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<片目の放浪者> ―後編


 ほどよく夜更かししたお陰で、翌朝、目を覚ましたときには、もうすっかり日が昇りきっていた。お客たちはとっくの昔に出払ったあとで、ホールでは、イザベルが一人で朝食の片付けをしていた。
 ユーフェミアが遅く現れたのを見てもイザベルは叱りもせず、かじっていたミントの枝をぷっと脇に避けて、とっておいたパンとミルクを阻止出した。
 「珍しいわね。あんたが寝坊なんて」
 「すいません…」
ユーフェミアは、しょんぼりとパンを片手に台所に入った。
 「顔色が悪いけど、どうしたの」
 「ただの寝不足なんです」
彼女は、力なく笑った。「昨夜、地図を見つけたんです。…正確には、持っていたことを思い出したんですけど。それを見てたら、つい…。」
 「そういや、あんたのお祖父さんもここへ来てたって言ってたっけ。探検家だったのかね。ハロルドに見せてみれば?」
 「あとで、そうします。」
そう言って大急ぎでパンをミルクで流し込むと、ユーフェミアは、洗いものにとりかかった。



 朝の一仕事を終えた後、ユーフェミアはハロルドのテントを訪ねてみた。驚いたことに、近くの杭とテントの間に綱が張られ、何時の間にか簡易物干しが作られている。そしてテントの側に焚き火の跡。使い古したこんろの上には、同じくらい使い古した、ひしゃげたやかんが載っている。
 それらを眺めていると、人の気配に気づいたのか、テントの中からハロルドがぬっと顔を突き出した。
 「瓶を取りに来たのか? そこにある。もって帰れ」
ユーフェミアの足元、焚き火のすぐ側に、昨日イザベルが渡した酒の瓶が転がっている。もう全部飲み干してしまったのだ。
 ちらと見えたテントの中には、大きな折りたたみ式の机の上にインクやペンが所狭しと並べられ、インクを乾かしている最中の地図が吊り下げられていた。ハロルドほどの巨体が収まるにはあまりに狭い。
 ユーフェミアがなおも立っているので、いったんテントの奥に引っ込んだ大男は、また出てきた。
 「なんだ」
苛々した口調だ。彼女は黙って、ポケットから畳んだ地図を取り出して渡した。ハロルドは、一目でそれが何か分かったらしく、黙って受け取る。一瞬だが、表情が和らいだ。それから、すぐ、その表情が驚きに変わる。
 「こいつは…」
ハロルドはしきりと眼鏡を押し上げ、掠れた文字を何度も眺めている。「こいつを何処で手に入れた? シゲイルと、どういう関係だ」
思いがけない反応に、今度は、ユーフェミアのほうが驚く番だった。
 「祖父です。やっぱりご存知だったんですね」
 「祖父? あんたが孫? 奴はどうした。生きてるのか」
 「…亡くなりました、三年前に。私が遺産の相続人です」
ユーフェミアがそう答えた瞬間、いかついハロルドの口ひげが下がり、目に見えるほどはっきりと落胆するのが分かった。
 「そうか」
ぽつりと呟いて、男は、地図を元通り畳んだ。
 「こいつは、あんたが持ってるといい。今はもう役にたたん、古すぎるからな」
地図をポケットに仕舞い、足元に瓶を拾い上げると、彼女は足早にホールに戻った。幸い、イザベルはそこに居なかった。カウンターの上に瓶を置いて、ユーフェミアは、自分の部屋に戻ってベッドにうつぶせに寝転がった。
 何故か、最初からこんな反応が返ってくることを知っていたような気がした。何かに似ていると思ったのは、そうだ、幼い頃にずっと見ていた祖父の背中だ。夜中に書き物をしているとき、書斎から漏れてくるランプの光に延びた長い影が、規則正しく動いていて、そんな時は、決まって、声がかけ辛かったものだ。
 彼女の祖父は、<アスガルド>での日々について、具体的なことは何も書き残しては居なかった。人物名や地名もなく、散文的な、物事の印象だけを書き記した日記や、謎かけのような詩、それと、地図や、こまごまとした古い遺物。
 祖父の遺産を引き継いだとき、それらをどうしていいかは分からなかった。
 だが、彼女には今、ある確信があった。漠然とした思いが形作る答えは、一つ。



