大神殿のナイショ話

神話物語 北の王女−月神コンスへの祈り 第5節



 バクタンへの道のりは長く険しく、一年と半年もかかる距離にありました。
 コンスの像を掲げた使者たちはナイルを離れ、紅海を越えて異郷の地へと向かいます。

 国は、話どうり悪しきものの呪いによって荒れ果て、人々の顔からは生気が失われておりました。呪いの中心はうらびれた貧しい王宮にあります。
 そこでは、先に到着した医師ジェフティエムハブが、王女に取り憑いた悪しきものと壮絶な戦いを繰り広げておりました。

 ジェフティエムハブ「くっ…、これは、わしの力では押さえきれん…。」

 部屋は薄暗く、無数の灯りによって照らし出されています。蜜蝋で出来た黄色い蝋燭のゆらめきが奇怪な影を映し出し、天井や床に、まるであざ笑うかのように踊っていました。
 それは、荒れたベッドの上にゆらりと立つ、一人の若い女性の影でした。

 ベントレシュ「フフフ。愚かなこと…お前など、所詮はただの人間」

 王女ベントレシュは、振り乱した長い髪の下に青白い笑みを浮かべていました。美しい口から漏れる声は王女のもの。けれど、その言葉は、彼女の中に宿る、悪しきものの言葉でした。

 ベントレシュ「いい加減、砕け散っておしまい。」
 ジェフティエムハブ「グッ…、ぐああ?!」

 彼女が痩せた白い腕を掲げると、途端に医師の体がねじれ、物凄い勢いで壁にたたきつけられました。ロウソクの炎が激しく揺れ、風が巻き起こります。きつく焚き染めた香の臭いが鼻を突き、その場にいた助手の男たちは、汗びっしょりになりながら呪文を唱えつづけています。

 ジェフティエムハブ「くそ…。ここが、我らの国であれば、こんな…。ぐうっ!」
 ベントレシュ「ウフフ…。」
 ジェフティエムハブ(だ、駄目だ、このままでは皆やられてしまう…。)

 あまりの強力な力に、もはや立ち上がることすら出来なくなった彼が、死を覚悟した、まさにその時でした。

 ベントレシュ「?! 何、この気配は」

 突然、王女の顔色が変わりました。悪しきものを逃がさぬため固く閉ざされた出入り口のほうを、キッ、と睨みつけます。
 ジェフティエムハブも、はっとして振り返りました。

 ジェフティエムハズ「な…何事か」
 使者「本国よりの使いです。コンス神さまの神像をお持ちいたしました」
 ジェフティエムハブ「なに…」
 ベントレシュ「!」

 扉の封印が解かれると、部屋の中の淀んだ空気が、すぅっと廊下へ流れ出していきます。使者たちがうやうやしく神像の入った輿を担ぎいれると、そこから、辺りにひんやりとした冷気が漂いました。
 途端に、あれほど乱れていた蜜蝋の燃える灯りが静まり返り、細く、まっすぐに部屋を照らしだします。

 ジェフティエムハブは使者と助手たちを下がらせ、ただ一人になって、輿に乗せられていた箱の封印を解きます。
 蓋を開けた瞬間、何かの羽ばたきが飛び出して風を巻き起こしました。
 高い天井をくるりと一回りするなり、ふわりと王女の目の前に降り立ったのは、一羽の鷹です。その羽毛の一枚一枚の下にかすかな煌きが宿り、目は、銀色に輝いていました。

 コンス「はー、やっと出られた! ったく、これだから狭いとこはイヤだぜ。おい、医者!」
 ジェフティエムハブ「は。」
 コンス「後はオレが引き受けてやる。あんたは巻き添え食わねーように外に出てな。しっかり扉に閂かけとけよ!」

 ジェフティエムハブは、言われたとおり、外に出ようとします。それに気付いた王女ベントレシュは、物凄い形相で手を振りかざしました。

 コンス「おおっと! アンタの相手は、このオレなんだよ!」

 呼び出された黒い風は、コンスの羽ばたきによって引き裂かれ、かき消されてしまいます。その隙に、医師は部屋の外へ転がり出して、人々の腕に抱きとめられます。

 部屋の中に誰もいなくなったところで、コンスは、鷹から人の形に変わって床に飛び降りました。
 王女ベントレシュは、歪んだ表情で彼を見下ろしています。

 コンス「さて、と。それじゃ仕事にかかるか。それとも、降参するか?」
 ベントレシュ「笑止な…。ここは我が土地、我が国。外来の神などに譲ってたまるものか。」
 コンス「そう言うと思ってたけどな。」

