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<片目の放浪者> ―前編


 西の果ての地、<アスガルド>に訪れる夏は短く、その間だけは世界が一変する。
 <大樹>を覆っていた霧がすっかり晴れ、日の沈む時間は遅くなり、空気はからりと澄んで、夜でも窓を開けていられるくらいの気温になる。荒涼としたヒースの原野は緑に覆われ、鳥たちが楽しげに謳いながら日々を過ごす。
 陰鬱な冬の殻を破った夏の目覚め。忘れ去られた未開地域は、全く別人の顔をして旅人たちを迎えようとしていた。



 この季節になると、<黄金のチェス亭>には、世界の果てのそのまた果てでの奇特な休日を過ごすべく、物好きな観光客が秘境の観光ガイドブック片手にラフな装備で訪れる。彼らのお目当ては太古のままの自然と、珍しい風景、それに調査もされていない貴重な遺跡。わざわざ<大樹>の内部の空洞や、地下の道まで出向く物好きは滅多に居ない。居ても、まあ、大抵が、怪我か病気かそれ以上に悪い状態で、旅行日程を切り上げて去っていく。
 本格的に忙しくなる前にと、宿の女主人イザベルは、手伝いの少女ユーフェミアを伴って、普段使われない客室の掃除と、シーツの総点検を始めた。
 この宿は<アスガルド>で唯一の宿だから、一般の観光客ならまずここを目指す。夏の間は比較的安全とはいえ、野宿はちょっとお勧めできない。蛇も狼も毒虫も、他の季節ほど頻繁に人に害は為さないものの、何処かへ消えてしまうわけではないのだから。ちょっとした気の緩みが命取り、木陰の落とし穴にもご用心。
 今日はすべての客室の窓を開け放ち、空気の入れ替えをやっていた。一年近く閉じっぱなしだった部屋はカビっぽく、冬の間に陰鬱な気配がわだかまっている。
 「今年は、あんたがいてくれるお陰で助かるわ、ユーフェミア。あんたは力があるし、やっぱり二人いると全然楽ね」
 「お役にたてて、嬉しいです。」
イザベルは、汗を拭って海のほうに目を遣った。崖の下を回ってやってくる大きな観光船が、西の海に今日もゴマ粒を散らばしたように浮かんでいる。霧が完全に晴れる夏、<大樹>の全容を遠くからでもはっきり見られるのは、この短い季節の間だけだ。
 伝説によれば、その樹は枯れて火が付いたあと、何ヶ月もかけて燃え尽きたといわれている。想像を絶する太い幹は、小山ほどの高さで不規則に折れ、硬い皮の部分だけが石化して今に残されている。
 この樹が生きていたのが何時頃なのか、誰も知らない。
 人が暦を作り出して、時を数え始めるより前なのは確かだ。何しろ写真も詳細な記録も残っていない。ただ世界中のあちこちに、火が空を支配した壮絶な”この世の終わり”が言い伝えられているばかり。そうして火が消えた後、ここには灰色の巨大な燃えさしが残った。木の柔らかい部分は燃え尽きて、石と化した硬い樹皮だけが、化石のように空に聳え立っている。今も<アスガルド>では、崩れ落ちた樹皮の破片が草原のあちこちに埋もれ、骨のように白い顔をのぞかせているのを見ることが出来る。
 そして、それ以外にも、空洞になった枝や根は、その中に巨大な迷宮を作り上げた。この<黄金のチェス亭>も、その空洞の一部を利用している。建物自体、幹の中にめり込むような形で作られているのだ。

 「そうだ、酒蔵の確認もしておかないと」

最後の部屋の窓を開け、ベランダに出たところでイザベルが思い出したように言った。酒蔵はホールの地下にある。<大樹>の根っこの下に掘られた涼しい穴倉に、イザベル自慢のビールの樽がぎっしり並んでいるのだ。どうやら此処で作られる酒は独特の風味があるらしく、この<黄金のチェス亭>に通ってくる中には、その酒蔵で作られるビールがお目当てのファンがいる。
 その酒蔵はイザベルにとって大事な場所らしく、普段から鍵がかかっている。その鍵はイザベルの腰に束になってぶら下がっている鍵束の中にあって、ユーフェミアは、まだ入れて貰ったことが無い。
 「ユーフェミア、ここが終わったらホールの掃除を頼むよ。あたしは酒蔵へ行ってくる」
 「はーい」
いい天気だ。
 今なら、ここが隠れた高級リゾートだと言っても嘘だと思われないのに。
 窓から入り込んでくる海風に目を細めながら、ユーフェミアは、そんなことを考えていた。穏やかな海、遠くから写真に写すだけなら誰もが騙される。



