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<始まりの女詩人>


 何も<黄金のチェス亭>は、人外魔境に心細くひっそり立っている木賃宿ではない。
 意外かもしれないが、バーもあればサウナもある。立派なふかふかのダブルベットだって、リクエストすれば整えてくれる。海を臨む部屋からの眺めは絶景。新婚さんにだってお勧めなのだ、…辿り着けさえすれば。
 女将のイザベルは体格のよい女丈夫で、この宿をたった一人で仕切っている。片目は青で、片目は金。凍てつく海の青と太陽の黄金だと本人は言っている。彼女はその日も、ゴワゴワした分厚い粗織りのターバンを巻いて、シナモン棒をかじりながらカウンターの掃除をしていた。首には金のトルク。かかとは靴から半分はみ出している。
 この宿の経営において、いまはオフシーズンだった。そのせいで閑散としているが、これでもお宿は夏場には人気のリゾートだ。あらゆる変わった楽しみを楽しみ尽くした大金持ちなら、必ずこの地に一度はやって来る。ただし、<黄金のチェス亭>にやって来る宿泊客は、物好きな旅行者ばかりではなかった。
 一攫千金を夢見る盗掘者、賞金首といった胡散臭い連中から、カメラマン、小説家、絵描きといった真っ当な職業の連中、そして時には、――そう、これが肝心なのだが、食料や新聞の配達人から、郵便局の職員までやって来る! この辺りも、午前中の限られた時間に決められた道を歩く分には比較的安全なのだ。日が暮れてしまうと命の保障は無いのだが。
 鼻歌交じりで勢いよく、バーのカウンターをごっしごしとやっていたイザベルは、入り口のベルが風とは異なる音色を奏でたのに気づいて顔を上げた。バーと兼ねた食堂のカウンターがあるホールから5段ほど頭上にある、入り口の両開きのドアの間から、誰かが、おそるおそる覗いている。

 「あら、いらっしゃい」

声をかけると、驚いたような顔が外へ引っ込んだ。
 だが数秒待つと、その顔のぬしは、意を決したように体ごとドアを押しのけて入ってきた。肩掛け鞄一つ手にホールへ入ってきたのは、年のころは十五を過ぎて二十歳前の頃に見える、そばかすの残るあどけない顔をした少女だ。一見して少年のような格好と雰囲気。化粧っけもなく、長い髪は無造作に、ただ邪魔にならないようにという便宜上の理由からのように、二つに分けて束ねられている。−−ずいぶん、背の高いお嬢さんだこと。と、イザベルは雑巾を奥の流しに放り込みながら思った。それも、こんな時期にやってくるなんて、珍しい。
 少女は、落ち着かなさげにキョロキョロと辺りを見回し、イザベルを見止めると、「あの…」と、口を開きかけた。
 「ようこそ、<黄金のチェス亭>へ。あたしは女将のイザベル。他の連中は昼間は外に出ているよ」
 「はあ」
 「一人? 見たところ、探検家じゃないみたいだけれど。学者?」
 「詩人です。」
思いがけず、少女はキッパリと言った。その言葉を言うときだけ、さまよっていた視点がはっきりと定まった。なるほど。こんな世界の果てに、女詩人が一人旅。
 「詩人さん、ね。泊まっていくの?」
 「はい、――あの」
 「お名前は?」
 「ユーフェミア」
イザベルは、エプロンの胸ポケットから取り出した手帳に、さらさらと職業と名前を書き留めた。これがこの宿のルールなのだ。いつ誰か宿泊したかは、女将しか知らない。サインも身分証明書も必要ない。たとえ相手が賞金首でも、名乗った名前が偽名でも、そんなことはお構いなし。
 「前払いになるけど、いい? 何しろここは、生きて帰ってこないお客も多いから」
一瞬、少女の顔が曇ったが、すぐに大きく頷いた。
 「私、お金はあります。…」
 「じゃあ三日ぶんだけ前払いしてくれる? ここじゃ、それが決まりなの。急な予定で引き払うときは残った日数ぶんを返すわ。三日経ったら、また次の三日分をいただくから。煩わしければ、前もって一週間分でもいいよ」
 「あの」
ユーフェミアと名乗る少女は、息咳き込んで、悲しげな声を上げた。「チェスは、…ないんですか。」



