アイスランド・サガについてのコンテンツは独立させてしまったので、ここでは大雑把に。
●アイスランドへの移住
ゲルマン各部族は、ヨーロッパ全域に渡って大移動を繰り返していた。
その長きに渡る旅は、時に略奪のためであり、新たな住居を求めてであり、土地を奪い合って他部族との争いに敗れた結果の逃走であったかもしれない。彼らが定住の地を得るのは、移動がはじまってから何百年も後のことだ。(ちなみに、カール大帝がローマの冠を戴くのは紀元800年のことだ)
ただし、彼らが早い段階でキリスト教との融合を果たした地域では、独自の神話というのは、ほとんど残されなかった。
現在我々が手にすることの出来る北欧神話の文献資料が、最初に挙げた「エッダ」などアイスランド・ノルウェーなど北欧に偏っているのは、実はそういうわけなのだ。
(北の果ては文化の中心地から離れているため、宗教が伝播するのに時間がかかった、ということ)
特に大陸から離れた「島」であるアイスランドでは、布教が行われた時期だけでなく、既存信仰の融合の具合も他の地域とは異なっていた。
アイスランドには「王」がおらず、地域の運営はすべて、民会という会議で決められていた。ノルウェーのように、王の権威によって異教が禁止されることのなかったこの島国では、庶民がゆっくりと新教を受け入れていくことによって、既存宗教との共存をある程度まで可能にした。
よって現在手にすることのできる神話資料の大部分が、キリスト教とゲルマンの神々とのゆるやかな入れ替わり過程で記録された、アイスランド(およびその周辺諸島)産の文献になる。
「北欧神話」と言うとき、その概念の大半は、アイスランドに残された記録に起因するのだ。
●歴史物語としてのアイスランド・サガ●
ノルウェーからアイスランドへの民族移動は、他地域への移住と異なり、かなり遅い時代に始まっている。
アイスランドの発見は、870年。最初の移住者は、インゴールヴという男だったという。
年表によれば、ハラルドが専制君主として王位についたのは、この発見から2年後だったとされる。
「美髪王」の異名をとるハラルド王は、ノルウェー全土を支配し、従わない者から容赦なく土地を取り上げた。この支配から逃れるため、また反逆によって命を狙われたため、多くの者が移住民となって、神話と伝承を抱いたまま、新天地アイスランドを目指したのだという。
このようにして本土から離れ、新天地での暮らしを始めた人々だが、母国ノルウェーとの繋がりは完全に切れてしまったわけではなかった。人々の行き来は健在だったし、もちろん、言語や生活様式も、大して変わらなかった。
ただ、アイスランドは、一種独自な文化を築いていった。王がいないため、人々は独自の法律をつくり、すべてを地域住民の集団意思決定によって定めたのである。
地域の歴史としての「アイスランド・サガ」という文学ジャンルが生まれたのは、この特殊な環境に起因するという。
人々が、実際にあった家系の出来事を”噂”として語り継ぐうちに「サガ」となっていったのだと。
言い換えれば、アイスランド・サガとは、文学作品というよりは、人々の記憶そのものである。当時の人々の生活の記録と言ってもいい。
もちろん元が噂なので、誇張されたところ、補正されたところも多いだろうが、人々の考え方や傾向については、おそらく、その当時の常識を忠実に伝えたものだと思う。
ところで、「北欧神話」というとアイスランド・サガより古いものと思われがちだが、実は、記されたのはサガよりも後の時代になってからである。
もちろん神話は、歴史が語りだされるより以前から人々の間に受け継がれていたのだが、わざわざ形にして「記録に残す」作業がされていなかったのだ。そのため、写本自体の古さからいけば、サガが前、神話(エッダなど)が後、という形になる。
現在、文字として残されている神話だが、かつては「歌謡」として、節をつけて歌われていただろうとされている。
皆が知ってるものを、敢えて文字にする必要は無い。吟詠で語り継がれたものを、音のない「文字」だけに直すことを思いつくまでに時間がかかったのも、大いに在り得る話だ。
●言葉は新教とともに運ばれた●
口伝として伝えられていた物語や神話が、書物としてまとめられるようになるのは12−13世紀からになる。(比較対照/ベーオウルフの成立→8−9世紀、スノリエッダ→13世紀、ニーベルンゲンの歌→13世紀初頭)
ゲルマン民族には、それまで、書くという習慣は存在しなかった。ルーン文字という文字も持っていたが、この文字は紙に記すためのものではなく、「刻んで使う」文字であり、記録には適さなかった。
記録のための文字と、紙に書くという習慣を持ち込んだのは、キリスト教の宣教師、および宣教師の従者たちであった。