 ―― そう、このために、此処に来なければならなかったのだ。



 いつのまにか、うとうとしていたらしい。
 次に目を覚ましたとき、陽は傾き、西の海<エンドブルー>の向こうへと沈みつつあった。昼間は山ほど行き来する観光船も、もう居ない。夏の日は冬に比べれば長い。とはいえ、日は沈み、夜は訪れ、そのあとにうっすらとした光が水平線に残るくらいだ。
 ホールには早い戻りのお客たちが既にいて、驚いたことに、カウンターの真ん中にハロルドが陣取っていた。イザベルが酌をしながら相手している。ユーフェミアが現れたのを見て、宿の女主は笑顔で手招きした。
 「いま、あんたの話をしてたところよ」
ルベットもいる。三人で、少し前から盛り上がっていたのだろう。
 「あの地図は、」
彼女がカウンターの中に入ると、ハロルドは、おもむろに口を開いた。
 「あの地図は、地下迷宮の最下層の…この世にある、唯一のものだ。」
 「最下層、だって?ハロルド、お前さん、まだあの迷宮の最下層にはいったことがないんじゃなかったのかい?」
ルベットが小さな体を乗り出して聞くと、大男は、手元のコップに視線を落としながら低く、呟いた。
 「ある。一度だけ」
そして、ユーフェミアのほうを見た。
 「あんたの祖父さん、シゲイルと二人で行った」
 「え…。」
酒のせいなのか、元々顔見知り以外には喋らないだけなのか、その夜のハロルドは前日までに比べると驚くほど雄弁だった。といっても、言葉は頻繁に途切れ、ぽつり、ぽつりと、まるで言葉を思い出しながらしゃべるようではあったが。
 「それ以上先がないこと、崩れて埋まっているのではなく、本当にそこが地の底なんだと、――最下層だと確信して、地図の下書きをした。その帰り道―― 大規模な落盤があった。シゲイルとは別れ別れになり、帰り道も埋もれて、ようやく覚えのある道に出られたのは、一週間も経ってからだ。下書きの地図はシゲイルに渡してあったが、ここには戻ってこなかった。奴とはそれきりだ。」
イザベルが、肩をすくめる。彼女の知っている出来事なのだろうか。ユーフェミアは、どう答えていいのか分からなかった。
 「あの…、お祖父さんは、ハロルドさんを待たなかったわけじゃ…」
 「わしも、ここでしばらく静養したあと、またすぐに地下に戻ったからな、お互い様だ。待たれても困るし、その地図がそれほど重要なわけではない。既に道は崩れ、地形も変わった。その地図は、もう役にはたたん。ただ…あんたが、そいつを持って戻ってきてくれたことが嬉しかった。あいつが生きて家に戻れたと分かったこともだ。こんなに時間が経ってしまったが…」
沈黙が落ちた。
 ハロルドは、静かに空になったコップを、カウンターの上に置いた。丸っこい、太い指の先はインクで真っ黒に汚れ、爪の間にまで紙のくずが詰まっていた。
 「明日の晩には、ここでの地図のまとめが終わるだろう。そうしたら、また地下に戻ることになる。…その前に、見せたいものがある。あんたに」
 「私に、ですか?」
 「そうだ。明後日は新月だ。夜でも、そんなに危なくない。―- イザベル、このお嬢さんを貸してくれるか」
 「ええ、いいわよ。ただし、本人に先に聞くこと。無事に帰してくれること」
 「私…私は構わないです。でも、夜って?」
その時にはもう、ハロルドは席を立っていた。「地下へ行く」隣の椅子にかけてあった、厚ぼったい、ボロボロの上着を肩にひっかける。「朝から、一日かけて。安全な道だ」
 ユーフェミアは、わけがわからずイザベルとルベットのほうを見る。やれやれ、というようにルベットは肩をすくめた。
 「あいつの考えることは、よく分からんよ」
 「あら。あたしには分かるわよ」
と、腕組みしながらイザベル。「一緒に弔ってほしいんじゃないのかしらね。あの人。友達なんていないと思ってた人だけど、それだけ長いこと覚えていたんなら、特別な人だったんだろうし」
不安げなユーフェミアの表情に気づいて、宿の女あるじは、にっこりと笑った。
 「心配いらないさ。ハロルドはこの世で一番、ここの地下道のことをよく知ってる優秀な道案内なんだから。地図に書けない、どんな小さなことでも知ってるよ」