 それは奇妙な切り出し方だったが、初めてというわけでもなかった。
 <黄金のチェス亭>の屋号の由来になっているそれは、この世にあって最も不思議な宝物の一つと言われる有名な品だった。今まで<アスガルド>で発見されたどんな遺物も太刀打ちできない逸品。世界中の大富豪が欲しがり、世界中の小説家がネタにし、世界中の科学者が信じない。そのくせ、実物を見にやって来るのは、ごく僅か。無理も無い。こんな世界の果てまで、わざわざチェス駒だけを見にやって来るのは余程の物好きだ。そしてこの少女もまた、どういうわけだか知らないが、若くしてその物好きの仲間入りをしに来たというわけだ。
 イザベルはカウンターを出ると、自分より頭二つ分も背の高い少女をホールの奥へといざなった。
 「こっちだよ。ついておいで」
ユーフェミアは、なおも視線を周囲に配りながら、おそるおそる宿の女主人についてゆく。
 「こっちへ。頭をぶつけないように」
廊下の突き当たりの木戸を押し開くと、唐突に目の前に海が開けた。腰をかがめてドアをくぐりぬけたユーファミアは、海の眩しさに目を細める。
 そこは、断崖絶壁を見下ろす、丸いホールだった。床は白黒のタイルを交互に並べ、大理石の柱が支える天井の梁は、寄木細工の模様で飾られている。
 「ここは、<協議の間>と、呼ばれてる。ここを作った誰かが本当にそうしたかは分からないけど、相談ごとにはうってつけさ。どこからも盗み見られることはないし、出入りするには今来た道しかないからね。」
ホールの縁の手すりから身を乗り出すと、その下は断崖絶壁、になっていた。海は遥か足の下。振り返れば、岩壁が目の前に迫っている。
 「さて」
イザベルは、咳払いをして彼女の注意を引き戻した。
 「これがあんたの見たがっていた、当店ご自慢の”黄金のチェス”だよ」
少女は最初、きょとんとしていた。それは、あまりにも無造作に丸テーブルの上に置かれていた。向かい合わせに籐の椅子が二つ。今すぐにでもゲームが始められそうに整然と並べられたチェス駒は、鈍い輝きを放っている。
 「これが?」
不安げに聞き返した。ためらいがちに手を伸ばし、駒のひとつに触れながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。
 「これが?… すごく、普通だわ」
イザベルは、肩をすくめた。
 「失望した? でもチェス駒はチェスをするものさ。チェスをしていない時はただの置物」
 「これが、本当に戦ったりするの? 生きているように盤の上を飛んだり走ったり、剣をぶっつけあったりするって聞いていたのに。ちっともそれっぽくない」
 「まあ、そのうち誰か戻ってきて、あんたの相手をしてくれるでしょうよ。それまでは我慢して、取り合えず部屋に荷物を運んでおくっていうのは、どうかしらね? チェス駒は逃げたりしないわよ」
そこでユーフェミアは、渋々といった体で、イザベルに連れられて”協議の間”を後にした。



 宿代を支払って荷物を部屋に片付けたあと(イザベルとしては気を使って、騒々しい男どもの部屋とは引き離しておいた)、ユーフェミアはイザベルが掃除したばかりの半地下ホールでブランチを食べながら、ここまでやって来たいきさつを、ぽつり、ぽつりと話してくれた。
 彼女は東にある大陸で生まれ育ったこと。両親を失ったち、親戚を頼って、数年前に故郷であるこの国に戻ったこと。幼い頃に何度か会ったきりの祖父の遺品を整理していたところ、若い頃の祖父が<黄金のチェス亭>で見たという不思議なチェスについて記した日記を見つけて、矢もたてもたまらず此処までやって来たということ。その口調からして、彼女の話は嘘では無さそうだった。賞金首や盗賊の作り話は、聞き飽きるほど聞き飽きた。嘘か本当かくらいは、大抵すぐに見破れる。
 「遺産を受け継いだんです、祖父の遺言で。暮らしてゆくには十分な遺産です。だけど私、町でジッとしてるの、あわなくて…。」
 「成る程ね。で、たった一人で未開の地へ?」
 「だって生きたチェスを見に行くなんて、誰にも言えないし。東の大陸では、魔法とか奇跡とか、大昔の話とか―― 嫌われていたから。」
そう言った時、彼女の表情には何ともいえない複雑な表情がよぎった。自分に対する軽蔑と、哀愁と、たぶん一抹の諦めも入り混じった感じ。
 「まあ、そういうお堅い連中もいるさ。何たって世界は広いんだから。」
 「私も、そう思いたい」
そう言って、ユーフェミアはホットミルクを最後まで飲み干した。
 「…チェスの出来る人が戻ってくるのは、夕方ですか?」
 「ああ、普段はそうね。運がよければ昼飯食べに誰か戻ってくると思うけど、今朝は泊まりのお客はみんな、弁当か自前の食料を持って出たから。この季節はまだ日暮れが早いんで、お客はほとんど居ないんだよ」
 「分かりました。じゃあ、しばらくその辺りで待っています。建物からはあまり離れないようにしてますから」
 「あいよ。気をつけて行って来な」
狭そうに頭を下げながら二階へ上がって行く少女の後姿を、イザベルは、見るともなしに視線で追っていた。
 ここは何の知識も道具も持たない少女が、一人で辿り付けるようなところではない。大金持ちなら護衛を雇うし、郵便局員なら慣れた安全な道を馬で全力で飛ばしてくる。熟練の冒険者ですら、重装備にパーティを組んでやって来て、しかもそのうちの何名かは、だいたい怪我か病気で強制送還されるような場所だ。とくに、夏以外の季節は。
 「あの子は只者じゃないね。ただの詩人さんにしちゃあ、肝が据わりすぎてる。それとも…よほど強い守護霊がついてるか、幸運に愛されてるか。」
食器を片付けながら宿の主は、誰にともなく呟いた。



