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<呪われた剣士> ―前編


 北部未開地域――<アスガルド>。

 観光、研究、危険な一人旅。この地上で最も不可思議な最後の「未開地域」は、他所では満たせない特別な欲望を満たす場所として、コアな旅行者の興味を引き続けている。何しろそこは、未だに電気や電話のたぐいも無い、本物の「未開」の地域。古い遺跡はあるから「未踏」では無いらしいが、何千年か放置されているうちに、いつしか広大な天然の地になってしまった。
 ここは、どんな動物図鑑にも載っていない未知の動物が闊歩し、太古の植物が未だに生い茂る場所。医者も首をかしげる奇病や、在り得ない自然現象が襲ってくることもある。全ては自分の責任で。生きて戻れなくても誰も恨むことなし。
 そんな「未開地域」には、招かれざるお客もやって来る。
 生きて帰れないのなら、生きていたくないのに自ら命を絶てない人にとっては、まさに願ったりかなったり。<アスガルド>のごくごく一部に被せられた、望みもしない肩書きのひとつ、それが「自殺の名所」というやつだ。
 もっとも、死ぬ気でやってきたお客の大半は大抵、最後の覚悟を決める前に、町に近い入り口で”不慮の事故”によって望みをかなえる。奥地の風光明媚な大自然は、その暗いイメージに引きずられることは無いというわけだ。



 夏の始まり、霧が晴れ、古代の大樹がその姿をすべて露わにする。
 つい最近<黄金のチェス亭>で働き始めたばかりのユーフェミアにとっては、それは初めて見る光景だった。青い、一点の曇りも無く、ただただ青く広がる空に、石と化した灰色の巨木が、その威容を誇っている。
 少し離れて見なければ、上のほうがどうなっているのかは分からない。てっぺんは大きく割れて、幹の中は腐り落ち、残った樹皮だけが巨大な空洞となって崖を作っているようだった。この樹が生きていた頃は、どんなにか大きな日陰が出来ただろう。落ちてくる木の葉の一枚ですら、人を押しつぶす重みがあったのではないか。そう思わずに入られない。
 夏が始まると同時に、この未開地域で唯一の宿、女将イザベルの仕切る<黄金のチェス亭>には、数多くの客がやってきた。毎年来る馴染みから、今年はじめて訪れた観光客、はたまた逆に、冬の間とどまっていた長期滞在のお客が、町へ戻っていったこともある。未開地域とは言うものの、霧の晴れる限られた季節の昼間、町へ続く街道を歩くぶんには命の危険はほとんどない。道端に咲く花にたわむれる蝶々でも眺めながら、思い切り馬を走らせれば安全だ。…誰かが落とし穴でも掘っていて、途中で馬から落ちなければ。
 そんな思いがけない「不運」、あるはずの無い出来事も起こり得るのが、この場所の、この場所たる所以なのだが…。
 ユーフェミアは今、イザベルから貰った休み時間中だった。
 草原にぼんやり立ったまま、空と枯れた樹の奇妙なコントラストを心行くまで楽しんでいたとき、彼女は、何かが宿に向かう道をやってくるのに気が付いた。
 良く見るとそれは、灰色の馬に乗った旅人だった。もう夏だというのに擦り切れた厚手のコートを羽織り、フードを目深に下ろしている。そして、その腰には、町では決して持ち歩けないような、時代遅れの重々しい剣。使い込んだ柄の部分が鈍色に輝くのは、遠くからでも分かった。
 なんと陰鬱な姿だろう、この晴れ渡った爽やかな日に。
 単騎でやってくるその男は、たぶん宿のお客なのだろう。時代遅れの格好も奇妙だったが、それ以上にユーフェミアの目を引いたのは、男の頭上にちらちらしている何かだった。それは、浮かんでは消え、つかず離れず、揺らめいている。ここへ来てから自分の力を肯定することを覚えたユーフェミアは、それが、何かを予兆するものだろうと思った。
 男の姿が宿のほうへ見えなくなるのを確かめてから、少女はすぐに後を追って走り出した。いま見たものを巧い具合に言い表す言葉を捜しながら。



