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中王朝時代 第11王朝
Mentuhotep U
在位年代;前2009−1959年王朝の首都;テーベ
埋葬地;デイル・エル・バハリ(テーベ対岸)
出身地;テーベ
家族構成;父/アンテフ三世 母/イアフ 娘または妻とされる女性たち6人(ヘンヘネト、ケメシト、カウィト、サドゥヘ、アシャイト、カウィト)
息子(メンチュヘテプ3世)、妃(テム、ネフェル)
名前に含まれる「メンチュ」は、テーベを守護する戦の神モントゥのこと。その名に表されるように戦うことを重視していた時代だったようだ。
この王の時代に至って、ようやく分裂していたエジプトが再統一される。そのため、王朝番号に因らずこの王を「中王国時代」の最初の王に設定する学者もいる。
●国土再統一への道
即位してからだんだんと領地を広げていく様子が、ホルス名の変化に示されている。上エジプトの覇者となった「白冠の主」のあとに、下エジプトも併合したという「二つの国の統治者」という名前が続く。
治世14年目に、下エジプトを支配していたヘラクレオポリスの第10王朝の王が戦いを仕掛けてくるが、これを退ける。この戦いでの戦死者60名の墓がディル・エル・バハリで見つかっており、「戦士の墓」と呼ばれている。反乱鎮圧に関わった兵士たちは、日本でいう英霊のような扱いで丁重に葬られたようだ。
治世39年目には、エジプト全土を支配していたようだ。
●テーベ一極への転換
古王国時代の崩壊は、地方豪族が力を持ちすぎたことが一因と考えられる。そのため、この王は首都テーベの中央集権制を強化する方針を打ち出した。テーベ対岸の壮麗な葬祭殿の建設は、首都としてふさわしい威厳の演出のためでもあったのだろう。
また、官僚制度が整えられ、王権に忠誠を誓う家臣たちが揃えられた。
●治世年について
治世年の51年はトリノ王名表から来ている。治世40年までは確実に存在し、長寿だったことが分かっているため、この数字が採用されている。
●エジプトの南征
エジプトの国土分裂にともないヌビアの支配権が弱まっていたが、国内が固まったことで、再度ヌビア併合に向けて動き出したものと思われる。かなり大掛かりなヌビア出兵を行ったようで、ヌビアで戦死したのちエジプトに運ばれた兵士たちを収めた、「世界最古の戦死者墓地」が出土している。
出兵時の兵士の像が残されているが、それから判断するに、当時の軍の装備は槍と革張りの盾がスタンダードで、これに弓兵を加えたものが主だったようだ。まだ、馬や馬車といったものは輸入されておらず、歩兵のみの戦いだった。
また、第11王朝の王たちの中で、はじめて"王の五重名"すべてを持っていたことが分かっている。これはホルス名が三度目に改訂され「二つの国の統一者」となった時に全て揃う。国土の再統一を成し遂げた自信からくるものだろう。
●デイル・エル・バハリの葬祭殿
メンチュヘテプ2世は、巨大な葬祭殿をテーベ対岸(ナイル西岸)に築いている。現在ではその脇にハトシェプスト葬祭殿があり、観光客はそちらに行ってしまうわけだが、脇にある台座のみが残されている葬祭殿に気づいたら、それがこの王様の作ったものである。葬祭殿の中には空の墓(セノタフ)のみが存在し、実際の玄室は背後の崖の中にある。王のミイラは見つかっていないが、周囲に王妃たちの墓が作られたことは分かっている。
●第11王朝の黒い像
第11王朝の王や王妃たちは、黒い肌で表現されることが多く、このメンチュヘテプ2世も真っ黒な肌の像が見つかっている。しかしこれは、王族が黒人だったことを示しているわけではなく、豊穣の黒き大地の色を肌に写したもので、豊穣神の肌が黒く描かれるのと同じであると考えられている。
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