 そうこうしている間に日は傾き、いつしか、太陽は西の海へ沈み始めていた。
 ホールの掃除を終え、夜の店開きのための準備をしていると、入り口のベルが静かに枯れた音を立てた。音が一息ついたのち、ゆっくりとした、特徴ある足取りが五段ほどの階段をホールへ下りてくる。魚を煮込む鍋から目を離そうともせず、イザベルは背中越しに後ろにむけて話し掛けた。
 「お帰り、ルベット。今日は何かいいものが採れたかい?」
カウンターの一番端、ちょうどランプの光が届かない薄暗い席に腰を下ろしたのは、ちいちゃな、途方も無く年寄りに見える老人だった。長い節くれだった指を胸の前で擦り合わせ、満足そうに足で布袋を引き寄せる。年寄りの灰色の肌はかさかさして、まるで節くれだった老木の幹のようだ。
 ルベットは、かれこれ五十年ほど<黄金のチェス亭>に泊まっている植物学者だ。住み着いている、と言ったほうが正しいかもしれない。この辺りにしか生えない珍しい薬草を求めてやって来たのだが、新種や珍種を発見するに飽き足らず効果を実践してみるうちに、何時の間にか医者代わりとして重宝されるに至った。
 それでも表の世界とのつながりは絶えておらず、彼の名前で書かれる研究報告書は今なお定期的に大学へ送られていて、その報酬として給料も受け取っている(お陰で、支払いに困ることはない)。
 そんなルベット老人の楽しみは、散歩代わりに大好きな薬草類を採りに出かけることだった。ここでは植物学に困ることは無い。何年かにいっぺんは新種が見つかるくらいの未開地だ。ただ、住み着くことは誰でも出来ても、長年生き残ることが難しい。臆病者ほど長生きする、アスガルドはそういう場所なのだ。
 「いくらか薬草を見つけられたよ。今年はそんなに深い場所じゃない。ああ、いつもの一杯」
イザベルは、そう言われる前から用意にとりかかっていたホワイトラムのお湯割りを、老人の前に置いた。
 「ありがとうよ。仕事上がりはこいつが一番だ」
 「それはそうと、ルベット。あんたにお相手お願いしたいお客がいるんだけど」
 「ん? なんだい、怪我人か病人かい」
 「違うよ、チェスのほうさ。その一杯はサービスしとくからさ、お相手してやってほしいんだ。珍しく若い子だよ」
ルベットは、それを聞くと嬉しそうににんまりした。
 「そうかい。じゃあ、ちょっと探しに行ってくるよ」
老人がほんのり暖かい酒の椀を抱えてちびちびやりながら奥の「協議の間」へ消えていくと、まもなく、残りのお客たちがガヤガヤ言いながら宿に戻ってきた。それで、イザベルのほうは仕事に取り紛れてしまって、その夜に起きたあとの出来事は知らずじまいだった。



 その頃、ユーフェミアは部屋でベッドに寝そべって、一心不乱に手帳に何かを書き付けていたのだった。頭の下にまくらを二つ重ねて上半身を起こし、靴は床に脱ぎ捨ててある。もう日が暮れるというのに明かりもつけていない部屋は薄暗く、窓の外には赤く染まった空が静かに冷えようとしている。
 何度目かのノックの音で、ようやく彼女は誰かが外に来ていることに気づいた。てっきり女将だと思っていた彼女は、裸足のまま一足飛びにドアノブに辿り付いた。
 「はい、…あらっ」
あるはずの場所に訪問者の顔が無い。
 「ここじゃ、下じゃ」
声のままに見下ろすと、赤ら顔の老人がにこにこと手を振っている。「あんたかい、チェスがしたいというのは」
 「あ、あの、」
 「下で待っとるよ。都合がよくなったらおいで」
 「すぐ行きます!」
元気のいい娘だ、とルベットは思った。ここで若い女の子を見るなんて、一体何年ぶりだろう。
 老人が協議の間へ続く廊下をまだ歩いているうちに、ユーフェミアは靴を履いて追いかけてきた。宿の廊下には何時の間にか点々とランプが灯されている。ホールのほうからは、酒盛りの騒ぎや、それに応じるイザベルの威勢のいい声が交じり合って響いてきた。
 再び訪れた”協議の間”にも、昼間は気づかなかった柱のランプが灯されている。四方から照らされて、部屋の真中の丸テーブルの足元には、長い影が幾つも出来ていた。すっかり日の暮れた海からゆるやかな潮風が崖の上までせり上がってきて、ホールを静かに満たしている。
 「さあ、お座りなさい。」
ルベット老人に言われて、ユーフェミアは、彼女には小さすぎる椅子におずおずと腰をおろした。整然と並んだチェスの駒を、不安げに眺めながら。
 「あんた、チェスは初めてかね?」
 「実を言うと、あまりやったことはないんです。基本的なルールは分かるんですが」
 「けっこう、けっこう。間違っても誰も怒りはしないよ、もちろん駒たちもね。それでは始めようかな」
ルベット老人がそう言って腰をおろすなり、驚くべきことが起きた。それはあまりに唐突だったので、ユーフェミアは驚いてテーブルに足を引っ掛けるところだった。
 「ご存知かな、お嬢さん」
素直な反応に気をよくしたルベットは、にっこり笑って駒をひとつ、手にとった。
 「戦士たちはふだんは眠っていて、戦いが始まると、はじめて目を覚ますんだよ」
チェスの駒たちが彼女の目の前で突然カタカタと動き始めたのだ、ルベットの手の中の小さな騎士は、今にも敵に斬りかかりそうに剣を振り上げたところだ。永い眠りから目覚め、唐突ら命を取り戻した人形たちが、狭い盤上の向こうとこちらとで向かい合い、火花を散らしている。
 「すごい、すごい!」
ユーフェミアは興奮のあまり、しばらく駒を手にすることも忘れて目を輝かせていた。「お祖父さんの言ってたとおりだ…!」
これを見て、ルベットも嬉しくなってきた。
 「さあ、駒を進めるといい。そちらの番だ」
 「はいっ」
いざ戦いが始まってみると、謙遜とは裏腹に、ユーフェミアの腕前はなかなかのものだった。最初は手加減するつもりだったルベットもだんだん本気になってきて、しまいに身を乗り出すようにして真剣に駒の動きを考え始めた。盤上で駒たちが甲冑をガチャガチャ鳴らし、杖を振り回しながら決められたマスを動き回る様は楽しく、時間はあっという間に過ぎていった。