 宿の主人、イザベルは、海に面した窓を開けた下でジャガイモの皮を剥いていた。
 ユーフェミアがいるお陰で、ホールや客室の掃除はほとんど手がかからない。体格もいいし、頭もいい。何かと先回りしてやってくれるから、今ではのんびり夕食の支度をしていても余裕があるのだ。
 毎年この季節がやってくると妙に気分が弾む。
 夏は短いが、そのぶん短い間に全てが動き出す、といった感じで、花が咲き、鳥たちは子育てに一生懸命。そして、窓から見える果ての海<エンド・ブルー>には、ごま粒のように観光船が群れ広がる。
 ホールに続く入り口のベルがカラカラと陰鬱な音を立てた。手を止めて、イザベルは顔を上げた。ユーフェミアにしては、音が違う。それに、ここで働くようになってから、ユーフェミアには台所から続く出入り口を使うよう教えてある。
 カウンターから覗くと、ホールに続く五段ほどの階段の下に、擦り切れたマントの男が影のように立っていた。馴染みの姿を認めて、イザベルは大声で笑い出した。
 「まあ、ローグ。生きてたのかい。」
 「お生憎様、まだまだ、このとおり」
フードに表情が隠れていたが、男はどうやらニヤリとしたらしかった。
 「まあ、こっちへ来て、座ってその厚ぼったいのを脱ぐといいよ。水でいい?」
 「ああ」
 「だけど、あんたにまた会えるなんて…。冬の間、戻ってこなかったもんだから、てっきりもう何処かで”望み”を遂げたもんだとばかり思っていたよ」
ユーフェミアが台所に続く勝手口から戻ってきたのは、ちょうど、このやりとりの真っ最中だった。お客はすっかりマントを脱いで、くつろいだ様子でイザベルと語り合っていた。何日も風呂に入っていない薄汚れた肌に、髪はぼさぼさ、荷物もぼろぼろ。おまけに強烈な匂いがする。
 ユーフェミアが出て行こうかどうか迷っていると、決心するより早く男が気が付いた。
 「そこの娘、さっき外でウロウロしてた奴だな。観光客かと思ったら、あんたの助手かい。イザベル姐さん」
 「ああ、ついこないだから働いてくれてる。ユーフェミアだ。ユーフェミア、こっちの汚いのはローグ、うちの常連だよ」
 「はじめまして。宜しくお願いします」
 「ああ、宜しくはしなくていい」
男が顔をしかめたので、ユーフェミアはきょとんとした顔になった。イザベルが苦笑いしながら口を挟んだ。
 「ローグは、とっととこの世からおさらばしたいのさ。死にたくてここへやってきた、…今から、ちょうど八年前かね」
 「はあ」
 「俺は、呪われてるんだよ」
陰鬱の男は、至って真面目な顔で続ける。
 「さっさと死にたいのに、死なせてもくれない。生きようにも、どうにも不運が付きまとう。町じゃロクでもないことばっかりだった。せめてここなら、誰にも迷惑がかからないと思ってな」
 「でも、死にたいだけなら、そんなに難しくないですよね…どうして、わざわざ此処へ?」
 「格好の悪い死に方は出来ないからだ。戦って死ぬこと、これが俺の一族の掟だ。病気や自殺はご法度、まあ、くだらないこだわりだがな。」
ユーフェミアは、ちらと男の剣を見た。彼女自身は、類まれなその力で今まで幸いにして出会うことは無かったが、この<アスガルド>には人を襲うような太古の猛獣も棲んでいるという。また、未開地域をいいことに入り込む、賞金首やならず者の類もいる。そうしたものと腕一本で命がけの戦いをしたければ、確かに、ここはうってつけの場所だろう。 
 「で?」
イザベルは、身を乗り出した。
 「今年の冬、ここへ戻って来なかったのはどういうわけなんだい。冬の間、あんたが何処で何をしていたのか、話しておくれよ」
 「――そうだな。ま、さわりくらいなら…。」



