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ロゼッタストーン/日本語訳とその解説



「ロゼッタ・ストーン」とは、ヒエログリフ解読の鍵となった石碑のことで、発見したのはフランス軍だが、紆余曲折を経てイギリスのものとなり、現在は大英博物館にある。破損しているが、残されている石のサイズは高さ114cm幅73cm厚さ28cm重さ762kgと、かなりの大きさ。破損前の高さは推定で150cm〜160cmである。

ロゼッタ・ストーン@大英博物館材質は黒い玄武岩。
発見は1799年7月で、ナポレオン配下のフランス軍が要塞を築く工事をしている最中に発見された。元その地方にあった神殿の石材を流用していた中に、変わった石があったのに気づいた兵士がいたということだ。下っ端兵士が石の重要さに気づいた幸運に感謝すべきだろう。

名称の「ロゼッタ・ストーン」は、発見された地名の「ロゼッタ」(現在はラシッド村)に由来する。のちにフランス軍がエジプトから撤退する際、イギリス軍との条約によりこの石も引渡し対象となってロンドンに持ち去られることになるが、その前にフランス軍が写しをとっていたため、のちにフランス人学者 ジャン・フランソワ・シャンポリオン によって解読されることになる。イギリス人とフランス人による、解読競争を巡るアツい戦いがあったりなかったりですが、そのへんはロゼッタ・ストーン解読を巡るドキュメンタリー本などでお楽しみ下さい。


復元図さて、この石だが、プトレマイオス5世の時代に発令された「法令」を刻んだものになる。戴冠一周年の際にメンフィスに参集した神官たちによって決定された祭事の記憶を伝えるためのもので、元は石碑の形をしており、王の像とともに主要な神殿に置かれていたものと思われる。左が復元図になる。

当時(紀元前196年)のエジプトには、エジプト語を使う土着エジプト人のほか、為政者プトレマイオス一族と官僚たち、またギリシャ世界からの渡航者・居住者などギリシャ語を使う人々の両者が存在した。石碑にエジプト語とギリシャ語が使われているのは、そのような理由からである。

法令の布告のために作られたものであることから、ロゼッタ・ストーンは一点ものの特別な石ではない。その後、全く同じ内容が刻まれた石がダマンフルとヘルモポリス・パルヴァから発見されており、またフィラエ島の神殿の壁面にも同様の内容が刻まれていることが判明している。石のかけている部分は、これら別の碑文からほぼ正確に復元することがでる。(「ほぼ」としたのは、作られた時期の違いから、内容は全く同じではないから)

これらの石碑は、プトレマイオス朝が終焉を迎え、キリスト教やイスラム教が流入して神殿が放棄されていく過程の中で忘れ去られていったのだろう。


ロゼッタストーン日本語訳


というわけで、以下がだいたいの内容になる。各行に対応する忠実な訳ではなく、意味をわかりやすくするため、ある程度変えてある。また、このページの訳は、ロゼッタストーンの中でもギリシア語の部分を訳したものを元にしている。


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父王の王位を継いだ若き者、王冠の主、もっとも栄光あるエジプトを建国し、神に対して敬虔なる者、敵に対して勝利を収めたる者、人民に文化的生活を復興せし者、30年祭(※1)の主、まさに偉大なるヘパイストス(※2)の如き、太陽(※3)の如き王、上下エジプトの偉大なる王、神フィロパトル(Pilopator)の子孫、ヘパイストスの認めし者、太陽が勝利を与えし者、ゼウス(※4)の生ける化身、太陽の息子、プトレマイオス〜永遠に生きよ、プタハに愛されし者〜の治世第9年。

この年に、アエトス(Aetos)の息子アエトスはアレキサンドロスの祭司であった。また、神々ソテル、神々アデルポイ(Adelphoi)、エウエルゲタイ(Euergetai)、ビロパトール(Philopatoros)、エピパネース・エウカリストス(Epiphanes Eucharistor)の祭司でもあった。
ベレニケ・エウエルゲス(Berenike Euerggetis)のアトロポス(Athlophoros)たるピリノス(Philinos)の娘ピラハ(Pyrrha)、アルシノエ・ピラデルポス(Arsinoe Philadelphos)のカネポロス(Kanephoros)たるディオゲネス(Diogenes)の娘アレイア(Areia)、アルシノエ・ピロパトルの女司祭たるプトレマイオスのイレーネ(Irene)
クサンディコス(Xandikos)の月の第4の日、エジプト暦にしてメケイル(Mekhir)の第18日。(※5)