 次の朝、探索に出かける宿泊客のために弁当と朝ごはんをこしらえようとホールへ出てきたイザベルが見たは、カウンターの端の席でやや疲れたような顔をして腰を下ろしているルベットの姿だった。
 「なんだいルベット。あたしより早起きするなんて、珍しい。」
 「夕べから寝ておらんのだよ」
老人はひとつ、あくびをした。「あのお嬢さんに付き合って、明け方近くまでチェスをやっとったんでね。あんたが起きてくるのを待っておった。熱いコーヒーを一杯と、カリカリに焼いたパンの耳をおくれ」
イザベルは呆れたようにため息をつくと、カウンターの奥のキッチンに向かった。
 「今日は出かけるのはよして、部屋で寝ちゃどうだい? 毒キノコの中に頭つっこんだまま寝込んじまったら大事だよ」
 「ま、そうもいかんのでな。少しばかり仕事をしてきて、今日は早めに切り上げよう。それにしても、あの子は実に元気がいい」
 「若いからね。――だけど、そんなに夢中になってたのかい」
 「ああ、それにチェスも強い」
ルベットは、にやにやと笑った。「一度も勝てなかったよ。」
 「それで、ムキになって朝までやってたんだね。まったく、負けず嫌いなんだから」
湯を沸かしながら、イザベルは、ふと―― 手を止めた。
 「だけど、ルベットが勝てないなんて、珍しいね。よっぽど強いのかね」
 「或いは、こっちの手が読めてるか、だ。」
一瞬、二人の目が合った。
 「あの子、ひとりで此処へ来たんだって? 霧もまだ晴れ切らないこの時期に」
 「そうだねえ」
コーヒーの蒸れる匂いを嗅ぎながら、ルベットはうっとりと目を閉じた。
 「だけど、何にせよ、あのチェス駒にあんなに真剣になってくれるなんて、嬉しいね。たまには使ってやらないと、あいつらも退屈する」
 「冬の間は、二階に長期滞在してる連中のいい退屈しのぎになってたじゃないの。そろそろ、霧も晴れて夏になる。仕方ないさ」
 「ああ、今年はだいぶいたね。去年の秋口にやってきて、そのまま居残ってた連中が。――しかし、あいつらはただの財宝狙いの連中だろう。駒もただの道具としか思っとらん」
イザベルは、深めのソーサーに湯気の立つ黒々としたコーヒーをたっぷり注いでカウンターに置いた。薄く切って焼いたパンの耳も一緒に。そして自らは焼いていない残りのパン生地を丸めて口に放り込みながら、目玉焼き作りに取り掛かった。
 「<アスガルド>に入り込む連中の数は昔より増えとるらしいが、この宿まで辿り着く連中は増えも減りもしない。それも中身を見れば、大したこともない。昔ほどイキのいい連中は少なくなった。」
 「しょうがないさ、今じゃ<ハイランド>のほうまで鉄道が通ってるっていうじゃないか。世界の果てと言われた<ブルーエンド>だって観光客で大賑わい。ここも、もう時間の問題だよ」
言いながら、イザベルはフライパンを振って、器用に目玉焼きをひっくり返した。「いつか、ここだって、あそこだって、みんな連中にとられちまう」
 「そして世界は二度滅びる…か」
 「それが運命ならね。」
それきり、会話は途切れてしまった。イザベルは弁当作りに忙しくなり、ルベットはルベットで、半分眠りながら朝飯のパンの耳を齧っていたからだ。
 その頃ユーフェミアは、自室に帰ってきたものの、まだ眠る気になれず、ぼうっとしたまま、ベッドに横になっていた。
 カーテンの向こうから、朝を告げる鳥の声が聞こえてくる。空は白み始め、海は闇から浮かび上がる。ベッドのサイドボードには、書き散らしていた手帳が、ペンを挟んだまま置き去りにしてあった。おもむろにそれに手を伸ばすと、彼女は書きかけのページをめくって、新しいページにペンを走らせ始めた。頭は不思議と冴えている。ずっと見たかった光景―― ようやく、目の当たりにすることの出来た興奮と共に、彼女の精神は恍惚の中にあった。ペンは止まることなく走り続け、次々と浮かんでくる素直な驚きと喜びを言葉の羅列として書き綴っていった。
 日が昇るのもお構いなく、集中力が途切れて力尽きるまで書き切ると、彼女は、手帳を枕元に半ば放り投げるようにして置き、糸が切れたかように、そのまま寝入ってしまった。