 ユーフェミアは、ルベットに手伝ってもらって数少ない荷物を取りまとめた。<大樹>の地下に入るときに必要なもの。その1が明かり、簡単につけられる懐中電灯と、長く燃えるランタン。火は燃やさないほうがいい。煙に引き寄せられる習性のある生き物がいる。その2、丈夫な靴。尖がった鉱物が突き出しているところや、ぬかるみ、苔むした滑りやすい道がある。その3、頑丈な帽子かヘルメット。その4、応急手当の薬と道具。磁石は使えない。食料も、食べられる地下植物が多いからそれほど沢山は必要ない。水は豊富にある。夜は意外と暖かく、温度や湿度は一年を通してほぼ一定している。等等。
 今まで興味がなくて、行った事の無かった<大樹>の入り口にも案内してもらった。そこは思ったより立派な、「観光名所」になっていた。最初の道は上り坂になっていて、そこから先、<大樹>の幹の中に吸い込まれるように道が続いている。入ってすぐの大きな空洞で道が3つに別れ、その奥でさらにそれぞれが分岐して、全部で9つの道になるのだと、入り口の案内板に書いてあった。案内板の下のほうには、「ご注意:探検は自己責任で」「ごみは必ず持ち帰りましょう」「初心者の一日探検コースプランはこちら、夜は命の保障はありません。必ず日暮れまでに戻りましょう」などと書かれている。
 ユーフェミアが「一日探検コース」を眺めていると、ルベットが言った。
 「ここの動物たちは夜にはがらっと変わっちまうんでな。地下で光なんぞないだろう、と言われそうだが、地下を動き回るのも、お天道様の動きに沿う必要があるんだ。」
 「そういえば、…宿のお客さんたちも、ルベットさんも、みんな夜までに戻ってきますよね」
 「わしらは各々、観光コースに無い近道を通ったり、慣れで地図を見ないで歩いたりして、も少し奥までは行くがね。それでも、ハロルドのように何ヶ月も地下で暮らすことは出来んよ」
話を聞きながら、ユーフェミアは、観光案内版に書かれた地図の端に記された記号を見ていた。入り口のあたりが「B1」、も少し先のほうが「B2」になっている。B3から後は灰色で、道も点線になっている。ところどころ、後から書き直したような跡があり、B2の真ん中あたりに大きくバッテンで「崩落」と書かれていた。
 「ああ、そのあたりは、地震で崩れて通れなくなったんだ。ほかにも何箇所か、通れなくなっている場所がある。」
 「私がここへ来た頃のことですね」
 「そうだな…」
ルベットは、ちょっと肩をすくめた。「早いもんだな。もう、あれから一ヶ月も経つとは。」