 ※1…セド祭のこと。ファラオが即位して30年目に執り行われていたもので、支配者としての威厳などを示す。
 ※2…ヒエログリフ部分では、エジプトの鍛冶の神プタハになっている。
 ※3…ヒエログリフ部分では、太陽神ラー。
 ※4…ヒエログリフ部分では、太陽神アメン。
 ※5…ここの部分には、プトレマイオスの祖先や家族が神として登場する。
 メケイル月の18日とは、メケル月の18日。現代暦換算はこちら参照



法令<デクレ>。
ここに参集せし主任祭司たち、神意の告げる者たち、そして神々に礼服を着用せしむるべく神殿の内に入りし者たち(神像を直接礼拝できる者=高位神官と王)、プトレマイオス〜永遠に生きよ、プタハに愛されし者〜、扇の保持者たち、聖書記たち、その他すべての祭司および聖職者たちは、この日メンフィスの神殿に参会し、神、エピファネス・エウカリトスの、王がその父王より継ぎし王位への即位の祭典に、王と会すべく全土の神殿よりメンフィスに参集し、宣言す。
ここに王、プトレマイオス〜プタハに愛されし者、神〜エピファネス・エウカリストスよ、永遠に生きよ。

王プトレマイオスと王女アルシノエの息子、神ピロパトールは、イシスとオシリスの息子にて父オシリスの仇を討ちしホルスの如く、神殿とそこに住まう者たちの守護者たると同時に臣民たちの保護者である。
さらに慈善の心に富み、神殿に金銭と穀物を献納し、かつまたエジプトに繁栄をもたらすべく多額の支出を惜しまず、神殿を建立し、王自身の富について気前よい、神々の意志に恭順なる王であった。

王は、エジプトにて徴収せし税の、あるものはすべて免除し、他のものは軽減し、その治世の間、人民とすべてのものが繁栄出来るよう治め、またエジプトにおいて、他の地においても王権に対する負債を容赦され、獄につながれた、告発を受けし者たちに恩赦を下され、そして長きにわたり獄に繋がれたまま告発を受けし者たちに恩赦を下された。

さらに王は、神々がその神殿の収入を享受し続けられ、金銭と穀物で毎年の供物を得られるよう、その父王の御代に、神々に属せしぶどう園、庭園、その他の土地より得られし収入も同じくお供えするよう指示され、祭司たちに対し、その父王の御代を通じ、また、王自身の治世の第一年に至るまで、聖職就任のための費用以外の課税は不要なることを指示され、毎年のアルキサンドリアへの行幸に、聖職階級の者の同行を免除され、海軍の徴兵の免除を支持され、王は神殿より王室に対して支払われおりしビュッソス(良質の、細い亜麻織物)布の税を3分の2に軽減された。
そして、神々に対してなすべき伝統的義務の履行に気を配り、過ぎし世になおざりにされしもの全てを、ふさわしき状態に回復された。

また、偉大にして偉大なるヘルメス(Hermes)(※6)の如く、すべての者に正義をもって接され、戦士ならびに動乱の時代に心ならずも徴兵せられし人々に、その報酬として、かつての資産の回復を許されるよう、定められ、騎兵およびに歩兵、また艦船を、エジプトに、海陸両面から侵入せし者に対して備え、神殿ならびに国土の人々、すべての安全を確保すべく、多額の金銭と穀物を支出された。(※7)

 ※6…ヒエログリフ部分では、トト神
 ※7…この部分では、王の偉業、行った「よきこと」を延々と書き連ねてある。墓に刻まれるテキストでも、同じように、死者の生前のよき行いを書いていた。


そして豊富な武器とあらゆる物資を蓄え、包囲に対して要塞化されたるブシリス(Busirite)地区のリュコポリス(Lycopolis)へ進軍された。(エジプトの神殿とすべての住民に多大の損害を与えし邪悪なる者どもの間に、長らく不満の心よどみたるを見たり。)
布陣し、土手や壕にてこれを囲み、巧みに築城された。(その治世の)第8年、ナイルが大増水せしとき、常なれば、平地に氾濫せしものを、王は多くの場所に排水口をつくる治水工事を行いてこれを防ぎ、(このために少なからぬ出費をなされ、)騎兵と歩兵を配して守らしめ、短時間の猛攻でこの町を奪い、邪悪な者どもをすべて滅ぼした。
かつて、この地において叛徒を鎮圧したるヘルメス(※トト)や、イシスとオシリスの息子ホルスの如くに。
王は、父王の御代に叛徒を率いし者ども、国土を騒がせたる者ども、神殿に対し、メンフィスの都に来たりて、その父王と、王ご自身の仇を討ち、当然の報いとしてすべてを罰せられたり。

