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<流離い人たちの肖像>


 辺境の地<アスガルド>の入り口には、いくつか最寄の町がある。
 そのうち最も大きくて、<黄金のチェス亭>にも通いなれた人々の住まうのが、ここ、フランシェーロの町。この辺りでは唯一の大きな郵便局があり、<アスガルド>で唯一の正規住人である宿の女将イザベル・ゲーリング宛の荷物や手紙や書類なんぞを、定期的に郵便局員がまとめて運ぶ。大丈夫、事故は滅多に無い。ほんの、年に数回程度だ。
 ユーフェミアはそこへ帰って来た。旅立ったときと同じように、さりげなく。だが彼女にとっての一ヶ月は、町の様相さえ一変したように感じさせた。どこを向いても人、人、人。そして人以外の動物はほとんどいない。空気は重く、石造りの建物が所狭しと立ち並び、足元は隙間無く石畳に覆われている。一瞬呆然としたあとで、ああ、そうか、と彼女は思った。
 あそこは外の世界とは違う場所。ほんの数日の距離にあっても、その隔たりは何百年分もある。



 フランシェーロで一泊したあと、長距離列車の切符を買った。祖父から受け継いだ家のある町までは、列車に乗って二日ほど。そこからさらに馬車に乗り、半日ほどかけて田舎のほうへ。昔から一族の棲む小さな町へ入ったとき、ユーフェミアは、初めて心からほっとした。しばらく離れていたとはいえ、そこには違和感を感じなかった。この閑散とした片田舎はきっと、何処か<アスガルド>に似ているのだ。
 乗合馬車を降りると、彼女はすぐに町の郊外にある古びた森に向かった。この地方では珍しい、樹齢何百年にもなる巨大な木々が門を成している。かつてこの辺りの国々を巻き込んだ戦争の時も、燃えてしまわず生き残ったのだという。開拓されることもなく、斧を知らない太古の森。その森は、森の初代の主の名をとって、「クレイントンの森」と呼ばれている。何の標識もないが、ここから先は私有地と近隣に住む人々はよく知っている。木立の合間から見え隠れする村の家々の赤い屋根や教会の白い尖塔は、別世界を垣間見るように遠く感じた。
 「ユーフェミア・ブランフォード!」
森を眺めて一息ついていたとき、誰かが彼女の名を呼んだ。振り返ると、がっしりとした体格の、壮年と言ってもよい年齢の女性がスカートをたくし上げ大またに近づいてくるのが見える。燃えるような赤毛を高々と結い上げ、くるぶしまである、ぴったりとした黒いロングドレスを着ている。
 「こんにちは、マリアーナおばさん」
 「何処をほっつき歩いていたの、あんたという子は!」
赤毛の女性は笑いながらユーフェミアの肩を抱き、大げさなくらい喜んでみせた。
 「ちょっと旅に出ていたんです。でもそんなに遠くじゃないんですよ」
 「まあ、その喋り方。それに旅ですって? ほんとに悪いところばかりグランパ<おじいさん>に似て! 」
マリアーナはユーフェミアに良く似た瞳の色をして、背が高く、大柄で、一目で血縁関係にあると分かる。この辺に昔から棲む人々は、みんなそうだ。ただ、髪の色だけは、東の大陸生まれの母親を持ったユーフェミアのほうが、くすんだ、暗い色だった。
 「でも、ちゃんと帰ってきたのね。嬉しいわ。せっかくお祖父さんが貴女に残した森なんだから、たまには戻ってあげなきゃ」
 「弟たちがいますから。私よりしっかりしてますし。本当は、あの家、弟たちにあげたほうがいいんじゃないかって」
 「だめよ。それはだめ」
マリアーナは大きく首を振った。
 「受け継いだ遺産は自分が死ぬまで誰にも譲れない。それがここの掟よ。約束は守らなきゃ、貴女をお館様に選んだおじいさんにも失礼でしょ。」
 「…はい」
 「とにかく、今はこのくらいにしましょ。戻ってきてすぐにお説教じゃあね。あとでパイを焼いて持っていくわ! 旅の話を聞かせて頂戴」
懐かしい人との再会を終え、ユーフェミアは、森の奥へ向かって歩き出した。
 両脇から迫ってくるような巨木に圧倒されることもなく、彼女は、まるで散歩でもするように気軽に歩いていた。通いなれた道だった。実際住むようになったのは祖父が亡くなった数年前からだが、幼い頃にも何度か訪れたことがある。
 それでも最初の頃は、時々、薄暗い木陰や、見下ろすような樹のうろがよけもなく恐ろしく感じたものだけれど、成長して背が高くなるにつれ、木々は怖くなくなった。今は却って、木々の吐き出す濃厚な吐息が体にまとわりつくのが心地よい。
 途中、大きな音を立てる小川の上にかかる石橋を渡り、真っ直ぐな道を抜けると、唐突に、目の前に古びた石造りの館が現れた。青白い石づくりのどっしりとした家。蔦が絡まり、一見すれば人が住んでいるようには到底見えない。外見とちぐはぐな、色鮮やかな窓のカーテンに気づいてようやく、この家に人が住んでいることに気づくくらい。
 入り口につながれて眠っていた大きな犬が、ユーフェミアを見つけてやる気なさそうに吠えた。ドアベル代わりに数回吼えると、もう義務を果たしたといわんばかりにまた目を閉じる。ユーフェミアは、ため息をついて、やる気のない番犬をこづいた。
 「まったく、あんたは、お帰りなさいくらい言えないの?」
二階の出窓が開いて、眼鏡をかけた少年が顔を出した。生きたドアベルは、一応は役割を果たしたようだ。
 少年は、ユーフェミアと目が合うと一瞬驚いたような顔をし、それから満面の笑顔になる。
 「おかえり、姉さん。我が家は今のところ異常なし、だよ。」



