大神殿のナイショ話

神々の憂鬱−守護者アヌビスの苦悩



 その頃、ダッシュで走り去ったネフティスを探していたアヌビスは、ナイル下流はデルタ地帯の端、もうほとんど隣国との境い目あたりまで来ていました。

 アヌビス「やはり、ここでしたか。」
 ネフティス「……。」

 ネフティスは、パピルスの茂みの中に蹲ったまま返事もしません。だいたいいつも同じ場所に隠れるので、実は、探すほどのこともないのでした。

 アヌビス「戻りましょう。みな心配していますよ」
 ネフティス「嫌。」
 アヌビス「そんな、子供のようなことを言わないで…。」
 ネフティス「何よ、アヌビスには分からないのよ。アヌビスこそ子供じゃないのよ。」
 アヌビス「お母上…。」

 アヌビスは、苦笑してネフティスの傍に腰を下ろしました。ネフティスが、小さな子供のように駄々をこねるのはいつものことです。ことにセトがらみの時は、いつも。
 アヌビスの本当の両親が誰なのかを知っているのは、神々の中でもごく僅かな者だけです。アヌビスも、人前ではネフティスのことを母とは呼びません。
 そう、神様なら誰だって、いろいろと入り組んだ事情を持っているものなのです。

 ネフティス「(指先でパピルスを弄りながら)みんな、怒ってた?」
 アヌビス「いいえ、特には。」
 ネフティス「あなたも、私が悪いと思う?」
 アヌビス「いいえ。」
 ネフティス「じゃあ、セトが悪いと思う?」
 アヌビス「…いいえ。」
 ネフティス「じゃあ、誰が悪いのよ。」
 アヌビス「誰も。常にどちらか一方だけが正しく、どちらかが間違いだというのは在り得ないと思います。」
 ネフティス「あなたって、いつもそうね。分かってるんだか、分かってないんだかハッキリしないことばっかり。いいのよ、私が悪いんだから。いつもなんで途中で飛び出しちゃうんだろ。はあ…。」

 パピルスをぽいと投げ出した水面に波紋が広がって、川のよどみに映る空の青が揺れました。どこかで、魚の飛びはねる音がします。

 アヌビス「今回のケンカの原因は、何だったのです?」
 ネフティス「別に…。いつもと同じよ…。ただ何か腹立っちゃっただけ」
 アヌビス「……。」
 ネフティス「私がいけないのよ、本当は。短気だし我がままだし、あの人のことは何にも分かってあげられないものね…。奥さん失格よね。あーあ」

 溜息をつくネフティスを見て、アヌビスは、ちょっと切ない気持ちになってしまいました。神々の結婚というものは、「やっぱうまくいかないから分かれるわー」ってな具合に、カンタンにはいかないものだと、彼にも分かっているからです。

 アヌビス「そのような顔をなさらないで下さい。私は、お母上にも、幸せになっていただきたいのです」
 ネフティス「幸せよ、私は。大したことじゃないもの」
 アヌビス「では、なぜいつもそうして溜息をつかれるのです。」
 ネフティス「…。」
 アヌビス「いつも、思うのです。なぜお母上は、あの男と結婚したのです? 本当なら、添い遂げるのは…」
 ネフティス「やめてよ!」

突然大きな声を上げたネフティスに、アヌビスは思わず口をつぐんでしまいました。アヌビスに対し、彼女がそんな声を出したのは、初めてのことでした。

 ネフティス「なんど試しても、運命は同じよ。変わらないわ。オシリス兄さんと結婚出来るのは姉さんだけだし、ハロエリス兄さんは旅に出ちゃうわ。それに、私がいなきゃ、あの人は一人ぼっちになってしまうじゃない…。」
 アヌビス「…すみません、お母上」

 何が何だかわからないまま謝るアヌビスの横で、ネフティスは、まるで、自分が叱られた子供のように、しくしく泣き出していました。



 午後。この国には珍しく、淀んだ色の雲が空を覆い始めていました。
 天の星図がひとめぐりする間に数回しか雨の降らないこの国では、雨雲が流れてくるなど大変珍しいことです。
 仕事場に戻って来たアヌビスを見て、同じく墓場の番人を務める中位の神、ウプウアウトは、灰色の眼をぱちくりさせました。
 