その後、王位への即位にふさわしき典礼を挙行すべく、かの地に来られしとき、少なからぬ額の金銭と穀物につき、その治世の第8年に遡りて、神殿の王室に支払うべきものを免除し、ビサス市のための負担金も、王室への支払いを免除し、同じ期間中の、証明書発行手数料のみにとどめたり。

王はまた、神殿の聖なる土地に課せられしアルーラ(aroura=土地の尺度、1エーカーの3分の2)ごとのアルタベー(収穫税)を、同様にぶどう園のアルーラごとの壷いっぱいのワインを免除されたり。

王はアピス(Apis)とムネヴィス(Mnevis)(※8)、その他のエジプトの聖なる動物たちに多くの贈り物を下されり。それらは、王は神々に属せしもの、すべてを先代の諸王よりいっそう深く思し召されておりしがゆえなり。
そして、その埋葬のため、王は惜しみなく見事な供物を供えられ、生贄と祭典、また他の慣習上の儀式を行い、特別の神殿に対し支払いを定期的に与えられたり。

※8…
アピス/プタハ、オシリス、ソカリスの冥界3柱神に捧げられた神聖なる牛。そのもの自身が崇拝の対象ともされた。
ムネヴィス/太陽神ラーに捧げられた神聖なる牛


王は法に従いて、神殿と、エジプトの名誉を保ちたり。豪華なる細工にてアピスの神殿を飾り、そのために、少なからぬ量の金・銀・宝石を使われたり。また王は神殿や寺院、祭壇を建設され、必要な修繕も行われ、信仰に対して奇特なる精神を持たれたるがゆえに、審判ののち、その治世において神殿の最も高貴なるものを一新し、いまもまた一新しつつある。
神々は、これに報いて、王に健康、勝利と力、その他のよきものをすべて授けたり。

王とその子らは、永遠にその王位を保ちつづけるであろう、慈悲深き幸運に恵まれて。
国土のすべての神殿の祭司によりて、王プトレマイオス〜永遠に生きよ、プタハに愛されし者〜、神エピファネス・エウカリストス〜の、すでに持ちたる名誉をいや増すべく、ここに次のことを決議せり。
その両親の神、フィロパトル、祖先の神エウエルゲタイ、神アデルフォス、神ソテルと同じく、すべての神殿のもっとも高きところに永遠に生きる王プトレマイオス〜プタハ神に愛されし者、神エピファネス・エウカリストス〜の像を建立すべきこと、その像は「プトレマイオス、エジプトの守護者」と、呼ぶべきことを。
その像の側には、勝利の武器(三日月形の曲刀、ケペシュ)を手渡す、神殿の主神が立つであろう。
これらはすべて、エジプト風の様式で作るべきものなり。

祭司たちは、1日3回これらの像に礼拝し、像に聖なる衣を着せ、エジプトの祝典で他の神々に対してなされるものと同じ栄誉を執行すべきなり。
王プトレマイオス〜プタハ神に愛されし者、神〜エピファネス・エウカリストスとともに、王と女王アルシノエの子、神フィロパトルのためにも、おのおのの神殿に黄金の祭壇が建立され、それが他の祭壇とともに神殿の室内に安置されること、祭壇が行列なして運ばれる大祭には、神エピファネス・エウカリストスの祭壇も、ともに行列に加えて運ばれるだろう。
祭壇には、今日も、また、後の世にも用意に区別できるよう、10の金の王冠が被せられ、蛇の形象(※9)がつけ加えられよう。

※9…聖なる蛇、コブラのこと。ウラエウスを指すのだろう。

他の祭壇の上にある、蛇の形象の代わりに、その中心に王が即位の儀式を行うために、メンフィスの神殿に入ったときに被るプスケント(Pschent)と呼ばれる王冠が置かれよう。まわりの四角い表面の上、先記した王冠のかたわらには、8を表す黄金のシンボルが置かれよう。
これらは、これが、上下エジプトの王の祭壇であることを内外に宣言するためのものである。