 約四時間後、ユーフェミアは、広々とした自室でくつろいでいた。こんなに時間がかかったのは、好奇心旺盛な弟たちと、予告どおりパイを持ってやって来たマリアーナが、旅の話を聞きたがったからだ。二人の弟のうち片方は黒髪で、もう片方はこの地方特有の赤みがかった髪をしている。黒髪の眼鏡の少年は年のわりに大人びて、もう一人ははちきれんばかりの元気を無理やり押さえつけて暮らしているかのように落ち着かなかった。黒髪のヨルムはユーフェミアの二つ年下、赤い髪のフェンリスは四つ下。両親は他界して既に亡く、東の大陸に母の親戚はいたが、父方の祖父の遺産相続を期に、一族の昔からの土地に戻ってきたのが三年前。それから、この屋敷は三人兄弟のものになった。マリアーナをはじめとして、近所に住む親戚たちが何かと面倒を焼いてくれたから、とくに困ったことはない。
 ユーフェミアが自室にしている部屋のすぐ隣が、亡き祖父の書斎だった。あまりに色々ありすぎて、今もそのままにしてある。 
 幼い頃、長期休暇の両親とともに訪れた時、この書斎で様々なものを見ては、祖父が話す、かつて旅して来たという場所に思いを巡らせたことがあった。思えば――祖父シゲイル・ブランフォードは、旅人でもあった。彼の話はいつも抽象的で、具体的にいつ、何処を旅して来たのかが、ひどく分かりづらかったけれど。
 ユーフェミアは、<アスガルド>へ持っていった手帳を、祖父の大きな書き物机の引き出しに戻しに行った。地図も、そのほかの書き物も、全部元通り挟んである。その後、何気なく机の側の本棚に目をやった彼女は、今まで気にしたこともなかった、一冊の本に目を留めた。


 <アスガルド>の植物学 ―ヴィンドランド北部未開地域に見る古代生態
 ランデル・ベルナール・エル・トランデル
 R      B       E      T


色あせた黄緑色の布表紙のその本を開くと、ぱりぱりと乾いた音がして、はがれた紙切れの粉が落ちた。表紙の裏には、ランデル・トランデル博士の立派な肩書きと経歴、今までに取得した数々の賞と主要な著作が書き連ねられ、何十年も若いルベットが、白黒写真の向こうからにっこりと笑いかけていた。