最初に物語を書いたのが、布教のために派遣されてきた宣教師たちだったのか、それとも宣教師たちから文字を学んだ現地の人々だったのかは、分からない。だが、最初に文字で書き記すことを知ってから、約百年は、アイスランド人自身による記録は見当たらないようだ。
木材の乏しい北欧では、羊皮紙、つまり羊の皮で作った紙に文字を書くことが一般的だった。
羊を多く飼うアイスランドでは、羊皮紙に不足することは無かっただろう。
ちなみに、アイスランドにキリスト教の僧侶を送り込んだのは、本国ノルウェーの王家だった。
キリスト教はまず、高い身分の人々に受け入れられ、そこから民衆へと広められていった。次に王が狙ったのが、支配から逃れてはるか西方に浮かぶ島、アイスランドだったというわけだ。
時代の流れというのは、土地が陸続きである限り決して止めることは出来ない。ノルウェーがキリスト教国になったのは、ローマから次第に北上してくる改宗の波に押されてのことだっただろう。
だがアイスランドは、海という隔たりがあったからこそ時代の波を受けるのが遅れ、その波も、激しさをなくして穏やかにやって来た。
もしもハラルド王によって多くの人々が追放されていなかったら、北欧神話の大半は、永遠に失われてしまっていたかもしれない。
もしもアイスランドがノルウェーから遠く隔たっていなければ、厳しい異郷弾圧の中で、人々の古い信仰は完全に奪われてしまっていたかもしれない。
歴史の偶然が、神々をアイスランドの記憶の中に生き残らせた。そして、アイスランドは、神話のタイムカプセルと呼ばれる島となった。
”もしも、アイスランドが北欧に無かったら?”…たとえば、ロシアに近い海とか、イギリスに近いフェロー諸島のような場所にあったとしたら?
果たしてこの神話は、「北欧神話」と呼ばれたのだろうか。
答えはYesである。なぜなら北欧神話とは、「北欧」という地域の神話ではなく、ゲルマン民族の神話だからだ。たとえアイスランドがイギリスのすぐ隣にあったとしても、そこにゲルマンの人々が住み、本国と同じ神話体系をもっていたなら、もちろん北欧神話―いや、ゲルマン神話、と呼ばれただろうが。
ここでは、「北欧神話とは何か」について、北欧神話と呼ばれているものは「北欧」という地域に限定された神話ではないこと、ゲルマンの信仰ということであればヨーロッパ全土を視野に入れて語るべきであることなどについて、なんとか簡単に紹介した。
だが、ものの見方は必ずしも一つである必要はないし、あなたが「いや、そうではない」と主張されても一向に構わない。
言ってしまえば、このコーナーは自分の覚書のようなものである。
現在、北欧五カ国と呼ばれている中で、ただ一国フィンランドだけは語族も文化も異なることは、既に紹介した。
「北欧神話」の呼び名が正しいかどうかについては、この「フィンランドは、北欧神話と呼ばれるものを伝えていない」という点も大きいが、「フィンランドを除く北欧の神話」と断った上で、「北欧神話」という呼び名をすることは出来るだろう。
また、北欧神話とはいうものの、実際に神々が出てくる物語は「エッダ」が中心なのだから、エッダ神話と呼ぶべきではないのか、という考え方もある。
北欧で書かれたゲルマン神話とはいえ、スノリは、神話を神話として書き残そうとしたわけではない。スノリエッダに関して言うならば、この書物は、あくまで「詩人のための手習い書」として作られたものに過ぎない。実際の信仰とどこまで重なるものかは分からない…。
このような慎重意見からすれば、「エッダ神話」という呼び方も、可能だろう。
また、ゲルマン民族には多くの部族があり、本来の出身地である北欧に留まった部族と、南下したゴート族などでは、信仰の細部が違っていたという研究もある。現在残っているのは、そのうちごく僅かな部族のものだけだ、というのだ。
彼ら、同系列であるはずのゲルマン民族神話を 、現存しないものまで すべてひっくるめて語ろうとすれば、「ゲルマン神話」と呼ぶしかなくなる。事実、この呼び名は北欧神話と同じくらい広く定着しているように思われる。私もこの呼び名が一番好きだ。
このサイトは、「エッダ」という書物や、「北欧」という地域に限定せずに、一連の伝承を語ろうと試みる方向で作られている。。
神話は、語りつぐ人々が生きている限り絶えないもの。逆に言えば、語りついだ人々の存在を無視しては考えられない。
人は歴史を作る。時代ごとに変化する。したがって、神話を語るにしても歴史は無視できない。
ゲルマン神話と呼ぶとき、この神話には、北欧を離れたゲルマン民族の神話も含まれるし、キリスト教的な考え方と融合し変化したの神話も当てはまる。ゲルマン民族が築いた国の神話はすべてゲルマン神話と呼べるし、神々の姿が見えなくとも、かつて神々とともに生きた人々の精神が生きていれば、その物語はすべて仲間として受けいられる。
…そんな気がする。
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