大神殿のナイショ話

神々の憂鬱−闇女神ネフティス覚醒



 神々の間での緊張が高まりつつあるその時。
 ネフティスは、まだ、何が起きたのかよく分からないまま、地上世界を彷徨っていました。

 ネフティス「風…。何が起きたのかしら。さっきからずっと、ヘンな感じがする…。」
 アンティ「誰だ」
 ネフティス「きゃっ?!」
 アンティ「…あんたは」

 河辺の、葦の茂みから顔を出したのは、ヨレヨレの老人でした。しかし、彼も神です。それも、ずいぶん前に力を失って、今は、ほとんど何の力も持たないのでした。

 ネフティス「あなたは…アンティ。そうだわ、ナイルの渡し守、アンティ…。」
 アンティ「今はもう、その名で呼ぶものは誰もおりませぬ。セト様に罰せられてよりのち、歩くこともままなりませぬゆえ。」

 アンティ老人のかかとの皮膚は、むごたらしく剥げ落ち、赤い肉がはみ出していました。それというのも、彼がかつてナイル河の聖なる中州を守っていたとき、イシス女神を渡してはならないとキツく言い渡されていたのに、変身したイシスに騙されて舟を出してしまったからなのです。
 そのためにセトは、もう少しで手に入れられるはずだった神の王座を逃し、神々はセト派・ホルス派に分かれて争いを始めることになってしまったのでした…。

 ネフティス「あの戦いでは、たくさんの神々が死んでしまったわ。生き残っても、力を失った者もいる。…あんな戦い、もう沢山よ。」
 アンティ「しかし、今、セト様はまた同じ事を成されようとしておられる。あなた様は、止めなさらんのか」
 ネフティス「えっ…?」

 ネフティスの表情を見て、アンティは眉に深く皺を寄せました。

 アンティ「何も…ご存知無いのか…。」
 ネフティス「何のこと? どういうことなの? 私は何も知らない、ねえ、一体何があったっていうの?」
 アンティ「同じですな、あの時と。あなた様は何もご存知ない。いや、ご存知であるのに、知らないふりをしてなさるだけだ。オシリスの君が殺されることも、イシス様の復活の儀式を邪魔するべく、セト様がオシリスの君のご遺体を切り刻んでしまうことも、そのあとに起こる悲劇も…あなたはすべてご存知だった。そうでございましょう、ネフティス様。」
 ネフティス「私は…。」
 アンティ「イシス様の光の力に対する闇の力。セト様と対を成す混沌と消滅の母。あなたは天と地から生まれた最後の子供、太陽年の終わりを告げる終焉の女神であられる。あなたは、心の底で−−−この世の終わりを望まれている…。」
 ネフティス「止めて! 私には、そんな力なんて無い! 私はただ、姉さまやオシリス兄さんと一緒にいたかっただけ! セトやホルス兄さんとも、…みんなで仲良く暮らしていたかっただけよ! 誰も死んで欲しくなかった、誰も傷つけて欲しくなかった、なのに…」
 アンティ「ネフティス様…」
 ネフティス「消えなさい! あなたなんか、あなたなんかこの世には要らない!」

 ばしっ、と音がして、アンティは悲鳴ひとつ上げずに消えてしまいました。あとには、暗い塵が降り注ぐのみ。それも、人の目には見えない塵です。

 アンティ(これで良い…神は自分では死ねぬ。私はこれで、オシリスの君のおられる冥界へ…)

 ネフティスは、ぺたりと葦の中に座り込み、ただ呆然としているばかりでした。

 ネフティス「私は…。」

 ざああっ、と、風が吹き抜けていきます。川の流れが揺れて、彼女の中で、遠い記憶が揺らぎました。
 ---それは、もう、ずっと昔のこと。
 まだ5人の兄弟が揃っていて、

 ネフティス「私…何をしてた…?」

 ただ、楽しかった。その時が、永遠に続けばいいと思っていた。
 けれど、それは叶わないことで…。

 ネフティス「だから…みんな、無くなればいいと思った…。」

 2番目の兄は去り、大好きだった長兄は王になるさだめの神で、女王になるべき神は、双子の姉イシスだった…。
 誰も、その運命を覆すことは出来なかった。なぜならそれは、持って生まれた神の宿命だったから。神として生まれた以上、役目には逆らえない…。

 ネフティス「私は、何のために生まれたの? 違う、終わらせるためなんかじゃない。私は…、そんな…。」

 ぽつり、ぽつりと雨が降り出していました。

 ネフティス「アヌビス…。」

 呟きととともに、広がった波紋に何かが震えて消えました。

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 イシス「…ネフティス?」
 ネフェルテム「どうかしたんですか?」

