大神殿のナイショ話

神々の憂鬱−異邦神バアル来襲




 静かに過ぎ行く時は、何かの前兆だったのでしょうか。
 「…あれ?」
ナイル下流の町、アヴァリスにいた人間たちが、ふと何かに気が付いて顔を上げました。
 ぽつり、と顔に何かが落ちてきます。
 「雨…?」
いつしか、空には色濃い雨雲が広がっています。ここは雨の降らない砂漠の国、雨雲が広がることなど年に数回。まして、空が見えなくなるほどの雨雲など、一生に一度、見るか見ないかくらいのものです。
 ぽつり、ぽつりと地面に落ちる雨粒は、次第に大きく、強くなっていきます。人々は慌てて軒下に身を隠し、空を見上げました。
 雨の降らない国なのですから、屋根がない家すらあり、傘などという文化は存在しません。中には、ひっくり返したつぼを被って、滑稽な格好でおろおろしている者もいます。
 「ずいぶん、激しい雨ねぇ。こんなのはじめて」
 「ああ…。でも、すぐに止むさ。なんたって、ここは砂の国だ。」
けれど人々の胸には、何か、得たいの知れない不安が生まれていました。この雨には、何か不吉な感じがする、と。

 その時―――
 「て、敵襲だッ!」
 城壁の守りについていた兵士の一人が叫びました。はっとして、人々は町の外を振り返ります。
 「敵だ…東の奴らだ!」
 「城門を閉ざせ! 早く!」
小アジアに近いアヴァリスの町が、東からの襲撃を受けることはそう意外なことではありません。しかし、この時は、全く何の前触れもなくその侵攻が起こったのでした。


 イシス「――――何ですって? ヒクソスが侵攻してきた?」

東の国境を守護する神々からの報告を受けたイシスは、顔色を変えた。

 イシス「侵攻状況は」
 下級神「アヴァリスが落とされました。現在、デルタ地方沿岸部の都市が次々と奪われている模様」
 イシス「何てこと…。今の政権は軍事力が弱いのよ。すぐに守護神を派遣して!」

 戦争時における味方軍の守護も、神々の業務です。神界は瞬く間にあわただしく、臨戦体制に入りました。
 戦いの守護を司る神々は、次々に地上へ降りていきます。先頭に立って率いるのは、もちろん国の守護者であるホルス神。

 ネイト「アヌビス、ネフティスはどうした。」
 アヌビス「…まだ、人間界から戻っていないようです。」
 ネイト「そうか。だが、たとえ巻き込まれてもネフティスなら危険はあるまい。今は、こちらの問題が先決だ。我々も出るぞ」
 アヌビス「承知。」

 戦の女神ネイトと、死せる魂の守護者アヌビスも、ともに戦場において人間たちを守護する役割を持っています。特にアヌビスは、死んだ人間たちの体が、異国の敵によって斬首されないよう計らわねばなりません。首をはねられた死体は、ミイラとして墓に収めることが出来ないからです。

 神々が、次々と自分たちの役割を果たすため出ていくのを見送りながら、トトは、不安そうな表情でオベリスクを見上げていました。
 異国からの侵入があったということで、マアト女神の不安は的中してしまいました。けれど、それは人間世界の話。もしかすると、神々の世界でも何かが起ころうとしているのかもしれません。
 けれど、トトの持つ未来予測の力は、あくまで過去の経験に基づいた理論的なものです。直感的なことからは、何も見出せません。
 これから何が起こるのか。
 オベリスクの破壊された時と進軍の一致は、単なる偶然なのか―――。

 と。
 ベヌウ「むーーー。」
 トト「わぁ?!」

 ドスン!

 いきなり、トトの頭の上に何か青いモノが落ちてきました。不死の霊鳥、ベヌウです。トトと似ているようですが、ベヌウは青サギ、トトは黒トキです。両方トリには違いありませんが…。

 トト「ベ、ベヌウ! 重い! ど…どいて」
 ベヌウ「んーーー?(首をかしげる)」
 トト「僕は止まり木じゃないよー!」

ベヌウは、渋々と言った様子で、よっこらせと脇へ退きます。彼(彼女?)が人の多いところへやって来ることは珍しいのですが、住まいが交戦地に近いため、臨時に避難して来たのでしょう。

 トト「ったく。忙しいんだから邪魔しない…うあ゛っ?!」
 ベヌウ「……。(←トトの尾羽を掴む)」
 トト「こら! なんてことするんだよ、抜けるじゃん!(泣)
 ベヌウ「来るよ…。」
 トト「え? 何が」
 ベヌウ「来るよ、嵐。赤い嵐。雨が降るよ」
 トト「……。嵐って…まさか…。」

 ベヌウが他の誰かとマトモに会話することなど少ないので、トトもすっかり忘れていました。
 そうです。
 まだ過去も未来も現在も存在しない始まりの時、原始の丘より生まれたベヌウはエジプト神族の中で唯一、完全なる予知能力を持つ未来視の神。野生のカンで危険を察知する警告者だったのです。