 二階の客間からホールに下りてくると、入り口のドアの真上に引っ掛けられた、おどろおどろしい魔よけが目に入った。うろこの一枚一枚まで精巧なガーゴイルか何かの像のようだが、残念ながらそれはただの飾り物ではない。つい先日、この近くで宿の常連の一人が倒した正真正銘の小型のドラゴン、有翼蛇<ニーズヘッグ>の首なのだ。
 コトが済んだあと、イザベルは、その蛇の死骸を運んでくるや、台所の裏で手際よく解体してしまった。「これで来年には珍味の蛇酒が飲めるよ。」と、彼女は豪快に笑ったものだ。そして首は宿にやってくるお客の話の種になるからと、ホールの目立つ場所に飾ってしまったのだった。
 いま、その首は、生きていた頃の気配を漂わせたまま、うっすらとホコリを被っている。それに襲われて命からがらの目にあった身としては、なんとも複雑な気分だ。
 せめてホコリくらい払ってやろうかとハタキを取り上げたとき、ちょうど入り口のベルが鳴った。お客だろうか?
 しかしドアが開いたものの、姿は見えない。外でどさどさっ、と荷物を下ろすような音。それから、巨大な何かがぬっと押し入ってきた。入り口からホールへと続く五段の階段を一足に飛ばして、そして、ぽかんとしているユーフェミアの前で、それは同じように、ぽかんとした顔になった。
 「…あの」
見上げて話すなんて久しぶりだ、と思いながら、彼女は精一杯の笑顔を作り、こう言った。「お泊りでしょうか?」
 大男は、黙ってユーフェミアを押しのけ、カウンターへ。有無を言わさず、太い声で一言。「メシだ」
 そのお客は、見れば見るほど浮世離れしていた。口元を覆う、もっさりとした白いひげ。いつから梳っていないのか、腰まで届くようなぼさぼさの髪。鼻の上にちょこんと乗っている丸めがねは、その両方に埋もれて顔の真ん中にある。ずいぶんな高齢に思えるのに、垢と汚れに黒ずんだ腕は太く、筋肉ではちきれんばかりだ。
 男は、ユーフェミアがありあわせの材料でつくった料理を一言も発さずにガツガツと食べ続けている。時々、水の入ったコップに手を伸ばす以外、皿から目を離そうともしない。よほど空腹だったに違いない、とユーフェミアは思った。一体どこを歩いてきたのだろう、シャツもズボンも泥まみれ、汗くささすら既に薄れて、草と土の匂いが交じり合った、独特の匂いが辺りに漂う。
 男が食事をしていたのは、ほんの五分ほどの時間だったが、食事の間、彼女は来客をまじまじと観察していた。
 出された、たっぷり三人分の食事を残さずたいらげ、フォークを乱暴に皿の上に放り投げた後、男は、ようやく話をする気になったようだ。初めてユーフェミアのほうを見た。
 「イザベルはどうした」
 「あ、酒蔵の整理を…」「あんた手伝いか」
ユーフェミアが言い終わらないうちに次の質問。
 「はい、しばらくここでお世話になってます。私、… あ」
会話はお終いのようだった。男は黙って懐から財布を取り出し、代金をカウンターに投げた。コインの幾つかがぶつかりあって音をたて、立ったままくるくると回転する。
 「あの、お泊りにはならないんですか?」
既に出入り口の階段に足をかけようとしていた男は、足を止め、低い声でこういい残した。
 「イザベルに伝えておいてくれ、お嬢さん。ハロルドが夜にはまた来る、例のものを用意しておいてくれ、とな」
派手な音を立ててドアが閉まり、男の影は扉の外へ吸い出されていった。



