大神殿のナイショ話

神々の憂鬱−調停者マアトのためらい




 マアト女神は、大墳墓の入り口に佇んで、ドゥアト産業本社(大ピラミッド)のほうを見つめていました。

 トト「マアト様!」
 マアト「あら…トト。やっと来てくれたのね。」

にっこり微笑んだマアト様は、ずっとトトを待っていたような口ぶりで言いました。調停者であり、裁定者である女神マアトは、神々に対するさばきも行います。そのため、神々の性格や行動パターンは、だいたい把握しているのでした。

 トト「どうして急に? 冥界から出てこられるなんて」
 マアト「気になることがあって。また、セトとネフティスが喧嘩をしたようね。」
 トト「…!」

彼が驚いた顔をするのを見て、マアト女神は口元にうっすらとした微笑みを浮かべました。

 マアト「どうしたの? 私が知っているのが不思議ですか?」
 トト「いえ…あの、ご存知だったのなら、どうして…」
 マアト「仲裁しなかったのか、ってことね。あなたのことだから、何事も知らないと落ち着かないのでしょう。―――これは、あなたが生まれる以前の取り決めだから、知らないのも無理はないけれど…。」
 トト「教えてください。」
 マアト「あの二人は、イシスとオシリスの夫婦が司る調和に対して不和を、信頼に対して裏切りを、同盟に対し争いを、生み出す神なのよ。彼らが争うことは必然。そしてまた、男女一対の神である以上、離れることは許されない。」

トトは、ぽかんとしたままマアト女神を見つめました。

 トト「それって―――どういう…。」
 マアト「知ってのとおり、男と女は、それぞれ片方だけでは不完全です。新たな命を生み出すには男女が揃わねばならず、互いに、相手にはないものを持って補い合って生きる。この宇宙で唯一完全なるもの、始原の神アトゥムは男女両方の性を持った存在です。」
 トト「でも、だからって…。それじゃあ、セト様とネフティス様が結婚したのは、運命だってことですか…?」
 マアト「いいえ。逆らおうと思えば逆らうことは出来るわ。ただし、そのためには神であることを捨てなければならない。神々に我がままは許されない。宇宙の秩序を守るために、持って生まれた役割を果たさなければならない。分かりますね? トト」
 トト「……。」

 宇宙の秩序の化身でもあるマアト女神の言葉です。疑いようがあるはずもありません。
 しかし、トトは、何か釈然としないものを感じていました。それは、何か得たいの知れないもの。あらゆる言語を司る彼にも、いかなる言葉を使っても形に変えられない、まるで宇宙の始まりに存在した、混沌の海のようなもの…。

 トト「それでは、あのお二人は争うために生まれてきたようなものじゃないですか。なぜ争うのが分かっていて生まれる必要があったのですか? 神とは、必要なくして存在し得ないものでしょう―――」
 マアト「トト。世界は、永遠ではないわ。常に破壊と再生を繰り返している。それは、常に争いが生まれるからです。星は塵から生まれ、死ねば再び塵へと返る。同じように、人も土から生まれ、土へと返るでしょう? それらはすべて、混沌が存在するからです。もし混沌がなければ破壊は生まれず、再生もまた生まれない。世界は、閉ざされたまになってしまいます。」
 トト「……。」
 
 マアト「あなたのことです。納得は出来なくとも、理解することは出来たのでしょう? それよりも、私がここへ来た理由を聞いてくれるかしら。」
 トト「あ、そ、そうでした。」

 大慌てで居住まいを正したトトは、神妙な顔つきになりました。滅多に地上に現れないこの至高の女神が何の用もなしに出てくることは、在り得ないのです。

 マアト「今回の争いで、オベリスクが壊れたそうですね。修理には、どのくらいかかるのですか。」
 トト「え…、とりあえず3日ほど。」
 マアト「もっと早く出来ませんか。」
 トト「休みなしで増員しても、1日半が限界です。」
 マアト「そう…。」
 トト「あのオベリスクに、何か?」

マアト女神が、いつになく難しい顔をしているので、トトも心配になってきました。

 マアト「オベリスクは、2本一対で門の結界を成しています。けれど、片方が壊れてしまっては、もはや何の意味も持たない。大オベリスクが失われたいま、本社を守る結界は、4対の小オベリスクだけ…。普段の半分にも満たない力です。」
 トト「分かっています。でも、まさか本社に攻め込むような輩はいませんよ。外部に情報を漏らすような社員はいませんし、最近はアポピスもおとなしくしてますし…。」
 マアト「違うの、そうじゃないの。この世界…神の世界は、地上と相互に作用しあっているわ。いわば、鏡面世界。こちら側で結界が薄れたということは、おそらく人間たちの世界でも同じことが起きているはず。」
 トト「…? 人間たちの世界…。大ピラミッド…デルタ地帯?」
 マアト「ええ、そう。人間たちの世界にはオベリスクは存在しないけれど、私たちの世界を映したギザ台地がある。唯一、こちらの世界と繋がる門<ゲート>が存在します。普段はこちらからの結界でしっかり閉ざされているけれど、今は…。」

 トトは、眉を顰めました。
 彼自身、人間界にはしょっちゅう出入りしているのですが、結界など気にしたことはありません。神々は世界を行き来することが自由ですし、人間の世界からこちら側へ入ってくることなど、ほとんど不可能だからです。ごく稀に、才能ある魔術師が入り口を見つけることはありますが、そういった魔術師に知識を与えているのは神々自身なので、問題になることは無かったのです。

 トト「そんなに心配する理由でもあるんですか?」
 マアト「…分からない。悪い予感がするの。とにかく急いで。お願いできますね」
 トト「それは…マアト様がそう言われるのでしたら…。」

 それだけ言うと、女神マアトは踵を返します。トトは、少し不思議に思いました。何かが、いつもと違うような。マアト様は、明らかに何かを隠している様子でした。
 真実と秩序の女神が嘘をつくはずはありませんが、そのかわり、嘘でも真実でもない『沈黙』をもって答えることは出来ます。トトには、彼女が何か口には出したくないことに気付いているような気がしていました。


 そう。―――マアトは迷っていたのでした。
 オシリスが冥界へ下ってから、イシスとオシリスが二人で司る調和、信頼、そして再生の力は、しだいに弱まり、地上から失われていきます。それに反して、セトとネフティスの司る不和、裏切り、破壊は…強まるばかり。
 マアトは、未来の視える神ではありません。しかし、このままでは、いずれ世界の均衡は崩れてしまうという予感がありました。
 宇宙の崩壊と再生。それは、決して珍しいことではないでしょう。けれど、もし、再生の力を持つ神々自身が崩壊の渦の中に巻き込まれてしまったなら?
 再生なき永遠の闇の世界―――。

 マアト(そうなる前に、私は…。けれど、セトとネフティス、どちらかを失わせろというのは、あまりにも酷なこと。ああ、それならどうすれば。この予感は何? 地上が争いに満ちてくる予感がする。私の力も弱まり始めている。こんなことは初めて…。)

 聖木ペルセアの梢で眠っていた霊長ベヌウが不機嫌そうに目を覚まし、地下世界の生き物たちが、何かを感じ取って騒ぎ始めます。

 タテネン「チ…。何か来やがる。こいつは、とんでもない気配だぜ」

 けれどまだ誰も、体験したこともないその気配の正体には、気付いていなかったのでした。



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