大神殿のナイショ話

神話物語 カエムワセトと封印の呪文vol.5



 いつしか時は、砂嵐の吹く季節…洪水期の中ほどへと差し掛かっていました。
 供も連れず、カエムワセトは弟のアンフレルと2人きり、サッカラへ向かっています。呪文書を墓に戻すと言ったとき、てっきり文句を言うかと思ったアンフレルは、いやに素直にそれを受け、兄の決断を素直に喜んでいるような素振りを見せました。

 あれほど強固に、呪文書の中身を書き写すことを迫っておきながら。

 けれど、カエムワセトは、そんな弟の不自然な態度に気付いていないフリをしていました。
 日よけのため頭から被っている風通しの良い布の下で、彼は、巻物にそっと手を触れます。自分がそれを墓に戻そうとしていることを、トト神がどこかから見ているかもしれない。もしかすると、近くにいるのかもしれない、…そんな気さえします。

 「アンフレル…本当にいいのか? このまま私が、巻物を墓に戻してしまっても。」
 「勿論ですよ、兄上の決めたことですから。今ごろになって、どうしたんです?」
 「い、いや。何でも…。」
やはり、おかしい。
 あの時のアンフレルは、いつもと違いすぎていた。やはりあれは、何者かによる惑わしだったのではないだろうか。
 だが、あそこは、プタハ神の統べる白い城壁の街だ。
 悪しきものが入り込めるはずは…。

 「兄上。」

 呼びかけられて、カエムワセトは、はっとします。
 気が付くと、目的の墓は、すぐ目の前にありました。

 恐る恐る馬から降りた彼は、恐ろしい目に遭いながら逃げ出してきた、あの墓穴を黙って見つめます。まるで待っていたかのように、地面にぽっかりと開いた暗い穴。奥から吹いて来る風はまるで、死者の声のようでありました。

 「お前はここで待っていてくれ、アンフレル」
 「え? でも、兄上…」
 「いいから。ここからは、私がひとりでやる」

そういい残して、カエムワセトは、巻物を持ってひとりで墓穴に降りようとします。
 その背後で―――
 影が、ゆらめきました。


 カエムワセトが墳墓の中へ降りていくのを見送っていたアンフレルは、ゆっくりと、墓穴の傍らを振り返ります。そこには、いつしか影のように黒い大きな墓守の犬が立っていました。
 アヌビス神の化身でした。

 アヌビス「私がここにいることは計算外だったようだな。さすがに、ここでは手を出せなかったか?」
 アンフレル「……。」
 アヌビス「ここは神聖なる墓所。さすがのお前も、ここでは勝手なことは出来んぞ。おとなしく姿を現せ」

 驚いたように硬直したアンフレルの表情が、次の瞬間、不可思議に歪みます。まるで、別の人格に取って代わられたかのように。

 ゆらり、とアンフレルの体から何かが抜けて出て、砂の上にゆっくりと降りていきます。地平線の陽炎に交じって、それは、ほとんど姿の見えない透明なものでした。

 アヌビス「やはり―――、お前だったのか。…ジェフゥティ

 それは、忘れ去られたかつてのアヌビスの同僚。トトと同じ、朱鷺を化身とする知恵の神の名でした。
 時代とともに、神々の名も、役目も、移り変わっていきます。
 神の見つめる歴史に比べれば短い時間しか生きることが出来ず、語り継がれる過去しか知らない人間たちにとって、神々の変遷など、知るべくもないのでした。

 ジェフゥティ「神は死なないが、忘れ去られれば消えてしまう。今や、私にはこれが精一杯だ。情けない姿だろう? アヌビス―――」
 アヌビス「…お前は、自分からトトに役目を譲って、いや、押し付けて消えたのではなかったのか。自業自得ではないか」
 ジェフゥティ「望んだわけではない。時代は変わり、役目が終わった神として棄てられたのだ。我が町、ジェフゥトはとうに無く、戻るところもないというのに。」
 アヌビス「だとしても、人間たちに当たるのは間違いだ! お前自身が書いた呪文書を使って人間たちを持て遊んでいいという理由にはならんだろう!」
 ジェフゥティ「……。」

