大神殿のナイショ話

神話物語 カエムワセトと封印の呪文vol.3



 深夜のプタハ神殿。

 月明かりに浮かび上がる白い城壁は、はるかエジプト古王国時代に造られ、今に至る巨大な建造物です。町のすぐ側を流れるナイル川のきらめきが夜空を映し、昼間は賑やかな街も、今は、静かに寝静まっています。

 「…成る程。それで、わざわざやって来たというわけか。」
低い声でゆっくりと答えたのは、この街の主、古えの神、プタハ神でした。月明かりの差し込む神殿最深部は、普段から滅多に人の来ないところです。並べられた神の像は全部で3体、真ん中がプタハ、左手に妻セクメト女神、右手に息子ネフェルテム神の像が立っています。けれど今は夜。昼の世界に属する他の2体の神像は、沈黙したままです。

 プタハの神像の前に佇むのは、人間の姿を借りたトト神でした。

 プタハ「わしの神殿の書庫に、不審な書物が紛れている、というのか…。ふむ。しかし、わしの結界が破られたことは、いまだかつて無い。この街を囲む城壁が造られた時から」
 トト「分かっています。しかし、カエムワセトの話からすると、その書物には何か特殊な魔法がかけらけている可能性があります。よろしければ、プタハ様にも開封に立ち会っていただきたいのですが。」
 プタハ「それは構わんが…トト、お前の話ぶりからするに、今回の一件にかかわっているのは、人間ではなく神かもしれんのだろう。良いのか? わしに話してしまっても。」

 トトは、苦笑しました。

 トト「まったく、いつからこの国の神は疑い深くなってしまったんです。幾ら秩序<マアト>女神が地上世界を嫌っているからと行って、この世界は嘘偽りだけで出来ているわけではありませんよ。」
 プタハ「ふ…。若僧に説教されるとはな…。さても、わしを信頼してくれているのは嬉しいことだ。どれ」

 プタハ神が軽く念じると、神殿の書庫に音もなく風が吹き込み、棚に積み上げられた巻物を次々と撫でていきます。プタハには文字は読めませんが、巻物に染み付いた気配や手触りから、何の巻物かは分かるのでした。
 少しして、風は神殿の中にふわりと舞い戻ってきて、トトの前に一本の古びた巻物を浮かばせました。

 プタハ「わしに覚えの無いものが見つかった。問題の巻物とは、これではないのか。」
 トト「拝見します。」

彼が糸をほどき、巻物を広げようとすると、どうでしょう。突然、中からごうっという音とともに、砂嵐が飛び出したではありませんか!

 トト「くっ…?!」
 プタハ「愚かな。このわしの面前で無礼は許さん!」

プタハが怒りの声とともに一喝するや否や砂は止まり、風は、ぴたりと制止します。
 ぱらぱらと床に零れ落ちていく砂は浅黒く、風は、かびた嫌な匂いを撒き散らしながら空気に溶けていってしまいました。
 トトの手元には、僅かな破片しか残されていません。

 プタハ「おのれ、自分から消滅するように仕組んでいたとはな。何と用意周到なことだ」
 トト「いえ。でも、今のでだいたいのことは分かりました。」
 プタハ「何と。今の風だけでか?」
 トト「はい。…」

 トトは、魔術の知恵も司る神です。魔法を使うことにかけては、イシスと同等の力を持っています。いえ、知識だけなら、もしかするとイシスを遥かに上回っているかもしれません。
 そんな彼に、分からない魔法はほとんど無いのです。

 トト「これは――かなり高度な魅惑の術です。」

 プタハ「魅惑?」
 トト「はい。優れた物語のつむぎ手は、読むものを物語の世界に引きずり込むよう文字の中に呪文を織り込むことが出来るものです。このことは、あらゆる芸術家に言えるのですが…。中でも、最も優れた者は、引き寄せる相手、魅惑する対象を選んで呪文をかけることが出来るのです。」
 プタハ「それで、かかった者が我が神官、カエムワセト…ということか。」
 トト「そうです。彼も、前のネフェルカプタハと同じく王家に属するもの。さらに、学者であり、魔術師でもあります。2人は似たもの同士…。同じタイプの人間です。」
 プタハ「では、その巻物を書いた人物は、ある特定の種類の人間を狙って呪文を練りこんだのだな。」
 トト「恐らくは。ただ…気になることも…。」
 プタハ「気になる?」

 その時、表が騒がしくなりました。どうやら、神殿の奥での騒ぎが外に漏れてしまったようです。

 プタハ「神官たちがやって来る。お前がいては何事かと疑われる」
 トト「では、僕はこれで。…プタハ様、カエムワセトからくれぐれも目を離さないようお願いします」
 プタハ「分かっておる。」

 トトは姿を消し、入れ違いに駆けつけた神官たちは、誰もいないのに首をかしげながら辺りを見回します。
 床の上は砂だらけ。おまけに、空気にはカビのような埃っぽい、イヤな臭いが残っています。
 「これは、一体…。」「何があったんだ? 誰も入った形跡はないのに。」

 ただ1人、カエムワセトだけが、何かに気付いたようにプタハの神像を見上げていました。


 この事件があってからのち、カエムワセトの気持ちはますます暗く、思い悩む日が続いていました。
 単なる興味で巻物を手に入れてしまったものの、その巻物は、もとはと言えば神の書き記したもので、人間が手にしてはならないものです。中身を見てしまったネフェルカプタハは、妻子もろとも命を落としています。
 自分がこの巻物を持っていることは既に神々の知るところ。
 今、こうして生きていられるのは、まだ中身を見ていないからなのだが、もし中身を見てしまったら、きっと命を奪われてしまう。