 夕方前、ようやく酒蔵から出てきたイザベルは、ユーフェミアからこの報告を受けてたいそう面白がった。
 「ハロルドだって? そりゃまた久しぶりだねえ。ここに来るのは半年ぶりか」
 「よく来る方なんですか」
 「ああ、一番古い馴染み客だよ。変わった客でね。筋金入りの”放浪者”さ。ここには、決して泊まらない」
 「じゃあ、どうやって暮らしてるんです?」
イザベルは、表にあごをしゃくった。「見てみるといい」
 ユーフェミアは、ホールの出窓から外を見て、目をぱちくりさせた。なんと、いつのまにか宿の入り口に、おんぼろテントが張ってある。
 「うちの敷地内だけど門の外だから、部屋代は頂いてないよ」
イザベルは、そう言って楽しげに笑った。
 ホールには、三々五々、お客たちが戻って来つつあった。部屋に戻る者、そのままホールに留まって喉を潤う者、それぞれだ。いつものように朝から出かけていたルベット爺さんも戻ってきた。
 「ほ、入り口のあれ。ハロルドが戻って来たみたいだな」
いつもの席、カウンターの一番端にすっぽりと身を収め、小さな老人は珍しく上機嫌だった。「ユーフェミアは、会うのは初めてだったな。見た目はあれだが、なかなか気のいい奴だぞ。」
 「あんまり怖い感じはしないですけどね。あの方も、ローグさんみたいな?」
 「いいや、あれとはまた違う。奴はな、地図を作っとるんだ。」
 「地図?」
 「こいつだよ。」
ルベットは、足元に丸めてあった自分の荷物の中から、茶色く変色した紙束を取り出した。丁寧に折りたたまれ、ところどころ修繕した跡もある、それは、使い込まれた何処かの地図だった。日付などのメモがあちこちに細かく書き込まれている。
 「<大樹>の地下迷宮の地図だ。ハロルドはこの世でただ一人、地下迷宮の全容を描き出すことのできる、凄腕の地図職人なんだぞ。」
突然、ホールがざわめいた。話題の大男が、のっしと入ってきたからだ。
 「ハロルドだ」
 「地図職人が戻って来たぞ!」
ばたばたと椅子から立ち上がる音。慌てて自室にかけ戻る者、荷物の中から地図を探して取り出す者。イザベルは、満面の笑みを浮かべて、この大男を見上げた。
 「お帰り、ハロルド。今回の戻りは早かったんだね」
 「大きな揺れがあった。こんな地震は何十年ぶりか…。だいぶルートが変わった…、地図の書きなおしが必要だ」
それとなく聞き耳を立てていたユーフェミアは、思わず手にしたコップを取り落とすところだった。ここへ来てすぐの頃に起きた、あの地震のことだ。
 「ハロルド、わしのぶんはこれだ。良く行く場所で崩れたり道がなくなったりしたところは、書き込んでおいた」
ルベットが自分の地図を差し出した。それを合図に、我も我もとホールにいた探検者たちが自分たちの書き込みのある地図を差し出しはじめる。ハロルドは特に意識もせず、それら全てを受け取っている。
 すべて受け取り終わったところで、彼はそれ以上、誰からも何も聞かず、誰にも話しかけようとはせず、黙ってイザベルから包みを受け取り、入ってきた時と同じように荒々しくドアベルの音を響かせて、夜闇の中に出て行った。ホールには、例の、土と草の匂いだけが残っている。
 人々はまた元通り話しさざめき始めた。遅ればせながらユーフェミアは、たったいまイザベルが渡したものが、ハロルドが言い残した「例のもの」だったのだと気がついた。
 「さっき渡していた、あれ――、何だったんですか?」
 「ああ、あれかい?」
イザベルは意味ありげに足元を指した。「うちの地下で眠ってる、この世で一番うまい蜜酒さ。」



