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<呪われた剣士> ―後編


 「どうにも、薬草が足りなさそうなんだ。」
ルベットが白髪をかきかき姿をあらわした時、まだホールは閑散として、仕事を終えたあとの一杯を楽しんでいるお客の姿は、ちらほらとしか見えなかった。
 「あの阿呆め、シーズンの始まりから飛ばしおって。まだ今年の薬草は生えはじめたばかりで、十分な在庫も無いってのに」
 「ローグのことかい。傷薬ならうちにも備蓄があるけど」
 「消毒薬のほうだよ、まったく。あの坊主め無茶しおって、腕の肉が削げて筋が見えとるんだ。化膿止めをやっとかんと、ばい菌でも入ったら傷口から腐っちまうぞ。」
 「死にたがりやを生かすのも、大変だねえ」
イザベルは、そう言って苦笑した。ルベットは渋い顔だ。
 「明日はひとつ早起きして、少し奥のほうまで薬の材料を探しに行ってみないことにはな。西のこずえなら、もう薬草が生えとるかもしれんから。」
 「ルベット、そりゃ一人じゃ危ないよ。どうせだったら、ユーフェミアも連れてお行き」
 「ええっ?」
 「あんた、ここへ来てから、まだ一度も<大樹>に登ったないんだろう? せっかくだから行っておいで。」
 「そりゃ、助手がいるなら在り難いがね。若いし、元気もあるから大丈夫だろうが…」
実を言うと、この宿のすぐ側に、半ば宿と同化して存在するというのに、大樹に”入る”とか”登る”とかいうことを、彼女は考えてみたことがなかった。それはただ、そこに在るものでしかないと思っていたのだ。



 翌朝、日の出より少し前、ルベットと二人でひっそり宿を出た。
 空気はひんやりして灰青に澄み、かすかな草のそよぎの他、何の音も聞こえない。
 「<大樹>を登るぶんには、危ないことは少ないよ。根の穴から地下へ降りるよりはね。忘れ物はないかな?」
 「は、はい」
ユーフェミアは、半分以上からっぽのリュックを肩でゆすった。中には食料と水、ほかにこまごまとしたものが入っている。空いている部分は、帰りに薬草で一杯になっているはずだ。
 <大樹>へ登る出発点は、根の下へ下る入り口より向こう、宿から少し離れた場所にある。太い根はちょっとした小山のようになっており、山登りの要領でじぐざぐに登っていく。はるか昔から同じ道を同じように登ってきた人々がいたのだろう、石と化した樹皮の壁には、白っぽく、人の足で磨り減った跡がうねうねと、ミミズのようにはるか頭上から続いていた。
 「ここはまだ殺風景だが、上のほうへ行くと草や木が生えているんだ。ちょっとした空中庭園だぞ」
と、ルベット。
 「長年の間に風で飛ばされてきた木の葉や砂が溜まって、くぼみに緑を育てとるんだよ。珍しい草花も、他ではもう絶滅したような生き物も沢山見られる。宿へ来る観光客のお目当ての一つさ。」
登っているうちに日が昇り、岩山のような大樹の躯がくっきりと空に浮かび上がってきた。根っこのてっぺんに辿り付くと、宿が、はるか下のほうに小さく見えた。東に広がる草原が見渡せ、その向こうの森と遺跡まで、何も遮るものは無い。
 振り返ると、<大樹>の幹が、九十度にそりたつ灰色の絶壁のように目の前に迫っていた。その前に立つ小柄なルベットは、さながら、水車小屋に立ち向かう無謀な騎士のようだ。
 「さあて、ここからが大変だ。幹の中の、空洞になったところを通っていくんだ。わしら、長年ここで暮らしとる者しか知らない道だぞ」
言うなり、老人は根っこの丘の向こう側へ降り始めた。そしてまた登り、隣の根っこに渡る。その先に、虫食いのような穴があいていた。人ひとりがやっと通れるほどの、狭い穴だ。
