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「ツタンカーメンの呪い」とは?



「ツタンカーメンの呪い」は幾度となくテレビ番組に取り上げられ、21世紀の今も、娯楽的な意味合いの強い大衆雑誌にもおどろおどろしく掲載されることがある。だが、実際、そんな呪いなどというものが存在するのか? オカルト好きな人なら「ある」と本気で思っているかもしれないが大半の人は「常識的に考えて無いだろう」言いながら、心の何処かで「もしかして…」と思っているだろう。

まともに古代エジプトについて考え、ツタンカーメンについて調べたことのある人なら、「ツタンカーメンの呪い」伝説の大半がデッチ上げで、迷信にすぎないことを知っている。
しかし、もしも呪いが存在したとしても、その呪いは存在「した」、と、過去形で言うこともできる。なぜ終わってしまったと言えるのか。それは呪いが存在したとしても、既に、犠牲者を得て満足しているはずだからである。
現在、ツタンカーメンの遺体はガラスケースに入れて王家の谷に展示されている。私も実際に見に行ったが、特に呪われてはいない。思っていたよりもミイラは小さく、痛みが酷いせいか威圧感もなく、粗末な寝床に憐れみさえ覚えた。

内容をよく知らないから不思議に思えるのだし、イメージだけで語るから存在しないものが存在するようになる。
「呪い」伝説がどのようにして生まれたのか、またその内容がどんなものだったのかを、簡単に概要を紹介する。



まずは、発掘にたずさわった主な人物ふたり。
この伝説の主役であり、ツタンカーメンという名前とともにセットで耳にすることの多い、「カーナーヴォン卿」「ハワード・カーター」について、略歴を挙げる。


カーナーヴォン卿

カーナーヴォン伯爵家の5代目。1866年6月26日生まれ。ツタンカーメン発見時、41歳。30歳前半の頃、自動車事故で半死半生になり、人生について考え直すようになる。1903年、医師のすすめでエジプトへ渡り、古代エジプトに興味を持ち始める。

1906年、エジプト政府から「王家の谷」の発掘許可をとり発掘を開始するが、
知識が足りず失敗。専門家の力を借りようと探していたところ、知人からカーターを紹介される。


ハワード・カーター

ノーフォーク州ケンジントンに生まれた水彩画家。正規の教育は一度も受けていない。
17歳のとき、エジプト出土品のヒエログリフを正確に模写して記録するという仕事を紹介され、イギリス人エジプト調査団の隊員になる。彼は現地でエジプト学を修めたが、1903年、遺跡にやってきたフランス人グループといざこざを起こし、謝罪を拒んだことでイギリスとフランスの国際問題になりかけ、調査団を解雇される。
1907年、カーナーヴォン卿と出会い、考古学顧問になる。



この二人がツタンカーメン王墓「再発見」の立役者たちである。
カーナーヴォン卿らがツタンカーメンをはじめ、新王国時代の王たちが眠る「王家の谷」での発掘許可を手に入れたのは1915年、ツタンカーメン王墓が発見されたのは1922年の末のことである。

当時のエジプトはまだ、遺物を国外に持ちだしてはならないという法律がなく、盗掘まがいの方法での「発掘」が各地で行われていた。
彼らが発掘許可を手に入れる頃までに、王家の谷はあらかた掘り尽くされていた。大半の墓は、古代の盗賊たちや、財政の切迫した時代の王たちによって取り去られ、出土したものは少なかった。ツタンカーメン王墓発見のきっかけは、それら見つかった数少ない遺物の中に、ツタンカーメンの名を記したものがあったからだ。
つまりカーターは、何も無いところから奇跡的に未知な王を発見したのではない。最初から、当時まだ発見されていなかった、ツタンカーメンという名の王の墓を探すつもりでアタリをつけて取り組んでいたのだ。

だが、必ず存在すると信じていても王家の谷は意外に広い。発掘する範囲を絞っても、なかなか発見は訪れなかった。発掘に莫大な資金が要ることから、パトロンであるカーナーヴォン卿は、1922年の発掘を最後のシーズンと考えていた。発見がその最後の年だったことは、繰り返しドラマティックに語り継がれている事実だ。