 アヌビスの声はまるで、黒犬が低く、唸っているかのようでした。透明なゆらぎ、ジェフゥティは、黙ったまま彼を見つめています。

 アヌビス「何故こんなことをした、ジェフゥティ。人間たちが禁じられた呪文を手にしたらどうなるのか、お前なら、分かっていたはずだろう?」
 ジェフゥティ「分かっていたとも。だが、それでも人間たちは求めた。私はただ、彼らに呪文書のありかと内容を教えただけ。実際に動いたのは、彼らだよ。」
 アヌビス「だが、それは人間が手にするべきものではないだろう! お前がそそのかしさえしなければ、この墓の主たちは人生の半ばで息絶え、苦しむことは無かったはずだ!」

 古き知恵の神は微かに笑ったようです。
 その笑みは、かつてアヌビスとともに魂の審判を務めた時とは違い、どこか冷めたような、人間たちを見下すようなものに感じられました。

 ジェフゥティ「手にする『べき』? 人が手にすべきものと、そうでないものの違いなど、君に分かるのかい、アヌビス。君はただ、人が失ったものの代わりを与えるだけの存在じゃないか。
 君に、人間が本当に欲しているものが何なのかなんて分かるのか? ただ我々の言うままに平和な暮らしをすることが、人間にとって本当に幸せなことだと思うのか。彼らは生よりも死を望んだんだぞ。知識を満たし、苦しみと隣り合わせの永遠の生を。」
 アヌビス「だとしても…。」

 バステト「だとしても―――。それが『間違った望み』ならば、訂正するのが神の務めよ。」

 ふわり、と、言葉が発せられます。どこからともなく、艶やかな毛並みの猫が、ゆったりとした足取りで現れました。

 アヌビス「バステト! お前…」
 バステト「あたしも気になってたのよ。で? この影みたいなのが、ジェフゥティなワケね。ずいぶん変わり果てちゃったものだけど…アンタ、そんなふわふわになっちゃったツイデに頭の中身までふわふわになっちゃったんじゃないの?」

 彼女の言葉には、全く隠すようなところがありません。思ったことを思ったまま、ストレートにぶつけていくのです。

 バステト「あんただって知ってるんでしょう? 人は無知ゆえに過ちを犯す。だからこそ、あたしたちが居るのよ。短い生を駆け足に生きるしかない人間では管理出来ないから、知識を司り、秩序を司り、生命を司る神が存在するのよ。その役目を放棄してしまったら、神は、もはや神ではないわ!」
 ジェフゥティ「ふふ、君らしい意見だバステト。だが、人間は、永遠に神が管理『すべき』ものなのか? また、管理『出来る』ものなのか?」
 バステト「はぁ?」
 ジェフゥティ「お前たちに問おう。『すべてを知りたい』と思う人間の思いは、罪なのか? 神をも越えたいとするか弱き者たちの望みは、叶えられる『べきではない』ものなのか?」
 アヌビス「……何、だと?」

 ジェフゥティ「人間たちは、安定や秩序など望んではいないんだよ。ただ、欲を満たせればそれでいい。欲を満たすための知識だけを望む。物欲、性欲、食欲、出世欲、知識欲…。すべては欲望から成り立っている。だから彼らは求め、さらに深く知ろうとする。神の根源さえも。」

 はっとしたように、アヌビスの黒犬たちが吠えます。影は、ふわりと飛び上がりました。

 アヌビス「お前、人間たちに何をさせる気だ!」
 ジェフゥティ「彼らの望みをかなえてやるのさ。それも、『神』の役目の一つではないのか?」
 アヌビス「待て。まさかお前は――…」

 消えていく影を追いかけるように走り出そうとしたアヌビスの目に、何かがちらりと映りました。彼が脚を止めた隙に、ジェフゥティは消えてしまいます。

 バステト「ちょっと! 何やってんのよ。置いてくわよ!」

 怒ったように怒鳴ったバステトは、ひとりで飛び出していってしまいました。
 振り返ったアヌビスは、墓の上の砂丘を見上げます。ずっと隠れていたトトが、姿を現して立っていました。

 アヌビス「…トト。どうして止めた。」
 トト「追いかけたって無駄だ。あの人を捕まえて責めたてても、何も変わらないよ。説得できるような人じゃないんだ」
 アヌビス「奴の言うことを、肯定するのか。」
 トト「そういうわけじゃない。理解出来るだけさ―――」