 「こうやって、幹の中に出る。中は空洞だ。少し登って、また外へ出る。それから外皮を伝って、西の、海側に突き出しておる太いこずえに登るんだ。こずえといっても、付け根のあたりしか残っていないがね。途中、よじ登らんといけない場所があるが…うまくいけば、昼前にはたどり着くだろう。さて、行こうかね」
ルベットは、ユーフェミアが怖気づいて帰ってしまうことなど考えていないようだった。先に立って穴に滑り込み、慣れた足取りで歩き出した。
 こういうところは、背が小さいほど有利だ。ユーフェミアは、苦労して背をかがめながら老人の後に続いた。



 イザベルが、宿を出ようとしているローグに気づいたのは、二人が出発してから何時間か経った頃だった。
 「ちょっと、ローグ!」
呼び止められて、男は母親に叱られた子供のように肩をすくめた。
 イザベルが、腰に手を当てて厩の前に仁王立ちしている。
 「どこへ行くんだい。また傷が開くよ、しばらく大人しくしてなさい」
 「ちょっと外の空気を吸いに出ただけだ」
 「剣持ってかい?」
こういうときのイザベルは容赦ない。ずかずかと近づいて、むんずとローグの首根っこを捕まえる。「宿の近くで、あんたにくたばって貰っちゃ寝覚めが悪い。死にたいなら、せめて傷が治ってチェック・アウトしてからにしておくれ。」
 「分かったよ…悪かったって」
引きずられるように宿に戻り、半ば強制的にホールで朝食を取らされながら、彼はふと在る事に気が付いた。
 「今日は、あの子はいないのか?」
 「ユーフェミアかい? 今日はルベットの手伝いで<大樹>に出かけてるよ。」
 「へえ。」
からん、とドアのベルが鳴った。思わず腰を浮かしかけるローグに、イザベルは苦笑した。
 「心配しなくても、郵便は昨日届いたばかりだし、あんたの敵になりそうな賞金稼ぎの類も今は泊まってないよ」
風で揺れたベルは、扉の上でまだゆらゆらと揺れている。
 「…俺の手配書、今、どうなってる?」
イザベルは黙って折りたたんだ新聞を差し出した。昨日、彼女が熱心に読んでいたものだ。求人広告、尋ねごと、探し物。その後に、賞金のかけられた指名手配半の名前と額の一覧が続く。先週のうちに逮捕されたか手配が解かれた手配犯には、名前の横に印がつけられ、次の週の新聞ではリストから消えることになっている。
 ローグは、賞金額順に並んだリストの定位置に自分の名前を見つけて、安堵したようなガッカリしたような、どちらともとれる表情を浮かべた。
 「もうそろそろ、死んだことにしてくれても良さそうなもんなんだが」
 「しっかりした死亡の証拠でもない限り、そのリストからは消えやしないよ。まだ十年も経ってないじゃないの。あんたと同じ名前のローグ・マーキュロイは、八十年逃げ切って、最後は教会で懺悔して亡くなった」
 「だが、そっちのローグは俺の半額以下の首だったんだぜ。しかも最初の罪状は”食い逃げ”だ。」
口を尖らせて言うと、彼は、新聞をカウンターに投げた。「…あの町には、今でも俺の写真もべたべた貼られてんだろうな。殺人鬼扱いで」
 「賞金稼ぎは、今でも襲ってくるかい?」
 「たまにね。けど、<アスガルド>の奥まで追ってくるような根性のある奴は滅多にいない。居ても、俺なんかよりもっと小物を町に近い場所で捕まえてお仕舞いさ」
彼は、珍しくため息をついた。
 「まったく、本当についていない。何だって俺は、こんな不名誉な罪状で追われなくちゃならないんだ。人殺しならそれでもいい、なのによりにもよって。殺したいと思うような奴は、ほかに山ほどいたっていうのに」
 「過去は変えられないが、あんたはしくじったのさ、自分の運命に」
