ここでは町での常識が一切通用しない。自然はきびしく生き物はダイナミック。世界中でここにしか生き残っていない太古の生物、伝説に謡われるような怪物の類さえ、運が悪ければ遭遇する。
 そんなだから、<アスガルド>を気に入って居つくのは、よほどの変人か、犯罪者か、世捨て人か―― 或いは何か、この地に魅かれる不思議な力を持っているような者だ。
 ユーフェミアの場合は、予言の力がそれだった。時々はっきりと、これから起こることが視える。時に漠然と、時にはっきりと… それは詩の形をとって、彼女の口から生まれてくるのだった。
 だが、今回の不安は、予言の力とは関係なかったらしい。背の高い彼女はすぐさま、草陰に潜んでじっと見上げる金色の目に気がついた。灰色の獣。ユーフェミアの故郷の森でもよく見る野生の狼だ。
 なんとまあ、こんな朝っぱらから図々しい。
 ユーフェミアは、呆れて腰に手を当てた。目の前を取り澄まして行きつ戻りつしている鶏に魅かれて、近くまでやってきたのだ。狼は今、よだれを垂らしそうな顔つきで鶏をじっと見つめている。そりゃあ向こうからすれば、さぞかし豪華なごちそうに見えるだろう。だがみすみすくれてやるわけにはいかない。彼女は足元の石を拾って狼のすぐ側に投げ落とした。ビクッとして、狼が飛び上がる。鶏たちがけたたましく騒ぐ。
 「お行き!」
狼は灰色のしっぽを振りたてながら、追われる野良犬のように駆け去ってゆく。やれやれ。
 ここいらの狼は、みなああなのだ。目の前にごちそうがいれば引き寄せられて来るものの、飢えているふうは全くない。人を襲うこともなく、<黄金のチェス亭>で飼われている獣に手を出すこともない。

 「どんなにきびしい冬でも、あれらはうちの客に害は及ぼさないよ。」

と、イザベルは言っていた。何故だと聞くと、「そういう決まりだからさ」という答え。なるほどイザベルらしい。
 つまり<黄金のチェス亭>とその持ち物は、狼たちにとって食事の対象外なのだ。縄張りの外にあると言ってもいい。ここでは、そうした生き物同士の目に見えない住み分けが山ほどある。人間同士の協定のように、一方的な都合で破棄されたり、都合よく忘却されたりしない、絶対の約束事。まるで、引かれた線の向こう側に足を踏み越えることは、即破滅を意味するかのように、約束事の範囲内では天敵同士が平然とすれ違う。
 それが、いかなる法も及ばぬ土地、未開地域<アスガルド>なのだった。



