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脳と心の心理学−古代エジプト人の脳は日本人と似ているか


最近はやり(?)の脳科学を齧ったついでに、エジプトと混ぜてみようと思い立ったのがこの記事である。間違っても科学的な話ではないので、そこのところはご容赦願いたい。

さて、突然だが、言語には、書く言葉と話す言葉がある。

書くのも話すのも同じ原語、ほとんど同じものとして扱いを受けることが多いのだが、よくよくよ考えてみれば、書くのは手と目を使うし、話すには舌と耳を使う。両者が全く異なる動作だというのは、はっきりしている。

まず、書き言葉を覚えるには視覚に頼り、話し言葉を覚えるには聴覚に頼らねばならない。

我が心の師匠Y教授(大学でお世話になりました^−^)曰く、「音には時間があり、画像には時間がない」だそうな。
これは、音符と写真を比べてみれば分かることであろう。
音符にはその音の長さが規定されており、すでに時間が内在しているが、写真とは時間の一部を切り取ったものに過ぎない。
つまり、聴覚=音=時間を内在する言語と、視覚=画像=時間を持たない言語とは、本来全く別物だということだ。

簡単に言うと、音をそのまま表す表音文字と、音と文字とが分離した表意文字とでは、脳内での処理過程と、指令を出す場所が違う。
書き言葉と話し言葉では、基本的な脳みその使い方が違うということだ。


子供は言語を耳から聞いて覚える。だから言語野は、聴覚に関係した場所にできる。これは、生まれつき耳の聞こえない子供でも同じだというから、ある程度遺伝的にさだめられたことなのだろう。

では、書き言葉はどうか。書き言葉も言葉には違いないから、もちろん言語野と連動する。しかしこちらは、視覚にも頼らねばならない。視覚に関係する部分と、聴覚(音)に関する部分とが連動してはじめて、人間は書き言葉を操ることができるようになる。こんな複雑な回路をつくるには脳がやわらかくなければならないから、言語の習得は子供時代に限られるというわけだ。

しかし、日本語の場合、ことはもっと複雑になってくる。何せ漢字などという画数の多い文字が存在するのだ。アルファベットなら目はそんなに使われまいが、漢字では、「毛」と「手」を見分けるのにも集中力を要する。だから、英語より余計に視覚野を使うことになる。

実際、アルファベットと日本語では、脳みその違った部分で処理されているという研究結果もある。日本人の言語野が、英語圏の人間と同じ場所で同じ働きをしているとは言えないのだ。言語野は左脳に出来るものだが、漢字は絵として処理されるため、右脳に頼るとも言われる。
 ならば、日本生まれ日本育ちで日本語ペラペラの人間と、英語圏生まれ英語圏育ちの英語ペラペラな人間とでは、言語野の発達は違っているのだろう。

こうしてみると、日本人が外国語の習得が苦手だというのも、実は、脳の構造が違っているからだという仮説も成り立つ。日本語には、表音文字であるカナと、表意文字である漢字とが混在する。さらに、漢字には音読み・訓読みというものが存在し、ひとつの文字画像がひとつの音に結びつくとは限らない。日本人は、世界的に見てもかなり特殊な方法で書き言葉を処理しているということがいえるだろう。

ところで、このような複雑怪奇に脳神経回路を結ばせる日本語と、よく似た構造の言語がある。
その言語とは、他でもない。古代エジプト語のことだ。
古代エジプト語には、音をそのまま表す表音文字と、意味を表す決定詞とがあり、決定詞であっても音をともない読まれる場合がある。この仕組みから察するに、古代エジプト人の言語野もまた、日本人のそれと同じく、音声処理と画像処理を同時に行う構造だったのであるまいか。

残念なことに、古代エジプト人の脳みそが現存していないため、この仮説は証明のしようがない。(なんせミイラの脳みそは腐敗を防ぐため溶かして出されることになっている。)
だが、古代エジプトの言葉の構造は、英語よりも日本語に近いことから、少なくとも彼らの言語野機能は、アメリカ人やイギリス人よりも我々日本人に似ていたはずだと推測することは可能だろう。
(ここいで言う言語野というのは言語を習得したときに構成される部分なので、似ていたのは文字を読み書きできる書記官や神官だけのはずなのだが…。)