 ウプウアウト「どうしたんだ? 何かあったのか」
 アヌビス「いや…。なぜそんなことを聞く」
 ウプウアウト「耳が垂れてる。(→と、アヌビスの耳を指差す。)」
 アヌビス「……。」

 ウプウアウトは完全な犬の姿をした神ですから、毛並みの手入れなどはアヌビスより念入りです。犬相手なら、ハナヅラを見るだけで健康状態(および死亡推定日)まで分かるのです。

 ウプウアウト「何だってそんな、すぐにもお迎えが来そうな顔してるんだよ〜。元気でないんなら、骨っこ、食う?」
 アヌビス「要らん。それより、お前、なぜここにいる? この時刻は、地下世界にいるのではなかったのか。」
 ウプウアウト「あぁ、今日はちと特別日程になってるんだ。魂の調停者、マアト様が地上にお出かけされてるんでね。」
 アヌビス「…マアト様が? なんで、また」
 ウプウアウト「さぁねえ。あー、でも、もしかするとセト様んとこの夫婦喧嘩に説教しに来たんじゃない? マアト様、そういう無駄な争い嫌いだからねー。在り得るっしょ」
 アヌビス「……。」

 ウプウアウトは、アヌビスが実はネフティスの息子だということを知らないので言いたい放題です。しかし、それとは関係なくアヌビスは、さっきのことを思い出していました。
 マアト女神の名を聞いたとき、ふと、あることに気が付いたのです。

 ウプウアウト「いつもながら派手だよねあの二人は。あそこまでケンカするんなら、最初っから結婚なんてしなきゃぁいいのに。」
 アヌビス「妙だな…。」
 ウプウアウト「は? 何が?」
 アヌビス「なぜ、マアト様は何もおっしゃらないのだ? お互いに不義を働く形だけの婚姻など、秩序ある形とは呼べぬ。正義と秩序、世界の正しき姿の番人であるマアト女神が、許すはずはない…。」

 女神マアトは、冥界の入り口で死者の魂を裁く神です。マアトの天秤に載せられた心臓は、生前に浮気や詐欺を働いていると秩序の羽根とつりあわず、怪物に食べられてしまうのです。人間に対し常に公正であり、間違いを許さない彼女が、神々の不正だけは見逃すなんてことはありえません。むしろ、同族の神々だからこそ、より厳しくあたるようなものです。

 なのに、名目だけの夫婦であるセトとネフティスに対しては、今まで何も言っていませんでした。

 ウプウアウト「ふぅん、確かにそりゃヘンだな。マアト様でもイヤなのかな。それとも、何か理由があるとか…」
 アヌビス「…確かめてくる」
 ウプウアウト「おい、まさか喧嘩の仲裁でもしに行くつもりか?! やめとけって。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うんだぜ。」

 ウプウアウトが引き止めるのも聞かず、アヌビスは仕事場を出て行ってしまいました。首を傾げたウプウアウトは、大きく欠伸をすると、背中を伸ばし(まるきり犬のしぐさで)、闇の奥を振り返ります。

 ウプウアウト「どうしちゃったのかねぇ、あの人は。ふぁーあ、ヘンタメンティウ、お前の出番ナシだな。」
 ヘンタメンティウ「…。まぁ、いいさ。どのみちマアト様のところへ行くなら、あのかたが伝えてくださる。」
 ウプウアウト「そりゃ、そうだがな。」

ヘンタメンティウと呼ばれた下級神(もとは中級の地方神)は、音もなく静かに棺おけの上に腰を下ろすと、そのまますうっと闇に溶けて消えてしまいました。

 ウプウアウト「冥界に帰っちまったか。相変わらず陰気だねぇ〜。おお、やだやだ。オレもたまには外で日向ぼっこでもしよーっと」

しかしその頃、ナイル流域の空では、いつになく暗い雲が太陽を覆い隠し、不吉な予感とともに大きく広がりつつあったのでした。


                                                   >続く

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