 それでも、彼は、まだ迷っていました。

 苦労して手に入れた巻物をまたもとの地下墳墓に戻すのは惜しい。どうしても知りたい。中身が見たい。はるか昔、トト神が記した叡智とはどんなものなのか…。
 それさえ知ることができれば、死んでも構わないのではないか、とさえ、思うこともありました。
 学者とは、何かを「知る」ために生きているもの。ここには、普通の人間が一生をかけても 得られないだけの知識が記されているかもしれないのです。

 「どうすればいい…。」

 巻物を前に、ひとり悩みつづけるカエムワセト。
 と、その時、誰かが部屋に入ってきました。

 「兄上、ちょっとよろしいですか。」

 それは、巻物を取りに行くときにもついて来た、弟のアンフレルでした。今日はいつもと少し違う雰囲気です。

 カエムワセト「どうした、アンフレル」
 アンフレル「兄上が悩んでいるご様子だったので。思うのですが、その巻物は、やはりネフェルカプタハの墓に返しに行ったほうが良いと思うののです。」
 カエムワセト「…なんだって?」
 アンフレル「でなければ、兄上は悩み続けるだけですし、そのほうが思い切りが良いでしょう?」

 いつもオドオドして、兄のあとをついて回るだけだったアンフレルがこんなに立派な意見を言うことが、カエムワセトには信じられませんでした。一体何があったのか、と思うような成長ぶりです。

 アンフレル「そのかわり」

ぽかんとして言葉も出ない兄を見て、彼は薄く笑いました。

 アンフレル「返すのは、巻物であって中身ではありません。返す前に、中身を写し取ってしまえばいいのですよ。そうすれば巻物は返しても、中身までは失わなくて済む。」
 カエムワセト「何と! 書き写すためには中身を読まなくてはならない。中身を読んでしまったら、神の怒りに触れるのだぞ?!」
 アンフレル「だから、兄上が書き写さなければ良いのですよ。町の代書屋にやらせましょう。文字しか書けず、無学な代書屋ごときに中身の価値はわかりませんよ。よしんば分かったとしても、書き写した者は神の怒りに触れて死ぬのですから。」

 彼の意見は、至極もっともなことのように聞こえました。それどころか、カエムワセトさえ思いつきもしなかったような妙案です。
 けれど、と、カエムワセトは思いました。
 何も知らない代書屋を巻き込んで、罪にならないはずがない。そんなことで、神々をごまかせるとは思えない―――。

 アンフレル「どうしたのですか。兄上の探究心とは、その程度のものなのですか?」
 カエムワセト「……。」
 アンフレル「あれほど勇んで地下墳墓へ赴いた兄上とは思えませんね。ネフェルカプタハを騙してまで奪い取った巻物なのでしょう? どうしたのですか。兄上がやらないのなら、私が代わりにやりましょう」

弟が手を伸ばそうとするのを見て、カエムワセトは咄嗟に巻物を掴み取りました。

 カエムワセト「触れるな。どうすればいいのかは分かっている。だから少し時間をくれないか。」
 アンフレル「…分かりました。お早いご決断を。」

弟が部屋を出て行くのを、彼は、息をつめ、震えをこらえたまま待っていました。
 おかしい。
 アンフレルが、あんなことを言うはずがない。腹違いとはいえ、幼い時から共に育ったアンフレルのことだ、何だって知っている。
 ―――あれは、アンフレルでは無いのかもしれない・・・。
 ふと、そんな疑問が頭に浮かびました。神々なら、別のものの姿になることだって出来るのですから。

 (もしかすると私は、試されているのかもしれない。やはり、この巻物は人が手にするものではない)

 意を決したカエムワセトは、巻物をふところに隠し、人に見つからないよう部屋を抜け出しました。大神官である彼の部屋は、神殿に隣接する建物の中にあります。裏口からこっそりと神殿内に入ることも簡単に出来ました。

 冥界に属する神プタハのおわすため、神殿の奥は昼間でも暗く、ひんやりとした風が流れています。
 しかしながら、メンフィス大神殿に祀られた神は、主神であるプタハだけではありません。激しく燃える太陽の輝きを持つ女神セクメト、穏やかで明るい永遠の光を持つ神ネフェルテム、そして、他の神々も、同時に人々の寄る辺として、この神殿に形代を持っているのです。

 カエムワセトが向かったのは、神殿の書記官たちが崇めているトト神の祠でした。
 文字の読み書きが出来ない神官などいませんから、どんなに小さな神殿でも、トト神は祀られているものなのです。

 祠に誰もいないことを確認したカエムワセトは、安堵すると同時に体の震えがぶり返して、床にしゃがみ込んでしまいました。
 「トトさま、教えてください。私はどうすれば良いのですか? 弟まで、おかしくなってしまった。この巻物をお返しすれば、これ以上おかしなことが起こらずに済むのでしょうか。」
柱の間から差し込む光が部屋の中ほどまでを照らし、カエムワセトの足元に、薄い影を落としています。静かに見下ろす、神の像。

 その頃、トトは、あの地下墳墓へと赴いていたのでした。

                                         

  ――――vol.4に続く。



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