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多神教の善と悪とは


我々は、かなり自然に「神」や「悪魔」と言う言葉を使う。でも神とか悪魔ってのは一体なんだ。

そんな疑問をふと抱いたのは、エジプト本にいきなり「悪魔」という言葉が出てきたからだ。いやエジプト神話って悪魔いないし…。(汗) 邪悪なものをさす言葉はあるけど、悪魔なんて単語は無いぞ。
思うに、悪魔というのは、神に対する敵意を持つとか、人を間違った道に導くとかで、存在してはいけないもののことではないのか。神は善という存在だが、悪魔は存在自体が悪なのではないか…?

エジプト神話本で、よく「悪魔」と呼ばれるのはアポピスやセトだが、セトは神様なので「悪魔」でないことは明らかだ。アポピスも、神話上の役目があるため存在してはいけないものではない。となってくると、やはり、悪魔という言葉は不適切だろうと思う。エジプト神話の世界に悪魔はいない。というより、神と悪魔の対比という構図が存在しない気がする。


そもそも、「神」という存在自体が、神話ごとに違うのが問題だろう。
人に近い神がいれば、人と全く異なる存在の神もいる。人々に崇められる神がいれば、明らかに超自然的なのにも関わらず崇拝の対象にはなっていない髪もいる。GodというよりSpiritな神様もいる。

キリスト教やイスラム教などの神は絶対神だ。それ以外に同等の地位にある者は存在しない。したがって、神と同等の力を持つものはすべて、敵対者とならざるを得ない。悪魔がそうである。神に従うものは天使と呼ばれる。神は絶対であり、正しいのだから、天使は善だし悪魔は悪だ。

しかし、日本など多神教の国の宗教では、神は数多おり、便宜上の地位はつけられていても、基本的に同じレベルの存在は複数認められている。エジプトもそうだ。

一神教では「善=神」の位置は固定であるけれども、多神教では善は複数あり、極端に言うならば、神の数だけ答えが存在してよいことになる。したがって、敵対者は絶対の敵対者ではなく、善悪もまた、絶対のものではない。

もし穏やかで常に愛を説く神しか存在しなかったとしたら、当然、破壊は厳禁だし、争いごとが起きても、話し合いで解決しなければならない。善が画一化されることになる。
しかし日本には荒ぶる神がある。荒ぶる神を認めるということは、破壊や暴力をも認めているということになる。破壊のあとに再生がある、だからときには戦うことも必要だ、という思想に繋がっていく。

エジプトの宗教もそうだ。
神様がたくさんいるのだから、当然、その数だけ「正しい答え」が存在する。どの神に従うかによって、正しい行動が異なる、というよりは…自分の正しいと思う行動に同調し、支援してくれる神をこそ、守護神として選ぶのだろう。
特定の神によって与えられる正義を、全員が盲目的に信じているわけではない。

歴史を見ても、戦争による領土拡大を掲げた王は荒ぶる神であるセト神の信者であり、穏やかな融和を説くアテン神の信者であった王は戦いを放棄して国土と富の多くを失った。どちらが正しいというわけでもない。それぞれの信じた神の教えに従ったまでのことだ。

これが、神が一つであり、正義もまた一つだとする宗教、いわゆる”一神教”であれば、さきほど例として挙げた相反する2人の王の行為は、ひとつの正義のもとに裁かれ、それぞれに善いか悪いかの価値判断をつけられたことだろう。キリスト教世界を例にあげるなら、教会による正邪の認定が、絶対の価値判断になる。
同じ殉教者でも、認定されれば聖者の名を与えられ、認定されなければ魔女だ邪教崇拝者だの烙印を押されることになる。
(もっとも、この判断は時代ごとに変わることが多かったが。所詮は人間の判断である以上、「絶対」などありえないというわけだ。)

だから、絶対的な価値判断基準があってはじめて、悪魔は存在する。
多神教では悪魔は存在しようがない。確かに悪いものは悪いのだけれど、それが悪なのか、善なる神の一面なのか、破壊と再生をもたらす荒ぶる神なのか、という判断がつかないのだから、多神教であるエジプト宗教に、絶対悪である悪魔は存在できるはずがない。

冒頭で挙げたアポピスは、原始の水を飲んで太陽の船の運航を妨げたり、反乱をおこしたりと厄介な存在だが、罪を犯した人間の魂を処理するために必要な精霊とされている。もしアポピスがいなければ、冥界はまたたくまに罪人で溢れ返ってしまう。神に逆らった者に罰を与えるための「荒ぶる神」。それが、アポピスの正しい解釈方法ではないだろうか。

同じく、悪の権化のように言われているセト神もまた、神界のシステムには必要不可欠な存在である。彼はアポピス同様、太陽神に反乱を起こし、秩序をかき乱す存在だが、同時に、悪を制御する力を持っている、…と、言えるだろう。
太陽の船がアポピスに邪魔されたとき、その蛇をどかすのは彼の役目だ。そして、嵐や暴風など、激しい自然現象はすべて彼の手の内にあるものとされており、人の手ではどうしようもないことが起こったとき、人々は、それをセト神の怒りと考え彼に祈りを捧げていた。
恐れながら敬い、拒絶しつつ受け入れてしまう存在、それが、エジプト神話で言うところの「悪」である。一神教の「悪」は断固拒絶すべきものであり、魔女狩りや異教徒狩りをしてで追い払わねばならなかったのに対し、なんとも寛容ではないか。

