まず最初に了解しておくことは、日本人が抱く「騎士」というイメージと、西洋人が抱く「武士」のイメージは、だいたい同じようなものであるということ。
すなわち、理想化されてロマンチックに色付けられたもので、実像とは異なる可能性が大きいということ。
そして何より、「騎士とはどのようにあるべきか」を、当の騎士たち自身がよく分かっていなかった ―― 一度として、騎士の「理想像」が統一見解として現われたことはなかった。日本で言う「武士道」のような「騎士道」は、厳密な意味では存在していなかったのである。
■騎士の発生と変化
諸説あるが、騎士の原型は騎馬兵団から生まれた武装集団だったと言われる。いわゆる「戦士」である。最初は、数十人の軍隊の中で数人だけ馬に乗っているような、非常に小さな軍隊だったかもしれない。職業的な騎士は、土地を守る自警団や、その自警団にやとわれた傭兵から発生したといわれている。
騎士を意味する言葉は、ドイツ語で騎士はritter。ritterとは、riten(騎乗する)からきている。ritenは、英語ではriderに当たる。「ライダー」というと現代日本語ではバイクに乗る人のイメージが強いだろうが、当時はバイクなど無いので、意味は「馬に乗る人」だ。
ドイツと並んで騎士文化が華やかだったフランスでは、騎士はchevalier(シュバリエー)と言う。フランス語でcheval は馬のことだから、chevalier も、意味は「馬に乗る人」である。他、イタリア語ではcavaliere(キャヴァリエール)、スペイン語ではcaballero(カバレッロ)というようだが、これら全て、馬に乗るという意味の言葉から派生している。
これらの名称からしても、騎士とは馬に乗っていることが大前提ということが分かる。
ちなみにknight(ナイト)は、アングロ=サクソン語のcniht(クニヒト=従僕)から派生した、ブリテン島における歩兵戦術中心の戦士階級を指すので、実はちょっと系統が違っていたりする。
武装は当初は簡素なもので、11世紀頃の騎士たちはチェインメイルにバケツのような兜、拍車をつけて戦っている。(このコーナーの最初に乗せた絵)
しかし12世紀の終わりにイングランドでチェインメイルを貫き通せる弩が戦術として採用されるようになり、次第に武装が強化され、高価なプレートメイルが主流となっていく。しかしそれも15世紀に大砲が出現すると、そもそも重装騎兵のもつ意味が薄れてしまい、騎士は儀礼用のお飾りに凋落してゆく。
戦士の本分である戦場を失った騎士たちは、やがて驕奢趣味に走り、飾り立てた甲冑でスポーツ的な決闘をやるだけの「貴族」「紳士」へと変化していくことになる。
■騎士道とはなにか
ぶっちゃけ言ってしまえば、殺伐とした殺し合いに導入された「ルール」体系である。
騎士の仕事とは戦うこと。戦うことは殺し合いであり、武勇を誇る騎士とは手練の人殺しでもあるのが現実だ。
そこに、殺伐具合を和らげるために導入されたのが、戦意を喪失したものを殺さないとか、身代金を払う約束をさせて釈放するとかいった紳士協定を順守し振る舞うことなどのルールだ。ただ単に多くの敵を殺せばよかった「戦士」と、ルールに則って評判よく振る舞う「騎士」との違いである。
騎士に求められたのは「武勇」「忠節」「気前の良さ」で、敵を打ち倒す武勇に対し、敵への寛容さ、主君への礼儀などが「忠節」とされた。「気前の良さ」とは、奉仕者への報酬、祝い事での贈り物などだ。騎士の原型がゲルマン系の戦士だと仮定すれば、これはヴァイキングの「贈与」の概念の進化に他ならない。
ただ面倒なことに、騎士たち自身が良しとしたこれらのシンプルな「騎士道」に対し、身内の争いや内輪もめ、殺伐とした戦いでの戦果を誇って武勇とは何事か、とイチャモンをつけた人々がいる。教会と、夫の従属物でしかなかった女性たちである。
教会は騎士たちの殺し合いを批判し、やるなら異教徒相手にやれ、戦場は外にあると扇動して十字軍を起こさせた。
また一方、貴婦人たちは、詩人や文筆家のパトロンとして、自分好みの恋愛騎士ドラマを書かせては、騎士とは貴婦人にかしづく理想の恋人であるべきだ、といったイメージを広めようとした。
これらの相反する理想が渾然一体となっているのが、中世文学の中の騎士像である。
だから、文学に残された騎士の姿は、決して実際のものだったと考えてはならない。それは多分にパトロンまたは著者の意向によって大きく歪められている。自らの武勇を誇るべく書かれた伝記の中の騎士は敵を倒すことにかけては無敵の勇者だろうし、著者が僧侶であり、騎士とは神と教会に忠実であるべき、と考えていたならば、その物語の中の騎士は信仰心に篤く、異教徒だけを打ち倒す存在となるだろう。また、貴婦人のパトロンがお気に入りの詩人に書かせた物語の中の騎士は、甘く美しい声で愛を囁く存在になるに違いない。