 ハロルドは夕方に一度、<黄金のチェス亭>へ酒瓶をとりに来て、ユーフェミアに「夜明けと同時に出発だ」と念を押すと、すぐまたテントに戻っていってしまった。地図の仕上げをしているらしかった。ユーフェミアはイザベルに許しをもらって、その日は早めに部屋に引き上げ、荷物の確認をして床についた。ハロルドは眠らなくて大丈夫なのだろうか。見せたいものとは何だろうか。初めて行く地下迷宮、それも決して安全とは言えない場所ではあったが、不思議と恐れは無かった。悪いことは起きないという予感があったからかもしれない。
 翌日、彼女は、朝日の昇る少し前に目を覚ました。宿はまだ寝静まり、廊下もひっそりと静まり返っている。荷物を手に、音を立てない様に階段を下りると、ホールにはもう明かりが灯っていた。
 「おはよう、ユーフェミア」
カウンターにはイザベルがいて、早い朝食を用意してあった。向かいにはハロルドがいて、もくもくと目玉焼きを乗せたパンを口に運んでいる。
 傍らには、つんとしたインクの匂いがまだ漂っている、大板の地図が何枚か、重ねておいてあった。
 「地図、出来たんですね」
全部で、8枚ある。
 「…今の時点での、だがな」
ハロルドは、低く呟いた。「朝メシを終えたらテントへ来てくれ。片付けをしてくる」
 のっそりと席を立ち、男は、珍しく控えめにドアベルを鳴らさない程度に出て行った。空にはまだ星が瞬き、空気は冷たい。
 イザベルが出してくれた湯気の立ち上るミルクで指先を暖めながら、ユーフェミアは、8枚目の地図の端に「B8」と書かれ、赤い線が引かれていることに気がついた。
 「地下遺跡って、8階までなんですね」
 「ああ、今はね。昔は、全部で9層。言い伝えさ、当時の地図もないけどね。…ここの地下遺跡はね、地震や地下水の浸食で、年々、狭くなってるのさ。<大樹>の根が腐って消えてから何千年か。いつかは、――それがいつになるかは分からないけど――、<大樹>そのものも、消えてなくなる日が来るかもしれない。」
ユーフェミアは、パンを一切れ、ゆっくり租借して流し込んだところで、立ち上がった。朝早いせいもあって、それほどお腹は空いていない。
 「それじゃ、行ってきます。」
 「はいよ、いってらっしゃい。旅人に祝福あれ、光の子らがよき未来を見せたまうように」
リュックを背に<黄金のチェス亭>の入り口を出た、ちょうどその時、白んだ東の地平線に、最初の一条の光が届こうとしていた。
 ハロルドは、テントの前で影のように突っ立っていた。ユーフェミアを見ると、何も言わずに先に立って歩き出す。最初から雄弁なツアーガイドは期待していなかったから、ユーフェミアも、黙ってそれに従った。
 昨日ルベットと一緒に見た入り口看板の横を通り過ぎると、辺りは急に薄暗くなった。ハロルドは真ん中の道を選んで、ずんずん歩いていく。途中に注意書きや道しるべがあったが、彼はそれに目もくれない。足場は、入ってすぐにがたがたになり、手を使わなくては歩けないほどになった。手袋を持ってきて本当によかった。それから、丈夫な靴も。
 ハロルドは時々歩調をゆるめ、ユーフェミアが遅れないようにしている。
 少し歩いて、ほどよく汗をかいた頃、ハロルドは足を止め、荷物から取り出したランプに火を入れた。目は慣れて来ていたが、既に入り口からの光は届かず、天井も床も、完全に遮蔽されてしまっていた。
 「<大樹>の幹の中だ」
ハロルドはランプを頭上へ持ち上げた。いつの間にかそこは、真っ暗な、巨大な「塔」の中だった。壁は石と貸した樹皮、床には大昔の、石化した木の破片がびっしりと敷き詰められている。
 「ここからは、空は見えない。途中に樹皮が蓋をしているからな。――こっちだ」
そこからは、四本の道が分岐して続いていた。それぞれの入り口には番号が振られ、説明書きがしてある。道は急に狭くなり、表の空気とはまったく違った気配が、辺りを漂い始めた。
 ぽつぽつと、珍しい植物が目に留まるようになった。闇の中でほんのり青白く光る花、真っ白な美しいキノコ。ふだんルベットが持ち帰ってくるような葉の無い木や、岩に模様のように張り付いているコケ。黒っぽい細長い虫が、のろのろと岩陰に這っていくのが見えた。まるで異世界だ。ユーフェミアは、驚きに目を見張った。
 「ここは、太古の世界のままだ。」
先を歩くハロルドは、振り返りもせず、ぼそぼそと言う。狭い通路なので、声が反響している。
 「ここは昔は島だった。いつの間にかほかの島とくっついて半島になり、地上の生き物はお互いに入り混じりあったが、この地下には今でも、島だった頃のまま、独特の生き物がいる」
 「よく知ってるんですね」
 「あんたの祖父さんに聞いたことだ」
 「えっ?」
 「あんたの祖父さんは、本が好きだった。…読むのも、集めるのも、その内容を確かめるのも」
ユーフェミアは、祖父の巨大な書斎を思い出した。部屋の半分の壁を多い尽くす書架にはビッシリと本が並び、その半分どころか十分の一も、中身を確かめたことは無い。遺産を受け継いだあと整理はしてみたものの、読むには難しすぎるし、量も多すぎた。今のところ、ほんの少しある小説を、何冊か読んでみたくらいだった。
 「こっちだ」
