エジプト本によく名前の出てくる人たちを紹介してみる。
現在の古代エジプト研究は、実はこの人たちの影響をかなり受けている。というのも、ヒエログリフが解読できなかった時代は、昔のエジプトの記録で読めるものというのが、ギリシャ語やラテン語の資料に限られていたからだ。(アラビア語を読めるようになったのは、十字軍の時代だ。それまでヨーロッパの人々は東の国々とほとんど交わっていない)
■ヘロドトス
紀元前5世紀ごろの人で、エジプト関係の本にはかなり頻繁に出てくるはずだ。「エジプトはナイルの賜物である」という有名な言葉を残した。旅行にやってきて伝聞したことだけで本を書いたためわりといい加減なことを書いている部分もあるのだが、つい最近まで全面的に信じられていた。
ちなみにヘロドトスの「歴史」は、エジプトについて書いた本ではない。ペルシャ帝国とその歴史について調べていて、ペルシャに支配された時代のエジプトを調べようとして、ついうっかり前置きが長くなってしまったようだ。
だからエジプトについて記した「巻のニ」は、丸ごと脱線と言っていい。エジプト人の思想や生活について書くのに夢中になりすぎてペルシャ王カンビュセスについて出てくる部分はずいぶん後になっているが、それを調べにエジプトまで行ったはずなのだから。
もう一つ、この時代の「歴史」(ヒストリエ)とは、決して「客観的に見た出来事」ではない。当時の意味は「探求する、調査する」であり、書物のタイトル「歴史」とは、「私が自分の足で歩き、見聞きして集めた事柄」という意味である。(なので現代的な感覚で見て、不正確な内容を手抜きと言ってはならない。客観的な視点というものが生まれたこと自体、つい最近の話だ)
■ヘシオドス
エジプトとはあんまし関係ないが、ヘロドトスと混同するから出してみた。ギリシアの「農民詩人」で、農作業しながら哲学者っぽいことを書いてた。ヘロドトスより前の、紀元前7世紀くらいに生きていた。
■マネトー
ギリシア生まれのエジプト人。よくわからん経歴のようだが、れっきとしたエジプト神官だ。紀元前3世紀ごろに生まれ、古代王国の王朝名やそれぞれの時代の王様の名前をギリシア語で書き記したが、その原本は残ってない。現在は、後世の人々に引用された部分部分から全体像を推測するしかない。
「王権の記録」コーナーで、各国王の名前についている「マネトー呼称」というのが、このマネトーが書き記した名前だ。中には、発音が変化しすぎてたり、記録が曖昧だったりで、どの王のことを指しているのか特定できない記述もある。何千年も経つうちに記録が曖昧になってしまったのかもしれない。
■ストラボン
古代ギリシアの歴史家、「地理」を書いた。有名なヘロドトスと違い、ナイル河を第一瀑流(エレファンティネのあたり)まで遡ってくわしく調べている。ピラミッドの材質など、地理学者っぽい視点で記した記述が多いのが特徴だ。ヘロドトスの「歴史」やマネトーの王名表と違い、現存している数が多く、全体を掴みやすい。
■「エジプトはナイルの賜物である」の真の意味は?
この言葉は、ヘロドトスが残したことになっている。
国土の大半が砂漠で、ナイルの水がなければ暮らしていけないエジプトにとって、古代からナイルが生命線だったことは言うに及ばず、もしもナイルがなければ古代エジプトの、あの繁栄が存在しなかったことは想像に難くない。
――が、ヘロドトスは、「ナイルの水が無かったら人は生きていけないよね」という意味で、この言葉を出してきたわけではない。そもそもナイルが無かったら物理的に存在しなかったんだ、と言いたかったのである。
以下、岩波文庫による日本語訳で問題の個所を見てみよう。
いやしくも物の分かる者ならば、たとえ予備知識を持たずとも一見すれば明らかなことであるが、今日ギリシア人が通行しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物とでもいうべきもので、エジプトにとっては新しく獲得した土地なのである。 巻の2、5節 |
「新しく獲得した土地」という言葉でピンとくるだろうか。
そう、ここで書かれているのは、ギリシア人の通行している地域、つまり下エジプトのデルタ地帯は、ナイル川の運んだ土砂によって出来た三角州である ということなのだ。
左図は、南北に長いエジプトの国土の、ほぼ全体を写したもの。
ナイルデルタ とは、ギザ台地より下流、見たとおり三角形に海に張り出している地域である。全体を見ると、本当に一部だけだ。エジプトの国は南北に長く、デルタ地帯より奥地のほうが広い。
当時、ギリシア人が通行していた地域は、下エジプトだけだった。上エジプトへはほとんど行っていない。つまりエジプトの大半を知らなかった。
ギリシャ人にとって「エジプト」は下流のデルタ地帯だけで、そのデルタ地帯はナイル川の運ぶ堆積物によって出来た『新しく獲得された土地』。
そういう驚きを記したのが、ここの部分だったのだろう。
、実はそれより上流に、新しく出来たデルタ地帯ではない、ナイル誕生以前より存在した険しい山々から成る土地が、はるか南方まで広がっていたのだが…。
ちなみに、下エジプトのデルタ地帯は、昔は本当に海の底だったようだ。
ナイルは毎年、増水期のたびに大量の土砂を運搬する。初期の王国が出来た頃は、今あるほとんどの土地が遠浅の海で、3千年の歴史の中で次第に姿をあらわしてきたと考えられている。
エジプトの人々は、海を「大いなる緑」と呼んだ。
それは、ナイル川の河口に茂る葦の緑が、増水の季節になると上昇した水位とともに海と一体化して見えたからだ。(下エジプトの守護神ウアジェトは「大いなる緑」の名を持つ。)
季節が巡るたび姿を変える平原が、下エジプトの人々の耕作地でもあった。
ナイルという大河川が無ければ、下流のこの三角形の緑地と、広大な耕作地は現在、この世に存在しなかった、…と、いうことだ。
ちなみに現在、エジプトではナイル上流に作られた2つの巨大なダムによって川がせき止められ、かつてのような増水と、定期的な土砂の運搬が発生しない。そのため下流のデルタはこれ以上広がることはなく、むしろ海に削られて縮みゆく宿命にある。ナイルの賜物によって新しく獲得した土地をナイルとともに失う、それもまた何千年という長いスパンで見れば、一つの物語かもしれない。