イザベルは、新聞を片付けながら言った。
 「きちんとした申し開きもせずに逃げ出したりするから、運命の糸が捩れて悪い方向へ流れてしまう。周りに申し開きをしていたら、こんなことにはならなかっただろうに」
 「俺は、そういうのは苦手なんでね。人を殺したことは間違いないし、一瞬でも殺してやりたいと思わなかったとは言い切れない。それに、申し開きだって? 罰金支払って、何年か刑を受ければ良かったって? 我慢ならないね。そんなもの」
 「ま、不運に付きまとわれる男は、昔っからそうやって頑固に言うのさ。だけど考えようによっちゃ、あんたは幸せな男なんだよ」
そう言って、宿の女将はにやりと笑った。「今のこの平和なご時世で、あんたほど名を知られた”ならず者”は、そうそう居ない。成人前に人を殺し、賞金をかけられながら一度も捕まることなく逃亡なんてね。もし、あんたが長生きしたなら、ローグ・マーキュロイを越える立派な”悪党”になれるかもしれないよ」
 「よしてくれ。俺はそんなタマじゃねえ…」
手を振って立ち上がりかけたとき、ローグの足が止まった。イザベルは眉をしかめて天窓に目を遣った。今、何かが空をよぎった。
 ドアベルが、不吉な音を立てている。
 「…まさか」
カウンター潜って、イザベルはホールへ飛び出した。ローグは入り口前の階段を一気に駆け上がる。
 外に飛び出すと、ちょうど目の前を、巨大な黒い影が過ぎるところだった。
 「黒翼蛇<ニーズヘッグ>、こんなところに! …」
体に青白く煌くうろこが、チカチカと輝く。細長い体は蛇のよう、空気抵抗を無くす為か、空中にまっすぐ伸ばしている。
 二人の目の前で、その生き物は<黄金のチェス亭>の煙突を掠め、蝙蝠のような形の黒い翼をほとんど静止させたまま、大きく旋回して空高くへ舞い上がって行った。
 「あいつ、冬に俺が仕留めそこなった奴か? まさかな」
 「あ」
イザベルは、口元に手を当てた。
 「拙いね。あいつ、西のこずえのほうへ飛んでったよ。あっちには今…ルベットとユーフェミアが行ってるはずだ」
 「何だって?」
ローグの顔色が変わった。「迎えに行く」
 「ちょっと、ローグ! 今から追いかけたって、追いつけやしないよ!」
 「俺の馬! あいつなら崖でも斜面でも平気で走る。」
言うが早いか、彼は厩に向かって走り出していた。腕の傷のことなどすっかり忘れた様子だ。ため息をついて、イザベルは呟いた。
 「最後の試練ってのは一番大きいもんだよ、ローグ…。それがお約束さ。九つ目、…あんたには、その覚悟が出来てるのかい?」



 その頃、ユーフェミアとルベットは。大樹の西側、海に突き出したこずえの上にいた。
 こずえと言っても枝葉は無く、巨大な付け根が皮を残して空洞化し、そこに植物がほんの少しばかり生えているといった場所だった。枝があまりに太いので、上に建っている限り、そこがもとは木の枝だったとは思えない。周囲が断崖絶壁の高台、不規則な筋の走る岩棚、といったところか。
 薬になる苔は、青白く輝きながら、そこかしこの岩陰にへばりついていた。まだ昼前だが、朝早く出たお陰で、苔集めはほとんど終わっていた。帰りは下りだから、それほど辛くはないだろう。
 手を休め、海のほうに目をやっていると、ルベットが近づいてきた。
 「だいぶ材料も溜まったことだし、そろそろ戻ろうかな。助かったよ、二人いるとやはり早い。」
 「お役に立てて良かったです。こんないい景色の場所があることも教えてもらったし」
 「なに、まだまだこんなもんじゃないぞ。おいそれと行くことは出来んが、もっと上のほうは、そりゃあ凄いもんさ…」
上のほうを見上げて言いかけたルベットの顔がふいに曇った。