気がつくと、ハロルドは道をはずれ、壁のようになった場所の上にいた。ユーフェミアが手を伸ばすと、その手を掴んで楽々と壁の上に引き上げる。下からは見えなかったが、壁の上には奥へ向かう別の細い道があった。ルベットが言っていた、「観光コースに無い近道」とは、こういう道を言うのだろう。
 そうして、何度か休憩を取りつつ、気がつくと、もう夕方に近くなっていた。時計を見てはじめてそのことに気づいて、ユーフェミアは不思議な気になった。
 岩の割れ目から流れ出した水が小さな滝を作るほとりで、二人は少し長めの休憩を取ることにした。ガスコンロで水を温め、暖かいお茶を煎れる。ちょっとした洞窟キャンプだ。ユーフェミアには、ここがどのくらいの深さなのか見当もつかなかった。
 「疲れたか」
 「少し。でも、思っていたほどきつくないです」
 「行きはほとんど下りだからな」
向かいに腰を下ろした
 「ここ、地下何階ですか?」
 「七層…、ここだ」
と、ハロルドは、自分の作った地図を取り出し、ユーフェミアに位置を指し示した。滝から続く流れが長い洞窟を経て大きな地底湖に注ぐ。
 「ここは、海の底よりもずっと深い」
 「海の底よりも?! え…なのに真水が」
 「ここは外から閉ざされている。空気も、水も、土も、生き物と一緒に大昔のままだ。」
そう言って、ハロルドは天井を振り仰ぐようなしぐさをした。「時の流れに忘れ去られた場所だ」
 ユーフェミアは、何か詩を口ずさんでみようとしたが、やめた。手帳を開いて浮かんできた言葉を書き付けてみようと思ったが、きっとうまくはいかないだろう。漠然とした印象が、幾つも浮かんでは消え、懸命に形を作ろうとしている。祖父の手帳にあった、日記にもならない日記…あれは、もしかしたら、こんな時に書き付けられたものだったのかもしれない。
 「じきに夜になる。が、今夜は新月だ。新月だけは、…ここの連中も、静かにしている」
 「それ以外の夜は、危険なんですね」
 「そう。危険だ」
じろり、とユーフェミアを睨んで、彼は言った。「一人でここまで来ようとは思わないことだな。さあ、もう少しだ。飲み終わったら出発する」
 その時には、ハロルドはもう、コンロを片付けていた。
 川の流れに沿って歩き続け、時計の針は夕飯時をさしていた。生き物たちの気配が消えて、辺りは異様に静まり返っている。
 「この先だ」
ハロルドは、なぜか、ランプの光を消してしまった。「足元に気をつけろ。ゆっくりでいい。そうだ、そのまま壁に手をつけて…」
ユーフェミアは、わけも分からず、暗がりに目を凝らしながら足を踏み出した。
 十歩ほども歩いただろうか。-― 行く手に光が見えた。それは初めは淡く、見間違いかと思えるほどほんのりしたもので、光る植物が密生しているのだと思った。だが、しだいにその光は強くなり、暗闇に慣れた目には眩しすぎるほどの輝きを伴って押し迫ってきた。
 光は、狭い穴から足元の漏れていた。人一人がやっと通れるほどの穴だ。ハロルドがそこへ行け、と指し示すので、ユーフェミアは穴の中に滑り込んだ。体全体を光が包みこむ。流れる水の音が遠ざかった。
 そこは、ドーム型をした空洞だった。真ん中に、鏡のような水をたたえた湖がある。光は天井からシャンデリアのように垂れ下がる大小さまざまな結晶から漏れ出しているのだった。
 目の前の光景に圧倒され、声も無く立ち尽くしていると、後ろからハロルドの声がして現実に引き戻した。
 「シグルズが探していた場所だ。古い言い伝えにある<光の妖精の国>」
そう言って、ハロルドは重たい荷物を地面に降ろした。
 「奴とはぐれて、崩れた道から脱出する先を探していた時に、偶然見つけた。あそこが、その時の穴だ」
指差した先の壁に、穴がひとつ、ぽっかりと開いている。
 「ここは第八層だ。あの奥に、昔は九層目に続く道があった。今はもう、あそこからは行けない。」
 「堀って、また道をつなげたり出来ないんですか」
 「ここでは無理だ。言ったように、ここは海底より深い、閉じた世界だ。掘る場所を間違えば、外から海水か砂が流れ込んで、地下のすべてが駄目になってしまう。」
 「私に見せたかったのって、これなんですね。お祖父さんの代わりに」
 「……。」
ユーフェミアは、足元に落ちていた尖った石のかけらをひとつ、拾い上げた。その石は内部にちらちらと揺れる炎のような光を宿し、ひとりでに輝き続けている。彼女は、その石をそっとポケットに滑り込ませた。ひとつだけ、記念に持って帰ろう。
 シャンデリアのような石の結晶の放つ輝きは、まるで真昼のようだった。ここが<光の妖精の国>と呼ばれたのも、もっともだ。ただ、ここには妖精どころか、生き物は、痕跡すら無いのだが。
 まるで忘れ去られた宮殿のようだ、とユーフェミアは思った。
 住人たちが何処かへいってしまったあと、誰からも忘れ去られた場所。
 水面を覗き込んでいると、傍に影が落ちた。ハロルドが後ろに立っている。
 「ここの水はあまり旨くはないかもしれんぞ。水の中に、もう半分のわしが溶けているはずだからな。」
 「え?」
水に、のっそりと立つ大男の影が映る。
 「――わしはここで、片目を無くしたんだ。」
それでユーフェミアは、初めて気がついた。
 もしゃもしゃとした髪に隠れたハロルドの顔には、右目のあるべきところに、大きな傷が跡を刻んでいることに。