 同じ知恵の神として、また、自分の『過去』の姿として、トトには、ジェフゥティの考えていることが、よく分かっていたのでした。
 人間は、知りたいと思う気持ちを持っています。
 たとえそれが神々の領域に属するものだったとしても、手にすることで自分の身を滅ぼすと分かっていても、求めてやまないものなのです。

 トト「でも僕は、あの人の意見には賛成できない。知識の無い子供に火を持たせるのは、その子を殺すのと同じことだ。たとえその子が欲しいと言っても、親は、決して火打石を与えないだろう。知識は、それを正しく扱える者だけが手にするべきだ。
 ただ与えるだけが神ではない。導くことも、神々の役目なんだ。神は、人間を生かすために存在するのであって、殺すために存在するんじゃない。」
 アヌビス「トト…。」
 トト「だから、今は隠す。いつか人間が成長して、正しく知識を使って神を越えられるようになったなら、僕は、喜んで僕の知るすべてを人間に手渡すよ。」

 微かに笑ったトトの顔を見て、アヌビスも、少し口元を緩めました。
 ジェフゥティの、見下したようなものとは違う、優しい笑顔だと思ったのです。

 バステト「ああ、もう! 逃がしちゃったわよ、…って、あら。トト、あんたいたの?」

 バステト女神がぷりぷりしながら戻ってきました。

 バステト「いいの? このままで。」
 トト「構わない。それより、…そろそろ彼が目を覚ますよ。僕たちは隠れよう。」

 熱い砂の上に突っ伏していたアンフレルの体が、ぴくぴく動き始めていました。折りよく、呪文書を墓の中に戻したカエムワセトが地上に出てきます。

 アンフレル「ん、…あ、あれ? ここは…」
 カエムワセト「さあ、街に戻ろう。」
 アンフレル「街?」
 カエムワセト「そうだ。ここには、もう用は無い。どうした、暑さで頭がぼうっとしているのか?」
 アンフレル「そうみたいです。何だか…夢を見ていたような。」

 話しながら、2人は馬に乗り、気付いた様子も無く街へ向かって戻っていきます。
 その後ろで、地面にぽっかりと開いた墓穴はさらさらと零れ落ちる砂によって閉ざされ、あとには、他の地面と区別のつかない黄色い大地だけが静かに広がっていました。
 ネフェルカプタハとその家族は、再び、長い長い沈黙の眠りへと戻ったのです。



 それからのち、カエムワセトは、もう人の手に余るような知識を求めることはなくなりました。
 ネフェルカプタハの墓はアヌビスの力によって厳重に封印され、今も、サッカラ台地のどこかに眠りつづけています。
 トトは、結局あの呪文書を燃やしてしまうことはしませんでした。
 いつか、神々の叡智を手にする資格を持った人間が自分自身の力でそこにたどり着き、呪文書を手にすることがあるかもしれないからです。
 ジェフゥティは、再び歴史のいずこかへ姿を消してしまいました。
 けれど、知りたいと思う人の心がある限り、望みをかなえるための知識が欲しいという欲望がある限り、彼は消えることはないのでしょう。

 時が過ぎ、カエムワセトは、その後、古代エジプト史に名を残す大賢者として成長していきます。父王の在位が長かったため王位につくことはありませんでしたが、王国最盛期の繁栄の象徴として、多くの偉業を残すのです。


 神々は何を思い、何を目指し、何に迷い、その後どこへ消えて行ったのか…。
 すべての真実は、遠き歴史の彼方に。


                                                   ―――了


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 カエムワセトは歴史に実在する人物で、ラメセス2世の息子。パパが長生きしすぎてしまったので、パパより先に死んでしまったという、ちょっと可愛そうな人です。(最終的にラメセス2世の王座を継いだのは彼の実弟で大王の13番目の息子、メルエンプタハ。)
 カエムワセト葬祭殿の発掘は早稲田大が担当。すんげー…ヘンピな丘の上にあった。360度黄色い砂の海だ!

 発掘も大変だろうけど、とっととトトの伝説の書を発見してもらいたいモンですね。(こらこら)

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