2008/1/1 改訂
2014/11/22 追記
エジプトの文字、といえばヒエログリフ。神殿や墓の壁にびっしりと書かれた文字を思い浮かべる人は、きっと多いだろう。
ヒエログリフとはギリシャ語で「聖なる刻まれた文字」(聖刻文字)という意味だ。でもエジプトの文字は壁に刻まれるだけではない。刻まない文字はどうなんだ。
…実は、これはギリシャ人の呼び名で、古代のエジプト人は「聖なる言葉」=「メドゥ・ネチェル」と読んでいた。
ネチェルとは「神」という意味。エジプト神話では、文字は知恵の神トトが人間に与えた神聖なものとされていた。そのため文字にかかわる知識は一部の特権階級しか知ることが許されず、口にされた言葉、形にされた文字は、石に刻もうが、パピルスに書こうが、魔力が宿ると考えられていた。
ヒエログリフには、筆記の為に崩されたもの(たとえば、木で作られた棺の表面に神々のイラストとともに描かれる文字)もあったが、基本的に形がハッキリしている。儀式的な文字、絵でありながら意味が通じる文字、という意味を持ってたため、「視覚に訴える」ことが重要だったからだろう。ヒエログリフの一文字一文字には、面白いほど気が使われていて、墓に刻む呪文の中に「蛇」の文字を書くときには、その横にナイフの文字をおいて、すぐやっつけられるように準備してあったりする。そのナイフは当然、文字でありながら言葉としての意味は持たない。視覚的に、蛇と対になっている絵として存在する。
また、ヒエログリフには決まった向きというものがなく、縦でも横でも、左右どちらからでも書くことが出来た。向きの判別は、文字の顔の向きで見る。ふとえば、蛇の頭が右を向いていたら右から、左を向いていたら左から。フクロウ、ウズラ、人など、顔のある文字は必ず含まれているので、すぐ分かる。
これに対して、ヒエログリフとは一線を画した、走り書き専用の文字がある。
ギリシャ語では「ヒエラティック」。「神官文字」とも呼ばれるが、ただしこれは正しい言い方ではない。神官による宗教的な記録が多かったが、中には裁判記録とか、外交書簡とか、手紙とか、一般庶民や役人が書いていたものもある。
文字なんだからそりゃ書くのに時間のかかる絵文字よりは、書きやすい筆記体のほうが便利だったのだろう。たとえば、こんな感じだ。
ヒエログリフは、縦書きも横書きも出来るし、左から書きはじめることも、右から書きはじめることも出来た。それに対して、速記専用の文字であるヒエラティックは、右から左で固定されている。(中王国時代までは縦書きのヒエラティックもあるらしいが…なくなったのは、やはり書きにくかったのだろう^^;)
この筆記体が生み出されたのはヒエログリフが作られた500年ほど後と考えられている。ヒエラティックが誕生した裏には、書類資料が増えたり、裁判記録などリアルタイムで記録する必要のある仕事が出てきたため、速記可能な文字を必要とした事情がありそうだ。
そしてさらに時代が進み、第三中間期あたりになってくると「デモティック」(ギリシャ語で民衆文字)が開発される。実質ヒエラティックと同じだが、見た目が荒っぽいため、ギリシャ人には庶民くさく見えたのかもしれない。
比べてみると、こんな感じ。
←ヒエログリフ(聖刻文字)
古代エジプト語では「セシュ・エン・ペル・アンク」=生命の家(神殿)の文字
最後に書かれたものはフィラエ島の394年のものとされる。
←ヒエラティック(神官文字)
←デモティック(民衆文字)
プトレマイオス朝時代にはギリシア語に対してエンコリアル(土着文字)と呼ばれている。
古代エジプト語では「セシュ・エン・シャイーアト」=書類のための文字
最後に書かれたものはフィラエ島の437年のものとされる。
…デモティックまでくると、もはや何書いてあるのかわからない。ていうかアラビア文字と並べられたら区別つかん。(笑)
デモティックを解読したあとでは天井の染みすら読めそうな気になってくる、というが、本当にそんな感じ。
■パピルス紙のうらおもて
筆記体文字は主にパピルスやオストラカ(陶器の破片)に素早く文字を書くために作られた。陶器の破片はともかく、パピルスには繊維があるため、紙の裏表が非常に重要だった。
パピルス紙は、通常は繊維が横に走っているのが表、縦に走っているのが裏である。
速記文字は横書きなので、タテに繊維が走っている側に書くよりは、横に繊維の走っている側に書いたほうが、ペン先が引っかからずスムーズに書けるからだ。ただし新王国時代には、文学と書類とで書く向きを変えていたらしい。
さて、ここで、パピルス紙の構造について、少し説明しておこうと思う。
パピルス紙は、細く切ったパピルスの芯を、タテと横に組み合わせ、上から木槌などて叩いて繊維をならして作られている。(※ただし、製造方法は推測。正確なところを記した記録は発見されていない。)
