古英詩 ベーオウルフ-BEOWULF

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「ベオフルフ 呪われし勇者」レビュー

★このレビュー内容は激しいネタバレとベーオウルフ愛を含みます。

<基本データ>
ジャンル : アクション
製作年 : 2007年
製作国 : アメリカ
配給 : ワーナー・ブラザース映画


ウケ狙いというわけでもないのだが、どうもこの映画を見た人たちがこぞって「原典に忠実だったよ」「でもイマイチよく分からなかった/面白くなかった」というので、怖いものみたさで出かけてしまったので、ついでに感想文をあげておこうと思った。

結論からいこう。

 この映画は、古英詩ベーオウルフとは別物。
 ベーオウルフを元ネタにして作られたファンタジー映画である。



なので、…まあ、ある意味、安心して見にいけるっちゅーか。
人物名や地名など一部は確かにベーオウルフのものだ。ストーリーも大雑把には原典に沿っている。
しかし、それらは表面上は似ているものの細かく見ていけば似ても似つかない。ていうか元々のベーオウルフはあんなDQNじゃない。

ただベーオウルフをネタにしただけのファンタジー映画だから、登場人物や怪物たちがフルCGなのは大して気にならない。史実に基づく発見、原典に忠実な感動を探すことは難しいだろう。これは新しいタイプの架空物語であり、伝説を元にした御伽噺である。

#導入部分の「西暦507年…」や「ローマ人たちの神(キリスト)に祈ればいい」といったセリフに惑わされてはならない。実際の西暦507年なら、まだデンマークには布教されていない! この映画の舞台は、ベーオウルフの舞台とは別の世界の何処かに設定されているのだ。


この映画が何となく物足りなくて、何を言いたいのか分からなくて、中途半端なまま終わってしまっているのはストーリーの大筋だけは原典をなぞりながら、設定や登場人物はオリジナルという「つぎはぎ」の状態だからだ。
偉大なる元ネタを完全に自分のものにすることが出来ず、消化不良のアレンジをしてしまったがために、全体の焦点が定まっていないのは、しょうがない。オリジナリティを持たない人が、偉大なる原典を元にパロディしようとするとハマる落とし穴… と言うべきか。(そこまで言うとキツいか。)


具体例を出してみる。


序盤ヘオロット(牡鹿という意味である)で、王妃がたてごとを弾いて歌うシーンがある。
しかしゲルマン人は楽器を持たない。いかなる弦楽器もサガの世界には登場せず、楽器そのものも、楽器を描いた石碑等も見つからない。簡単な打楽器などはあったかもしれないが、弦楽器のような繊細で技量を要求されるものは、存在した可能性は低いだろう。
たてごとを弾いて歌うのは妖精の国アイルランドの楽士あたりか。古代の武勲詩は声だけで、楽譜も歌詞もメモもなく、歌い手から歌い手の記憶へと歌い継がれていった。

ここで重要なのは実際に「ベーオウルフの時代、古代北欧に楽器が実在したかどうか」ではない。
イメージとして、北の海の荒くれ者たちは楽器など持たず、宴で歌われるのは男声による男くさい過去の武勲詩であり、女が恋の歌を歌うシーンはそぐわない、ということだ。宴に女なんぞ出てくるな、というのが古代北欧の世界観だ。

ヘオロットは実際にヴァイキングたちが使ったロングハウス風に描写されている。宴の様子も、無頼漢たちの大騒ぎも北欧の荒くれ者たちのイメージである。しかし、その背景の中で王妃が竪琴をもち、切ない声で歌っているのである。王妃の周りだけケルトか、もうちょっと後の時代のゲルマン人が王国を作って定住を始めた時代のイメージ。場面にそぐわない。

そしてヘオロットはヴァイキング風なのに、その後登場するフロースガール王の城はというと、頑丈な石造り、高い尖塔と礼拝所を持つ中世ドイツ仕様。建物ごとに想定されている時代が違うのだ。

ここで言いたいのは「時代考証がアマい」ということではなく、映画の世界観がきちんと設定されていないがために、部分ごとにイメージの違うパーツがちぐはぐに組み合わせされている、ということだ。ある部分は古代北欧、ある部分は中世ヨーロッパ。ある部分はSFファンタジー、またある部分は歴史ドラマ…といった具合である。

これが映画を見た人たちが「中途半端で、よく分からない」と思ったいちばんの原因だと思う。
パーツの1つ1つは「よくある情景」なのだが、そのチョイスが間違えている…というか、「よくある情景」をあっちこっちから借りてきてつぎはぎしただけでオリジナリティが無いから、あまりいい評価にならない。

映画は映像なんだから、絵で見せる「世界観」の説得力の締める割合は大きい。世界観がチャチければ、物語全体が薄っぺらくみえるのは必然だろう。


■キャラ設定は…

この映画のキャラクターたちは、ストーリーと同じくちゅうとはんぱでよく分からない存在である。主人公ですらキャラがたっていない。各キャラクターが何を考え、何を求めているのかを観客が汲み取ることは難しい。
名誉を重んじる発言をしたかと思えば、いけしゃあしゃあとウソをつく。原典どおりのセリフを口にしたかと思えば、古代北欧の誇り高い戦士とは思えないチープなセリフを口にする。