 イザベルが次にユーフェミアと会ったのは、昼の少し前。ルベットが外から戻ってきて、昼食も断って、大あくびしながら部屋へ戻っていった後のことだった。前日にユーフェミアが宿を訪れたのと同じくらいの時間で、ちょうど唐辛子を糸につないで天井からつるしている作業の真っ最中だった。
 ばつが悪そうにホールの端っこでもじもじしている少女に気づいて、イザベルは、はしごの上から声をかけた。
 「おはよう、お腹が空いてるかい? 何か作ろうか。」
決まり悪そうに、ユーフェミアは頷いた。
 「すいません… こんな時間に」
 「男衆なら面倒だから皆と同じ時間に起きて来いって言うとこだけどね。気にすることはないよ」
はしごを片付けながら、イザベルは、少女の指にインクの染みがついているのを見逃さなかった。ただ疲れているだけではなさそうな顔色の悪さにも。
 「そうだ。あんた、あとで勝負してみない」
 「えっ?」
 「今日は時間があるからね。あたしも少しはチェスが出来るのよ」
ユーフェミアは、半ば反射的に頷いた。
 その日は、よく晴れて雲ひとつなく、風もほとんど吹いていなかった。
 ”協議の間” の丸テーブルは、昨夜と同じ位置に取り残され、駒たちは静かに眠っている。部屋を囲む柱の向こうには、鏡のような海が広がっていた。
 ユーフェミアは、昨晩自分が座っていた椅子の前で、目の前の盤を眺めた。ゲームを始めると命を吹き込まれたように動き回る駒も今は動かない。高い、円盤状の天井には、−−昨日は気づかなかったが、すっかり色の落ちた、何かの絵が描かれていた。そのまま視線を動かすと、天井は狭い入り口のある崖にめり込んで終わっている。まるで崖に侵食されてしまったかのように。
 この宿そのものが崖と一体化して作られていて、”協議の間”は、崖の中をくりぬいた道を通って突き抜けた場所にあるのだ。その崖自体、ところどころ深い溝が刻まれていて、奇妙な波状の模様が浮き上がっている。上のほうは霧に覆われているが、波状の筋は上に向かって収束しながら不規則にうねうねと続いている。
 唐突に、彼女は気がついた。――今見ているものは、崖ではない。

 大樹の根っこなのだ。

 遥かな大昔ここに生えていたという「世界樹」の、半ば化石化した巨大な根っこ―― この宿は、そのふもとに抱かれるようにして建てられているのだった。
 「お待たせ。…おや、どうしたんだい」
 「これが樹だって、いま気がついたんです」
ユーフェミアは、手すりから身を乗り出さんばかりして頭上を眺めていた。
 「昨日は全然気がつかなかった。ただの崖だと…。こんなに大きいものだったなんて」
 「霧が晴れる夏には、遠くから見ればもっとよく分かる。その頃になると、<エンドブルー>には沢山の観光船が出る。そこから見える水平線が船で一杯になるのさ。もっとも、ふもとまで来る客は、そうそういないがね。」
イザベルは、藤いすに腰掛けた。
 「さあ、始めようか。久しぶりだから、やり方を駒に聞かなくちゃならないね」



 小一時間後、戦いはあっさり終わっていた。結論からいくと、ユーフェミアは他愛もないミスを重ね、イザベルのほうは苦せず勝利を手に入れた。
 「あんた本当に、昨夜はルベットに全勝したんだろうね?」
 「はい…。あのときは、調子が良かったんですけど」
密かに少しばかりの自信を持ちかけていたユーフェミアはしょんぼりしていて、駒たちもそれは同じようだった。「イザベルさんが強すぎるんです」
 「それはないよ。相性の問題かしらねえ」
 「そうかも」
力なく笑って、彼女は肩をすくめた。
 「この辺りへ来てから、何だか不思議な気分なんです。懐かしいような、よく知っているような…。昔から、時々あったけど、これから見える風景が分かるような気がすることがあるんです」
 「お祖父さんが遺した記録を知っているからじゃない? 何か書き残してたんじゃないの、ここについて」
 「いえ。祖父も―― 詩人でしたから」
そう言って、彼女は歌うようにこう続けた。


