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主要都市データ/メンフィス

―プタハ神の町―

【都市データ】
現代名/現在は中心部にミト・ラヒーナ村
古代名/メン・ネフェル anc. Men-nefer/イネブ=ヘジュ/アケト・タウィ
ギリシア語名/メンフィス Memphis
建造者/おそらく、初期王朝時代の王。(※ヘロドトスはミン王としている)

最古の都市名「イネブ=ヘジュ」は白き城壁を表し、最初に作られた際の町の外観を表していると思われる。アケト・タウィは「二つの土地の地平線」という意味で、上下エジプトの中心点であることを表わした名前。

建造・居住年/初期王朝建造〜完全崩壊は前七世紀ごろ
居住人数/データ未発見
規模/―
発見/遺跡自体は完全に崩壊してるため、現在、発掘中。その全貌はまだ明らかにされていない。

【来歴】
古代エジプトの歴史の中で、最も長い間、首都が置かれた土地。ちょうどエジプトの国土の中心に当たる。
「メンフィス」というギリシア名の元になったとされるメン・ネフェルは、中王国時代の王・ペピ1世のピラミッドの名前。また、現代ではアラビア語ではメンフィスが訛った「メンフ」という名前で呼ばれている。

河の分岐するちょうどその場所にあるため、古代からナイルの洪水に悩まされ、何度も床上浸水を被りながら、破壊と再生を繰り返してきた町でもある。


この町の主神・プタハは第一王朝以前から崇拝される古き神々の一人とされ、直立したミイラの姿の神として表現される。そのため、古代の実在した王が神格化されたものだという説がある。
プタハ神は、太陽神ラーを頂点とする太陽神話には属さず、独自の神話体系を持ち、地下・冥界の神として君臨する。王朝期を通して、またプトレマイオス朝時代に入ってからも重要な宗教施設であり続け、独自の文化と立場を守り続けた。外来人の王朝であるプトレマイオス王朝の歴代王たちは、土着エジプト人の信頼を得るためにメンフィスに定期的に奉納し、神事のお伺いをたてていたという。

メンフィスが放棄され、現在のような崩壊した状態に到る経緯は以下のような流れだったとされる。

・紀元前671年、アッシリア王エサルハッドンが町の特徴でもあった「白い城壁」をふくめ町を破壊。
・テオドシウス1世(後379-395)がキリスト教以外の異教を禁止(後380年)。プタハ信仰の禁止により遺跡の荒廃が進む。
・対岸にフスタートやカイロの町が建造されはじめ、遺跡の石材が流用される。
・度重なる河の氾濫により完全に泥の下に沈む。

【町マップ】



出典◆大英博物館 古代エジプト百科事典(1997)
現在残る最も目立った建造物は新王国時代のもの。

メンフィス周辺の遺跡と都市の配置図 (こちらは「古代エジプト 都市文明の誕生」より)

【現在の伊籍周辺】

ラメセス2世の巨像など出土品が観光地として展示されているため訪れる観光客も多いが、現在のメンフィス周囲はただの村。カイロ中心部から距離があるため車もまばら。大きな建造物などはなく、畑、村の家々、道沿いに露店、といった長閑な田舎の風景である。



柵で囲まれた遺構。よーく見ると石材の土台っぽいものがあったりするが、傍目には何もない荒野。
かつてのメンフィスの繁栄の残り香は、発掘品が集められたごく一部の区画でしか感じることは出来ない。




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