 田舎町では、手に入らないものも多い。次の日は、せっかく戻って来たのだからと、マリアーナに強引に誘われて、今日は朝から隣の大きな町に買い物に出かけることになった。フェンリスは学校へ行って、留守だ。飛び級で卒業してしまったヨルムが留守番。マリアーナの操る馬車は軽快に、隣町への道を走っていく。
 「急に寒くなってきたわね。今年は冬の足が早いわ」
コートの襟足をたたせながら、マリアーナは肩を震わせた。
 「ええ、そうですね」
ユーフェミアは、<黄金のチェス亭>のホールにある、大きな暖炉のことを思い出していた。
 「時間はたっぷりあるんだし、ゆっくり見て回るといいわ。あなたも年頃なんだから、少しはいい服を買ってはどう? そんな、だぶだぶのズボンはやめて」
 「でも、」
でも、サイズが無いんです―― と、言いかけて、ユーフェミアは止めた。以前、そう言ったとき、マリアーナ行き着けのロングドレスのお店に連れて行かれたからだ。ドレスなんて着るくらいなら、家政婦の服のほうがまだマシだ。
 「その前に本屋さんに行かなくちゃ。ヨルムに、欲しい本を頼まれてるんです。リストまで渡されたから」
 「まあ。あの子ったら、本当に本の虫ね。」
そのあとマリアーナは、思い出したようにヨルムの今後のことや、フェンリスの学校での成績、最近仲間とケンカしたことなどを話し始める。ユーフェミアは、そうしたマリアーナのとめどないお喋りを聞き流しながら、馬車の荷台から見える景色を眺めていた。この辺りに住む灰色狼が、草陰にちらちらと姿を見せている。獰猛な野生の獣のはずだが、人を襲ったという話は聞いたためしがない。荒れたヒースの野原が町と町の間をつなぐ。この辺りは、ほんの少し<アスガルド>の入り口のあたりに似ている気がする。
 町につくと、二人は分かれた。マリアーナは自分の買い物に、ユーフェミアは本屋へ。実を言うと、ヨルムに頼まれた本というのは半分は嘘だった。頼まれたもの以外に、ルベットの本をもっと探してみたかったのだ。
 入り口を入ってすぐカウンターで今日の新聞を並べていた眼鏡の店主が、ユーフェミアを見つけて声をかけた。
 「おや、あんた、クレイントンの森のお嬢さんじゃないかい。旅に出てたって聞いたけど、戻って来たの?」
 「ええ」
この辺りの町は、昔からの住人はだいたいの知り合いだ。新聞を見て、彼女は、<黄金のチェス亭>にまとめて届いていた新聞のことを思い出した。イザベルは、いつもカウンターで読んでいたっけ。
 「旅先では新聞はあんまり読まなかったの。一番新しいのを一部くれる?」
普段滅多に読まない新聞を手にとったとき、ユーフェミアは、自分が何処か変わってしまったような気がした。
 書店を出ると、その足で文房具屋へ向かった。必要なものを揃えたあたりで昼になる。噴水広場でホットドックと水を買い、ベンチで腹ごしらえしながら、朝買った新聞をようやく広げた。ニュースのほとんどは、彼女には興味のないものだ。四カ国の首脳懇談会の開催について、北方王国連合に加わることを拒んでいる、ある小さな島国との交渉について、有名な歌手の来訪について。「尋ね人」や「探し物」広告は相変わらず面白かったが、論壇などはやたらと小難しい単語が並んでいる上に意味が分からなくて、腹立たしくさえ思えてくる。だが、紙面をめくっているうち、「探し人」広告の次の「賞金首」が目に留まった。


 ローグ・フラウムベルグ
 【罪状】 殺人、傷害、器物損壊
 【年齢】 男/25歳
 【備考】 北部未開地域に潜伏・竜殺し


 何故だか、笑いがこみ上げて来てしまった。竜殺しの称号。本人がこれを見たら、きっと、あの陰気な仏頂面をしかめるに違いない。その時の竜の首は、今も<黄金のチェス亭>の入り口でほこりを被っている。
 ユーフェミアがあまりに熱心に賞金首の欄を見ているので、通りかかった流れ者の賞金稼ぎが、笑いながら足を止めた。
 「なんだい、お嬢さん。その中に親御さんの仇でもいるのかい」
 「ちょっとした知り合いだけど…。あなた、この人を狩りにいける?」
 「どれどれ」
ユーフェミアの手元を覗き込んだ男の顔が曇った。
 「こいつはまた凶悪な奴だな。十年近くも逃げ回ってるような奴だし、賞金額からしても、並みの賞金稼ぎじゃ難しいだろう」
言ってから、ユーフェミアの表情に気づいた男はむっとして腰に下げたいかつい黒光りする銃をそれとなく指で揺らした。
 「だが、あんた、本当にこんな奴の知り合いなのかい。」
 「ええ、今年、<アスガルド>へ行ったときに会ったわよ。」
もう彼女は笑い出さんばかりだった。「…あのとき捕まえていたら、私、ずいぶんお金を稼げたんだなって」