 ユーフェミアは、ここでの知られざるルールのひとつを知った。
 ハロルドは、自らの足で迷宮を歩き回る地図職人として広くその名を知られる人物で、<大樹>の地下迷宮目当てで此処へやってくる探検者、学者たちはみな、ハロルドの地図を頼りにしている。彼の地図は、町で印刷したものを<黄金のチェス亭>で配っている。地図は地区によって何枚かに分けられていて、ハロルドが地上に出て来て新しい地図を置いていくたびに更新される。滅多に人の行かないような場所の地図は何年も前のものだったり、人気の地図は品切れだったりするが、それはとても貴重なものなのだ。
 ハロルドは、地図の代金をもらわない。その代わり、自分の作った地図に、実際にその地図を歩いてみた人々の視点で修正や追加を入れて欲しい、と頼む。時間が経てば地形は少しずつ変わっていくし、不正確なところは修正しなくてはならないが、一人ですべてのルートを歩き直すことは不可能だ。そのために、<黄金のチェス亭>のホールの端には、地図置き場と、情報提供用のポストが、ひっそりと置いてある。注意書きも何も無く、知っている者だけが利用すればいい、といった場所だ。
 さっきホールにいた人々が自分たちの地図を渡していたのも、ハロルドに、自分たちのもっている情報を渡すためだったのだ。
 「これから数日は、ハロルドはテントから出て来んだろうな。今頃、受け取った地図から修正を書き起こしているところだろう」
 「でも、ずいぶん時間がかかるんじゃないですか」
 「そこはプロだからな。奴の仕事は速い。そして正確だ。驚くぞ、どんな場所でだって地図を作れる、まさに職人中の職人なんだからな。」
そう言って、自分自身も高名な植物学者であるところのルベットは、手をすり合わせた。
 「<大樹>の地下の九本の道すべてを歩いたことのある人間は、ハロルドだけだ。そのハロルドも、最下層までは行けたことがない。発見されてもう何百年も経つのに、誰もあそこの全容を知らないんだ。想像できるかね? 陽の差さない、自在に曲がりくねった、コンパスも役に立たない天然の道が、地下へ地下へと降りてゆくんだ。それがすべて、巨大な木の根のつくった洞窟なんだよ。」
ユーフェミアは、おぼろげに鍾乳洞のようなものを想像した。ここで働き出してから、地下へゆく探検者や学者たちと話をして、彼らが何を求めているか、少しは知っている。地下には、珍しい鉱石や新種の動植物、それに古代の遺跡などもある。それらは、手に入れれば名声や大金を得られるものばかりだ。
 「でも、最下層って、むかし<大樹>が伸ばしていた根のいちばん先っぽってことでしょう。そこに何かあるんですか? 根っこは普通、いちばん先が細くなっていて―― その先は何もないと思うんだけど」
ルベットは、肩をすくめた。
 「たどり着くことが重要なんだよ。奴にとっての何物にも変えがたい目標は、あの迷宮をあますところなく地図にすることなのさ。」



 その夜のこと、ユーフェミアは、なんとなく寝付けなくて宿の屋根に上った。彼女の部屋がに、ちょうど屋根に出っ張った出窓があって、屋根の上に出るのにちょうどいい作りなのだ。
 夜空一面に散らばった星が、ビロウドに散らした宝石のように瞬いている。夏の夜の匂いは、どこか胸躍らせる予感がある。
 下を覗くと、宿の入り口に続く道の脇に、ハロルドのテントが見えた。もう真夜中だというのにこうこうと明かりを焚き、中で動き回っている人の影がある。影は時折、そばの瓶を取り上げて口に運び、しばらく黙々と紙に定規をあて、ペンを走らせたかと思うと、またぐびぐびとやる。規則正しく、その繰り返しだ。
 その姿を見ていると、何かに似ているような気がした。遠い昔、同じような光景を、何処か身近な場所で見たような覚えがある。あれは… 一体、誰だったのか。



 しばらくそうしているうちに、さすがに体が冷えてきた。夏とはいえ、夜は空気が冷える。海から立ち上る靄が夜風にまぎれて吹きつけてくる。もう遅い。
 部屋に戻り、ふと机の上を見やった彼女は、唐突に思い出した。そうだ。
 ここしばらく忙しくて開いてもいない手帳の、いちばん最後に、折りたたんで挟んだ古びた紙の束があったはずだ。元の持ち主だった祖父がそこに挟んだままにしておいたもので、一通り目は通したけれど、ほとんどは断片的な書付で、意味の分からないものも多い。
 記憶を辿りながら紙の束をほぐしていくと、果たして、その中から思っていたものが見つかった。
 色あせた一片の地図。祖父の字で、何か書き込みもしてある。ルベットや他のお客たちがホールで渡していたものとよく似ている。
 以前はその地図が何処を示しているのかを考えても見なかったから、特にじっくり見ようとも思わなかった。それは祖父の残した山ほどの遺品の中の、ありふれた一つに過ぎなかったからだ。だが今、ユーフェミアは、はじめてその地図を真剣に読もうという気になった。
 ランプの下に広げたその地図は、ちょうどベットの脇の小机を覆うほどの広さで、端のほうに、こう、書いてあった。


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