 トト「ベヌウ、もっと詳しく教えて。『彼』が来るんだね。どうやって?」
 ベヌウ「いかづち…、人の群れ。波とともに押し寄せる風の中で、赤い閃光は門を潜る。同じく赤い炎に呼ばれたから。たくさん人が死ぬよ、かみさまも消えるよ。トト、いなくなっちゃうかもしれないよ…。」
 トト「僕が?!」
 ベヌウ「嵐が来るよ。はやく逃げないと飛べなくなっちゃうよ。」

それだけ言うと、ベヌウは灰青色の翼を広げ、空に飛び上がりました。と同時に、地面の下から強い風が吹き上がります。
 危機を予言する鳥、ベヌウの予知が外れたことは今までありません。トトは、しばし拳を握り締めたまま立ち尽くしていました。

 トト「…でも、それが確定した未来だとしても、運命だとは思いたく無い。まだ、何か出来ることがあるはずだ。」

彼は、壊れたオベリスクの向こうから吹いて来る強い風に向かって、立ちます。空気に走る赤い閃光は、以前、デルタ地帯の向こうで何度か目にしたことのあるものでした。

 トト「嵐…。東の神、シリアのバアル…。」

 異国の神、特に敵対する国の神は、普段は神々の世界へ自由に出入りすることは出来ません。しかし、結界の力が弱まっている今なら、力で無理やり押し入ることも出来るはず。
 しかも、地上世界では、彼を信奉する民族が侵攻して来ているのです。そちらに気を取られた戦の神々はここにはおらず、守りも手薄。そして、バアルは異国の神々の中でも強力な、破壊と再生の力を持った高位神です。まともに戦えば、勝ち目はありません。

 でも…、と、トトは心の中で呟きます。
 ここはエジプト。バアルとて、異国の地では自由に力を使えないはずです。時間稼ぎをするくらいは、出来るかもしれません。

 自分の神聖動物に地上世界への伝言を託し、彼は、破られようとしている結界に向かって魔法を放ちました。バチバチと何かが弾かれる音がして、風の向こうから声がします。

 バアル「ほお、これは、これは。」
 トト「侵入者よ、立ち去れ。ここは、お前の来るところではない!」

 はじめて相対する異国の神バアルは、思っていたよりも若く、真っ赤に燃え立つ髪がまるで炎のようです。その手には、暴れ回るいかづちが掴まれていました。

 バアル「知恵の神、トト―――か。俺様のカンペキな作戦を読んで待ち構えているとは、恐れ入ったぜ。」
 トト「間もなく知らせは伝わる。異国の地で捕らえられ、力を奪われれば神の身とてただでは済まないぞ!」

 しかしバアルは、その警告に対して、フンと鼻で笑っただけでした。

 バアル「ふうん、なら、増援が来る前にやっちまうか。」
 トト「何、―――――!」

 強い衝撃がトトの背中を襲い、彼は、前のめりに地面に膝と手をつきます。振り返ると、そこには、弓矢をたずさえた美しい一人の女神が。

 トト「き、君は…。」
 バアル「悪ィな。俺ひとりじゃ無かったんだな、これが。」
 トト「くっ…。」

世界が暗転し、砂の地面が迫ってきます。
 その時思い出したのは、先ほどの、ベヌウの言葉。

 『たくさん人が死ぬよ、かみさまも消えるよ。』

 これは、決定された未来なのか。もう止めることは出来ないのか?
 砂の中に沈みこむように薄れ行く意識の中で、トトは、予言の意味を考えつづけていたのでした。

 完全に意識を失ったのを確かめてから、バアルは、肩をすくめて女神に向かって話し掛けました。

 バアル「ナイスだぜ、アナト。けど、イッパツで殺しちまったほうが良かったんじゃねーのか? コイツ。」
 アナト「殺すな、と、あの男が言っていただろう。後々役に立つのだとか。」
 バアル「あ〜? そーだったかァ? ま、いいか。そんじゃ行くとするか」

ひょい、とトトを担いだアナトが続きます。
 結界が破られ、人間世界の風が吹き込んでくる神々の世界は、今や嵐の中。降り注ぐ雨と空を駆ける雷鳴に、神々は恐れおののき、原因を探し回っていました。

 クヌム「あ゛ー、もうッ! こんな時に、一体どこにいるんだよトトは! オレの力じゃ雨漏り防ぎきれねーぞー!!」
 ヘケト「クーちゃん、クーちゃん大変! 大変よっ、アレ!」
 クヌム「あーー?」

見上げたクヌムは、思わず左官道具を落としてしまいました。
 なんと、本社上空に巨大な穴が開いて、大ピラミッドが闇の中に包まれていくところだったのです。

 クヌム「おいおい…。そんな雨漏り、直せねーぞ…。」

 人間界と神界の大混乱。その時、エジプト古代王国はいちど滅び、時代は混沌の闇へと沈みました。
 栄華を極めし古王国の終焉後、一時の安定を経て新王国誕生への過程に起きた戦乱の季節。時代は、のちに「中間期」の名で知られる、混迷の時を迎えたのでした。


                                                     >続く



※中間期には、第一中間期・第二中間期があり、その間に小康状態を保った数百年の中王国時代がある。
新王国時代の文化は基本的に古王国をもとにしているが、細かな儀礼や神々の信仰において異なっている点も少なく無い。
なお、ここで取り扱っている「中間期」は、都合上、実際の歴史と多少異なっている場合もあるぞ。
まんま信用しないでくれよな。


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