 羊たちを追いたて、鶏を小脇に抱えて家畜小屋に戻って来たとき、宿のほうから珍しくイザベルの不機嫌そうな声が聞こえてきた。

 「だからね。何度も言ってるだろう? ――うちは情報屋じゃないんだ。いくら積まれても、あたしは何も喋らないよ」

家畜小屋の全ての扉に閂が降りたのを確認し、草刈り鎌を片付けてから、ユーフェミアは、そっと裏口に回った。言い争う声は開け放した裏口のほうからも聞こえてくる。どうやら相手は何人かの男。お客だろうか。台所を抜け、カウンターの後ろあたりでそっと聞き耳を立てる。カウンターを挟んでイザベルと向き合っているのは、いかにもな風采の賞金稼ぎが五人。一人はカウンター越しに身を乗り出し、一人は行儀悪く、今朝イザベルが磨き上げたばかりのカウンターに泥だらけのブーツを載せている。
 「俺たちも仕事なんだ、姐さん。何でもいいから教えてくれよ、やつのことをさ。ここの常連客なんだろう?」
 「誰がそんなことを言ったの」
イザベルは、荒くれ者の大男たち相手に一歩も引かず、腕組みをして仁王立ちしている。
 「酒のついでに、客に話を聞いただけさ。皆、気前よく教えてくれたぜ? そこに、ほら。入り口にかかってる、あの竜の首は、去年、奴が倒した黒翼蛇<ニーズヘッグ>なんだろう?」
それでユーフェミアにも、ようやく事情が飲み込めた。賞金首のローグ、熊の姿をした黒い守護霊を連れた、"呪われた男"。賞金稼ぎたちは、ローグを追ってやって来たのだ。
 イザベルは、フンと鼻を鳴らし、男たちひとりひとりの顔を見回した。
 「あれなら客の一人が宿代代わりに置いていったけどね。だけどどういう風の吹き回しだい? 今になって、こんな大人数で<アスガルド>の奥地までやって来るなんて。たかが一人殺した罪じゃないか。討伐隊が組まれるほどの重罪人じゃないだろう?」
 「知ってるかい、姐さん。」
一人がカウンターから身を乗り出して、にやにやと下品な笑みを浮かべる。「賞金首の賞金額は、逃亡年数が長くなるほど上がっていく。逃亡中の再犯なら倍増もある。だが―― もう一つ、賞金に”オマケ”がつく方法があるんだよ。名声賞金ってやつなんだが」
 「竜殺しは+三百だ。」
カウンターにブーツを載せた、行儀の悪い男が得意げに片手を挙げた。(この時ばかりは、イザベルも、露骨に眉を跳ね上げた。イザベルは行儀の悪いのが我慢できないタチだ)
 「そう、その通り。そいつが”とりわけ凶暴”と証明するような偉業を果たせば、政府から捕縛補助金が出るんだよ。肩書き付きの逃亡者は高く売れる。そういうわけさ」
 「なるほどね。あの子は自分で自分の賞金を上げちまったわけだ」
 「とにかく姐さん、俺らが欲しいのは八百の賞金首の情報さ。奴は去年の夏、竜と大立ち回りをして怪我をしたっていうじゃないか。今は健康なのか? それとも腕の一本でも無くしたか」
 「残念だけど、ここを出て行った時はピンピンしていたはずさ。ローグは確かに冬にはここに泊まったが、春になる前にいつの間にか消えちまったよ。お代は<ニースヘッグ>一匹で有り余るほど支払ってくれてたからね、うちとしても問題ない。今年の冬また戻ってくるかどうかなんて判りゃしないし、夏の客の多い間にのこのこ遣って来るなことはしないよ。ここに泊まってる連中もそう言うだろう」
それからもしばらくやり取りが続いたが、どうにもらちが明かないと知って、結局、賞金稼ぎたちはそのまま引き上げていった。男たちがいなくなると真っ先に、イザベルは泥に汚されたカウンターを磨き上げにかかった。かなり機嫌が悪そうに。
 ユーフェミアは、そっと柱の影から姿を現した。イザベルなら、彼女がそこで聞いていることくらい、とっくの昔に気づいていたことだろう。
 「羊と鶏の世話は終わったのかい?」
 「ええ、問題なく。…問題なくっていうか、狼が来てましたけど」
 「何もしなかったろう?」
 「はい。」
 「そ。じゃあ、問題なしだ。」
昼を、もうずいぶん過ぎてしまっていた。二人はカウンターを挟んで遅い昼食をとり、ゆっくりと午後を始めることにした。
 「それにしても、―― さっきの人たち、ずいぶん感じが悪かったですね。」