■蛇に飲まれたカナリヤの話

まずは、ここでツタンカーメンの呪い伝説によく出てくる、「カーターの飼っていたカナリヤが蛇に飲まれた」という話でうる。

カーターは、1922年の10月末、発掘現場にカナリヤを持ち込んでいた。カナリヤを見慣れない現地の人々は、美しい声でさえずるこの鳥を「黄金の鳥」と呼び、幸運の象徴だと歓んだ。
果たして、その鳥を持ち込んだすぐ後の11月5日に、ツタンカーメンの墓が発見される。
もちろんカナリヤが素晴らしい幸運の運び手として、以前にも増して大切にされたことは想像できる。

そのカナリヤが、墓の発見直後にコブラに飲まれてしまったわけだ。コブラは古代エジプトの王家の象徴だし、そうそう谷間にいるものでもない。現地民はひどく怯えたというが、この時点では、まだ、広く知れ渡る呪いではなかった。
小鳥一羽では、世界の人々にはさして大きなインパクトをもたらさなかったようだ。



■カーナーヴォン卿の死

死は、人に及んで始めて世界の噂となった。
「ツタンカーメンの呪い」伝説は、正確に、発掘にたずさわった二人のうち一人、カーナーヴォン卿が死んだときに始まる。

1923年4月6日、カーナーヴォン卿は発掘現場で蚊に刺された傷から伝染病にかかり、敗血症で死亡する。
ツタンカーメン墓の発見から、半年もたたないうちの出来事だった。
カーナーヴォン卿が死んだ瞬間、カイロじゅうの電気が消え、その原因は突き止められなかったという。
また、カーナーヴォン卿の息子によれば、カーナーヴォン卿の愛犬が、悲しげな吼え声とともに、飼い主と同時に息絶えたのだとも言われる。

これにより、世界の新聞が卿の死はツタンカーメンの呪いだと書きたてはじめ、どんなに打ち消そうとしても、ウワサはとどまることを知らなかった。

カイロで停電が起きたこと、また犬が息絶えたことについて、それがいかなる状況だったのか細かいことまでは検証できない。
卿が息絶えた、まさにその「瞬間」に、それらの出来事が起きたのかどうか、誰に分かるだろう?
それは誰にも分からない。当時のカイロは電力の供給が不安定で、停電も頻繁に起きていたようだ。頻繁に地震の起きる日本で、誰かが死んだ瞬間に地震があったからといって、その人の死が地震と関係あるなどと誰も思わないだろう。犬が死んだのも偶然かもしれないし、あるいは獣特有の虫の知らせで、主の死を察知したのかもしれない。

ただ、確実に言えることがある。健康だった人間が突然死んだのではなく、既に病気の老人が亡くなったのだということだ。
カーナーヴォン卿は、エジプトで病にかかり、そのままカイロで床に伏していた。と、いうことは、当時のエジプトの、おそらくイギリスとは比べ物にならない程度の医療施設で治療を受けたことになり、それがカーナーヴォン卿の死に直接、関係している可能性がある。

ただし、当時の状況は、当時生きていた人の記憶に頼るしか、すべがなく、いずれも証拠不足である。



■他に死んだ人は?

実は、本来、ツタンカーメン王墓にまつわる直接的な呪いの話は、ここで終わっていた。
他には何もミステリアスな出来事はなく、死んだ者もいない。

当時、"ツタンカーメンの呪いによって"死んだ、とされて列挙された人々は、すべて「でっちあげ」であったことが、すでに当時の新聞で暴露されている。
ただエジプトを旅行しただけで、ツタンカーメンの墓に立ち寄っていない者でも、死因が交通事故であっても、エジプトに来る前から病気であった者でも、すべて呪いの犠牲者として数え上げられたのだ。
カーナーヴォン卿のほかに、ツタンカーメン王墓発掘にたずさわって急死した者はいない。これが事実だ。

ちなみに、ハワード・カーターは1933年、ツタンカーメン王墓の発掘が終わった次の年に病気にかかり、1939年に60代で死んだ。当時としては短すぎる生涯ではない。呪いがあったとするならば真っ先に呪われるべき、発見者であるカーターが長生きしている事自体、呪いの効力が伝説に語られるほど手当たり次第ではなかったことを証明している。