 さわり、と言ったものの、ローグの話は長かった。彼自身、途中はよく覚えていなかったらしく、飛ばし飛ばしではあったが、概ねはこういうことだった。
 <黄金のチェス亭>から北のほう、高地地方<ハイランド>へと抜ける辺りには、古代の氷河の跡がある。昔まだそこに氷があった頃、年々、少しずつ海へと押し出される氷河の底が、鋭く抉った深い谷があるのだった。
 谷は海まで続いていて、ちょうど半島をばっさり分断したようになっていた。そのお陰で、<ハイランド>と、こちら側―― 未開地域の間は断絶し、橋さえも通っていない。こちら側へ渡りたければ、谷をぐるりと回って、ずっと東の山を越えるしかない。
 冬の間、彼はその谷の奥にいた。人が通る場所ではない深い谷底に転がり落ちてもまだピンピンしていて、這い上がるのに何ヶ月もかかったのだという。
 「何でまた、そんなところへ落ちるかね」
お客から色々な話を聞いてきたであろうイザベルも呆れ気味だ。
 「ま、色々あったのさ。強い風が吹いていて、しかも俺は追いかけられてた。あの辺に黒翼蛇<ニーズヘッグ>が住んでるなんて、誰も知らなかっただろうよ。追いかけてきた奴らは、俺が谷に落ちたのを見て、死んだと思ったかもしれないな。運悪く、俺は生き残ったが。
 しかしそこで災難は終わりじゃないんだ。動けるようになって、さてどうやって谷底から這い上がったものかとウロウロしいたから、通りかかった<ニーズヘッグ>にさらわれて、断崖絶壁の蛇の巣の中。天国まで連れて行かれなかったのは災難だが、崖を這い上がるのは大変だったぜ。手がかりを見つけちゃ少しずつ、雨水飲んで、苔を食ってさ。蛇のやつと戦って相打ちになるのでも良かったんだが、あいつめ、どういう訳か、俺を巣に運んだあと、すっかり俺のことを忘れちまったらしく、戻って来なかったもんだから」
 「巣のあるのが<ハイランド>との境目だったんなら、その蛇、町のほうまで飛んでいって、猟師にでも撃たれたのかもしれないね。最近じゃあ、谷の向こう側に猟銃持った見張りがいるって話だから。昔ほどお互いの境界は曖昧じゃあないんだ。今じゃあいつらも、生きていけるのはこっち側だけなんだよ」
ローグは肩をすくめ、空になったコップをイザベルに返して立ち上がった。
 「あんたも、いい加減生き方を改める時期かもよ。剣ブン回して闇雲に化け物どもを追い回す時代じゃない」
 「ご忠告を、どうも。俺もこの生き方しか出来ない、”こっち側”の人間さ。姐さんだって分かってんだろ? じゃあな、風呂借りるぜ、この時間なら空いてるだろ」
言うなり、彼は返事も待たず、自分の家のように気楽な足取りで奥へ向かって歩き出した。
 「まったく…。風呂場で滑って死なないようにね!」
諦め気味に怒鳴って、イザベルはカウンターの上を片付けにかかった。まだ夕方までは少し時間がある。今からなら、鼻歌まじりにじゃが芋の皮を剥いても、まだまだ間に合うだろう。
 「あっ」
唐突に、ユーフェミアが声を上げた。ずっと上の空で、ローグが話している間、イザベルの後ろに居たのだ。
 「どうかしたかい?」
 「詩が出来たんです。あの人の後ろにちらちら見えてたものを、うまく喩える言葉が見つかりました。」
 「へえ、どんな具合に?」
ユーフェミアは一つ息を吸うと、すらすらと謳った。


 頭上に九つの灯火抱きし、呪われた男
 黒い影を引き連れて、荒野を往くさだめ
 八つの炎は燃え尽きた
 残るはただ一つなり



言ってみてから、少女は眉をしかめ、首を振った。「…いけないですね。これだと、ローグさんが今年、望みをかなえてしまうように聞こえるから」
 「いや、案外、そうかもしれないよ。」
イザベルは、ローグの座っていたあたりに目を遣った。「呪われてるなんて、あの子が思い込んでなきゃ良かったんだけどね」
 「どういうことですか?」
 「なに、そのうち分かるさ。人は自分のことほど、案外見えていないものなんだ。さ! 腹を空かせた連中の戻ってくる前に、さっさと支度を終えようかね」
言いながら、イザベルがテーブルの端に無造作に置かれたコインを幾枚か、それとなく前掛けのポケットに滑り込ませるのを、ユーフェミアは見逃さなかった。ローグは、三日分の宿泊代金を、取り決めの通りに置いていったのだ。