だから、表と裏で繊維の走る方向が違うのだ。
白くて裏表の区別がつきにくい滑らかな表面のものが上質紙とされ、このような紙ならば両面に文字を書けたようなのだが、やはり安い紙だと、繊維に逆らって裏面に文字を書くのは厳しかったようだ。
現在の技術をもってして作られた「書きごこち滑らか!」なペンでさえ、時々は紙に引っかかるくらいなのである。当時のペンならば尚更、ひっかかる頻度も高かっただろう。よって、多くの書記官は、速記の必要な書類には、書きやすい、繊維が横向きの走る側を表として使っていたようだ。
ちなみにプトレマイオス王朝以前のペンはパピルスの茎、それ以降はアシが一般的になっていく。引っかかってインクで汚れたら書き直しである。消しゴムなんて気の利いたものは無い。しっくいのようなので白く塗りつぶして上から書き直すこともあったが(修正液みたいなものか)、履歴書に修正液がご法度なように、大事な公的文書では一度間違うと全部書き直しを要求されたと思われる。
ちょっとした余談。
有名なトリノ王名表は、常識に反してパピルスの裏面に書かれている。表は全く関係のない内容であるため、長いことその価値に気づかれずに眠っていたらしい。
パピルスは貴重品だったので、裏側も使うことがあったらしい。コピーに失敗した裏紙をメモ帳に使うようなものなのか…(ちょっと違う)
■古代エジプト語の変遷と「方言」
古代エジプト語には、時代や用途によってごとにヒエログリフ、ヒエラティックといった書き方の違いがあったが、そういった書式や文字の形だけではなく、言葉の「中身」そのものについても、大きな変遷があった。
ヒエログリフとヒエラティック(およびデモティック)は、同じ内容を違った形式で書いたもので、いわば明朝体とポップ体と楷書体の違いのようなものだが、たとえば江戸時代と現代とでは言葉が違うように、書かれている言葉の内容は時代ごとに異なっている。
文字が開発され、記されはじめたのは紀元前40世紀ごろのことと言われているから、古代エジプト語が完全に消える11世紀まで、約5千年にも渡って記されつづけたことになる。たとえば、日本語で使うカタカナは平安時代に作られたもので、まだ1500年くらい。古代エジプト語は試用期間が圧倒的に長い。
「古代エジプト語」といっても、最初のころと最後のほうでは、発音も、単語も違っているし、書き方も違う―― ちなみに、儀式や葬祭のために石などに刻まれたヒエログリフは、通常使用する言葉が変化したあとも中王国時代ごろの言葉のままだったという。いわば「古典」として設定されたのが、その時代の言葉だったのだろう。語尾が「〜し候」になっているとか、「〜たてまつり」なんて言葉が出てくるとか、そんなノリ。現代日本においても、神道の儀式や宮家の正式文書など伝統が重視されるところでは古めかしい言葉がよく使われているが、そういうふうに想像しても大きく外れていない。
文法など詳しい部分は省くとして、古代エジプト王国の歴史には、何度か大きな断絶があった。中間期、と呼ばれる三度の混乱である。この前後では、語彙の使い方や文の構成、定型文が大きく異なるという。日本でも、戦前と戦後ではだいぶ違う。戦後になると外来語が多く入ってきて、言葉が大きく変化した。それと同じように、古代エジプト語にも外来語が取り込まれた時代というものがある。
中王国時代の後につづく第二中間期は、まさに外国語が沢山取り入れられた変革の時代。よそからの移民がやってくるのみならず、一時は移民による王朝も設立された。そんなわけで、中王国時代までと、それ以後では書き言葉はかなり異なり、中王国以前の言葉は古典として、伝統的に堅苦しい場でのみ使われ続けていたのである。
もっとも、記録として残っているものは公的な文書や、儀式的な碑文など、形式化されたお堅い「書き言葉」なので、「話し言葉」がどのくらい変化していたのかはわからない。
話し言葉については、そりゃ発音は形として残せないから、今となっては推測でしかない。
もともとエジプトの国土は南北に長く、南の果てと北の果てでは人々の暮らしがなかなか交わりにくい。地方独自の文化や方言もあっただろう。日本で例えると、関西と関東では好みや方言が違うようなもの。
同じヒエログリフで記されたエジプト語の中でも、標準語と方言という違いが生まれた。
標準語は、基本的にその時代の首都のある地域の言葉である。だからもちろん、東京に首都があった場合は東京弁が標準語とされ、京都に首都があった時代は京都弁が標準語である。エジプトでは、王の勅命で石碑や墳墓の壁画をつくる場合、王のいる地域の言葉が使われるのが当たり前だったために、「新王国時代はテーベ方言が主流でした」なんて話になっている。
…たぶん都会人的に、「あの人の喋り方、超いなかくさーい」とか、あったと思う。