 「何か居るな」
 「えっ? 何かって」
老人の視線の先に、くるりくるりと円を描きながら、高度を上げてくる黒っぽい生き物があった。長い尾を持つそれは、まるで、御伽噺の中のドラゴンのように見えた。
 「いかん、ありゃあ黒翼蛇<ニーズヘッグ>だ。数いる生き物の中でも、凶暴で危険な種類の一つだ。急いで隠れるぞ」
ルベットは大急ぎでとって返し、梢と幹の間にある狭いくぼみに入り込んだ。少々狭いが、ユーフェミアも腰を屈めてその穴に身を隠す。しばらくすると、ごうっと耳をつんざくような風の音とともに、影がすぐ側を通り過ぎていった。
 「ありゃあ成獣だな。うろうろしてたら空へ吊り上げられちまう。こりゃ、しばらく外へ出られそうもない」
 「何なんですか? あれ。珍しい生き物ですね」
 「そりゃ珍しいとも。世界中でも、ここ、<アスガルド>にしかいない動物でな。動物学者も分類に困るような、特別で、ほとんど資料もないような生き物の一つだ。滅多に見られるもんじゃないから、見られたことについては幸運だが…」
また、遠くで風を切る音がした。どうやら、近くにいるらしい。穴からそっと覗くと、驚いて逃げようとした小鳥が、ちょうど蛇に捕まったところだった。鋭い口に咥えられ、ぱっと羽毛が散る。さすがのユーフェミアも、これにはぞっとした。
 「…私たちも、捕まったらああなるんですね」
 「そういうこと! やれやれ、早いとこ飽きて何処かへ行ってくれればいいが。日が暮れてからじゃ、あの足場の悪い道を帰るのは危険だ。他の”珍しい”生き物が出てくることもあるしな」
しかし、二人の願いもむなしく、有翼の蛇はしばらく其処から動く気は無いようだった。海の上に張り出した枝の上が狩りに丁度いいのか、それとも何かを狙っているのか、一瞬遠くへ飛び去っても、また二人の見える場所に戻ってきてしまう。空に張り出したこずえの上では逃げ場はない。荷物を持って、おまけに老人を一人連れて安全なところまで逃げるのは、危険すぎるように思われた。
 しばらく、時間を持て余しているうちにユーフェミアはふと気が付いた。
 「…ルベットさん、もしかして、あの蛇、私たちを狙っていませんか? ほら、さっきから、時々こっちを見て…。わざと遠くまで飛んで、もしかして私たちをおびき出そうとしているんじゃないかしら」
蛇が舞い上がり、二人の隠れている穴の頭上に消える。羽音は小さく、よくよく耳を澄ませていなければ聞こえないが、すぐ近くから聞こえてくる。
 「ほっ。お嬢さん、あんたの言うとおりかもしれん。あいつめ、人間が好物とみえる。こりゃあ、しばらく出して貰えんかもしれんぞ」
 「どうしましょう。あの蛇、夜になっても眠ったりしないですよね。もし夜になっても出られなかったら。イザベルさんは、私たちが何処へ行ったか知ってるけど…」
そんなふうに二人が途方に暮れていた、ちょうどその時だった。

  「ルベット! おーい、生きてるかー」

 「ありゃローグの声じゃ!」
老人は、穴から身を乗り出さないよう苦心しながら外の様子を伺った。
 「あやつめ、どうやってここに」
 「私たちは無事です! でも近くに蛇が狙っているんで出られないんです!」
ユーフェミアは、外に向かって、出来るだけ広い範囲に聞こえるようにと叫んだ。返事は無い。遠くでかすかに馬のいななきが聞こえ、そして何故か、彼女には分かった。
 「ローグさんが蛇を見つけたみたいです。剣を抜いて、睨み合ってるみたい」
 「なんと、そりゃ無茶だ。あいつ戦うつもりなのか」
 「前に出会ったときは、攫われて崖の巣に連れて行かれたって…。」