 夕方になり、出かけていた宿泊客たちが一人、また一人と戻ってきた。
 ルベット爺さんは歩けないほど大量の食用キノコを持って上機嫌、半分は宿で出す食事用にと提供していった。(残りは部屋で陰干しにして、酒のつまみにするのだという)
 ユーフェミアは、ホールで給仕をしながらそれとなく探してみたが、ローグの姿は見当たらない。
 カウンターに戻って来ると、イザベルが待っていて、ユーフェミアにバスケットを手渡した。
 「ワインとチーズ、それにローストビーフのサンドイッチだ。上等だろう? あの子に届けてやっておくれ」
 「あの子って…ローグさんですか?」
 「そ。顔に似合わず、そういうのが好きなのよ。二階の奥の部屋にいるから。」
イザベルは、それだけ言ってさっさと厨房に戻ってしまった。ユーフェミアはしばらくバスケットを持ったまま佇んでいたものの、言われたとおり、二階に向かった。
 ルールが無いように見えるこの宿にも、実は一定のルールがある。
 それを知ったのは、ここですごし始めて一週間ほど経った頃のことだったが。
 一般客は大部屋にカーテンを引いただけで詰め込まれているが、長期滞在のお客は、宿の奥のほう、個室に泊まっている。
 さらに何度も訪れている顔見知りのお客は、もっと奥にある別棟で、ほとんどロッジと言っても語弊ないくらいの立派な個室に、好きなだけ私物を持ち込んで、好きなように暮らしている。そこは、そのお客にだけ割り当てられていて、しばらく留守にしていても勝手に片付けられることはない。ルベットなども別棟の住人で、彼の個人的な部屋は、既に立派な研究室と化している。
 だから、この宿には、別棟の部屋の数だけ「常連」のお客がいるはずなのだ。ローグもそのうちの一人のようだ。
 二階に部屋を持っているのなら、たぶん北側の薄暗い部屋がそうだろう、とユーフェミアは思った。
 そこは石のようになった大樹の樹皮を丸く抉った穴倉で、窓もなく、置いてあるものといったら書き物机とベッドが一つ。一度だけ掃除のために入ったが、あまりに殺風景なので、最初は倉庫か何かだと思ったくらいだ。
 果たして、二階へ行ってみると、今朝まで無人だったその部屋の入り口に、細いランプの明かりが漏れていた。
 軽くノックすると、中から返事があった。ローグの声だ。
 「食事、持ってきましたよ」
 「ああ、ちょっと手が離せない… 机の上に置いといてくれ」
ドアを開いて覗き込むと、男はベッドの端に浅く腰掛けて、真新しい白い布切れを二の腕にきつく巻きつけているところだった。つんと鼻を突くような匂いがする。
 「怪我してるんですか」
 「古傷だ。さっき、ルベット爺さんに薬を貰った。ニ、三日すれば、直るだろうよ」
 「でも、その間、しばらく動かないほうがいいです」
とっさに、ユーフェミアはそう言ってしまった。
 「些細なことで、同じ場所を怪我しますよ」
驚いたローグが何か聞き返す前に、彼女は、机の上にかごを置き去りに、さっと身を翻して部屋を出て行った。戻らなくては、仕事が待っている。
 しかしそれ以上に、彼女は恥ずかしかったのだ。ローグは傷の手当てのために服を脱いで、黒々とした上体を平気で晒していたのだから。



