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創世伝承はどのようにして生まれるか



神話は、天地創造から順番に作られていくとは限らない。

 神話の世界には時間が存在し、世界の創造から破壊(あるいは、その手前)までが継続して語られているのが普通だが、実際の発祥順序は、これと異なる。
 もしかしたら世界の終末思想が最初に生まれたかもしれないし、いちばんの大見せ場から作られたかもしれない。或いは、同時に発生した多くのエピソードが寄せ集められて、一つの大きな神話になったかもしれない(これがいちばんありそうなことだ)。

 わけても、どんな神話でもたいていは存在する、「天地創造」−創世の神話、これがどのようにして生まれたかについて考えてみた。

 神話とは、どこから生まれるのか、
 それはおそらく、古代の人間にとって最も単純な疑問、たとえば、いかづちの多い地方ではいかづち、嵐なら嵐、雨が降る国では雨についての理由づけからではないだろうか。その答えとは、人を超えた存在による力、つまり、神のような存在のことである。人々が、疑問の答えに「それは神様の仕業だ」と言ったとき、最初の神話が生まれるのだと思う。

 大抵の神話で、高位神としてまつりあげられるのが主だった「自然現象を司る神々」なのも、最初に生み出されたのが、その地方で最も顕著な自然現象を司る神だから、なのであろう。
(そう考えれば、たいていの地域で太陽神が最高位に来る理由も、北欧のような極寒の地方では太陽神の地位が低い理由も、分かろうというものだ。)


 これに対し、世界の創造と破壊の物語は、自然現象とはあまり関係がなさそうだ。確かに天変地異を示唆するものもあるが、それはむしろ、後付のような気がする。
 世界の創造と破壊、それは、ある意味で、人間自身の生と死の観念に繋がっている。

 ユングは神話の世界を無意識に喩え、神話世界は集合的無意識、原記憶だと言ったのだが、この考えに沿えば、神話世界の誕生と死は、人間の意識そのものの生死、ひいては、自分から見た集団的意識の出発点である自己意識の生と死を投影している。

 人は、いつ自分を世界から切り離した個人として認識し、自分の始まりと終わりである生死を意識するようになるのか。文明の発達の、どの段階で外界生成の不思議を意識しはじめるのか?
 それについては、子供の発達心理学などを参考にすると良い。おそらくどのような資料を見ても、生死を意識に上げるのは、単純な恐れを知るより後のことであると書かれているに違いない。

 神話の発達は、その神話を語る民族の精神発達であり、集合的無意識の成長である。

 神話も文化の一つである。
 文化の成熟度は、その民族の精神を一個の生命として見立てた場合、その生命の成長度に比例する。つまり、人々が自分の生や死について真剣に考えるだけの高度な意識を持ち抽象的思考を可能とする、より人間らしい精神構造を持ってはじめて、創世と破壊の神話は生まれると言える。

 人が獣のように未来を予測せず、いつか自分が死ぬことを考えず、またその死を恐れないのであれば、死の神話は生まれない。
 また、死が存在しないのであれば、生の神話も存在しない。
 「人はなぜ生まれるのか」を疑問に思ったとき、世界そのもののの誕生にも理由がつけられ、そこに創造神の姿が見出された。神話の世界は人の内側にあるものであり、人自身の投影でもあるのだ。


 このように、神話が人の精神の発達と連動して発達すると仮定すると、その生成過程の中に、人間の精神成長の痕跡を探すことが出来る。人が、いかに悩み、迷い、その回答として物語や神々の姿を描いてきたのかを感じ取ることが出来る。

 神話を生み出すのは人の集団だが、集団の中には、個人がいる。
 恐れ知らずな子供たちは、自らの死や、子供がどこからくるのかを考え付かないが、大人になるにつれ、自分がうまれた遥かな昔を回想することも、いつか自分にも訪れるはずの死を予見出来るようになる。
 それと同じように、人間の集団もまた、成長するにつれ、自分たちの「集団」=世界の誕生を思い出そうとし、終末を予測できるようになる時が来る。
 それとともに作り上げられていく、集団意識の歴史が、神話なのだと思う、


 神話とは、ただのお伽噺ではない。その神話を作り出した集団の精神の投影であり、疑問や葛藤を浄化するための物語だとする。いわば深層意識が求めて作った、もう一つの現実である。
 だからこそ人々は神話を必要とし、今なお、神話の中に根源的な救いを求め続けるのではないだろうか。



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