善も悪も受け入れること、そのふたつに何の区別もないこと、これが多神教の大きな特徴と言えよう。それゆえに、多神教を持ったエジプト人はアナト・アスタルテなどといった外国の神をも受け入れ、同じく多神教であった我々日本人もまた、キリスト教から儒教から仏教から、あらゆるものを屈託なく取り入れられたのだと思う。

 「悪魔とは、絶対善が存在してはじめて生まれるものである。」


※アポピスは、アペピ、アーペプなどと呼ばれることもある。


■エジプト神話における「神」の定義についての考察

”古代エジプトの神々は、どういった基準で神とされるのか?”

これがまた難しい。

古代エジプトには、確認されているだけで何百という「神」がいる。物に宿る神がいれば、何かの象徴である神もいる。中には、本当に人間の役に立っているのかどうか、怪しいような神もいる。
わかりやすいところで、日本神話における「神」と「妖怪」の区別など、思い起こして欲しい。妖怪に近いような神様もいるわけだ…。

エジプトの神々は、日本の八百万の神々と同じ感覚で存在するように思う。
神社があったら、主にご近所の人があがめている。縁日になったらお祭りをして人がたくさん集まる。それ以外の時は願い事があるときだけお参りに行く。有名な神社になると、遠くからも参拝客が来て毎日にぎわっている。それぞれの神社に奉られた神様には、得意な分野というものがあり、恋愛の神様や、学業の神様、出産、育児、医療、農業…と様々に分かれている。

ひとつの神殿に複数の神が奉られていることがあるし、境内の中に、稲荷神社が付随していることもある。神殿の形式は祭神によって少しずつ異なる。
極楽浄土を夢見て、足しげくオシリス神殿に参拝するご近所のおじいちゃん、おばあちゃんなど、想像してみてほしい。オシリス神殿の横っちょに、稲荷神社ならぬマアト神殿などがくっついているのだ。日本にある赤い鳥居のある神社のイメージを、入り口に旗の立てられた石造りの神殿に変えると、そのまんま古代エジプトの”神々のいる風景”のイメージが出来上がる。

もちろん日本とエジプトでは違うところも多くあっただろうが、基本的なところはずいぶん似ていると感じられる。


日本の妖怪が、たとえばカッパに対する感情と似たような思いを、古代エジプトの人も抱かなかっただろうか。
たとえば、河に棲むカバの姿を持つ神々に…。
災いをもたらす悪しきものとされながら、同時に、母性の象徴としても扱われる、トゥエリス女神のように。

日本の神社に、「荒ぶる神を鎮めるため、封じるため」という目的があったように、古代エジプトの神殿にも、特定の神や、その土地の災いを鎮めるためのものがあったかもしれない。
セトは前の王を殺害し、王位を奪う者だが、同時に、新たな王に試練を与える神でもある。また、国が危機に陥ったときは、その荒ぶる力を国外からの脅威に向け、災いを打ち払うとされていた。
一方的に、人間を守護し、祈りに答えるだけが、神の神たるゆえんではない。平和主義の神しかいなかったら、アクエンアテンの時代のように、国を衰退させるだけで終わってしまう。
危険なように見える神にも、その神にしか勤まらない役目はある。
人々は、セト神のような乱暴な神も必要とし、崇めることを拒まなかったのではないだろうか。

エジプトの神々は、じつに多彩なものを象徴している。
河や土地、空といった自然だったり、気高さや強さといった概念だったり、まさに万物の中に神々は、いる。


基本的に、古代エジプト人は、悪しきものがそのままの形で存在することを許さなかった。
色とりどりに装飾された、美しい壁画を見渡したとき、そこには、存在すべきではない風景は、基本的に描かれなかった。壁画に描かれたものはすべて、存在してよいとみなされたものだと考えてよい。サソリは尾の先の毒針を抜いた姿で描かれたし、獣は縛って描かれた。
永遠を望んで、石造りの建物をつくり、壁画を刻んだのだから、悪しきものまで永遠に存在させてしまってはマズい。というわけだ。

つまり、現代人が知っているもの、壁画やその他の図として姿や名を残されたものは、妖怪のようなものであろうと、神であろうと、アメミットのような、死者の心臓を食らってしまう恐ろしい存在でも、すべて、古代エジプトの人々にとって必要で、存在すべきものだったのではないかと思う。

日本神話の神と妖怪について、どういう基準で分かれたのか明確に言うのが難しいように、古代エジプトの神々も、やはり明確に表現することが難しい。だが、存在すべきものとして、人々に受け入れられていた存在である、という点においては、区別をつける必要はあまり無いかもしれない。そして、古代エジプトの人々には「妖怪」というような、神から一段格下げされた概念は無く、すべて「神」として位置づけていたかもしれない。

だとすれば、今我々の知っているものはすべて「神」であって、「神ではないもの」は既に存在しないのかもしれない。


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