 翌日、まだ日が暮れるには早い時刻にユーミフェミアは宿の前でローグにばったり会った。ちょうど出入り口を箒で掃除している最中。目の前に突然、血まみれの男がふっと姿を現したので、彼女は思わず悲鳴を上げるところだった。見れば、怪我している腕は、夕べ、手当てをしていたのと同じほう。ああ、やっぱり、と彼女は呟いた。――だから、いわんこっちゃない。
 「あんた、未来が見えるのか」
ローグは、じろりとユーフェミアを睨んだ。
 ユーフェミアが否定も肯定もせず警戒したような面持ちで眺めていると、ローグは唐突に、びっくりするほど大声をたてて笑い出した。
 「巨人族の巫女か! こいつは食わせ物だ。どおりで、あのイザベル姐さんが、なんでもないアルバイトなんて雇うわけないと思ってたよ」
 「私は、ただの詩人です」
むっとして、彼女は言い返した。「狂気に憑かれた放浪者に、巨人呼ばわりされる筋合いはないです」
 「そりゃ失礼。伝説にある巨人の巫女は、恐ろしい化け物か、石臼もぶち壊す怪力の持ち主だもんな。」
 「憎まれ口は後にしてください。せっかく掃除したのに、血が落ちちゃう。そこに居てください! 包帯と薬を取ってきますから。」
ローグは大人しく、入り口の外で待っていた。ユーフェミアがたらい一杯の水を汲んで戻ってきたとき、彼は上着を脱いで、止血用に縛った布を解いているところだった。
 「治りかけてたのに、このざまだ。まったく、些細なことだったよ。足元が崩れて…」
 「じっとして、そこに座ってください。消毒しますから」
ルベットに教わったお陰で、少しは傷の手当ても出来るようになった。とりあえず今は血が止まれば結構だ。
 「あんた、どのくらい未来が見える? エーシルかい、ヴァニールかい? まさかヨートゥンだったりしないよな」
 「そんなの、知りませんよ。」巨人族というのは、何種類もいるものだろうか?「…それより、どうして驚かないんですか」
 「そりゃ、俺はここでの暮らしが長いからな。大抵のことには驚かないし、外の世界が忘れちまったことも知ってる」
傷口にルベットお手製の薬草を塗りこまれながら、ローグはさすがに顔をしかめた。
 「もっと優しく出来ないのか。」
 「死ぬよりましですよ。こんな怪我してまで、危険なことをするなんてよく分かりません。もっと楽な方法があるはずなのに」
苦笑したあと、彼はふいにまじめな顔になって、ユーフェミアの眼を覗き込んだ。
 「なあ、あんた、俺がいつ死ぬか見えないか?」
間近から不意に視線がかち合った。男の双眸は、黒々とした影をたたえ、ただならぬ真剣さを帯びていた。反射的に視線を逸らしながら、ユーフェミアは、その先を見るまいとした。人の運命は、あまり直視するべきものではない。
 「そんなこと言われても… 分からないです。何もかも、分かるわけじゃないんですから」
言葉を濁しながら、彼女は或るひとつのことを思いついた、
 「だけど、一体、どういうことなんですか? 呪われてるって。どうして、そんなに死にたがるんですか?」
 「まあ、あんたなら信じてくれるかもしれないが。俺には邪悪な女神が憑いてるんだよ。そいつが、俺を不幸にしようとしてるんだ」
そうして、ローグは語り始めた。

 「うちの母方の家は古い家柄で、そのむかし、この大陸で大きな戦があった時には、一族総出で戦いに赴いたらしい。血の気が多いのは多分そのせいだろう。母方の家は伯父が継いで、田舎にある大きな屋敷に暮らしてた。伯父には子供は無かったがな。
 俺は五人兄弟の末っ子で、小さいころに、兄貴たちと一緒にその家にいったことがある。囲炉裏のある大きな部屋の太い梁は真っ黒で、天井の辺りには影が出来ていた。…そう、分かるだろ? この宿のホールと同じようなつくりだ。もう何百年も前からある古い造りなんだぜ。その影が俺は気になって、上を向いたまま走ってた。子供のころは、みんなそうやって馬鹿なことをする。
 で、足を引っ掛けて思いっきり転んだ。床に敷いてあった、熊の皮に足を引っ掛けてさ。転んだもんの、分厚い毛皮にからめとられて、ゴム鞠みたいにはずんで怪我もしなかった。そのとき、部屋の奥にいて一部しじゅうを見ていた伯父が、立ち上がって突然笑い出したんだ。”見ろ、一族の守り神がこいつを選んだぞ!” ってな。それで、わけが分からんうちに、俺は伯父の家の養子に出された。一族の守り神ってのが、真っ黒で大きな熊なのさ。女神なんだと。戦士を凶暴にして、理性を失わせる狂戦士の守護神。最後の戦が終わって百年も経つのに、そんな奴に取り憑かれちまったお陰で、俺は町にいて何をしてても落ち着かなくなっちまった。俺に厄介者を押し付けた伯父は、晩年はすっかり丸くなってベッドの上で安らかにお休みになり、俺はこうして、死に場を求めてさすらってるってわけさ。」