■呪いが流布した3つの理由

では、いったいなぜツタンカーメンの呪いなどという伝説が流布してしまったのか。


1.情報が少なすぎた

カーナーヴォン卿とハワード・カーターは、イギリスの新聞大手「ロンドン・タイムズ」誌と独占契約を結んでおり、他の新聞には(たとえ地元エジプトの新聞社であっても)情報を流さなかった。世界中の新聞各社は、タイムズに何がしかの契約料を支払って情報を買っていたのである。

呪いについて書きたてた各国新聞社は詳細な情報を持っておらず、しかも、何か情報のおこぼれはないものかと、しじゅう発掘の動向に眼を光らせていた。カーナーヴォン卿の突然の死は彼らにとって紙面を飾る最高のニュースだったはずで、しかも情報が少ないとあっては、空想で埋めつつ、よりセンセーショナルにデッチあげを書き立てるしか無かったのだとも考えられる。


2.エジプトに対する興味と無知

ヒエログリフが解読されたのは19世紀前半。そして20世紀初頭の、ツタンカーメン王墓発掘に至るまでの時期というのは、イギリスなど列強国の金持ちたちが、宝探しの感覚でエジプトの各所を掘り返していた時代でもある。

当時は、金持ちたちによって海外に持ち出されたおびただしい美術品、パピルスなどが博物館に並び、興味を集めていた時代。人々のエジプトに対する興味は高かったが、今のように簡単に読める一般向けのエジプト本が溢れているわけでもない。民衆は、興味はあるが無知だった。エジプトに対しては、何かエキゾチックで神秘的な異国、というイメージしか持っていなかったのではないだろうか。
そのイメージの中で、ファラオの呪いという妄想が膨らみ、染み付いていったと思われる。


3.有名人の煽動

シャーロック・ホームズのシリーズで知られる作家、コナン・ドイルは、自分の小説の中のヒーローと裏腹に、理性のネジが二三本抜けているオカルティストとして知られていた。たとえば、明らかに紙に書いた絵に過ぎない妖精の写真を見て、これは本物の妖精だと断言するくらい、目の前の出来事に対する判断力が乏しかった。

だが、コナン・ドイルが「フォラオの呪いはある!」と断言してしまえば、一般人の多くはまず信じるだろう。細○数子が「アナタ死ぬわよ」と言ったら本気で信じてしまう人がいるのと同じようなものだ。
そういった有名人による煽動も多く行われたことも、デッチ上げの呪いが広まる原因になったと思われる。



■結局、呪いは無かったのですか

墓に触れた総ての人間に影響するような呪いの存在は認められない。
墓の発見者の一人が突然死んだことで、怯えた人々が脳内でデッチあげ、大騒ぎしただけのことだ。

ただ、確かに最初の一人、カーナーヴォン卿についてだけは、死のタイミングや状況から、呪いと信じるだけの理由はあるし、信じたければ信じても良いと思う。呪いなど、誰も証明できない。死体があれば死因は科学的に解明することが出来るが、残念ながら卿が無くなったのは遙か昔の話で、証拠などとっくに失われている。また、もともと病気がちだったとはいえ、死亡のタイミングは確かに王墓発見と一致はするのである。

カーナーヴォン卿の死の原因は、伝染病を運ぶ死の女神セクメトの息にあてられたからかもしれない。そう信じたいならば、信じることも大いに結構。証明できないことに無理に一つの答えをあてがう必要は無い。

最初の一人(カーナーヴォン)の死とともに、ファラオの呪い伝説は始まった。
それは、その一人の死があまりに唐突で、何かに呪われたとも見える状況だったからである。
しかしツタンカーメンの名誉のために言っておくと、呪いがあったとすれば、それが代償として求めたのは一人の命で、他の人々にまで貪欲に心臓を差し出すことを求めたりはしなかった。