騎士がどうあるべきかは、騎士が存在した11世紀から15世紀にかけての時代の中、多様な価値観の中で浮動する曖昧なものだったのである。
■騎士と貴族
騎士には、地主とそこに雇われる兵力の区別があった。11世紀頃、馬に乗って武装できるほどの余裕と財力を持てるのは、土地を有する領主と、その家臣として俸禄を受け取るか、土地を与えられていた者に限った。農民は武装を揃えることが出来ず、武器を扱う専門知識もなく、完全武装した騎士の前に太刀打ち出来ないという前提があった。
「職業軍人」として貴族に雇われていた騎士たちは、支配者階級ではなかった。ゆえに騎士であっても貧しい人々はいたし、日本の武士にも貧富の差があったのと同じことで、帯刀はしても、浪人のような暮らしをしていた者も少なくない。マリー・ド・フランスの短詩を集めた「12の恋の物語」(岩波文庫)にも、「騎士とは、単なる称号であって、必ずしも経済的に裕福である人間と対応してはいないのである」(P297)と、書かれており、実際に物語の中では、恋人を裕福な領主に取られてしまう貧しい騎士の姿も描かれる。
大きな領地を持つ騎士はやがて大貴族に、貧しい騎士は下級貴族になっていく。
ただし、騎士は馬に乗らねばならず、歩兵は騎士ではなく、貴族ではないものとみなされていた。(11世紀頃)
やがて大都市に住んで領主なみの財力を持つ「都市民」と呼ばれる人々が誕生する。騎士ではなく貴族でもないが、貧しい騎士以上に裕福な人々だ。
ここに至り、かつての「平民は、馬に乗って武装できるほどの余裕と財力を持てない」という前提は崩れ去る。加えて、裕福な市民たちが貴族の宮廷に奉仕するようになると、下級貴族たちはますます仕事がなくなり、多くが消えてゆくことになる。
■騎士の概念を発展させた場所
ドイツ、フランス、イギリスあたりが騎士文化の中心となったが、中世はフランスとイギリスが同君であった時代も長く、区別する意味はあまりない。
騎士の原型が生まれた時代は古いが、実際の繁栄は11世紀、ザーリエル朝(ザリエル朝)だと言われる。
黄金期を迎えるのは、ザーリエル朝に継いで現れる、シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)の時代(1138―1254)だ。
さらに、イングランドのプランタジネット朝(1154年 - 1399年)を押さえておけば、だいたい主要な話は追える。
プランタジネット朝はフランス王家から分離し、長らくフランスの大部分も統治している。
騎士の概念の発達には、文学作品や吟遊詩人たちの歌といったものが貢献している。現在に残る多くの作品が、これらの王朝の庇護下で書かれた。
騎士文学と騎士道の黄金時代は、これらの王朝の終焉とリンクしている。
フリードリヒ2世の死によってシュタウフェン朝は途絶え、皇帝のいない「大空位時代」と呼ばれる混迷の時代が数十年続き、騎士の系譜も、詩人たちの系譜も途絶える。華やかなりし騎士たちの物語が失われた後、ドイツ文学の世界には、名を残す作家が現れない。
また、プランタジネット朝も後半はフランスとの領土争い、百年戦争(1337年〜1453年)へと突入していくため、この王朝下で書かれた有名な作品は13世紀頃に集中している。
ただ、十字軍にしろ、百年戦争にしろ、戦場があるということは騎士の存在意義があるということでもある。騎士たちの没落は、騎士の概念を成熟させる宮廷を失った時ではなく、戦場を失った時に始まった。
■騎士のいなくなった時
というより「要らなくなった時」というべきだろうか。
冒頭に書いたように、騎士はもともと、特殊な訓練を必要とする重装騎兵だった。
しかし15世紀以降は、大砲などの武器の発達により、特別に訓練を受けていない歩兵のほうが効率よく戦争が出来る時代が訪れる。もはや重装騎兵は戦争の中心ではなくなり、ルールに則り名誉を求める肉弾戦による殺し合いの日々は過ぎ去ったのである。
騎士が本来の意味での騎士であった時代は、13世紀後半で終焉を迎えている。
それは十字軍遠征の熱が下火になった時代とリンクしている。戦いに賭ける戦士たちの熱が冷め、手堅く蓄財する方向に意識が向き、戦士から紳士へ、騎士から貴族へと変貌していったことを意味しているのかもしれない。
最後の騎士と呼ばれる人は16世紀に生きたハプスブルグ家のマクシミリアン1世だ。かつては戦士階級であった騎士も、マクシミリアンの時代には「金を積めばなれるもの」というイメージに変化する。また、帝国に仕える帝国騎士団や、宗教的な目的を持つ特殊な騎士団なども現れる。ファンタジーゲームにありがちなイメージ…騎士=貴族というイメージ、騎士とは騎士学校に通えば成れるもの、飾り立てた美しいプレートメイルに身を固めた姿などは、実際は、騎士がもはやお飾りと化していた16世紀ごろのものと言ってよさそうだ。