 帰り道は、一晩と半日をかけた。途中で少し仮眠もとったものの、ほとんど休みなし、ぶっ続けの冒険で、戻ってきたとき、ユーフェミアはくたくたになっていた。イザベルへの報告もそこそこに、着替えもしないままベッドに横になり、そのまま一日近く夢も見ずにぐっすり眠った。目が覚めると猛烈にお腹が空き、初めて会った時のハロルドのようにがつがつ食べて、それでようやく落ち着いた。彼女はイザベルとルベットに、地下での出来事を話した。光る広間、第八層と呼ばれる場所のこと。そこは、まだほとんど誰も辿り着いたことのない場所で、たとえ正確に地図を覚えていても、ハロルドのような熟練の道案内がいなくては、無事に戻ってくることなど到底出来ないだろうというのがルベットの見解だった。
 話の途中、ユーフェミアは、ふと思い出してポケットから拾ってきた小石を取り出した。だが、その石は不思議なことに、既に光を失って、ありふれた灰色の鍾乳石になってしまっていた。
 ハロルドはテントを畳もうとしていた。新しい地図をイザベルに渡し、書き込みのある地図を宿のお客たちに返し、また地下へと戻っていくのだ。
 「ハロルドさん」
ユーフェミアが声をかけると、男はのっそりとした動作で振り返った。
 「ひとつだけお願いしてもいいですか?」
 「なんだ」
 「私とチェスをしてほしいんです。あの黄金のチェスで」
彼女は、近づいて、男の太い腕をとった。
 「私は祖父の遺産の相続人。私の役目は、―― ここでの役目は、あなたと出会い、遺言を果たすこと。やっと分かったんです。あの詩の意味が」
驚きが顔に広がり、片方だけの目が大きくなったかと思うと、やがて、男は笑い出した。声を上げて。
 「わしは、強いぞ。シグルズには、ほんの数回しか負けたことが無い。だが――」
大きな手が、ユーフェミアの肩に触れた。
 「だが、あんたには勝てないだろう。あんたには、わしが考える駒の動きが見えるだろうからな」