  太古に生まれ、大地を此処に繋ぎとめた恐るべき威容
  九つの世界、九つの根を地の下に張り巡らせた名高い、かの世界樹を、
  私は昨日のことのようによく覚えている



 「万事が、こんな感じです。日記なんてものじゃありません、詩なんです。読んでみても、ほとんどは、何のことだかさっぱり…」
 「宿のすぐ側に、樹の根元から続く洞窟の入り口があるんだよ」
と、イザベルは言った。「太い根っこが腐って無くなって、その跡が空洞になってるのさ。大きな道は、全部で9本ある。うちのお客は、大抵、そこに潜って何がしかをしてる。あんたのお祖父さんが言ったのは、そのことだろう。」
 「まるで暗号文ですね」
そう言って、彼女は笑った。「ここに来たのは、意味を知りたかったからでもあるんです。その、暗号みたいな詩の。…具体的に描かれていたのは黄金のチェスのことだけでした。それが本当にここにあって、誇張じゃなく”生きて戦う”ものだと分かったから、…祖父の書いていたことは、夢物語じゃないと証明できたと思いました。」
一気に言ってしまってから、ユーフェミアは少し赤くなった。
 「すいません、一人でこんな話を」
 「気にしないことだよ。お客の話を聞くのも、あたしの仕事なんだから。話し相手がほしければ、いつでも声をかけてくれればいい。聞きたいことがあるんじゃないのかい? あんたのお祖父さんが書き残したことで。」
 「いいえ、今は、まだあんまり。…それより、もう一度、勝負しませんか。コツが分かった気がするんです」
 「いいよ。あとひと勝負くらいなら、時間はありそうだから」
そこで二人は、再び勝負に取り掛かった。この不思議なチェス盤では、黄金の駒たちは、新しい勝負が始まる前には、めいめい勝手に元の場所に戻り、ひとりでに整列して待っているのだった。
 勝負が始まった。今度はユーフェミアも慎重に駒を進め、勝負はおいそれとは付きそうには無かった。イザベルは迷わず駒を進めていたが、ユーフェミアは時々、ひどく悩ましげな表情になることがあった。そして考えながら駒の一つを手に取ったとき、―― 何かの弾みで、指先が滑って、駒が床に零れ落ちた。石の床に当たって金の駒は、カツーンと高く澄んだ音を立てた。
 「あっ」
その瞬間、彼女の顔が青ざめた。ユーフェミアは上ずった声で、腰を浮かしながら、反射的に何かの詩をそらんじた。


 金の戦士が高き御座から落ちるとき
 大地は振るえ、大樹はおののき揺らぐだろう



ぐらっ、と足もとが揺れたのは、まさにその直後だった。大地が揺れ、チェス駒たちが飛び跳ねるように踊る。
 「地震!」
 地震はそれほど大きくなく、すぐに終わったが、揺れが収まっても少女はまだ動けないでいた。小さく震えて、その手には拾い上げた駒が握り締められている。
 「大丈夫? いくら海に突き出してるからって、この部屋は簡単に崩れ落ちたりはしないよ」
 「いいえ、そうじゃありません。私、…また」
 「占いだって、たまには当たるんだ。予言が当たることもある」
 「でも違うんです。いつも、そうなんです」
いつしかユーフェミアは涙ぐんでいた。「時々、普段とは違う感じで言葉が浮かんでくることがあるんです。それは本当に起こってしまうこと。子供のころ、書き留めるからいけないんだと思ってたけれど、そうじゃなかった。…あいまいな意味だから、起こってしまったあとに意味が分かることもあるんだけれど、今のはきっと、そうだと思いましたから」
イザベルは、手を貸してやってユーフェミアを立たせ、この混乱している少女の背中を優しくなでた。
 「誰も、その力を悪く言ったりしない。悪いことをしてるわけじゃないんだから。不思議も魔法も、ここじゃ当たり前のことなんだよ。あんたは、人に呪いかける悪い妖精にはならないよ。運命を告げる女神は、人に幸運をもたらすものさ」
 「そんなことが出来るんでしょうか」
 「いい方向に使えればね。」
ユーフェミアは真剣な顔になった。
 「今の詩には、続きがあるんです。…」

