第二章 バンコク空港の一夜。

日本全国の大多数の学生と同じく、オレもあんまし裕福な学生ではなかった。エジプト渡航費用を稼ぐため、かなり過酷な肉体労働をした日々もあった。
 だが、それだけでは十分ではない。
 飛行機代。これが旅のポイントだ。

直行便を使えばもっと早く着くことは分かっていても、俗に言う「南回り」、つまりフィリピン・タイ経由の飛行機を使うのがいちばん、安い。
ただし、「乗り継ぎ」という、海外渡航者にとって最大のデッドリーゾーンがそこには存在した。

(※エジプト航空の乗り継ぎは、飛行機の中を清掃するだけなので荷物が無くなることはないのですが、この時の岡沢は飛行機そのものを乗り代わるのだと勘違いしてました。)

荷物がどっか別のとこに届けられちまったり、予定が大幅に遅れたりする。だが、問題はそんなことじゃねぇ。
バンコク上空に突入するや否や、オレたちの飛行機は、激しい雷雨に見舞われた。
お世辞にもあんまし立派とは言えないエジプト航空の飛行機は、たちまちのうちに揺れと、軋みの中の渦に飲み込まれてゆく。

 おいおいおい!!
 これっていわゆる「スコール」とかってヤツか? オレたちはエジプトに行こうとしてるんだ。その通過地点の気候なんて、調べてるわけねーよ!

天井がガタガタ鳴っている。室内灯は点滅。ガラス窓にはたたきつけるような大粒の雨。
それでも飛行機は、ムリヤリ旋回しながら高度を下げていく。
 「えー、本機体はただ今から燃料補給のためバンコク空港に着陸…」
着陸するんかい、この状況で?!
 「おい、ふ、藤村。」
オレはたまらず振り返った。
 「……。」
 「ふじむら?!」
返事がないと思ったら…
げっ、こいつ寝てやがる!! この状況で!

しまった。コイツ「眠りの一族」とあだ名されるくらい昔っから寝つき良かったっけ!
一度寝付くと目ぇ覚まさねぇ。
だから夏の昼間に電話すると、一家全員が昼寝してて、誰も出ねぇんだよ。
ご近所の人が不審がって様子見に行くほど、爆睡家族なんだよなあ…。

などと感心しているバヤイではない。
くそー、こんな時に心細さを分かち合う友も無しかよ。はっ、結局人間は一人で生きてますってか?!

仕方なく、オレは一人で耐えることにした。大粒の雨が滝のように流れて、外の様子は今ひとつわからない。ただ、地上がオレンジ色にぼんやりと明るく染まっていることしか。本当に着陸できるのか、オレは相当不安だった。自分の命を他人(機長)に任せねばならん、この状況がとっとと終わってくれることを願っていた。
だが…。

 ガタガタ…ガタガタ、ベリっ!
 「?!」
天井で、何かとてつもなくイヤな音がした。まるで、パネルがはがれて吹っ飛んでいくような…

さすがにこれには藤村も目を覚ました。
 「何か取れた?」
いや、取れた? って。
これ、飛行機なんですけど。天井から何か取れたらヤバいって。
 「本機はまもなくバンコク空港に着陸いたします。完全に停止するまでお席をお立ちにならないように…」
立てるかい!
異様に冷静なアナウンスが、かえって怖いくらいだ。何でこんな思いせなあかんねん。オレはもう、とっとと地面を踏みたくて踏みたくてしょうがなかった。

現地時間で、深夜二時。
死ぬような思いしつつ、ようやくたどり着いた中継地点・タイだったが、夜中とあって売店はほとんど閉まり、人気もほとんどなく閑散としたバンコク空港の乗り換えロビーに、オレたちは二人ぽつねんと腰を下ろしていた。
目の前の画面に文字が流れている。
…乗り換え便の離陸は、遅れるらしい。

それから、約二時間。オレたちは、たぶんそれまでの生涯で最も長い沈黙の時を過ごした。疲れと、もてあました暇と、寝るに寝られない状況。それに加えて、深夜という時間帯が悪かった。
テンションを上げる要素は皆無。普段のオレたちを知る者がその光景を目にしたら、たぶんビビって一歩引くだろうというくらい、陰気な雰囲気に包まれて、ただ時の過ぎるのを待っていた。

ようやくエジプトへ向かう飛行機に乗り換えることが出来たのは、夜明け前のことだった。ぐったりした二人の前に出されたものは、得たいのしれない香り漂う朝ごはん。

…茶漬けが食べたい。
藤村の呟きは、オレの内面の叫びと調和し、壊れかけた絆が再び強く結ばれた感じがした。


果てしない道を前に、エコノミー席監禁の旅は、まだまだ続く…。