 戻ってユーフェミアは、祖父の手帳を開いた。沢山の不思議な詩が書き綴られた手帳。地図や、古びた紙の束が沢山挟んである。彼女はペンを取り上げると、その手帳の、開いているページに、こう書き付けた。それは、ほかのページに書かれているのと同じ、抽象的で、はっきりとした名前を出さない不思議な文句だった。


 灰色ズボンの大男、
 蜜酒の好きな片目の男は地下に住む、
 時の止まった光の国には、からっぽの玉座
 男は片目と引き換えに
 地下の王としてそこに住む。



それから、ちょっと考えて、さらにこう付け加えた。


 遺産の相続人は
 地下の王に迷宮の奥の鍵を返し、
 光の石を受け取った。
 黄金のチェスは、これを記憶するだろう。




 季節は変わりつつあった。
 まだ夏はあとたっぷり二週間は続くはずだが、毎日の日の高さは既にピークを過ぎた。お客でいっぱい、一年中で一番忙しい時期を過ぎた<黄金のチェス亭>には、また以前の静けさが戻りつつあった。短いシーズンを終え、観光客は町へ戻っていく。研究者や探検家はまだもう少しここにとどまるだろうが、冬の間も<アスガルド>へ留まり続ける者は少ない。
 ある日、朝食の片付けを終えた後、イザベルは裏口でユーフェミアに言った。
 「ありがとうね。今年は、あんたがいてくれたお陰で楽だったよ。」
 「…はい」
そろそろ時期がきたことを、お互い察していたのだ。町へ戻るなら、本格的に日が短くなる前のほうがいい。冬になれば、仕事は無くなる。ユーフェミアの、ここでの役目は終わったのだ。
 「本当を言うと、私」
彼女は、呟いた。「…どこへ行くか、一言も言わずに出てきたんです。書置きだけ残して。」
イザベルは、肩をすくめた。
 「ああ、やっぱりね。そんなだろうと思った。初めてここへ来たときのあんたったら、まるで家出少女みたいだった」
 「ええ?! そ、そうですか」
 「ああ、そうだよ。でも、ここにいる間に、ほんの少し大人になった。まだまだだけどね」
子供の頃の、夏休みの終わりのことを思い出して、ユーフェミアは何ともいえない寂しさを感じた。始まりがあれば、終わりもまた、ある。ユーフェミアには戻るべき場所があった。そこを、放り出したままにはしておけない。
 「私、明日発ちます」
意を決して、彼女は言った。「一ヶ月と少し…、短い間でしたけど、本当にお世話になりました」



 その夜、思いがけず宿のお客たちがユーフェミアのお別れ会を開いてくれた。ルベットをはじめ此処に住み着いているような人たち、常連客、この冬を<黄金のチェス亭>で過ごす予定の長期滞在のお客たち。短い間に顔見知りになった人々は、みな、彼女の去っていくことを悲しみ、名残惜しんでいるのだった。ここは町から遠い場所。ここでは外のルールは通用せず、外のように煩雑ではなく、人と人とはとても近い。



 翌朝、まだうっすらと霧の残る元来た道を、ユーフェミアは、一人で辿った。振り返れば青い空に灰色の<大樹>が聳え立ち、そのてっぺんは、はや霧の中に霞みはじめていた。


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