SANYO DSC-SX150にて撮影
2004年 4月6日(火)
今年の満開の桜も今日が見納めだろうということで、近所を一通り見回ってきた。 昨日の尾張旭に続いて、藤が丘、香流川、元「マルス」裏などを。 (ローカルすぎてたぶん近所の人しか分からないだろうけど、分かるとしたらこの近辺に私は住んでます。) 藤が丘前と「マルス」裏は特に変わりがなかったのだけど、香流川は去年に比べてかなり人が増えていてちょっと驚いた。 隠れた名所で、満開でも近所の人が犬の散歩で歩いているくらいだったのに、どこかで紹介されたのか、今年はやけに人がぞろぞろ歩いていた。 のんびり写真を撮るような雰囲気じゃなくなってしまったので、個人的にはけっこう残念だ。 しかし、桜並木はかなり立派になってきて、名古屋で有名な名所である山崎川を完全に超えたんじゃないだろうか。 この先は年々知られていって、人も増えていくのかもしれない。 今日、桜をたくさん見ながらあらためて思ったのは、桜って本当に人間が短い間眺めて楽しむだけのものかもしれないな、ということだった。 匂いはしないし、実もならないし、食べることもできない。 ただ春を告げるために毎年3月から4月にかけての一週間か二週間だけ花を咲かせて、残りの期間はその存在を忘れられている。 人が何故これほどまで桜に心を惹かれるのかといえば、それはきっとその単純さゆえなのだろう。 潔いという言葉よりも、私は単純明快という言葉の方がふさわしいような気がする。 桜は自分の役目を知っていて、それ以外によけいなことは一切しない。 役割に殉ずると言い換えてもいい。 私が桜に学ぶのはその部分だ。 咲いてる期間が短いからいいというわけではない。 私は毎年満開の桜を見るととてもほっとして、心の中で大きなため息をつく。 ああ、またこの季節に戻ってくることができたか、と。 なんとなく自分をねぎらいたいような気持ちにもなる。 よくぞ今年もまた生き延びたと。 そして桜の花が散り始めると決まってこう思う。 また来年、この季節に戻ってこよう、と。 |