この祝いは、王の誕生日が祝われるメソレ(Mesore)月の第30日(※10)、王が父王の座を継いだパオピ(Paophi)月の第17日(※11)に行われ、これらの日々は、すべての者にとり、大いなる祝福の源なる、神殿の命名日としての栄誉をもつ。

※10…現代暦換算はこちら参照
※11…現代暦換算はこちら参照


また、毎月のこれらの日々に、エジプトの国中の神殿で、祭礼が行われるべきであることも、布告する。その際には、生贄と献酒、他の祭りで儀礼習慣となっていることのすべてが行われ、供物が、神殿につとめる祭司たちに与えられるべきであろう。
そして、王、プトレマイオス〜プタハ神に愛されし者、神〜エピファネス・エウカリストスのために、毎年、トト(Thoto)の月の第1日(※12)から5日間、国中の神殿において、祭礼が行われるであろう。
そのとき、人々は花冠を被り、生贄と献酒その他の栄典を行い、おのおのの神殿の祭司たちは、自分たちの仕える神々の名に加えて、神エピファネス・エウカリストスの祭司と呼ばれることになろう。
このことは、すべての公用文書に書き込まれ、彼らの身に着ける飾り環にも刻まれるであろう。

※12…現代暦で7/19
この日は、古代エジプト暦では新年の開始日にあたる。
古代エジプト暦は360日+5日で、新年から5日間は「予備日」と呼ばれ、オシリス、セト、イシス、ネフティス、大ホルスの五神が、それぞれ誕生した日とされる。


人々もまた、法に従って、エジプト人の王たる神、エピファネス・エウカリストスを賛美し、その栄誉を讃えていることをあまねく知らしめるため祭礼を行うこと、前記の祭壇を建立すること、それを家の中に安置して、毎年、ここに述べたような祝賀を行うことを許されよう。

この法令は硬い石碑に、聖なる文字(ヒエログリフのこと)と、人民用の文字(デモティック)とギリシア語とで刻まれ、第一、第二、第三(級)の神殿に、永遠に生きる王の側に安置されるであろう。



■内容について

前半は偉大なる王の功績をたたえる文章、後半はその王のための神殿と祭りを「これこれ、このように定めるので皆も周知するように」とのお知らせになっている。「治世○年」の部分は、石碑によって建てられた年が異なるため、それぞれ違っている。

「この法令は硬い石碑に、聖なる文字と、人民用の文字とギリシア語とで刻まれ、第一、第二、第三(級)の神殿に、永遠に生きる王の側に安置されるであろう。」とあることから、各所の神殿に置かれていた石碑であること、神としての王の像とともに奉納されたことが分かる。

一見してヒエログリフが最上位に置かれ、次がそれを崩したデモティック、一番下がギリシャ語となっていることからヒエログリフのほうが上位に扱われた言語のように見えるかもしれないが、当時の支配階級はエジプト語を解さないギリシア人であり、王族といえどもヒエログリフはもはや読めなくなっていた。あえてヒエログリフを上段に使ったのは、あくまで被支配者層であるエジプト人やエジプト神官たちに対する融和策の一環と考えたほうがいだろう。

ちなみにナイル上流のフィラエ島にある神殿にも同様の「法令」を刻んだ壁があり、そこには、このロゼッタ・ストーンの内容とほぼ同じ法令も刻まれているが、エジプト語ニ種のみで、ギリシア語による表記は無い。これは、ナイル上流にはギリシャ人があまり移住していなかったことから説明がつく。

プトレマイオス朝の王たちは、実際は外来の王だがエジプトの歴代王朝の後継者を名乗るべく努力したことで知られる。この碑文からも、かつてのファラオたちが自らを神と称したことにちなみ、神として王の像を崇めるようにとの内容を読み取ることが出来る。


使用資料;キャロル・アンドリューズ 「THE ROSETTA STONE」 大英博物館エジプト部
       翻訳−ほるぷ教育開発研究所  原典・翻訳校閲−British Museum Publications Ltd


和訳:このページを作った当時は中々見つけにくい本でしたが、オンラインで入手可能になったようです。
http://www.kodai-iseki.com/shop/rosetta.html

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