だがこれも、キャラクターの人格の一部が原典から形だけ借りてきた「つくりもの」だから、ということだろう。

原典のセリフは、その物語の中の世界観に併せ、その世界の中に生きる登場人物だからこそ口に出来るものである。
別の世界観を持つ物語を作りながら、原典のセリフを借りてくるから、ちぐはぐになる。
中途半端に原典のセリフをなぞらずに、いっそ全部オリジナルにしたほうが統一感が出たのではないかと思う。

そして出来れば、チープなセリフは止めたほうが良かった。重々しい世界観を作りたいのなら、キャラクターはもっと言葉の端々まで気をつけるべきだ。


たとえば、劇中ベオウルフがはじめてフロースガール王の国を訪れる場面。
原典ではこうである。

「鎖鎧を身にまとってかくのごとく潮路を越え、
 海原を渡って丈高き船を、
 この地へと操り来たったおのおの方は、
 そもいずくの戦士なるぞ。<後略>」

「われらの出自はイェーアトの者にして、
 ヒィエラーク王の炉辺に侍(さぶら)う者。
 わが父はその名諸々の民に聞こえ、
 エッジセーオウと呼ばるる身分高き武将であった。<後略>」


この場面は互いに「作法をわきまえて」名乗りあう格調高いシーンである。映画ではただのチンピラのガンの垂れあい(笑)
「お前らは誰だ、どこから来た」「イェーアトからだ。父はエッジセーオウ」…こんな感じでも、まぁ意味は通じるんだが何か違う。

これらと同じく、全般的に、セリフの一部は原典を要約してチープにした感じになっている。
そこに、原典の世界観では在り得ないセリフを加えてシャッフルしたものが、この映画の中のキャラクターたち。ベオウルフに付き従ってきた戦士たちの歌う下品な歌や、ベオウルフ自身が口にする、自らの過去のデッチあげた武勲などは、少なからず、映画の中のキャラクターのイメージを陳腐化することに成功している。(皮肉ですよ)

陳腐化されたキャラクターが、戦いに臨んで「生きて帰れぬかもしれぬ」等の重々しいセリフを口にしたところで、感情移入できないのは当たり前だ。この映画を見た人の誰が、ベーオウルフの死に悲しみを覚えただろうか。戦いに敗れた主人公が死ぬという絶望的なクライマックスであれながら何も感じられないのは致命的であり、主人公ですら理解できないまま話が終わってしまうというのは、むしろそれ自体が絶望的なエンディングだ。



■英雄像の劣化

と、まぁこのあたりまでは、普通の映画ファンでも書けそうな内容かなぁと思う。
ここからはベーオウルフファンとしての意見を言おう。この映画の筋書きを考えた人はたぶん原典の読み込みが足りない。
本来のベーオウルフは、力と勇気があるだけではなく、誠実で、守るべきものには優しい、カッコいい人だ。

映画でもちらりと出てくる、ベーオウルフの父親エッジセーオウは、スウェーデン系の一族出身である。
原典第七節で語られるとおり、エッジセーオウはヘアゾラーフという人物を殺害したために国を出て、海を渡りフロースガールの治める国へやってくる。フロースガールはエッジセーオウにかわって殺害された者に対する賠償金(古代北欧では、命の贖いに定められた金銭を支払うことで怨恨を打ち消した)を支払い、エッジセーオウはその恩に報いて誓いを立てる。ベーオウルフとフロースガール王が顔見知りなのはこの時の旅に幼い日のベーオウルフが同行としていたからであり、ベーオウルフがフロースガール王の窮状を知って助けにやって来るのも、父の誓いを果たし恩を返すためなのだ。

 ここに描かれるのは、昔の恩は忘れない、誓ったことは必ず果たす勇士。

ただ褒美の財宝が欲しいから、とか、武勲を立てたいから、とかいう薄い動機で動いてるわけじゃないのだ。
ちなみに、この時はまだベーオウルフの所属するイェーアト(ウェデル)族と、フロースガール王の所属するデネ(シュルディング)族は敵対している。ベーオウルフがグレンデルを倒すことによって友好関係が築かれ、のちにベーオウルフがイェーアトの王になったのちも争わずに済むわけだ。殺されても文句は言えない、敵対している一族のもとに少人数で出かけていって、しかも命がけで相手を助けるなんて男前すぎる。


