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ここでは、古代エジプトの「首都」の位置について解説します。
古代エジプト王国の歴史は長く、その歴史の中で首都は何度か変更されてきました。大きく分けると「メンフィス」と「テーベ」。これが日本における京都(奈良)と東京のような関係だと思ってください。
右図をご覧あれ。
古代エジプトで最もふるい首都「メンフィス」、これが日本で言うところの奈良のような都です。メンフィスは古い神様プタハに守られた都で、伝統を守り、新しい神様や宗教には目もくれませんでした。位置は現在の首都であるカイロと反対側のナイル河岸ピラミッドのふもとに近い場所です。
ここに首都があったのは、ピラミッドが多数建設されていた「古王国時代」。
メンフィス周辺には、その後も長らくに渡って、その近辺に首都が作られ続け、河の対岸には「ヘリオポリス」、日本で言うところの京都もありました。(今は、その上にカイロの町が出来てます。)
ヘリオポリスは太陽神ラーを祀り、太陽の都として雅やかな文化を発展させた場所です。
時代が進むと、河の上流(地図で言うと下のほう)に首都が移ります。
新しい首都の名前は「テーベ」、これは日本で言うところの東京だと思ってください。
テーベは都として多いに栄え、大規模な建造物もバンバン建てられ、人口が集中し、地方や外国からやって来た人々もたくさん行き来していました。
ここに首都があったのは、国土の拡張が盛んに行われ、エジプトが当時の一大帝国として君臨していた「新王国時代」。
以上、古代エジプトの三大首都、「奈良」「京都」「東京」。
これを覚えたら、細かいところは後からついてくる。
『時代ごとの首都位置詳細』
先王朝時代
ネケン(前4000年ごろ)
この時代の大きな遺跡は、ネケンで発見されている。ただし、発掘されていない下流地域にも都市があった可能性は在り。
初期王朝時代
メンフィス(前3100年ごろ) 未確定
↓
ティニス(年代不明) 未確定
古王朝時代
メンフィス
第一中間期
ヘラクレオポリス(第9王朝) 多数の王朝が並立。全体の中心となる首都があったわけではない。
中王国時代
テーベ
↓
イチイタウイ(第12王朝) イチュ・ターウィ、イティ・タァウィなどとも表記されている。メンフィスのやや南だったと想定されている
↓
テーベ(第13王朝末)
アヴァリス(第14王朝)
第二中間期
テーベ(第16王朝、第17王朝)
アヴァリス(第15王朝/前1650年ごろ)
アビドス?(アビドス王朝)
王朝が複数並列しているため、第一中間期と同じく、全体の中心となる首都があったわけではない。
新王国時代
テーベ(前1550年ごろ)
↓
アケトアテン(前1350年ごろ) アクエンアテン、別読みでイクナートンの統治時代。短期間だけ遷都している
↓
メンフィス(前1336年ごろ) ツタンカーメン、別読みでトゥトアンクアメンの統治時代初期。これも短期間
↓
テーベ(前1323年ごろ) ツタンカーメンの死の直前から、ホルエムヘブ即位あたりの時代。
↓
ペル・ラメセス(前1290年ごろ) セティ1世統治時代 ただしテーベも首都機能は失っていない
第三中間期
タニス(前1069年ごろ) 下流地域で一番大きな都だったと考えられている。
↓
ブバスティス(前945年ごろ) この辺り、どこの都市が首都というわけでもなく連立していた
末期王朝時代
ナバタ、サイス、メンフィス、メンデスなど
このあたりは記録が豊富なので、細かく遷都の年代がわかっている。
プトレマイオス朝時代
アレキサンドリア
■基資料■
古代エジプト 都市文明の誕生(古今書院)
上記を元に、近年分かった新情報・新説などを加えてアレンジ
以上が首都の変遷になりますが、これが正しいわけではないです。諸説あるので、細かいところは今後変わってくる可能性はなきにしもあらず。古い時代はもとより、中間期と呼ばれる記録の少ない王朝並列期についても、新しい発見があるたびに書き換わっています。
古い時代ほど首都の資料が少ないので、正確にいつからいつまでそこに首都があったのかはハッキリしません。場所も、町が拡張されたり縮小されたり、移動したりするので、首都の名前は同じでも、時代ごとに微妙に場所が移動していることもあります。長期間首都だったイチイタウィやメンフィスなどがその好例です。また、同じ場所に何度も都が作られていると、古い記録は土の下に埋もれてしまうか、破壊されてしまい分からなくなってしまうこともあります。
例外は、短期間使われたのみですぐに放棄されて再利用されることのなかった首都、アケトアテンです。
首都となる都市にはいくつかの特徴があります。
各時代を通じてメンフィスが何度も首都に選ばれているのは、ここがちょうどエジプトの中心にあたり、ナイル川の分岐する場所だったから。この都市は、上下エジプトが統一された時代に計画的に作られたもので、地理的にも、上下エジプトの接点というシンボル的にも、国土全体を統治するのに都合が良かったようです。イチイタウィが首都とされたも似たような理由だと思われます。
テーベが首都として選ばれたのは少し理由が違っていて、ここが、分裂したエジプトを再統一した王様の出身地だったから。日本の戦国時代における安土みたいなイメージ。
テーベから遷都されたアマルナは、王様が自分のワガママで無理くり都を移したものの巧くいかずにすぐ放棄されたので、とくに利点はなし。ある日突然、つくば市を首都にするッ! と宣言したものの誰もついていかなかった… というような感じです。
各首都のうち、テーベについては現在も「ルクソール」という地名で栄え、ヘリオポリスも首都「カイロ」の郊外として町がありますが、メンフィスについては、村があるくらいで現在は都市ではありません。
地理的に都合がよく、エジプトの歴史の始まりから長きに渡って都として栄えてきたメンフィスが放棄されたのには、4つの段階があったといわれています。
まず最初に、前619年にアッシリアの軍勢によって町の名前の由来ともなった「白い城壁」を含め、町が徹底的に破壊されたこと。
続いてローマのテオドシウス1世がキリスト教以外を認めないと宣言したことにより、この町の守護神だったプタハの信仰が禁止されたこと。
さらに、対岸に新たに出来たカイロなどの町にメンフィスの石材が多く流用されたこと。
そして、ナイル川の氾濫によって残された町が再起不能になったこと。
こうしてメンフィスは再建されることなく放棄されてしまい、現在残されているのは僅かな遺抗くらいなのですが、現在の首都であるカイロは、メンフィスからそう遠くない場所に位置していて、やはりこの辺りがエジプトにとっては重要な中心地なのだなということを感じさせます。遺構の発掘は行われていませんが、現在ではボーリング調査によって、大まかな首都の位置の見当だけはつけられているようです。