 「生きてただけでもめっけもんだ。あいつは毒を吐くし、牙は鉄の鎧だって食いちぎる。成獣と戦って無事なだけでも大変なことなんだぞ」
鋭い羽音が、頭上を通り過ぎた。ユーフェミアは、意を決して隠れていた穴から飛び出す。彼女に見えたのは、ローグに向かって低く滑空した黒い翼の生き物が、彼に飛びかかる寸前の場面だった。
 ローグが視界の外に消えた。地面に転がってかわしたのだ。驚いた馬は、鋭い嘶き声を上ながら、こずえの上を走り回っている。
 「ルベット、今のうち」
 「あ、ああ。だがあの馬鹿を置いてはいけん」
 「でも、私たちがいると邪魔になるでしょ! ローグさん、ありがとう! 私たちは逃げるから」
返事は無かったが、多分伝わったろうとユーフェミアは思った。



 どこをどう走ったものか、<大樹>の内側を抜ける狭い通路を懸命に降りて、あの見晴らしの良い根っこの上まで戻ってきたとき、二人は汗だくになり、膝ががくがくしていた。もう、すぐそこに<黄金のチェス亭>の屋根が見えている。あと一息だ。
 ほっとして気が抜けるのと、すぐ後ろで馬の興奮した嘶きが聞こえるのは殆ど同時だった。
 振り返ると、ローグの乗っていた馬が、すぐそこにいた。
 普段ならうまく避けられたかもしれないが、ルベットの居た場所が悪かった。悪気の無い馬が、小さな老人を踏み潰さないよう飛び越えようとして、その弾みに足を引っ掛けてしまったのは誰のせいでもない。
 「ルベットさん!」
とっさに、ユーフェミアは手を伸ばし、ルベットの腕を掴んだ。太い根っこはつるつるした急な崖となっていて、滑り落ちれば、かなり下のほうまで引っかかる場所はない。
 幸いにして、ルベットは小柄で軽い。「足を踏ん張ってください、私、引きあげますから…」ユーフェミアは、奥歯を食いしばった。ルベットも必死だ。
 だが、不吉な羽音が、そんな状況に追い討ちをかけた。
 振り返ると、目の前に黒い影が…
 あっ、と思う間もなく、ユーフェミアの足が滑った。
 「きゃ…」
二人は、団子状態になって<大樹>の根っこが作る崖を転がり落ちた。そして、周囲に足場のない、簡単には降りられないような出っ張りに引っかかって止まった。
 振り返ると、さきほどの黒いものは、まだ其処にいて、じっと見下ろしている。最初はそれが何なのか分からなかったユーフェミアにも、ようやく認識することが出来た。
 「…あなたは、ローグさんの」
影のように付きまとっていた、あの守護霊。遠すぎて、表情も毛色も見えない。ただ、昨日見た、あの熊だということだけは分かる。
 「どうしてこんなことを。ローグさんの言ったとおり、あなたが不運を招いてたってこと?」
影が消えた。間もなく、鋭い、長く尾を引く悲鳴が聞こえてきた。ゾッとするような声だ。
 「<ニーズヘッグ>が暴れとるな。ということは、ローグはまだ生きとるらしい」
ユーフェミアは、足の下を見た。狭い足場のすぐ下に、道が見えた。飛び降りれば、この不自由な状況からは逃れられる。考えるより早く、彼女は後ろ手に根っこから体を離した。
 「お、おい、ユーフェミア!」
お尻が摩擦で熱くなる。着地の衝撃は、思ったほどではない。よろめきながらすぐに体制を立て直すと、彼女は背負っていた荷物をその場に放り出して、宙ぶらりんの格好になっているルベットに向かって両腕を差し出した。
 「飛び降りてください。受け止めます」
 「無茶言うな、そんな急に…」
 「早く!」
ルベットは、渋々といった様子で、何やらお祈りしながら飛び降りた。高さはそれほどでもなかったが、勢いがついていたおかげでユーフェミアは尻餅をついた。
 「すまん、大丈夫かい?」
 「平気、私、丈夫だから。…ローグさん、ローグさん!」