 夜を一つ越えたあと
 太陽が天の高みへ昇るとき
 大地は残りの息を吐き出して、大きく欠伸をするだろう



 その日の夜、九つの道から戻ってきた宿泊客を前にイザベルは、明日は日が悪いとか地震の後で地盤が脆くなっているとか、いろいろと理由をつけて、一日出掛けないようにと厳しく言いつけた。それでも納得しない連中には、弁当も夕飯も作らないからそのつもりで、と脅しをかけて。常連の宿泊客たちは、宿の主が突然の思いつきで何かを言い出すのには慣れっこだったので、特に不満も言わず大人しく受け入れておいた。この地方に長く住み着いている女将の言葉だから、とくに理由がなくても逆らわないほうが良いことが多いからだ。そういう事情にまで気が回らない新参の何人かは不満げだったが、だいたいは、ぶつぶつ言うばかりで特に逆らいはしなかった。
 イザベルは余計な説明もせず結論だけを言うタチだったが、ただ一人、付き合い長いルベットにだけは、あとで本当の理由を打ちあけておいた。
 「揺り戻しとか余震とかいうやつだね、それは」
博識なルベットは言った。「地質学者がそんな言葉を口にするのを耳にしたことがある。地震ってやつは、たいてい何べんか続けざまに起きるものなんだそうだ」
 「なんだい、科学的な根拠があるんなら早くそう言っとくれよ。学者連中が納得しないときは、ルベット、あんたに説得をお任せするからね」
 「そりゃ構わんが。あのお嬢ちゃんの”予言”を信じるなんて、一体何があったんだい」
イザベルは、笑ってこともなげにこう言った。
 「あたしの見立てが正しけりゃ、あの子は本当に、ちょっとした詩人なんだよ」
その夜、ユーフェミアは今まで書きなぐってきた様々な詩を見返しながら、まんじりともせず夜を明かした。これが本当に、現実になるか、あるいは、もうなってしまったものなのかといぶかしみながら。
 自信が無かった。
 けれど、彼女はこれまでになく、心穏やかな気持ちだった。これから起きるかもしれないことを告げると、大抵の人は笑い飛ばすか、半信半疑のままでいた。悪い事が起きれば原因を負わされ、良いことがおきてても気味悪がられるだけなのに、初めて最初から信じてくれる人が現れたのだ。
 ユーフェミアは手帳を閉じて窓の外を振り返った。イザベルが頭に巻いているのと同じような、ごわごわとした布地の分厚いカーテンの向こうに、暗い海が静かに揺れている。ここへ来てから、何かが変わろうとしている。――それが何かは、今はまだ、分からないが。



 翌朝、ユーフェミアは初めて宿の宿泊客たちを見た。
 ごったがえすホールに幾つかのグループが出来、めいめいに時間を過ごしている。それも、グループごとに違う世界の住人ほどに雰囲気が違っていて、あちらはにこやかに話し合う観光客、こちらは学者連中の討議場、向こうには胡散臭そうな連中が朝から賭け事に打ち興じている、といった具合だ。
 「お嬢さん、お嬢さん」
ぽかんと立っている彼女に気づいて、ルベットがちょこちょこと寄ってきた。「こっち、こっち」
 小柄な老人は、椅子とテーブルの間を器用に掻き分けてユーフェミアの腕を引き、薄暗い定位置に収まった。カウンターの向こうから、イザベルが声をかける。
 「おはよう、朝ご飯は昨日と一緒でいい?」
 「はい、あの…」
イザベルは、昨日ユーフェミアの言った予言を信じて、お客たちを一日、宿に留めておくと言ったことを本当に実行したのだ。もし、外れていたら、どうなるだろう。今日ではなく明日だったら? ユーフェミアは、突然、恐ろしくなって呟いた。
 「何も起きなかったら、どうしよう…」
 「それだったら、良いことじゃないか。文句言う奴はいるかもしれないけど、ここじゃ、何が起きるか分からないからね。」
ユーフェミアの前には、目玉焼きと焼いたトースト、ホットミルクが出された。見ると、隣のルベットは濃いコーヒーにパンの耳をかじっている。野菜は一切なし。
 お客の朝食のメニューは各自異なっていた。朝から酒を飲んでいる連中もいれば、紅茶、水の客もいる。どうやら女将のイザベルは、客一人一人の好みを覚えていて、作り分けているらしかった。
 「色んな人がいたんですね、ここ」
 「まあ色々だね。都会のカフェなんかじゃお目にかかれない光景だろうよ。わしはもう何十年も都会には出とらんが。」
ルベットは、そう言ってコーヒーカップを持ち上げた。「大学教授にお金持ち、賞金首に盗掘者。なんでもござれだ、この<黄金のチェス亭>はね。お互いが気になるなら名乗りあえばいい、そうしたくなきゃあ、誰とも会わずにいることだって出来る。」
 「おかみ、酒のおかわり!」
奥のほうから誰かが大声で叫んだ。
 「はいよ! まったく、朝っぱらからアイツらは…」
ぶつぶつ言いながらも、イザベルはデカンタに注いだビールを運んでいく。その様子に眉をしかめた身なりの良い人々が、何も言わずにそっと席を立つのを、ユーフェミアは見逃さなかった。(背が高いお陰で、そうした隅々までよく見える)
 朝食が終わると、人々は三々五々、部屋に戻って行った。表へ出ないのは、イザベルが厳しく言い渡してあるからだ。そうして、まだホールにいるのはルベットと、飲んだくれている連中だけになった。
 ユーフェミアは、天井に近い丸窓にちらちら目をやっていた。光の加減が変わり、太陽が天頂へ差し掛かる。もうそろそろ、その時刻だ。
 だしぬけに、それはやってきた。
 床の下から突き上げるような衝撃、ごおおっと唸るような音が耳をつんざいて、立っていられないような揺れが襲ってきた。ホール全体が揺れ、どこかで陶器の落ちて割れるような音。声を上げることすらままならず、ユーフェミアはカウンターの下に座り込むのが精一杯だった。ルベットはカウンターにしがみついて、椅子ごと転げ落ちないようにしている。
 1分か、2分、あるいはそれ以上にも感じられる時間が過ぎた。
 やがて揺れが収まったとき、ユーフェミアは、もうもうとほこりの舞うホールの片隅に、尻餅をついたような格好で座り込んでいた。
 にわかに二階と、奥のほうが騒がしくなった。お互いの無事を確かめあう声、窓が割れたとか腰を打ったとか、そんな叫び声も聞こえる。はっとしてルベットのほうを見ると、小柄な老人は団子のようになって、カウンターの上によじ登っていた。
 ユーフェミアが手を貸して床に立たせてやると、老人は哀れなほど小さな声で礼を言って、額をぬぐった。
 「やれやれ、なんという災いじゃ。地下に潜っておったら、こりゃあタダじゃすまんかったぞ」
言ってから、彼は、まだ呆然としている少女に笑いかけた。
 「あんたのお手柄だな」
 「…はあ」
 「ちょっと、ルベット!」
台所の奥から、イザベルが顔を出した。「二階で腕を切ったって大騒ぎしてるお客がいるのよ。看てやってくれない? あたし大事な酒蔵が無事か見てこなくちゃいけないから」
 「ああ、分かった、分かったよ。わしの薬草が役に立つんだな。行ってくるよ」
老人は、肩をすくめると、ユーフェミアの背中を叩いて、散らばった食器や椅子を器用に避けながら、軽い足取りで奥のドアの向こうへ消えていった。