 夕方、待ち合わせの場所でマリアーナと合流し、ユーフェミアは家に向かった。マリアーナは冬用のコートや布地を沢山買い込んでいた。この辺りも秋は短く、冬は厳しい。雪が積もれば馬車は使えないし、町へ出るのもたいへんになる。
 「何か、いいものは見つかった?」
と、マリアーナ。
 「ええ、自分の欲しかった本も買ったんです。それと、少し服も」
 「いいことね。それは」
ユーフェミアのかばんの中には、雨に降られても大丈夫な旅用の丈夫な上着と、宿の紹介でイザベルの写真が入っている、地図つきの<アスガルド>の紹介本が入っていた。


 あの人たちに、会いたい。


 その思いは日増しに強くなる。壁に貼り付けた<アスガルド>の地図を眺めていると、そこでの日々がありありと蘇ってくるのだった。以前は、衝動的にそこへ行った。行き先がどんな場所かは考えても見なかったし、半分は夢を見ているようだった。だが今は、旅立つ前よりもその場所のことをよく知っている。あの、美しいけれど危険な、異世界のような場所が、そこに暮らす人々のことが、今は恋しい。
 ユーフェミアは以前より書斎に篭るようになった。まるでヨルムが移ったみたいだ、とマリアーナは笑ったが、自分ではそんな気はしなかった。
 弟たちとは、時々、その話をした。
 年が近いせいもあったが、三人の間に隠し事はほとんど無く、生まれてこのかたずっと今まで、悩み事や企みごとは共有してきたものだった。
 「冒険が待っているなら、僕も行きたいな。ここでずっと一生暮らすなんてつまらないじゃん。ただし学校を卒業してから、だけどね。そうしないとマリアーナおばさんが煩いから」
と、フェンリスは言った。
 「姉さんは森の番人じゃないんだから、ずっとここにいる必要はないと思うよ。お祖父さんの遺言は守らなくちゃいけないと思うけど、いつか戻って来るなら構わない。」
ヨルムはいたって冷静だ。「でも、そこは危険な場所なんだよね? 姉さんに何かあったら困るよ」
 「そのときは、私、あんたたちにここをお願いするつもり。でも大丈夫、あそこでは何も悪いことは起きないのよ。」
ユーフェミアは、自分に予言の詩を作る力があるらしいこと、イザベルに言われたことなども弟たちに話してあった。それは、今までの細々とした出来事でうすうす察してはいたから、二人とも疑いはしなかった。ただ、慎重なヨルムは、予言された未来が必ずそのとおりになるとは、信じてはいないようだったけれど。
 「姉さんのことだから、きっと大丈夫だと思うんだ。だけど、旅に出たくなったときは言ってほしいんだ。前みたいに書置きだけしてふらりといなくなってしまわないって。もし何か助けが必要になったら、知らせてくれるって約束して。」
 ユーフェミアは、それからも何度か弟たちとその話をした。ただしマリアーナには内緒にしておいた。言えば止められると分かっていたし、マリアーナは、女の子はお洒落にして家にいるものだという考えを持っていたからだ。



 書斎のゆったりした椅子に身を沈め、目を閉じて、想像の中でもう少し先の季節の<アスガルド>を見ようとした。
 <大樹>はもう半分は霧に隠れて、上のほうは見えなくなっているだろう。空は灰色にかげり、夏の頃の透き通るような色は見る影もない。それでもユーフェミアは怖気づいたりしなかった。枯れた草も、冷たい風も、幼い頃を過ごした東の国の冬と大して変わらない。
 霧が道を閉ざす前、夏から冬へと移り変わる、ほんの一瞬の短い秋…
 まもなく本格的な冬がやってきて、あの道は閉ざされるだろう。氷と闇で、屋外で人が生きていくことはほとんど絶望に近いというあの場所で、郵便さえも届かない<アスガルド>のただなかで、残された人々は<黄金のチェス亭>に集い、ゲームや噂話に打ち興じ、たぶんルベットは夏の間に集めた植物の分類をしたり大学に送る論文を書いたりする。ローグは、あの黒い熊をひきつれて、不機嫌そうに穴倉に閉じこもっているだろうか。ハロルドのいる地下は冬でも気温が変わらないそうだから、意外と快適かもしれない。
 お客たちは、黄金のチェスで勝負に打ち興じ、ホールの暖炉の前で飽くことなく語り合い、即興の歌や踊りを楽しみ、そして、――宿の女将、イザベルは、いつものあの調子で、宿の宿泊客たちの話し相手をしたり、いなしたり、賑やかにやっていることだろう。
 夏が近づけば、外からの道は開かれる。ユーフェミアは、そのときになったら再び<アスガルド>の奥を目指そう、と心に誓ったのだった。


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