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トリックスター神話


 「トリックスター」と、いう言葉をご存知だろうか?
 神話の中の道化師、いたずら者、ロキやヘルメスといった存在を思い起こす人も多いかと思う。
 だが、彼らは、時代とともに姿を変え行く神話の中でつくられた、かなりのちの時代の存在だ。もっと原始的な、人間が最も古くから持つ伝承の中の、「真の意味でのトリックスター」と呼ぶべきものは、ここにある。
 社会的逸脱者、意味不明な行動を取る道化者、残酷であり、偉大でもある不可思議な存在。それが、「トリックスター」だ。
 ワタリガラスは、まさにそのような特徴を備えているがゆえに、トリックスターと呼ばれる。

 だが、神話そのものについて語ることは、とても難しい。部族の独特なしきたりを理解して語るのがとても難しかったからだ。例えば…「戦いに出る前は性交をしてはならない」「女は矢尻を手にしてはならない」「生理になった女性には食のタブーがあり、肉を口にしてはならない」等。インディアン文化を知るものでなくては、細かなディティールを理解することは出来ないだろうから。

 なお、このコーナーは、晶文全書の出している「トリックスター」という本を参考にした。


■トリックスターとは何か

 まずは、問題のウィネバディゴ・インディアンから採集された古いトリックスター伝承について語ろう。
 本では「トリックスター」が人名のように扱われているものの、ウィネバディゴ族の言葉では、トリックスターは「ワクジュンカガ」---手際のよいもの、と呼ばれている。ボンカ族では「イシュティニケ」、オーセージ族では「イツィキ」、ダコタ・スー族では「イクトミ」。それぞれに言葉の意味は違っているが、指しているものは変わらない。
 要するに、「トリックスター」は個人名ではない。そういう人物だ、という概念の象徴だと捉えたほうがよいだろう。

 このインディアン部族の一連の神話群は、とても古い、古い形をなしている。
 キリスト教の影響ももちろん少しはあるのだが、それ以前の、他の文明の手の全く及んでいない時代の形をだいたいそのまま残している。文明…と簡単に言うが、おんなじ人間が作った話なのに、ここまで理解しがたいものか。ちょっとカルチャーショックを受けてしまうところもある。ま、はっきり言えば、「コイツ、何考えてんのかわかんないヨ」…と、いったところ。

 トリックスターは、人であって人ではない。ときどき動物と一体化するし、神のようにあらゆるものを作り出し、世界に規則をつける。死なない。年をとらない。かと思えば成長したり結婚したり子供を作ったりもする。全くもってよく分からない。
 しかし、そのワケわからん生態(生態って言っていいのか)に、心地よさを覚えるのも、また事実だ。
 神話とは、このようなものであるべきだ…と、私は思う。そして、ワケわからんままに惹かれることこそ、トリックスターらしさなのだとも。

 この、インディアン伝承のトリックスターは、しばしば、「最初の男」とか、「世界の創造主」とか呼ばれている。あたかも、フィンランド叙事詩「カレワラ」の、ワイナミョイネンのように。読んでもれば分かるが、トリックスターはワイナミョイネンとよく似ている。魔法に通じ、様々な知識を持って動物や人間を出しぬく。人々は彼を笑うと同時に尊敬もし、誰もが彼を知っている。
 ドジるところもまたそっくり。
 あるときトリックスターは、アライグマ親子を騙して殺してしまう。そんでもって火にかけて、コンガリ焼いてしまう。なのに、食べようとしたところでウッカリ木の枝の間に手を挟まれて、目の前で狼たちに折角の肉を食べられてしまうのだ。
 …おばかさん。

 かなり笑えるこの話には、トリックスターの狡猾さと無邪気さ、残酷さと憎めない茶目っ気がたっぷり含まれているように思う。何も知らない親子を騙して食っちゃいました、では単なる残酷物語だが、いざ食べようというときになって間抜けな失敗をしでかすことによって、トリックスターに愛着が生まれてしまう。
 そうして、ツッコミを入れているうちに話にどっぷりとハマってしまうのだ。(「カレワラ」で実証済。)
 
 トリックスターとは、いかなる存在なのか。
 これに対し、資料本の著者は冒頭でこう述べる。

 『創造者であり破壊者、贈与者であって反対者、他を騙し、自分が騙される存在である。』と。

 また、さらにこうも続けている。

 『彼は何者ものも欲していない。押さえつけることの出来ない衝動からのように、彼はつねにやむなく振舞っている。彼は善も悪も何も知らないが、両方に対して責任はある。
  道徳的、あるいは社会的な価値は持たず、情欲と食欲に左右されているが、その行動を通じて、すべての価値が生まれてくる。』

 まさしく、そのとおりなのだ。
 トリックスターは厄介ごとを引き起こすが、それがのちのちの世界を形作っている。ちょうど、ワイナミョイネンが思いつきでカンテレを作ったように、サンポ戦争が大地の恵みを生み出したように。 思いついたまんまムチャクチャやらかすが、それに対する責任能力はあるし、何者にも束縛を受けないが、制約は存在する。
 ワタリガラスがアラスカのトリックスターであるように、おそらく、ワイナミョイネンは、フィンランドのトリックスターなのだろう。
 トリックスターという存在は、世界各地の神話に少しずつ形を変えて登場する。 彼はどこにでもいて、どこにでも現われる。
 なぜなら彼は、「誰もが知っている」、すべての人の内に存在する男なのだから、と。
 ユングの言うような人類普遍の記憶かどうかは兎も角として、そのような存在が、古来より求められ、イメージされてきたことは、確かなのだろう。
 人は誰でも、意識の奥に、トリックスターを隠している。
 そう考えると何とも楽しく、子供たちはすべてトリックスター予備軍だ、とか、アニマに対抗するものだ、とか、またぞろ色々と説を作れそうでもある。



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