 その日起きた地震は、南の岬のほうでがけ崩れを引き起こした、と、到着したばかりのお客が声高に話していた。遺跡のいくつかが地割れでひっくり返り、危うく遺跡の一部になるところだったという考古学者だった。町から続く唯一の道は無事で、倒木の引っかかっているところを除けば特に問題ない、とのことだった。
 ただ、<黄金のチェス亭>のすぐ側から大樹の根元に入り込む地下道の被害は深刻で、入り口からして崩れかかり、中は道すら見え無い状態だという。
 「本当に、あんたのお陰でみんな無事だったようなもんだよ。ま、怪我したお客はいたけどね。」
イザベルに言われて、ユーフェミアは真っ赤になった。
 「…ま、何もかもすべて分かっちまうのはつまらないものだけど。たまには、こういうのも気分がいいだろう?」
 「でもどうして、どうして、最初から信じてくれたんですか?」
少女の真剣な視線どぶっつかって、女将は困ったように微笑んだ。
 「商売柄、色んなお客を見てきたからね。あんたみたいな子は、初めてじゃないんだよ。」
 「えっ…?」
 「あんたは多分、ヴァニールの子孫なんだよ」
 「…ヴァニールって、何ですか?」
 「知らないのかい。まあ、知らないのも無理はないかもね。東の国からやってきて、この辺りに住んだ大昔の巨人族のことさ。巨人といってもね、背が高いくらいのものだ。外見じゃあ区別はつかないよ」
 「でも私、人間です」
 「人間さ、まあ人間みたいなもんだ。少しばかり特別な力を持ってるばかしのね。ヴァニールの女は、程度の違いこそあれ、たいていが予知の力を持っていたんだよ。彼らは詩で未来を語ったんだ。今のあんたのようにね。」
ユーフェミアは、自分の両手を見下ろした。
 「考えてみなかったのかね? 何故、あんたがここまで、たった一人で無傷でやってこられたのか。あんたは今までにも、無意識にも物事の先を読んでいたはずさ。ルベットとのチェスにも、一度も負けなかったんだろう?」
 「わかりません」
少女は明らかに困惑していた。「そんなこと…考えたことも無いです。でも、もし、この力がずっと昔のご先祖様が持っていたものだとしたら、私がそれを持っていても、おかしくはないんですよね」
 「そりゃあそうさ、ある日とつぜん空から降って来たもんじゃあないし、悪魔の邪悪な贈り物でもない。生まれたときから持っている、れっきとしたあんたの”取り分”なんだから。」
イザベルは、悪戯っぽく片目をつぶって見せた。
 「ねえ、今日は三日目だけれど、あんた、もう少しウチの宿にいる気はある? もし、お店の手伝いをしてくれるなら、宿泊費なしで泊まっていいわよ。実は最近、お客の相手をするのに人手が足りなくってさ。あたし、丁度アルバイトの募集を出そうと思っていたところでね…。」


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