一気にそれだけ語って、彼は口を閉じた。沈黙が落ちた。
 「…じゃあ、あなたの背負っていた黒い影は、その熊さんなのね」
ユーフェミアが、ぽつり、と言った言葉にローグは反応した。
 「見えるのか?」
 「今は見えない。最初に馬で走っていたとき、何か見えた。でも、そんな悪いものには見えなかった、あなたを守ってるみたいだったけど」
 「守るなんて! とんでもない」
立ち上がって、はき捨てるように彼は言った。「こいつのお陰で、生き地獄ばっかりだ。こいつと離れられるなら、俺は死だって選んでやる」
それだけ言うと、彼は、荷物ごと立ち去ってしまった。方向からして、厩へ行ったか、裏口から別棟へ帰るのだろう。
 ユーフェミアは血に染まった布と桶を手に立ち上がった。眼を凝らすと、草陰に、半透明な何か…黒っぽいものが見えた。今さっき荒々しく去っていった男の足跡を、そっくりそのまま辿るようにして、のっそり歩いている。
 (あれが、守護の熊女神なんだ)
じろじろと見ているのがいけないような気がして、彼女は慌ててホールへ引っ込んだ。幽霊を見たような気分だった。(…でも、怖くはない。あれは、本当に悪いものなんだろうか?)



 イザベルは、カウンターの向こうでシナモンの皮を丸めた棒を吸いながら新聞を広げていた。それは今朝、まとめて届いたもので、ちょうど一週間前のものだった。最寄の郵便局から<黄金のチェス亭>への配達は、だいたい一週間か十日に一度、やってくる。新聞や手紙、お役所の書類、長期滞在の誰かが注文した雑誌や本がここへ届き、反対に、誰かが書いた手紙や絵葉書が持ち去られる。ルベットの書いた論文や研究報告書も、配達者が持って帰る。
 ドアの開くベルの音で、女将は新聞から顔を上げ、ユーフェミアのほうを見た。
 「手当ては済んだの? あんたに手間かけさせちゃったわねえ」
 「いえ、大したことじゃないんですが」
たらいを持ってカウンターの奥に入りながら、背中越しに聞いてみた。
 「イザベルさんは知ってました? ローグさんに憑いてる熊のこと」
 「ああ、聞いてるよ。あんた、見えたのかい?」
ユーフェミアは、迷ったけれど正直に頷いた。
 「悪いものには見えませんでした。ローグさんは、あれのせいで良くないことばかりだと言っていたけれど」
 「家系づきの守護霊なんだよ、あれは。熊は勇猛な戦士の霊、もともと悪いものじゃない。だけど、どうしようもなく、血の滾I(たぎ)るのが押さえられないことがあるんだそうだ。特に自分と同じ類の人間を見ると、興奮するようだね。百年前なら、それでも良かったんだろうけど。」
 「…そんなの、自分で押さえればいいんじゃないかしら」
ユーフェミアは、口を尖らせて反論した。
 「何もかも、守護霊のせいにしてしまうなんて、おかしいです。自分が短気なのは誰のせいでもないでしょ」
イザベルは肩をすくめ、新聞紙を丁寧に折りたたみながら、こう言った。
 「人は、自分の理解を超えるものや、目に見えない運命を必要以上に恐れるもの。それを誰かのせいにしなくちゃ、安心出来ない。―-それは、あんたが一番よく知っているはずだろう?」
 「……。」
それで、ユーフェミアは、何も言い返せなくなってしまった。
 「きっと、あの子は肝心なことは話さなかったんだろうね。」
 「どういうことですか?」
 「ローグは、賞金を賭けられてるお尋ね者なんだよ。町で人を殺したことがあると言っていた」
 「…えっ?」思わず、手がすべってたらいを落としそうになった。「本当なんですか。賞金首なんて」
 「だけど、ここじゃ、そんなものは何の値打ちもない。ならず者だろうが、盗賊だろうが、宿代さえいただけるんなら、あたしは黙って泊めてやる。今まではあの子も、人の多い夏には宿に近寄らなかったものだけど。」
あのローグが、犯罪者。それは自分の運命を悲観するのに十分な理由ではある。町で普通の生活を送ろうにも、そうはいかないというわけだ。