返事はない。上のほうからは、金属音、羽音、そして有翼蛇<ニーズヘッグ>の怒り狂う声だけが聞こえてくる。
 「戦いが始まったら、周りの声なんぞ聞こえとらんだろうな。」
と、ルベット。
 「私、見てきます」
ユーフェミアは、大股に坂道を駆け上がった。



 そこで見た光景は、彼女がこれまでの人生で過ごしてきた、いかなる町でも有り得なかったものだった。
 開いた傷口から流れ出る血もそのままに、ローグは剣を振りかざして走り回っていた。彼はうっすらと笑っている。立ち向かうのは、青白い燐光を放つ、馬よりも大きな空飛ぶ蛇だ。蛇の片方の羽根は付け根のあたりが傷つけられ、こちらもどす黒い体液が滴り落ちている。
 ローグは、明らかに戦いを楽しんでいた。昨日の傷に加え、幾つかの致命傷になりそうな怪我を負いながら、痛みすら感じていないように見える。
 そして、あの影のような熊が、その二者の戦いを何者も邪魔することのないように、遠くからじっと見守っていた。
 「あれが、この世界の戦い方だ。<アスガルド>の外では百年も前に廃れた光景さ」
振り返ると、宿の女主が何時になく愉快そうな表情で立っていた。
 「ルベットは宿に戻って、あの馬鹿を手当てする準備を始めてるよ。コトが済んだら、あたしとあんた、二人であいつを連れて帰るんだ」
 「ローグさんは、勝てるでしょうか」
 「勝てなきゃ連れて帰るのが死体になるだけさ」
イザベルは、にやりとした。
 「心配なら、未来を視ればいい。」
 「…私」
ユーフェミアは、胸の前で拳を握り締めた。その時、ふいに熊と目が合った。黒々とした毛むくじゃらの、この世ならざるものの目に宿る光を見たとき、彼女は、何か思いがけない感情に打たれた。
 <ニーズヘッグ>が牙を剥いて襲い掛かってきた。ローグは避けようともせず剣を構え、自ら突っ込んでいく。そしていきなり剣を投げ捨て、蛇の片羽根を掴むと、傷ついて破れた羽根の傷を、両手で力いっぱい引き裂いた。
 この世のものならぬ絶叫。バランスを失って地面に落ちた蛇が飛び上がろうともがいている隙に、ローグは剣を拾い上げていた。そして背中の真中に、力いっぱい真っ直ぐに突き下ろしたのだった。
 壮絶な断末魔の悲鳴が、ながながと響き渡った。
 やがてそれは、尾を引いて消えてゆき、後には黒い骸が伸びているばかり。
 足元の敵がピクリとも動かなくなるのを確認して剣から手を離した瞬間、ローグは、崩れ落ちるようにその場に倒れた。すぐさまイザベルとユーフェミアが駆け寄って、両脇から彼を支えて起こす。
 「まったく! 相変わらず無茶なことを」
 「すぐに手当てしますから」
ローグは、首を振った。
 「死なせてくれ、いい機会だ。<竜殺し>として死ねるなら、悪くない」
 「死にませんよ、あなたは。」
ユーフェミアは、きっぱりと言った。「今ようやく、九つ目の炎が消えたんです。運命に逆らうものに栄光あれ! 女神の試練はこれで終わりました。九つの炎は試練の炎、生きたまま全てを終えた者には、大いなる栄光が約束されます。」
 「試練…だって?」
戦いを終えたローグの側に、のっそりと黒い影がやってきて、彼の顔を覗き込んだ。熊は彼の致命傷になりそうな深い傷をひとつずつ丁寧に舐めている。見えていないはずのローグも、意識のどこかで何を感じているらしい。
 「何だ? …何をしてる」
 「死にたがりが無茶な戦いを挑んでも、五体満足で戻ってこれていたのは何故だと思う? あんたの毛深い女神様に、感謝するんだね!」
と、イザベル。