 にやっと笑ったコンスの手元に、鋭く尖った光が生まれます。月は常に形を変えてゆくもの、満ちた月は与える力を、欠けた月は奪う力を。尖った三日月は、月の神である彼にとって、強力な武器なのでした。

 ベントレシュ「貴様、この娘もろとも我を始末するつもりか!」
 コンス「悪ィな、オレは薄情モンなんでね。」

 笑うなり、コンスは、いきなり三日月をベントレシュの体めがけて投げつけました。悪しきものは慌てて避けようとしますが、疲れきった王女の体は、思うようには動きません。

 「…!」

 黒い霧が、王女の口から飛び出します。光はそのまま、彼女の体を真っ二つに切り裂き、円弧を描いてコンスの手元に還りました。
 けれど、寝台の上にゆっくりと崩れ落ちたベントレシュの体には、どこにも、傷一つついていません。
 空中に蟠る黒い霧はするすると床に落ち、ぎょろりとした目の小人に変わっていました。

 小人「だ、騙したな…」
 コンス「ばーか、騙してねぇよ。オレの光は、てめぇらみたいなフザケた野郎にしか利かねーんだ。人間に害があるわけねーだろ? しょっちゅう月の光浴びてんのに。」
 小人「…。」

 悔しそうに目をギョロつかせた小人は、さらにコンスめがけて黒い魔法を放ちます。けれど、コンスも負けていません。部屋の中は光と闇とが入り混じり、物凄い嵐になっていました。

 小人「異国に在ってもこれほどの力とは…。さすがは『邪悪の払い手』…」
 コンス「へっ、知ってたのかよ。なら分かってるとは思うだろーが、オレは『命ある者の守り手』でね。あの王女に死なれちゃ困るんだよ。とっととケリつけたいんだ。分かるな?」

 言うが早いか、彼は、黒い風の中を突っ走っていって、小人の頭をガッキと掴みました。これには小人もびっくりして、ジタバタ暴れるばかりです。

 小人「は、はな…」
 コンス「負けを認めな。てめぇの名は」
 小人「……。」
 コンス(手に力を込めつつ)「このまま消滅するか? 名前は。

 小人は、泣き出さんばかりの顔になって、ボソボソと自分の名を告げました。神々にとって、自分の真の名を告げることは、相手に支配されることを意味しています。コンスはその名を記憶に刻み、手を離してやりました。

 部屋中に満ちていたピリピリする空気が消え、いつの間にか燃え尽きようとしていた蝋燭たちの芯が、かすかなチリチリという音を立てながら焦げ臭い臭いを立ち上らせています。
 寝台に近づいたコンスは、寝台にぐったりと横たわる王女ベントレシュに近づき、乱れた髪をそっと掻き揚げ、弱々しい息を感じ取りました。
 長く悪しきものに取り付かれていたせいで痩せて青白く、その息は、今にも止まってしまいそうに思えました。けれど、そんなになってもなお、彼女の顔は美しさをたたえ、姉姫にそっくりな面差しを宿しています。

 小人「ど…どうせ、その娘は助からん。我が離れれば生きていけぬ…」

 コンスは、黙って掌を翳しました。温かい光が溢れて、王女の胸に吸い込まれていきました。
 満ちた月は与えるもの、満月の光は、癒しの力です。
 見る見る間にベントレシュの顔に生気が戻り、少しずつ、少しずつ息遣いが確かなものになっていきます。小人は仰天して床の上に固まっていました。

 コンス「…これで大丈夫だな。こっちの世界に戻って来た。よっし、仕事完了! おい、お前。」
 小人「は…はい…」
 コンス「とっとと消えな! これ以上悪さすっと、今度はマジで消滅さすからな!」

 悪しきものは、甲高い悲鳴を上げて、黒い風となって床の上から消えうせてしまいました。

 部屋の中から気配が消えたことに気付いて人々が入って来たとき、中は真っ暗で、王女の傍らに灯された一本の蝋燭だけが、名残を惜しむような細い灯りを宿しておりました。
 恐る恐る、王女に近づいたジェフティエムハブは、彼女が穏やかな表情で、規則正しい寝息をたてているのを知って、ほっと胸を撫で下ろします。邪悪な気配は跡形もなく消えうせ、神の像は、台座の上で静かに佇んでおりました。

 それからお祝いの宴は盛大に開かれ、バクタンの王は、コンスとジェフティエムハブに大いなる感謝を込めて神殿を建てようとまで言い出しました。
 宴会は何日も何日も続き、貧しいながらも心づくしのもてなしが、遠い国から来た人々をもてなします。

 けれど―――
 その祝いの中にあっても、王女ベントレシュは、眠りつづけたまま、目覚めようとはしなかったのでした。


                                          ――――続く

前へ   戻る   次へ