またベーオウルフは幼い頃は、人々に愚鈍と思われていた。力を持ちながら、それをひけらかすことはなかったのである。これは彼の父親エッジセーオウがもともとよそ者で、亡命ののち妻の兄であるヒイェラーク王のもとに身を寄せたことに関係しているかもしれない。出過ぎる杭は打たれる、いや、しばしば暗殺さえされることを知っていたのかもしれない。
そのベーオウルフが大いなる褒章を得て、運命を逆転させるのがグレンデル退治なのである。もしかしたらヒイェラーク王の一門の人々は、ベーオウルフが怪物を退治して生きて戻ってくるなどと思っていなかったかもしれない。

 力は持っているがむやみに誇示せず、争いを好まず、武勇を誇らない。

映画の軽率な筋肉バカ(失礼)とは全く正反対な、知的な姿がここにある。父の誓いを果たすためグレンデル退治に赴くベーオウルフに付き従った人々は、きっと、数少ない、彼の本当の力を知る友人たちだったのだろう。本当にカッコいい男には、男だって惚れるはずだ。まあ映画にはウィーラーフが居たが…。


原典でのウィーラーフは、ベーオウルフが50年のあいだ国を治めたのちに、竜退治ではじめて登場する若者だ。グレンデル退治のときにはいない。

ウィーラーフの父ウェーオホスターンはベーオウルフの父エッジセーオウと同じ一族に所属していたが、エッジセーオウがヒイェラーク王の親族となったため一時は敵対していた。のちベーオウルフが王位につくにあたって亡命してきたため、竜退治の時には味方同士になっているのである。

竜を見て家臣たちが逃げてしまう中、ウィーラーフだけがその場に踏みとどまり、ベーオウルフを助けるのには意味がある。ベーオウルフには息子がいない。ウェーオホスターンが死んだ後、同じ一族の出身であるウィーラーフのことを、おそらく、本当の息子のように扱っていたのだ。(そうだとすると、ベーオウルフが致命傷を負って倒れたあとのシーンの親しげな会話がしっくりくる)
竜を倒したのち、死に行くベーオウルフが「自分には実の子供はいない…」と語りだすところは意味深であり、子供はいないけど親しきウィーラーフが側に居てくれることを喜んでいるようにも取れる。

 ベーオウルフ(主君・ジジィ) x ウィーラーフ(家臣・若者) という最高の萌えシチュエーション。

なのに、映画はこの最高のシーンをジジィ同士の語りにしてしまったわけだ。それじゃ意味がない。
自分は死んでも、あとに有能な若者が残るからこそいいのであって、ジジィしか残らないのでは救いが無い。


また、死に際してベーオウルフはこんな言葉を口にする。
「家郷にあっては運命の時を待ち、わがものを保つこと正しく、奸智をもって事を構えることもなく、偽りの誓いを立てしこともなかった。<中略>諸人を統べ給う主も、血族殺しの罪を知らぬ余を咎めだてされるいわれもあるまい。」

「諸人を統べ給う主」とはキリストのことだが、ベーオウルフの時代には実際はキリスト教は布教されていない。文字として書かれたのがキリスト教化の時代だったから入っている1節だ。

ここまで解説してきたとおり、ベーオウルフはただ力があるだけの筋肉バカではない。
誓いを重んじ、不必要に武勲を誇示することない控えめな、怪物とすら正々堂々と勝負して勝つような立派な人物である。そして、たとえ敵対していたとしても血族は殺さないという、戦いに明け暮れる戦乱の時代には難しい信念も貫いた。
(だからこそ、敵と味方に別れてしまっていたウェーオホスターンも、ベーオウルフのもとにやって来たのだろう。)

その人物が人生の締めくくりとしてふさわしい偉業を成して心置きなく死んでいこうとしているシーンでこのセリフが語られるからこそ盛り上がる。”自分が死んだ後はくじら岬に塚を築け。船で行く人々が指差して、「見よ、あれがベーオウルフの塚」と言うように。” 正しく生きて偉業をなし、満足に死んでゆく勇者がウィーラーフに残す遺言は、この壮大な物語の締めくくりに相応しく、美しく心に響く。
水魔の顔なんて大写しにしてる場合じゃないのだ。せめて映画のクライマックスは、夕陽と海ををバックにした岬に築かれた塚にして欲しかった。

映画のベオウルフが死ぬシーンで盛り上がらないのは、物語の中で描かれる人物像が、こんなカッコいいセリフを口にすることなんて出来ない、誠実ではない人物になってしまっているからだ。遺言を残す相手もおらず、たった一人の親しい相手であるウィーラーフにも、王妃にも嘘を突き通し、自分の死後には偽りの武勲しか語られない… 映画版のキャラクターは、とうてい「勇者」とか「英雄」の器ではない人間だった。それとも、そのような愚かさも人の性、とでもいうテーマなのか。

ともかく映画のベーオウルフは、原典にある偉大な男とは似ても似つかない人物だ。
ならば私は「これは別物だ」と言うしかない。


※文中の原典引用は岩波文庫「ベーオウルフ」(忍足欣四郎訳)による。


映画館での上映はされなかったけどDVDで発売されている「Beowulf&Grendel」(ベオウルフ)についてのレビューはこのへんをどうぞ。


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