また、墓の中には、呪いを示唆する文字や置物は、無かった。
中には、交霊者や霊媒師が「あっただろう」などと予言したものまで含め、当時のマスメディアには多くの噂が飛び交ったが、どれ一つとして実在したものはなく、有名な「ファラオの墓をおびやかすものには、すみやかな死が翼に乗ってやってくる」という警告ですら、完全なでっちあげの一つだ。

本当にあったのは、たとえばアヌビスの厨子に書かれた「秘密の部屋を砂が埋めるのを拒むのは、私である」といった、死者の書に登場するような呪文だけだった。伝統的なファラオたちの墓がそうであったように、呪文は、死者が死後の世界で永遠を安寧に暮らせるよう、また死体が水や砂に痛めつけられないよう祈るものだった。
警告は主に、冥界に住まう精霊たちに向けられ、この世に生きている者たちは、威嚇するどころか、そもそも想定されていなかったのである。

(考えてみて欲しいーー識字率の低い時代に、文字で警告なぞ書いたところで、墓泥棒に読めるわけがない! 描くなら絵で示すだろうが… 呪文は侵入者に直接むけるよりも、墓を守る神々に向けたほうが効果的だろう。)


この記事は、「ファラオの呪いなど無い」と、頭ごなしに否定するために書かれたのではない。
むしろ、呪いなどありはしないと興冷めなことを言いたがる人を牽制するために存在する。
何でもかんでも科学的に、理路整然としているのが面白いわけではない。科学的に見せかけて、実はオカルトより不自然な理屈を公表するほうがタチが悪いことを、私は知っている。

呪いなるものを信じたければ、信じてもよい。ただしそれは、最初の一人を代償として飲み込んで、もう終わってしまった呪いである。今後、誰かがその呪いに巻き込まれることはないし、誰かが不審な死を遂げたとしても、それは古代エジプトの王たちとは関係ない。



■最後に

古代エジプトの王たちは、何のために巨大なピラミッドを建て、壮麗な神殿を築き、そこに自分の名を刻んだのだろうか?
それは、後世まで自分の存在を残すため、その名が風化してしまわぬためである。
古代エジプトの宗教では、体が腐敗せず完全に残ることと同時に、子孫や、名前を覚えてくれている人たちが忘れずに祀ってくれることが、死後の世界での暮らしを補償すると考えられていた。体や供物は完璧でも、誰からも名を思い出されず、永遠に砂の中に埋もれていたのでは、実は意味がない。

その意味で、ツタンカーメンは不幸だった。異端の王、アクエンアテンに系する者として後世の記録や王名表から名前を削られ、エジプト王国が途絶えてから20世紀のはじめまで、誰も思い出しもしなかった。墓が見つかるまでは、他の王の墓から出てきた、ツタンカーメンの名前の入ったわずかな品から、その存在が仮定づけられるに過ぎなかったのである。

だが墓が見つかったことで、彼は、生きていた頃ほとんど何も出来なかったにも関わらず、今や古代エジプトの歴史の中で最も有名な人物の一人となり、人類の歴史が終わるときまで、決して忘れられることのない永遠の存在となった。
ツタンカーメンは、自分の墓が暴かれたことを、感謝こそすれ、呪うことはないだろう。



■ちなみに

某早稲田の有名教授などは、自分の監修する番組で、ツタンカーメンの呪いは墓内部の壁画の絵の具に湧いたカビが、人体に有害だったからだ、などと放映していたが、そもそも墓の発掘にたずさわった人の中に肺をわずらって死んだ人が、沢山いただろうか? 死因がはっきりしているなら、それはもう謎でもミスタリーでも呪いではなくなるのである。そもそもツタンカーメンに関わって死んだ人など一人しかいない。カーナーヴォン卿である。

肺に持病を持つ人や、抵抗力の落ちている病人なら、カビやウィルスが致命傷になることもありえるが、そんなものは呪いでもなんでもなく、ただの運である。ファラオの墓に入らなくても、あのエジプトの灼熱の気候に長居していれば、遅かれ早かれ命を縮めていただろう。

呪いを否定し、科学的っぽい回答を出している人のほうが正しいとは、限らない。
証明できないものに結論を出すことは出来ないのだから。それならまだ、オカルトで説明されたほうがマシというものだ。




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