 と、その時、入り口のベルが音を立てた。
 いつもより早く、長期滞在している二人組の探検家が戻ってきたのだ。そのうちの一人は、足を引きずり、もう一人に肩を借りている。
 「大丈夫ですか?」
 「挫いただけだ、大したもんじゃない… もう手当ても住んでる」
そう言って、無事なほうが怪我した相棒をホールの椅子に座らせた。見ると、挫いたほうの足に棒をあてて、簡易ギプスを作って固定している。
 「参ったよ、まさかうっかり大トカゲの尻尾を踏みつけるなんて思っても見なかった。毒こそないが、噛み付かれたら腕が折れちまう」
 「ああ。あの黒髪の兄さんが来なかったら、おれたちだけじゃヤバかったかもな」
意外な言葉だった。思い当たる宿泊客は、一人しかいない。
 「それって、皮のコート着て、剣なんか持ってる人ですか?」
 「そうそう。やっぱりここの客だったか。怪我してるみたいだったが、大丈夫だったかな…。居るんなら、お礼のひとつもしときたいところだが」
そこでユーフェミアは、出来るだけ具体的な言葉を避け、その人は既に戻ってきていて怪我は大したこと無いらしいこと、ただ、少しばかり恥ずかしがりやで(なんという表現だろう!)人嫌いなところがあるので、自室を訪ねても疎ましがられるだけだろう、ということを伝えた。
 「そうか、なら代わりに、ありがとうって伝えといてくれ。それと、酒の一瓶をお礼代わりに届けてくれないか」
そこでユーフェミアは、イザベルに一言伝えて、昨晩と同じワインを一瓶、ローグの部屋へ持っていくことにした。
 長期滞在の常連さんたちが暮らす別棟に踏み込んだとたん、地下のほうから、なにやら言い合う声が聞こえてきた。その下は、ローグの穴倉部屋のあるところだ。
 「まったく! お前ときたら」
ルベットの声だ。珍しく語気が強いが、腹を立てているわけではなさそうだ。
 「いい加減、無茶はやめろとあれほど言っただろう。下手をすれば、肉だけじゃなく骨ごと持っていかれたところだぞ。」
 「じゃあ他にどうしろってんだ。こっちは、そんなに器用じゃねえよ」
ドアは開きっぱなしだ。ユーフェミアが軽くドアをノックすると、二人は言い争うのを止めて、振り返った。
 「二階の二人連れのお客さんからよ。命の恩人にお礼ですって」
散らかった机の端を空けて、ワインの瓶を置いた。
 「人助けで怪我したんなら、そう言えばよかったのに」
 「何と。そうなのか? ローグ」
 「余計なこと言うなよ。たまたまだ、たまたま」
男は不機嫌そうに、だが明らかに戸惑った様子でぷいとそっぽを向いた。ユーフェミアは眉を寄せた。その足元、ベッドの下に、黒々とした影のうずくまっているのを見つけたからだ。
 「…怪我の原因になるうっかり者は、本人じゃなくてあの人たちだったのね。私、詩の解釈を間違えてた」
 「詩?」
 「何でもない。そろそろお客さんが戻ってくる時間だから、戻るわ。」
言うなり彼女は部屋を出て、二人の声が外に漏れないよう、後ろ手にドアを閉めた。肩で一つ、大きく息を吸う。――狂気の熊は片時も離れない。あんな傷を負いながらとっさに人を助けるような性格の男が、人を殺してお尋ね者になっているという。一体どういうことなのだろう。人助けは、たまたまの結果なのか? それとも、人を殺したことが不幸な事故か濡れ衣だったのか?


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