 「ああ、賞金稼ぎは大抵あんなものさ。それにしても…守護した者に名を上げさせ、武勲を立てさせる代わりに、常に強敵を運び終わりの無い闘争へと導いていく。まったく、黒い女神の加護ってやつは厄介だね」
ユーフェミアは、ローグの後ろに付き従う黒い影のような熊のことを思い出していた。普通の人にも、ローグ本人にも見えないが、何故かユーフェミアにはそれが視える。彼曰く「先祖代々の守護霊」で、戦士を凶暴にして、理性を失わせる戦いの女神だという。賞金首になった原因はその霊の呪いだと、かつてのローグは信じていた。今はどうかは分からないが。
 この<アスガルド>に、賞金稼ぎは珍しくない。広大な未開地は、追われたならず者が逃げ込むのにうってつけの場所だからだ。だが、<アスガルド>はただの未開地ではない。原初の地でもある。うっかり奥まで迷い込めば、人は獣の餌食となり、賞金首も賞金稼ぎも、等しく命の危険に晒される。
 だから大抵の賞金首は、町からそう遠くない場所に身を潜めるし、賞金稼ぎもそのあたりで狩りをする。この<黄金のチェス亭>のある奥地までやってくるのは、余程の相手を追う時だけ。危険で特殊な<アスガルド>で長く身を潜め、世界の輪から外れても生きられるのは、本物のならず者だけだ。
 「今年の冬で、九年になるかねえ」
ぽつりと、イザベルが言った。
 「最初にやって来たのは冬だった。飢えた狼みたいにギラギラした目をした痩せた子だったよ。服もボロしか纏っていなくて、体は傷だらけ。そのくせ、あのバカに無骨な剣だけは手放そうともしなかった。この土地に似合いの子だと思ったもんさ」
 「それは――、土地に好かれる、ってことですか。」
 「そうかもしれないねえ。」
笑って、彼女は続けた。「<アスガルド>にいる限り、ローグが捕まることはないだろうよ。どんな相手でもね。それはあんたも知ってのとおりさ。…だけど、今回ばかりは、あたしも少し不安なんだよ。」
 「私もです」
ユーフェミアは、手元に視線を落とした。「はっきりとは、判らないんですけど。…この夏、誰かが死ぬような気がするんです。それが誰なのか…判らないけど。ローグさんじゃないです。まだ早すぎます―― でも、全く知らない人じゃない。ここで会ったことがあるか、これから知ることになる誰か…」
 「春に、あんたが送ってきた手紙を覚えている?」
 「手紙?」
 「あたしと、ルベットとローグに充ててきた手紙さ。”拝啓  みなさま お元気ですか? 私は、いま家にいて、祖父の書斎でこれを書いています。”――」
 「あ、あーー」
ユーフェミアは真っ赤になった。「あ、あれですか。そのう」
 「あれに、書いてあったじゃない。”今年の夏は大変な目に遭う”とか、”懐かしい人に会えるかもしれない”とか…」
ユーフェミアはきょとんとして、しばらく考えたあと、首をかしげた。
 「…そうでしたっけ。すいません、私、ときどき自分の書いたものを意識していなくて…。」
 「確かに書いてあったんだよ。あれは予言の詩の一部かと思ってね。あんたのは、よく当たるから。」
わずかな沈黙が落ちた。
 「…なら、きっとそうなんだと思います。さっきの人たちは、きっとローグさんを見つけるでしょう。そこで戦いになるのかもしれません。なんだか、騒々しい夏になりそうですね」
 「いつものことさ。さ、食べたら片付けて二階の掃除をしなきゃね。夕方に予約のお客さんが着く予定なんだよ。」
 「予約…ですか。」
 「そ、予約、さ。はじめてのお客さんが、スイートルームに長期滞在されるそうなんだ。ずいぶん気位の高いお金持ちみたいだから、粗相のないようにね」
 「はあ…。」
まったく、これだから<黄金のチェス亭>のお客は面白い。”ハネムーンから研究合宿まで、ありとあらゆる要望にお応えする老舗宿。世界に二つとない絶景、手付かずの大自然に触れる旅はいかがですか。心地よい寝床と美味しいお料理でお待ちしています。”その実態ときたら。

 「何か言ったかい? ユーフェミア」
 「いえ、何も。」

開け放した窓から、ふわりと海風が迷い込む。微かな夏の香り。霧が完全に晴れれば、普段は霞んで見えない灰色の<大樹>のてっぺんまで見渡せ、人々はこぞって、その奇観を眺めにやって来る…。


TOPBACK 第一部へNEXT