五家寶の由来

 江戸の頃より、熊谷の銘菓として親しまれている五家寶ですが、その由来は定かではありません。江戸時代後期の狂歌、洒落本の作家・大田南畝(蜀山人)の随筆「奴師労之」に、安永期(1772〜80)に将軍家治の日光社参に随行した際、道中に「五荷棒」と呼ばれる菓子があったこと、更に四十数年後、友人から「武州忍領北秩父辺の菓子」として、「五かぼう」というものを送られたと記しております。これが文献に見られる最古の記録ですが、現在の五家寶と同一のものであるかどうかは何とも言えません。当時は現在のようにもち米や砂糖等をふんだんに使うことは出来ませんから、味や食感等は大いに異なるものであったと思われます。五家寶の由来には諸説あり、@茨城県五霞村発祥 A上州甘楽郡五箇村発祥 B武蔵国不動岡発祥C水戸の銘菓"吉原殿中"を真似て熊谷で作られた 等がありますが、確証はありません。江戸中期以降に北関東で作り始められたということだけは確かなようですが.....。
 五家寶が現在の味、形になったのは、明治期以降と言われております。天保14年、玉井村(現熊谷市)に生まれた高橋忠五郎なる人物が、原材料や製法に改良を加え、現在の五家寶の基を作ったということです。その後、高橋忠五郎の元で修行をした者が五家寶を広め、やがて熊谷を代表する銘菓となったのであります。五家寶を全国に広めるのに貢献したのが熊谷駅構内での販売で、泉鏡花、尾崎紅葉らの作品に当時の五家寶の記述を見ることが出来ます。
 戦後は、熊谷を代表する産業の一つとして、昭和30〜40年代には最盛期を迎えました。その後、一時期菓子の多様化や嗜好の変化により低迷しておりました。しかし、最近では、素朴な懐かしい味が見直されるとともに、栄養価の高い、添加物・着色料等の全く使われていない自然食品ということが大いに注目されております。


参考文献:「埼玉の和菓子」 埼玉県民俗文化センター編 1999
文責:紅葉屋本店 

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