 「”呪い”と”祝福”は、表裏一体なんだよ。最高の祝福じゃないかい? 戦の誉れこそ全てと考える一族の、名を上げたいと望む男に、相応しい舞台と冒険が舞い込んでくる。望んでもそうそう手に入るものじゃない! さ、情けない顔はやめて、 ほら、手を貸しな。途中までおぶってやるから」
 「俺は、まだ死ねないんだな…」
ローグは、残念そうにイザベルの手によって抱え上げられた。
 「せっかく生き残ったのに、そんな顔するもんじゃないですよ」
何時の間にか、ローグの馬が戻ってきている。ユーフェミアは馬を捕まえ、イザベルの後についていった。
 歩きながら、彼女は自然に思いついた詩を、それとなく口ずさむ。


  呪われし男は荒野をゆく運命<さだめ>
  空の燃え落ちるまで
  勝利の父の望むときまで
  老いと病がその手から剣を奪うより早く
  黒い馬が誉れある黄金の樹を迎える



 <黄金のチェス亭>に戻ると、ルベットが治療の準備をして待ち構えていた。老人は、ぼろぼろになったローグを見て泣き出しそうな顔になったが、傷がどれも治る見込みのあるものばかりと知って、少し落ち着いたようだ。(最初は致命傷もあったのかもしれないが、あの熊の女神が治癒したのだろう)
 治療は日が暮れるまで続いた。その間、彼の守護霊はどこかに隠れていて、ユーフェミアにも見えなかった。イザベルは手当ての途中で姿を消し、戻ってきた時には、ローグが倒した大きな有翼蛇<ニーズヘッグ>を荷車に載せていた。首は切り落としてホールに飾るのだという。
 「格好いいだろう? なかなか洒落たインテリアさ」
と、彼女は言ったが、本気なのかどうかは分からない。
 ローグはそれから三日ほど目を覚まさず、眠ったまま、穴倉のような部屋に横たわっていた。その間、ルベットは自分の研究もよそに薬草集めや傷の手当てを続けたし、ユーフェミアもそれを手伝った。やがて彼が目を覚ますと、ルベットは半ば脅迫するように、たっぷりあと一ヶ月は大人しくしているように、と厳しく言いつけた。
 「ひと月なんて、夏が終わっちまうじゃないか。」
ローグはぶつぶつ言っていたものの、ここへ来たときのように投げやりな素振りは見せなかった。時が来るまでは、どうあっても死ねないと分かったからかもしれない。
 彼はユーフェミアに言ったものだ。
 「死にたくても死ねない、というのは一番残酷な呪いだと思わないか? 何しろ、俺はあの有翼蛇<ニーズヘッグ>と戦っても生き残ったくらいなんだ。」
 「でもあなたは、本当にまだ死にたいの?」
 「…分からない。今となってはもう、それもどうでも良くなった。楽に死なせて貰えないのなら、いっそ、とことん生きるのも」
そんな言葉を支持するかのように、ローグの傷は、驚くような早さで癒えた。ルベットも驚くほどの回復力だ。きっとそれも、黒い女神の祝福のお陰なのだろう。
 賞金首という立場上、人の多い時のホールには決して出てこなかったが、宿から人がいなくなる昼間などは、テラスやホールをぶらついて、時にはユーフェミアとチェスをすることもあった。吹っ切れたのか、最初に会った時よりは、随分陽気になったようにも見えた―― 気のせいかもしれなかったが。
 ユーフェミアには予感があった。
 この風来坊が、ルベットの言う”たっぷり一ヶ月”を大人しく過ごすとは思えない。放浪することを運命付けられた彼は、たぶん遠からず此処から旅立つだろう。



 本格的に夏が始まる頃、ユーフェミアは、厩の前で去っていく熊の後姿を目にした。厩を覗くと馬が一頭いない。
 ローグの部屋を覗きに行ってみると、既に彼の姿はなく、寝台の上に丸めたシーツが残されているばかりだった。


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