日本人の脳みそは、古代エジプト人と似ているか。
答えはYesであり、Noであろう。
同じ人間なんだからある程度似ているのは当たり前だし、古代エジプト人にパソコンを使う脳回路はあるまいから、違っているのも当たり前だ。

結局のところ、これは全く証明しようのない妄想であり、私特有の、やたらと小難しいファンタジーに過ぎない。
だが―――ときどき思うのである。
専門書の英語がイヤんなるにつけ、エジプトの象形文字はすんなり脳に入るのにということを思い出すにつけ…もしかすると、私がいま古代エジプトにタイムスリップしたら、書記官の修行をして一生左ウチワに暮らせるんじゃーないんだろうか、と…。
もしかしたら自分、英語なんか勉強するより、古代エジプト語をやったほうがいいんじゃないのか…?

所詮は現実逃避だが、逃避していっこコラム書けたので、これで許してください先生。


2007/02/09 追記

この文章は、卒論で認知心理学の英語論文をイヤというほど読まされてトリップしていたときに書いたものです。中の人、実は社会心理学が専攻でした…。こんなサイト持ってるくせに、実は考古学やってないよ! 歴史系ですらないよ(笑)

脳の一部分を欠損すると、記憶も身体機能もそのままに、言葉だけを失ってしまうことがあります。脳の中で、言葉を操る部分というのは特殊な位置づけなのです。その部分の処理に異常をきたすと、思ってもいない言葉が出てきたり、思っている言葉が出てこないこともあるわけで、「脳の機能」が人間の心情表現を左右してしまうことも、あるんです。
…っていう論文を読みながら書いた話なのです。

さて。
この記事を読んだ電波な人から、私が、日本人とエジプト人の間に民族的、文化的な繋がりがある、さらには日本人の祖先がエジプト人とかかわりがあるようなことを述べていると勘違いされてしまったのですが、そんなことはファラオの指尺ほども思っていません。

そこそこ日本語が分かる人なら そんな酷いカン違いはしないと思うのですが、心配になってきたので要点を纏めておきます。

この文章の意味するところは、

(1)表意文字と表音文字を持つ古代エジプト語の言語構造は、表音文字しかない英語よりは日本語に近い

(2)人間の脳には言語を処理する領域が特別に確保されているが、そこでの言語処理は言語の構造に依存するため、古代エジプト人の言語処理は日本人が母国語を処理するそれに似ているのではないか

(3)ただし、言語処理だけをもって古代エジプト人の認知能力が日本人に近かったとは言い切れない。ただ、古代エジプト人の脳と日本人の脳に似ている部分があったのかも、と考えると面白い

このように、あくまで、言語構造と脳内の言語処理に限って思いつきを述べている文章です。



<以下、毒素のため 心臓の弱い人は飛ばしてください。>

私は、自分の考えをトンデモ説に利用されることは望みません。
古代エジプト人と日本人の間に直接的な血の繋がりがあるとか、日本人の祖先が古代エジプト人かも、とかいう説を述べているサイトはありますが(笑)、そんなわけネーダロ。
そもそも古代エジプト人は単一の人種や民族ではないです。歴史を見れば、相当いろんな血が入り混じっていることが分かります。黒人・白人という単純な分類では収まらないどころか。「古代エジプト人」という一まとめの種を見出そうとするところが、まずナンセンス。

偉大な先祖が欲しいのは自分の血筋にコンプレックスがあるからでしょうか。
自分個人の前世では飽き足らず、日本人すべてを偉大な前身に結び付けるなんてどうかと思います。

そんなものは己に対する劣等感から生まれた妄想に過ぎませんよ。
ヒットラーがチンギス・ハンを白人だと証明しようとしたのと大して変わんなくないですか? 反証を認めない空虚な主張で自尊心を満たせればそれでいいとか、見るに耐えないです。

古代エジプト人が日本人の祖先だと主張したいなら、古代エジプト人に蒙古斑があったかどうか調べてから言ってくれ。

話はそれからだ。



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