 ふいに動きを止めて振り返ったイシスに、ネフェルテムは怪訝そうな顔を向けました。
 彼はプタハ神とセクメト女神の息子で、蓮の化身です。医療と浄化、生命を与える太陽の光を司る神で、主に守りの力を使います。

 イシス「いえ、何でもないの。ただ…あの子が、私の妹、ネフティスがいてくれたらと思って。ごめんなさいね、ネフェルテム。あなたまで引っ張り出してきて」
 ネフェルテム「いいんですよ。結界を作る神が足りないんでしょう。僕でよければ。…でも、ネフティス様は、あまり…魔法などお得意でないのでは」
 イシス「いいえ。神としての力で言うなら、私の負けよ。」

 キッとした顔で空を見上げるように、イシスは、押し殺した硬い声でそう言いました。

 イシス「私は、守るべき夫を死なせてしまった。けれど、あの子は守り抜いた。夫であるセトを死なせなかった。私がどれだけセトを憎んでいたか。何度殺そうとしたか…それでも、殺すことは出来なかったのよ。」
 ネフェルテム「…かつての、神々の戦いの時ですね。僕は、まだ生まれていませんでしたから、話だけしか…。」
 イシス「それは酷い戦いだった。もう二度と、あんな戦いは起こしたくないわ。そんなこと、引き起こした張本人が言うべきではないのかしら」
 ネフェルテム「いえ…。」

 ネフェルテムにも、分かっていました。イシスがなぜ、こんな話を今になってするのか。この状況が、かつてと似ているからなのでしょう。
 力で王座を奪い取ろうとするセトと、それに対抗する神々と。
 かつてセトに味方した神々は悉く死に絶え、冥界に落ちてしまいましたが、そのかわり、今回は他国の強力な神々が味方しているのです。

 イシス「あの子は、ネフティスは意識せずに自分の力を使うわ。だから、自分がどれだけ強力な守護の力を持っているか、知らないの。…おかしいでしょう? ネフティスは、なぜ自分の息子がすべての死者を守護するほどの力を持っているのか、分かっていないのよ。それは親から受け継がれたものなのに。同じ父親を持っていても、私の息子ホルスは攻撃の力。私が…守りよりも攻めを得意とするからよ。」

 イシスは、胸の前で拳を強く握り締めます。

 イシス「重要なのは、あの子がセトの味方をするかどうかじゃない。あの子がセトと夫婦であるという事実なのよ。配偶神である以上、ネフティスの力はセトを守護しつづける。かつての、神々の戦いの時と同じように…。」
 ネフェルテム「…僕だけじゃ足りないかもしれません。でも、セルケト様もいます。それから…みんな。イシス様はひとりじゃないです。僕たちみんなが力を合わせれば、大丈夫ですよ。きっと」
 イシス「……。」

 それでもきっと勝てないだろう、と、イシスは予感していました。
 同じく、マアト女神も。彼女は、たった今、死者を裁く神々の法廷へとあらわれたアンティから話を聞いたばかりでした。

 マアト「闇の女神が目覚めるわ。秩序の天秤が傾いてしまう。ホルスでは…イシスの息子では、母の持つ再生と光の力を完全に受け止めることは出来ない。それが出来る唯一の神、オシリスはここにいる…。」
 タテネン「諦めちまうのかい?」
 マアト「! 誰…あ、あなた」

 いつの間に現れていたのでしょう。
 そこには、タテネン神が、ぶらりと立っていました。マアト女神の前に現れることなど、滅多にありません。会話を交わすさえ、今まで無かったかもしれないのです。

 タテネン「そんな驚くなよなー、地下世界はすべてオレの領域。つまり、あんたたちはオレが間貸ししてるよーなモンなんだぜ。どこに現れたっておかしくない」
 マアト「ですが…。」
 タテネン「そう構えんなって。ちょいと、相談ごとがあってきたんだよ。頼み聞いてくんねーか?」
 マアト「頼み…。」
 タテネン「そ・まぁぶっちゃけた話、宇宙の秩序の監視人であるアンタが目ぇつぶってくんなきゃ出来ないことがあるってワケさ。」

 イタズラっぽく笑うタテネン神。彼が持ちかけた相談とは。そして、ネフティスの行方は。


 ---その頃、地上世界では、人間たちが、異国の軍勢を追い払うべくして立ち上がろうとしていました。

                                                     >続く



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